少女は水底へ沈んでゆく。
私がせんぱいと出会ったのは高校に入学してすぐの頃だった。
同じクラスの友達に誘われ、彼女が気になっていた部活動を見学しにいくのについていったときだ。元々社交的とはお世辞にも言えないタイプだった私は、 先輩方とどう接したらいいか分からなかった。見学の場には自分と同じ一年生も多くいたが、彼らとも何を話したらいいのか分からなかった。
だから私は自分を誘ってくれた友達の傍でずっと大人しくしていた。友達は何人かの先輩や同級生と会話をしていたが、私には出来なかった。
そんなときだった。せんぱいが私に話しかけてきてくれたのは。
まさか話しかけられるなんて予想もしていなかった私は戸惑っていた。思い返すと恥ずかしくなってしまうほどに挙動不審だった。
でもそんな私に対しても、せんぱいは優しかった。
私が知らない人と一対一で話すことが苦手だということを察してくれたのか、せんぱいは私と一緒にいた友達や他の一年生にも声をかけて会話に参加させた。そのさり気ない気遣いが私はとても嬉しかった。
せんぱいのことをはっきりと認識したのはそのときだった。
それからもせんぱいは私たち一年生とコミュニケーションを取る機会をよく作っていた。一年生の私と三年生のせんぱい。最初の内は何を話したらいいか分からず戸惑った。他の一年生もおそらく私と同じだったと思う。でも回数を重ねていくうちに、せんぱいと私たちの溝は徐々に埋まっていった。
せんぱいは私たち一人一人と向き合って言葉を交わし、親切にしてくれた。せんぱいは私たちの話をなんでも聞いてくれた。部活動のことや学校生活のことだけじゃなく、個人的な相談や最近あった些細な出来事まで、とにかくどんな話でも嫌な顔一つせず聞いてくれた。そんなせんぱいの優しいところが私たち一年生の心の壁を壊してくれたのだろう。
そして私も例にもれず、せんぱいのことが大好きになった。もちろん最初は恋愛感情なんかじゃなくて頼れる年上の人、親愛の感情だったはずだ。けれどそれはいつの間にか変わっていった。親しくなるにつれて、せんぱいという人をより深く知るにつれて。
別に私に親切にしてくれる人はせんぱい一人だけというわけではなかった。でも私には誰よりもせんぱいの優しさが嬉しく感じた。最初の印象が強く残っているだけだと言われたら、そうかもしれない。
けれど、それでも私にとってせんぱいは特別な人だった。自分でも気がつかないうちに、あっという間にせんぱいは私の中で大切な人になっていたのだ。
私が明確に恋に落ちたのは、私の誕生日のときだった。別に劇的なことがあったわけじゃない。ロマンチックなことがあったわけじゃない。むしろとても単純で、あっさりとした出来事だった。
ただせんぱいに誕生日のお祝いだと称してミルクティーを奢ってもらっただけだ。
そう、ただそれだけ。他の人にしてみれば、私のあまりの単純さに呆れるかもしれない。けれど私にとって、それは今までの人生を劇的に変えてしまうほどの大きな出来事だったのだ。
そもそもせんぱいが私の誕生日を知っているだなんて思ってもいなかったから。知っていても、まさか直接祝ってくれるだなんて思っていなかったから。家族や友達以外の、それも男の人にそんなことをしてもらったことなんてなかったから。
私はあっさりと、単純に、そして深い深い水底へ沈むように恋に落ちた。
このとき、私ははっきりと自覚したのだ。
せんぱいのことを愛していると……
せんぱいに想いを告げ、晴れて恋人という関係になったのは夏休みの直前だった。まさか受け入れてもらえるとは思ってもいなかった私は天にも昇る気持ちだった。せんぱいは私にだけ優しいというわけじゃなかったから、私のことを他の人よりも特別に思っているとは、もっと言えば好意を持ってくれているとは思っていなかった。
だからこそ、せんぱいから了承の言葉を貰ったときは嬉しさよりも驚きの方が大きかった。一体どうしてといいう疑問は当然湧いて出たが、そんなものはせんぱいと恋人同士の関係になれたことへの喜びがあっという間に覆いつくしてしまった。
これから先にある、せんぱいとの輝かしい日々へ想いを馳せれば馳せるほどに胸が高鳴った。私にとって、せんぱいは初めて好きになった人、そして今は初めて恋人としてのお付き合いをしている人。夢見がちな性格ではないとは思っているけれど、今までに経験がなかったことへの高揚感に自分でも分かるくらいに私は浮かれていたと思う。
だからだろう。夏休みに入って少しした頃、私はせんぱいをデートに誘った。待ち合わせをして、カフェでご飯を食べて、その後は映画を観て、日が沈む頃には別れた。至ってシンプルな、極めてありがちなデートだった。
でも、そんな奇をてらったことをしなかったからこそ、どこにでもあるような普通のデートだったからこそ、私はとても満たされた気持ちになった。好きな人とのデートというのはこんなにも幸せになれるものなのかと感動したほどだ。これが日常になっていったら一体どうなってしまうのだろう。そんなおかしな不安にさえ一瞬駆られてしまったほどに、私の心は浮足立っていた。
夏休みの間、せんぱいとは初デートを含めて三回ほどデートをした。二回目のデートは水族館へ行った。その次は遊園地へ行った。
勿論どこもこれまでの人生で一度は行ったことのある場所だ。でも隣にせんぱいがいるというだけで、私の瞳には何もかもが初めて見た世界であるかのように映っていた。
何をするにもせんぱいと一緒。水槽を眺めるときも、イルカのショーを見るときも、遊園地の入り口をくぐるときも、アトラクションの順番待ちの列に並ぶときも、パレードを見物しているときも。
隣に愛する人がいるというのは、どんなに些細なことにも彩りを添える。
詩人のような言い回しかもしれないけれど、私は確かにそう思った。
けれど、どうしてだろう。
せんぱいの恋人は私。
せんぱいの隣にいるのは私。
満たされているのは私。
幸せなのは私。
世界が鮮やかに色づいたのは私。
じゃあ、せんぱいは?
せんぱいも私と同じことを感じてくれているのだろうか。
私と同じものを見てくれているのだろうか。
せんぱいは、私と同じなのだろうか?
そんな疑問が私の中では芽生えていた。その疑問が生まれた発端は遊園地のデートのときだった。私はせんぱいと一緒に夜のパレードを見ようとしていた。
「もうすぐ始まりますね、せんぱい!」
「うん、そうだね」
「ここに来るたびに見てるから、もう何回も見ているはずなんですけど、やっぱりワクワクしちゃいます」
子どもの頃からこの遊園地には何度も来ていた。当然夜のパレードも何回も見た。どんなことが行われ、どんなものが見れるのかも知り尽くしていた。
けれど、何度来ても、何度見てもその瞬間の感動というものは薄れることはなかった。何度も同じ高揚感が、何度も同じ歓喜が私の心を包み込んでくれた。そんな気持ちをせんぱいにも共感してほしくて、私はせんぱいにそう言った。
私の胸の内を察してくれたのか、せんぱいは優しく微笑みかけた。
「そういうものじゃないかな。映画館に行けばポップコーンを買ってしまうように、水族館に行けばイルカショーを観てしまうように、こういった場所では俺たちが取るべき行動は定められている。取った方が施設をより楽しめるようにと予め用意された行動が、ね」
ときどきせんぱいは少し難しいことを言う。別に言っている意味が分からないというような難しさではなく、単純な物事を敢えて霞ませるような、単純な言葉を敢えて別の言葉を並べることで複雑化させるような。私はせんぱいのそんなところも好きだった。
「せんぱいって哲学的ですねぇ……なんというか言い回しが」
私は思ったことを口に出していた。それはせんぱいへの純粋な好意と、積み重ねられた尊敬の念から出たものだっただろう。
けれど、そんな私の言葉を聞いたせんぱいは柔らかい笑みと共に少しだけ目を細めた。
「そうかな……でも、今のはただの受け売りだよ。ある人の、ね……」
私の先の言葉には、決してマイナスの感情など込めてはいなかった。いなかったはずだ。でも私の言葉を聞いたせんぱいの表情には、言葉を受けて出た喜色のものだけじゃなく、何かを懐かしむような、どこか遠くの何かに想いを馳せるようなものが見えた。
その正体がなんだか分からないほど私は鈍感じゃなかった。知らない、分からないと恍けられるような立場に今の私はいなかった。
だって私はせんぱいの恋人なのだから。理解できた、できてしまった。
せんぱいの心の中に居る、せんぱいの心を惹きつけ続けているのがどこかの誰かであることを。そしてその誰かはせんぱいにとって自分の一部になってしまっているほどに大きな存在であることを。
せんぱいが、今もその人のことが好きであるということを……
「君が噂の彼女さんかな?」
「はい?」
夏休みが明けて学校が始まってすぐのときだ。一人の男子生徒が私に話しかけてきた。未だ暑い日が続いている中、生徒は皆夏服を身に纏っている。当然男子生徒はネクタイをしていないから、ぱっと見ただけでは話しかけてきた彼が同級生なのか先輩にあたる人なのか分からない。
しかし私を形容する言葉が、目の前の男子生徒を同級生ではないことを確定させる。彼は私のことを「噂の彼女さん」と呼んだ。それは、目の前の男子生徒がせんぱいと私の関係を知っている人であるという証明だ。同級生であればわざわざそんな言い回しをする必要がない。
導き出される結論は、彼はせんぱいと親しい誰かである、ということだ。
「えっと……せんぱいのお友達、ですか……?」
「ああ、そうだね。彼のクラスメイト兼親友、かな」
私の質問に彼は笑顔を浮かべて答えた。私から見ても、彼の容姿は整って見える。声色も柔らかく耳障りが良い。きっと女子生徒からの人気もあるだろうと察せられるほど、一目で好印象を抱かせるモノを備えていた。尤も、私には大切な人がいるのだから関係のないことだが。
「彼が同じ部活の後輩と付き合い始めたって聞いて驚いたよ。彼が誰かとそういう関係になるとは思わなかったから」
「はぁ……そう、なんですか?」
彼がせんぱいをそのように評したことで、私は夏休みの出来事を思い出した。同時に理解した。彼は、彼ならせんぱいの中に居る人が誰なのかを知っていると。
「でも、実際に見て安心したかな。うっかり変な子に引っ掛かってるようだったらって心配してたからさ。うん、良かった良かった」
「安心したって、まだ合って五分も経ってないですよ……?」
「人間は他者の第一印象を形成する上で見た目が55%を占めると言う。声の大きさやトーンに関するものが38%、そして話の内容が7%。それで他者へのイメージが形成される」
「えっと……」
「メラビアンの法則だよ。心理学の一種だ。加えて君は、会ったこともない俺がアポも取らずに現れたにも関わらずこうして言葉を交わしている。君は俺が君のことを彼の彼女と形容したことで、俺が彼と親しい間柄であることを推測し結論付けた。そこに至るまでの時間は1分にも満たない。実に迅速かつ的確な分析だと思うよ。そういった思考をすぐに行えることはそう簡単なことじゃない」
「あ、ありがとうございます……?」
「以上のことから君は思慮深く、自分の導き出した結論の下、他者とのコミュニケーションを図っている。君は衝動的な行動や感情的な言動をすることを避ける。モノを見て、思考し、自分の中でロジックを組み立てることを無意識の内に優先している。君がしっかりしている人間であるという証拠だね」
私は彼の言葉に圧倒されていた。僅かなやりとりだけで相手の人となりを詳細に分析する。今まで出会ったことのない人との邂逅に私は暫し沈黙していた。その沈黙を良くない方向へ捉えたのか彼は少し困ったような顔をする。
「少し喋りすぎたかな? 人のことを分析してそれを大っぴらにすることはあまり褒められたことではないからね」
「いえ、ちょっとびっくりはしましたけど、別に嫌な気持ちになったとかじゃないので大丈夫です」
「そう言ってもらえると助かるよ。君みたいな子は貴重だから嫌われるのは惜しい」
「私みたいな、ですか……?」
「さっきも言っただろう? 思考する人間。理性や感情に身を委ねるのではなく意識的に。頭で考えることで初めて行動する。人は孤独で弱いが、考えることが出来ることにその偉大と尊厳がある。倫理の授業で習わなかったかい? 『人は考える葦である』って」
「ごめんなさい、私倫理は取ってなくて……」
「おや、なら是非パスカルを手に取ってみるといい。きっと君の思考を広げてくれる」
彼の言葉には哲学が含まれている。そしてそれはせんぱいにも共通していた。彼がせんぱいの親友であるというのならそれも納得が出来る。多分二人はそういった点で気が合うのだろうと簡単に想像がついた。
聞けるかもしれない。知れるかもしれない。
せんぱいの見ているものを。せんぱいの心が向く方向を。
見ないふりは出来ない。知らないふりは出来ない。
だって、私は……
「先輩は知ってるんですか……? せんぱいの心に居る『ある人』について」
私はせんぱいの恋人なのだから。
「……そうか。君は……」
彼は何かを言おうとしていたが、その先を続けることはせず口を閉ざした。そして暫く沈黙した後、意を決するように、何か大きなものを吐きだそうとするように口を開いた。
「少し、昔話をしよう。一人の女性と出会い、焦がれ、沈んだ一人の男の話を。ウディ・アレンの言葉を引用するなら『長続きするたった一つの愛』の話だ」
アルカロイドに沈む 夏葉真冬 @index138
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。アルカロイドに沈むの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます