美人な先輩と一つ屋根の下で

ブリル・バーナード

美人な先輩と一つ屋根の下で



 一学期も残り数日。期末テストも終わり、返却されたテストに一喜一憂する高校一年の七月。


 例年より数日早く梅雨明けしたムシムシした夏空は、今は異常気象によるゲリラ豪雨で土砂降りである。


 家まであと少しというところでポツポツと大粒の雨が降り出し、瞬く間にバケツをひっくり返したような雨量になってしまったのだ。地面で飛び跳ねた雫が膝まで濡らす。


 幸い、バッグに折り畳み傘を入れていたため、頭からびしょ濡れになることはなかったものの、靴の中はぐっしょりと濡れて気持ち悪い。


 小学生の頃は雨の日になると水たまりに入って靴を濡らして遊んだものだ。しかし、高校生にもなるとそんな元気はない。無限の体力のあの頃が懐かしい。


 高校生というものはもう少し青春して輝いていると思っていた。


 実際に入学してみるとそんなことはない。勉強で忙しい。


 やっとできた友達も部活を頑張っていて、放課後や週末に遊ぶ暇もほとんどない。


 理想と現実。


 高校生活はバラ色ではなく、今の空のようにどんよりとした灰色だ。


 いつもと変わらない下校時間。


 俺、田中カイトはびしょ濡れになりながら家に帰りついた。



「ふぅ……濡れた濡れた……」



 二階建ての四世帯賃貸アパート。間取りは3DK。六畳の部屋が三部屋。そのうち二部屋は繋がっている。一応襖で仕切ることが出来るが……。


 思春期男子高校生なのにプライベートもほぼない。ごく普通のアパートの102号室が俺の家だ。


 もちろん、一人暮らしではなく、両親と住んでいる。兄弟姉妹はいない。


 何の変哲もないアパート。だが、今日は少しだけ違った。



「あれ? あれは……」



 ポツーンと佇む濡れた美少女。ウチの制服の女子高校生だ。


 教会系の私立高校であり、女子は修道服に似たワンピースタイプの清楚な制服である。色は白。制服が可愛いという理由で、毎年女子の入学希望者が多いという。


 彼女は儚げに佇み、分厚い雲を眺めていた。それが実に絵になること。濡れた髪がなんか妖艶な大人の色っぽさを醸し出している。


 柊ツカサ。学校でも美人で有名な二年の先輩だった。黒髪ロングで太ももむっちりタイプ。なんというか、エロい。


 そして、ツカサ先輩が住むのは俺と同じアパートである!


 今ネットで流行りの同居? いやいや。残念。先輩が住んでいるのは202号室。俺ん家の真上なのだ。


 有名な先輩と同じアパートに住んでいると知った時はテンション上がったが、泣けるほどに接点は皆無。数度挨拶をしたくらい。


 一週間に一度は必ず告白されると噂の先輩だ。真下に住む平凡な俺のことなど記憶の片隅にも存在しないだろう。


 そんな高嶺の花がただただ立ち尽くしており、心配よりも先に俺は気まずさを感じた。


 伏し目がちに傘を畳み、少し会釈をして自分の家のドアのノブに手をかける。会話はない。


 しかし、一瞬の戸惑い。心配と疑問。


 ――先輩はどうして家に入らないのだろう?


 いつもの俺ならスルーしていた。だが、今日は何となく勇気が出た。


 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。えぇい! 頑張れ俺!


 勇気が挫けないうちに意を決して問いかける。



「センパイ、どうしたんスか?」


「えっ……?」



 振り返りながら一言。ツカサ先輩は明らかに動揺した。まさか声をかけられるとは思ってなかったのだろう。黒目がちな目が見開かれる。


 うわぁー睫毛なげぇ。パッチリ二重が可愛い。美の女神か?



「家、帰らないんスか?」



 お節介だったかな、と後悔しつつも、俺は更に問いかけた。このまま家に帰ると、今夜考え込んで眠れない気がしたからだ。


 先輩は儚げに空を見上げた。



「家の鍵……忘れたの」



 少し恥ずかしげな小さな美声だった。耳が僅かに赤くなっているのは見間違いではないだろう。


 学校に忘れたとかじゃないということは、朝、持っていくのを忘れたに違いない。


 じゃあ、鍵は家の中?



「ご両親は?」


「仕事」


「帰りは?」


「七時過ぎだって」


「……まだ二時間もあるじゃないスか」



 現在時刻は夕方五時。ということは、先輩はこれから二時間も締め出されたままだ。


 普通ならどこかで時間を潰せるのだろうが、雨に降られて先輩はびしょ濡れ。制服が透けている。中にキャミソールを着ている様子だが、ブラの紐も見えている気が……。


 俺は見てない! 水色の肩ひもなんか見ていない!



「そのまま待つつもりッスか?」


「うん。すぐに乾くだろうし」



 いやいや。身体冷えるでしょ。夏と言っても寒冷前線のために気温は低くなっている。このままだと風邪を引いてしまうだろう。


 なら、俺が出来ることは……



「あの、もしよければウチに――」



 ガチャッ! ガンッ!



「――カイト! いつまで突っ立ってんの!?」


「うぎゃっ!? いてーよ、母ちゃん!」



 中から勢いよくドアを開けたのは俺の母ちゃんだ。


 覗き穴で確認してくれよ。思いっきり額とか足にぶつかっただろうが!


 あぁ……痛い……。痛む場所をナデナデ。


 なかなか入ってこないことにヤキモキした母ちゃんは、ひょっこり顔を覗かせて目をパチクリ。ツカサ先輩に気づく。



「あら、二階の柊さん家のツカサちゃん……お帰りなさい」


「あっ、こんにちは」


「どうしたの、そんなびしょ濡れで。あっ、ウチの息子が何かしました? 濡れた傘をクルクル回して水滴飛ばしたとか? 気になる女の子にちょっかい出したくなるお年頃なのよ」


「俺は小学生かっ!?」


「いえいえ。突然雨が降ってきて濡れてしまったんです。私、傘を持っていなくて……」


「んで、家の鍵を忘れちゃったんだと」



 俺は何とか先輩の言葉を引き継いだ。一瞬で状況を理解する専業主婦の母ちゃん。



「あらあら! ウチに上がりなさい! 風邪を引いちゃうわ」


「えっ? でも……」


「いいからいいから! お風呂も沸いてるわ。入っちゃって」


「えぇっ!?」



 持ち前の積極性で先輩をグイグイと家の中に連れ込む。先輩はされるがままだ。


 こうなった母ちゃんは誰にも止められない。


 俺に助けを求める先輩。可愛い……じゃなくて、先輩、諦めろ。



「カイト、あんたは外で待ってなさい」


「なんでっ!?」



 俺だって濡れて一刻も早く着替えたいんだけど。特に靴の中が気持ち悪いから。



「こんなプライバシーもない家に、ツカサちゃんみたいな可愛い子と一緒に居させるわけにはいかないわ! この子が穢れちゃう!」


「息子に辛辣だな! せめて父ちゃんの部屋に居させて!」



 母さんの言うことも一理ある。


 ウチは脱衣所すらない。ダイニングとカーテンを一枚隔てて疑似的な脱衣所を作り出しているに過ぎない。衣擦れの音はもろに聞こえる。


 美人な先輩の服を脱ぐ音……俺の理性が削れるだろう。


 家の三部屋の内、父ちゃんの部屋だけが唯一閉じこもれる部屋だ。まあ、実際は夫婦の寝室なのだが。


 渋々了承した母ちゃん。先輩を甲斐甲斐しく世話した後で、思い出したかのように息子オレにタオルと着替えを持ってきてくれた。


 遅いよ……15分は待ってたんだけど……寒い……。


 絶対忘れて夕食を作ってたな! 感謝しますけど!



 ▼▼▼



「カイトー! お風呂に入っちゃいなさーい」


「うぃーっす」



 必死に固辞していたツカサ先輩が母ちゃんの勢いに負けて一緒に食べた夕食後、現在時刻は七時前である。


 ちなみに、夕食時は母さんと先輩が二人っきりで喋っており、俺は一人蚊帳の外。会話を聞きながら黙々と食べていた。美味しかったです。


 母ちゃんの服を借りた先輩は、お礼として皿洗いの手伝いをしている。二人はすっかり打ち解けて仲良しに。本当の親子のようだ。


 ツカサ先輩の自然な笑顔と笑い声が直視できないほど眩しい。


 お風呂上がりの先輩は破壊力抜群だった。火照った肌。潤んだ瞳。その他いろいろ。母ちゃんがいなかったら犯罪を犯していたかもしれないくらい危なかった。


 俺ん家のシャンプーやボディーソープを使用したはずなのに、ふわっと香る甘い香り。どこからこんな匂いを放出しているのだろうか? 俺が同じものを使用してもこんな匂いは出せないぞ。


 それに今、先輩は下着を……いや、考えるのは止めておこう。


 心を無にして風呂に入る。全てを洗い、お湯に浸かったところで俺は気付いた。



 ――このお湯、ツカサ先輩が浸かったお湯じゃないか!?



 母ちゃんはお湯を入れ替えることはしなかった。俺の前に入ったのは先輩だけ。


 えっ? 俺、先輩の残り湯に浸かっている? 残り湯で顔を洗ってしまった? 心なしか浴室に甘い匂いが漂っている気がする……。


 あっ、ヤバい。思春期男子には鮮烈すぎる。強烈すぎる。暴走する!


 今すぐのぼせそう。でも、もう少し浸かっていたい……。


 その時、お湯に浮かぶ複数の毛を見つけた。明らかに先輩のモノ。


 思わず想像してしまう。お湯に浸かる裸のツカサ先輩。



「ゴクリ……」



 俺はその毛を掬い、指で摘まみ――



「うがぁぁあああああああああああああああ!」



 奇声をあげながらバシャバシャと顔面にお湯をかけてブクブクと潜水。


 その日のお風呂はついつい長風呂をしてしまったのだった。






 のぼせた状態でお風呂を上がり、タオルで拭いて服を着る。


 先輩はまだ家にいるようだ。



「ツカサちゃんは彼氏いるの?」


「いませんよ」



 女性二人の話が丸聞こえだ。母ちゃん楽しそう。声が弾んでいる。


 息子の俺しかいないから、先輩のことが娘みたいでテンションが上がっているに違いない。



「過去には?」


「いません」


「でも、モテるでしょ?」


「ま、まぁ、告白はしょっちゅうされますね」


「付き合おうと思わないの?」


「うーん……付き合いたいとは思うんですけど『この人だ!』って思える人にはまだ出会っていません」



 そうかそうか。先輩はまだ誰ともお付き合いをしたことが無いのか。良い情報を聞いた。


 聞いたとしても俺には何もメリットはないけど……。


 鏡に映る平凡な自分に意気消沈しながら仕切りのカーテンを開けた。


 お茶をしながら談笑中の母ちゃんとツカサ先輩が同時に振り向く。そして、母ちゃんにため息をつかれた。先輩は俺を凝視している。



「カイト……あんたねぇ……」



 母ちゃんの呆れ声。えっ? 俺なんかしたっけ?


 疑問に思って自分を確認。そして気付いた。濡れたタオルを首にかけたボクサーパンツ一丁の俺。


 や っ て し ま っ た!


 ついいつもの風呂上がりのように出てしまった。今日は美人な先輩がまだいるのに!



「きゃ、きゃぁぁあああああああああああ!」



 甲高い悲鳴を上げたは、咄嗟に胸と股間を手で隠し、しゃがみ込む。即座にカーテンを引いて身を隠した。


 普通は先輩のほうが悲鳴を上げるだって? テンパっている俺はそれどころではないのだ。


 見られた……先輩にパンツ一丁の姿を見られた……死にたい……。



「ウチの息子がごめんなさいねぇ」


「いえいえ」


「カイト、着替え持っていくから待ってて」


「うっす! 了解っス!」



 やっちまった、やっちまった、やっちまったぁー!


 俺、死す。先輩に嫌われた……。終わった。先輩ルート崩壊。


 母ちゃんに持ってきてもらったTシャツやパジャマのズボンを穿いて、ドン引きしているであろう先輩の前におずおずと進み出る。



「申し訳ございませんでしたぁあああああああああああ!」



 謝罪一択。頭を下げる身体の角度は90度。いっそ土下座をした方が良いか!?



「あの、うん、カイト君。私は気にしてないから。水泳の授業の時、男子は皆そんな姿だし」



 わーい。先輩が名前で呼んでくれた……って、喜んでいる状況ではない。


 確かに、水泳の授業だったら同じ姿だな。でも、気にしていないということは、興味もないということか。フォローが逆に辛い。グスン。


 頭をあげて、と何度も言われて俺は頭をあげた。先輩は全く恥ずかしがってもいない。


 まさか、先輩は男性の身体を見慣れている!? 彼氏はいないと言っていたが、もしや特定の相手はいないということで不特定の相手は多いとかっ!? 清楚に見えてビッチなのか!?


 心の中がぐちゃぐちゃに混乱している俺を余所に、先輩はどこか遠くを見ながら付け加えた。



「それに、私の父はよく全裸で出てくるから……。これが普通で育ったからもう諦めたけど、せめて食事の時はやめて欲しいよね……年頃の娘の前なのに……」


「あっ……大変なんスね……」



 察し……なるほど。先輩のお父さんは何度か見たことがある。家でもきっちりしてそうな真面目な雰囲気だったけど、そうなのか……お風呂上りは全裸で出てくるのか。


 先輩は悟りを開いたような不思議な表情。



「私、結婚するなら全裸で出てこない人が良い」



 基準! 先輩の結婚の基準そこっ!? 顔でも性格でもお金でもなく、お風呂から全裸で出てこない人なの!? 基準低っ!?


 ニッコリ微笑んで先輩は言う。



「下着を穿いている分、カイト君は私の中で好感度高いよ」


「……うっす。あざっす」



 うん、なにこの微妙な気持ち! 複雑! あまり嬉しくなーい!


 というか、下着を一枚穿いているだけでいいんですか!? 全裸と下着一枚、ほとんど変わらないと思うんですけど!?


 その後、ご両親が帰ってきたということで、先輩はあっさり二階へと帰って行った。


 途端に家の中が静かになる。


 美人な先輩が家に来るという思春期男子には強烈な非日常は、あっという間に過ぎてしまった。


 もう少し喋ってみたかったなぁ……。


 そして、今夜、悶々ムラムラしている俺は、果たして眠ることができるのだろうか?




 ▼▼▼



「行ってきまーす……ふぁ~あ」


「いってらっしゃい!」



 次の日、母ちゃんの元気な声を背に受け、大きな欠伸をしながら玄関のドアを開けた。寝不足である。理由は……男子高校生の秘密だ。


 すると、丁度階段を降りてきた可憐な女性と出会った。ツカサ先輩だ。


 いつもなら無言の会釈で終わったのだが、今日は違った。先輩は朝一番に花のような美しい笑みを浮かべて手を振ってくれる。



「おはよう、カイト君」



 ……後ろには別人のカイト君はいないよね? うん、玄関の扉しかない。



「おはようございます、ツカサセンパイ!」


「なんで一瞬後ろを見たの?」


「いや、何となく? 夢でも見ている気がして……」


「ふふっ、変なの。それなら普通頬を抓らない?」


「それもそッスね」



 あぁ……先輩の蕩けるような美しい笑顔。癒される。今日は言い一日になりそうだ。


 タンッと軽やかに一番下まで階段を降りた先輩。スカートが揺れ、甘い香りが漂ってくる。



「一緒に行こ?」


「……はい?」



 俺は耳を疑った。イッショニイコ? 一体どういう意味なんだろう?


 明らかに日本語じゃないよな? 英語? フランス語か? いや、ドイツ語? イタリア語の可能性もある。はっ!? ロシア語か!?


 先輩は心底不思議そうに首をかしげる。



「だって、目的地同じだし」


「……いいんスか?」



 きっちり十秒くらい先輩の言葉の意味を考え込んで、俺は言葉を絞りだした。


 一緒に行く。目的には同じ。ということは、高校まで一緒に登校しようという意味のはずだ。間違いない。AED……じゃなかったQED。


 今の俺にはAEDが必要かもしれないが。心臓が不整脈を起こしていそうだ。



「昨日のお礼をしたいなぁって。カイト君のお母さん、どんなものが好きか教えてくれる?」



 あっ、そういうやつね。了解した。



「いいっスよ」


「やった! あっ、ついでにカイト君の好きなものも教えてね」


「……うっす」



 その時の俺は、可愛らしくガッツポーズをする先輩に見惚れ、先輩の耳が赤くなっていることに気づいていなかった。後に続いた言葉も。


 先輩と並んで歩く。ちょっと、いや、とても緊張する。いつも通っている道が初めて通る道のようだ。美しく輝いている。



「センパイ、一ついいっスか?」


「な、なにかな? 折りたたみ傘なら持ってるけど」



 ドヤ顔でバッグから折りたたみ傘を取り出して自慢する先輩。可愛い。


 じゃなくて――



「今日は家の鍵はちゃんと持ってますよね?」


「もちろん! 昨日帰ってからすぐに準備したから。ちゃんとここに……あれっ?」



 ポケットに手を突っ込んでキョトンと固まった。


 うーん、と何かを考えながらポケットを漁り、次にバッグを漁り、あちこちを調べ尽くして、顔が爆発的に赤くなる。



「ちょ、ちょっと待ってて!」



 鍵忘れたぁ~、と泣きそうに叫びながら駆け出し、タタタッと階段を駆け上っていく先輩。バタンと勢いよく家に飛び込んでいった。


 先輩ってちょっと抜けてる部分があるんだ。何でもできそうな雰囲気なのに。


 俺は初めて知った先輩の可愛さに撃ち抜かれ、悶え苦しむ。



「お、お待たせっ!」



 代わり映えしなかった高校生活。


 息を弾ませながら鍵を見せつけてくる先輩にほっこりしながら、今日から少し変わる――そんな気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

美人な先輩と一つ屋根の下で ブリル・バーナード @Crohn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ