届かない手紙

緑茶

届かない手紙

 あなたはその夜、何度もかかってくる電話に悩まされる。

 うとうとしていた時の着信音ほどイライラさせられるものはない。


 友人からの電話だと思っていた。でも違った。

 あなたは緑のマークをスライドさせて、耳を端末に近づけた。

 するとあなたは、聞いたこともない合成音声の不気味なメッセージを耳にする。


『おれはおまえを見てるからな』

『おまえは寝てただろ、おれは知ってる』

『簡単に眠れると思うな』


 もしもし、誰、誰なの。

 それ以上を問おうとすると決まってその非通知電話は途切れる。

 それから、不安さを抱えて、しかし眠気には勝てず、あなたは眠ろうとする。


 そうしてしばらくして、また電話がかかってくる。


『眠れるわけがないって言っただろ』

『おまえを見てると言っただろ』

『それともおまえ、おれが誰だか未だに分かってないんじゃないだろうな』

『だったら証明してやるよ。お前の家に行くからな』


 そんなことはない。あなたにはとっくに、心当たりがついている。


 頭のおかしい男と、あなたは付き合っていた。

 別れてからしばらくして、そいつはクスリか暴行か何かで捕まった。

 さいきん出所したと、友人からの話で聞いたことを、あなたは不意に思い出す。

 あなたは全身があわだって、眠気も吹き飛んだ状態で電話を掛ける。

 一番の親友のわたしに電話を掛ける。


 ――もしもし、もしもし。怖いの。変な機械の声で電話してくる奴が居るの。

 ――分からないけど、もしかしたらあの人じゃないかって。あたし怖いの。


 大丈夫、大丈夫。そんなのありえないし。

 今のあんたの家なんか、知ってるわけないじゃない。

 いたずら電話だよ。気にしないで寝ちゃいなさいよ。

 わたしはそう言った。するとあなたは、どうしてかずいぶんと勿体つけてからうなずく。

 そうして安堵を得て、あなたはもう一度布団にもぐるのだ。


 わたしがどうして、ここまであなたのことを知っているのか。

 答えはひとつしかない。


 電話をかけているのは、わたしだから。



 電話は結局次の日も、その次の日も続くことになる。

 あなたはそのたびに憔悴する。

 あなたは優しいひとだから、それで誰かを頼ったりすることも苦手だったけど。

 あなたが不安に思うタイミングで、わたしはあなたに言葉をかける。

 そしてあなたは一週間後、とうとうわたしを頼ることになる。


 ――おねがい、来てほしいの。一晩だけでも一緒に過ごして。

 わたしは悩んで、結局その申し出を受けることにする。


 心のどこかで、そのまま不安に押しつぶされて、あなたが死んでしまうことを望みながら。



 あなた。

 栗色の髪の毛は、毛先で少しふわりと広がっている。

 目尻は垂れて、唇はぷくっと桃色。

 ファッションもそんな印象にあわせて、淡いパステルカラーでまとめている。

 誰が見ても好きになる。そんなあなた。

 そんなあなたは逆に、誰かを見ても、それだけで嫌いになったりはしなかった。

 昔から今までずっと。


 ほら、いるじゃない。そういう子。なんでも受け入れて破綻してしまう、空っぽの器のような存在。

 それが、あなただった。あなたは全てをその内側にためこんでしまう。善意も、悪意も。


 そんなだから、あなたは、学位以外なんにも興味がない、空っぽの穴だらけのわたしとも友人になれたし。

 同じぐらいの割合で、悪い男にひっかかる。


 ――ねえ聞いて。本当にいい人なの。

 ――見た目が怖そうだからって、それで判断しないで。

 ――ほんとうは、優しくて、素敵なんだから。


 そう語るあなたを応援していたのに。

 あなたはいつの間にか、生傷だらけになっている。

 そのくせに嘘が下手だから、料理に失敗したなんてごまかしすらできずに。

 こちらを見て申し訳無さそうな笑顔をあなたは浮かべる。


 ――あの人はたまにおかしくなるけど、それでもいい人だから。


 ぞっとする。その傷が、手のひらから腕にのぼってきて、やがて頬に、髪にまでたどり着いたら。

 わたしなんかとは比べ物にならないくらい透明で、きれいなあなたではなくなってしまうから。

 その笑顔が、本物ではなくなってしまうから。

 わたしは、あなたに忠告をした。注意でも、なんでもなく。遠回しに。


 それでもあなたは、わたしの言葉にだけは、敏感だから。

 あなたはわたしに怒る。ひどい、なんてことを言うの。あの人は、あんなにも。

 あなたは怒る。自分のためでなくあの男に。

 わたしよりずっと付き合いの短いあの男のために。


 わたしは、無力感と苛立ちのなかにいる。

 それにあなたは気づかずに、傷を作り続ける。

 そしてとうとう、あなたと連絡が取れなくなる。


 わたしは打ちひしがれて、罪悪感の中でのたうち回るはめになる。

 あなたを救い出せなかった。

 その一方で、わたしはあなたのことを、ざまぁみやがれと思っている。


 だけどわたしは結局、あなたのことを拭い去れずに居たのだから。

 あとは、知っているはず。


 わたしはバットをかついで家に行って、あなたを閉じ込めている部屋からその男を叩き出して、ボコボコにした。

 スッキリはしなかったけど、溜飲の下がる思いがあった。


 わたしはあなたの傍に寄る。

 増えている。傷が。

 わたしがあなたの頬に触れた時、あなたは滂沱の涙をながし、わたしに抱きしめられる。

 そこであなたはようやく、ずっと聞きたかったその言葉をはきだす。

 ――こわかった。

 わたしは決める。どこか遠いところへいこう。何も追ってこない遠くへ。


 突発の旅行で、あなたはスケジュール調整がうまくいかないと駄々をこねたけど、わたしは結構強引だった。

 渋るあなたの腕を引っ張って、長い長い旅に出る。

 ネットでプランを見つけて、鈍行列車に乗って、寒い北のほうに向かった。

 都会を離れた景色を見て、おいしいものを食べて、それでも時間が余ったから、数年ぶりにカラオケに行って喉をからした。

 それからビールをたらふく飲んで、海の見える窓際を、浴衣を着たまま二人で見つめて。

 あなたは言ったのだった。

 ――ほんとうにやさしいんだね。


 わたしは卑怯な女の子です。複雑に思いながらも頷いた。

 あなたは次に、もう大丈夫と言ったから。

 わたしは安堵して、ぜんぶ解決した気になって。

 ああ、これであの男のところには行かないな。そんな風に、考えてはいたけれど。


 だけど甘かった。

 あなたは結局、あの男のところへいった。

 大丈夫、という言葉の意味を、勘違いしていた。

 わたしは失望して、あなたに対する思いを変えた。



 あなたは玄関にわたしを呼びつける。

 深夜にごめんと何度も何度も謝って頭を下げる。

 わたしは偽善たっぷりにあなたに近づいて、あなたを抱擁して頭を撫でる。

 わたしは随分年をとった気がするけど、あなたはちっとも変わっていない。


 だから、部屋に通された時に感じたものも、現実も変わってはいない。

 部屋の中には彼の写真がまだあった。

 それは隠されるように、忘れたいという意思が働いているように、隅の方でホコリを被っていたけれど。

 あなたがまだ、彼の脅威が迫っている、という『現実』があってもなお、彼のことを忘れられないことを告げている。


 そんなわたしの視線に気づいたように、あなたは取り繕うようにして言う。

 ――もし話し合えるなら、話し合おうと思う。

 わたしはわざと鼻を鳴らして、たっぷりと失望したふりをして言葉を返す。

 そんなことをしても、あいつには通じないよ。

 ……ああきっと、同じぐらい、わたしにも。


 わたしは馬鹿らしくなって部屋を出ようとする。

 もう忘れてもいい頃だ。少なくともわたしはもう、重い枷を外してもいい頃だ。



 だけど、彼のことを忘れていないのと同じぐらい。

 あなたは、わたしのことを忘れていなかった。



 わたしが見たのは、部屋の本棚に収納している一冊の本。

 ほかのすべてはほこりをかぶっていたけれど、それだけは無事だった。

 見てみると、それはわたしとあなたの、旅行のフォトアルバム。

 時系列順に並べてあって、それぞれに丸い、可愛らしい字で添え書きがしてある。

 わたしもあなたも、笑っている。

 綺麗なままだった。何もかもが、そのままだった。

 そうしてわたしは、自分自身が、とんでもない思い違いをしていたことに気づく。



 わたしは、あなたが飲み物の準備をしているあいだに、あなたに手紙をしたためる。


 ごめんなさい。電話の主はわたしです。

 あなたが遠くに行ってしまって、もう届かないと思っていたから。

 その復讐のつもりでした。

 だけど、そんなことはなかった。あなたは誰にでもそうだった。

 だから何も変わっていなかった。多分それだけのことだったのです。

 ごめんなさい。


 それだけ書いて、わたしは姿を消す。

 もう二度と、あなたのそばに現れないことを誓って。

 はじめは悲しむだろうけど、時があなたを癒やすことを願って。


 そうして、玄関を開けた時。


 そこには、あなたを監禁して傷つけていた、あの男が立っている。



 そいつは目つきがおかしくて、ボロボロの服のまま、ずっと意味不明な言葉を口走っていた。

 おまけに手にはナイフが握られていた。

 狙いがなんであるかは明白だった。

 わたしは恐怖した。わたしが嘘をついたのは、電話だけ。

 ほかは全部、ほんとうだった。彼のことも、ぜんぶ。


 危機を伝えなければならない。そう思って、弾かれたように背中を向けたとき。


 じゃまするな、おれはあいつをころすんだ。ふくしゅうしてやるんだ。


 そういうことを言いながら、そいつはわたしをずぶりと刺した。何度も何度も。

 貫通はしなかった。にぶいいたみが、わたしのなかで、なにもかもをぐちゃぐちゃにするのを感じた。



 あなたは、玄関のすりガラスの向こうにいるわたしを見つける。

 あなたは既に手紙を読んでいる。

 その表情に悲しみと怒りがある。

 わたしは何度もドアを叩く。おねがい、逃げて。危ないの。殺される。

 だけどあなたにその声は届かない。

 ――ひどい。騙してたなんて。

 ――あなたなんて、きらい。

 その声だけが響いて、わたしは背を向けて去っていくあなたを見ながら、ずるずると崩れ落ちていく。


 あなたは泣いている。

 友人に裏切られた悲しみで泣いている。


 わたしはあなたに手を伸ばそうとするが、どうにも届かない。

 分厚い壁がキイキイ鳴って、わたしとあなたを隔てている。




 そいつはわたしを踏み越えて、いま、あなたを迎えに行く途中だ。

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届かない手紙 緑茶 @wangd1

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