58.見てらんねぇ!
それは丁寧な挨拶とやりとりだった。
「改めて――二階堂春希です」
「ほぅ、春希ちゃんは、随分と見違えるようになったね」
「ふふ、7年も経っていますから」
「隼人や姫子はどう? 迷惑かけてない?」
「仲良くさせてもらっていますよ」
そう言って、春希は嫋やかな笑みを浮かべて会釈する。
ピンと伸びた背筋に、折り目正しい制服の着こなし。訪問先の家主に対する、完璧な立ち振る舞いだった。豹変した、とも言えた。
そのお淑やかな猫かぶり具合に、姫子なんて感嘆のため息を吐くほどである。
「……ちっ」
「急な転校だったし、学校でちゃんとやっていけるか心配だったが、春希ちゃんが居るなら心配な……隼人?」
「隼人くんは学校でもしっかりと……ええっと、どうかしました?」
「……なんでもねぇよ」
二階堂春希として、幼馴染の親に対する所作としては満点に違いない。
だというのに隼人は、どうしてもイヤな感じがして仕方が無い。
どこか緊張した面持ちで覗き込んでくる春希の顔を見ると、先ほどまで腹に燻っていたぐるぐるとした泥のような感情を、再び湧き上がらせてしまう。
そして、春希と姫子が帰ってくる前のことを思い起こす。
◇◇◇
放課後、隼人は森たちクラスメイトに捕まっていた。
「俺、夕飯の支度しないとだから!」
「え、霧島が夕飯作るの?!」
そう言って隼人は、強引に森たちの拘束を抜け出してきた。
背後からは彼らの驚く声が聞こえてくる。
(ああ、くそっ!)
何だか今日は、予想外のことばかり起こる日だった。
自分のことも、そして周囲からのことも上手く回らず、むしゃくしゃしてしまっている。
このままじゃ良くない。
だから気持ちをリセットしようとして、いつもとちがう帰り道を歩き、そしていつもは入らない店に入ってみた。
そこはコーヒー豆の店だけど、色んな輸入食材も数多く扱う店だった。
「スパイスフェア……」
その香りに誘われて足を運んだ店の一画には、クミン、ターメリック、コリアンダー、レッドペッパーといったものが並ぶ。どこかで聞いたような名前の香辛料に、となりにはチャイやカレーのレシピも置かれている。
先日、村尾沙紀からもらったレシピを思い出し、頭の中で照合させる。手間もかかるしコストパフォーマンスも悪いだろう。
(……たまにはこういうのもありかな)
だけど、そういう気分だった。
隼人は料理をするのが好きである。
切っ掛けは必要に迫られてということもあったが、姫子が――妹であれ誰であれ、食べてくれた人が美味しいと言ってくれる嬉しさに嵌ってしまい、今では趣味の1つといっても差支えが無い。
だから、新しいレシピや調理法に挑戦するのは心が躍り、今から春希や姫子がどんな反応するのかを想像すると、楽しくて仕方がなかった。
自然とマンションに帰る足取りも軽くなってしまう。
「…………え?」
そんな浮足立っていた気持ちも、家の扉を前に霧散してしまった。
鍵が開いていたのだ。
今朝は確かに閉めて出たはずである。泥棒だろうか? それとも姫子を狙った変質者だろうか?
月野瀬の田舎では開けっ放しの家も多いが、色んな人から都会では鍵を掛けないと大変なことになるぞと、耳にタコが出来るほど聞かされている。
不安と共にリビングに足を踏み入れると、ソファーで足を投げ出し寝転がっている壮年の男の姿があった。
「ん……あぁ、寝てたのか。久しぶりだな、隼人」
「……親父」
父親だった。思わずホッとため息を吐く。
引っ越してきたものの、滅多に家に寄り付かず、その顔を見たのは実に1週間以上ぶりである。
足元にある紙袋からはしわくちゃのシャツが見えており、どうやら着替えを取りに来たらしい。
「あー、洗濯物なら洗面所に置いといてくれ」
「すまんね。あ、今日くらいは夕飯作ろうか?」
「いや、俺がやるよ。最近姫子がダイエットしててさ、メニューにうるさいんだ」
「へぇ、姫子が」
何がおかしいのか、父はくつくつと喉を鳴らす。
そんな父を見てみれば、着ているシャツやソファーに掛けられている背広もよれており、目の下に隈を作っているのもわかる。
隼人はそんな父の姿を見ながら買って来たスパイスを並べ、冷凍している鶏肉やいただきものの野菜などを取り出していく。
父は月野瀬に居た頃から、農家で使う機械を修理したり取り寄せたり研究したり、苗やそれを収穫したものの流通などを生業としていた。
配置換えを希望してこちらに引っ越してきてからは研究がメインになっており、よほど研究室の設備が整っていて居心地が良いのか、泊まり込んでいる事が多い。
(……母さんのところには毎日の様に顔を出しているらしいけど)
どうやら時間の許す限り母の所に見舞に行っているのも聞いていた。まあ、夫婦仲が良いのは良いことなのだろう。複雑な気持ちではあるが。
そんなことを考えながら、村尾沙紀にもらったレシピを開く。今日はトマトが主役の、酸味を活かしたカレーである。
油をひいた鍋に生姜とニンニクを入れて香り付けし、みじん切りにした玉ねぎを飴色になるまで炒めていく。そしてざく切りにしたトマトをたっぷり入れて、水分が飛ぶまで炒めていく間に、今日買って帰ったスパイスを準備をしていると、父が思い出したかのように話を振ってきた。
「あーその、学校とかこっちの生活はどうだ?」
「んー、別に。俺も姫子も上手くやってるよ」
「そうか……」
どうやら急な転校になったことを気にしているようだった。すまなさそうな顔をしているのが分かる。
だけど隼人も、姫子も別にそのこと不満はない。
「思いがけない再会もあったし……あぁ、そうだ、
「……………………え?」
「……親父?」
なんてことない話だった。
おそらく今夜も食べに来るだろうし、そのことを告げるという意味もあった。
だというのに父は意外そうな、そしてどこかビックリしたような表情で、目を丸くしている。
「はるきちゃんって、あの二階堂のばあさんのところに
「あぁ、子供の頃に月野瀬から引っ越していった、あのはるきだ」
「今、親も誰も居なくて1人でいるってこと……?」
「あぁ、一軒家だったけど、1人暮らしって言ってたしな」
「――
「っ!?」
それは大きな声だった。
怒りの滲み出た声だった。
ギシリと歯軋りのする声が聞こえ、ガシガシと乱暴に頭を掻いている。
どういうことだかわからない。
だが、気が付くこともあった。
(親父は春希が月野瀬に居た事情とか知っているのか……?)
月野瀬は小さい村だ。人口千数百人ほどしかない山里だ。住民のそうした事情に詳しいのも頷ける。
思えば春希のことは知らないことだらけだ。
子供の頃は気にならなかったが、今思えばおかしいと思う部分も多々ある。
彼女の両親の顔を見たことも無かったし、小学校にも来ていなかった。
月野瀬を去っていった理由も、どうして今は1人暮らしをしているのかもわからない。
そんな理由の1つを、父が――月野瀬の当時の大人が知っているという。
――知りたい。
そう思ってしまうのと同時に、それは春希の踏み込んで欲しくない部分に土足で上がり込むことに等しいことだというのも、分かってしまう。
「……くそっ!」
隼人はガシガシと頭を掻いて、調合したスパイスをその他の野菜と鶏肉と一緒に、十分に水気の飛んだトマトへと加えていく。
「隼人?」
よほど大きな声だったのだろう。
父親が怪訝な顔色でこちらを覗く。
「は――」
春希はどうして――とまで言いかけようとしたところで、隼人の脳裏に、
『
それはきっと、今思えば隼人の中で決定的に春希に対する何かを変えた言葉でもあった。
もしその言葉を聞く前なら、父に春希のことを根掘り葉掘り興味本位で聞いていたに違いない。
だけど今は――
「――あーいや、仕上げのヨーグルトを買うのを忘れててな。姫子に頼むわ」
「そうか」
このことは、春希の承諾なく聞いてはいけない。そんな思いから、色々なことを誤魔化す。
そして蓋をしてカレーを煮込む。時間が必要だ。仕上げは最後でもいい。
自分に言い聞かせるようにしながら、何だか笑ってしまった。
それでも、1つだけどうしても気になることもあった。
「親父、はる――」
「はるきちゃんとは、引き続き仲良くしてあげなさい、隼人」
「――あぁ!」
その懸念もすぐさま解消された。
どうやら隼人の父にとって、春希は招かれざる客というわけではないらしい。
春希がうちにくるのは何ら問題ない――そのことさえ分かれば、今は十分だった。
◇◇◇
「これからも気軽にうちにおいで。隼人や姫子の事を頼むよ」
「こちらこそ、お世話になります」
だから、そんな春希の態度が気に入らない。
ここでは何も心配することがないというのに、そんな春希の姿が腹立たしくもある。
「あー、もうっ!」
ゆえに隼人は、学校と同じく
「はっ! なぁに畏まってんだよ!」
「み゛ゃっ?! み゛ゃーっ?!」
「は、隼人?!」
「おにぃ?!」
強引に鼻を摘まんで引いて、そして両手で頬を引っ張った。
そして動揺して涙目になっている春希を、思いっきり笑うのであった。
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