アルカロイドに沈む

夏葉真冬

宝石という名の麻薬

 

 少年、少女と呼ばれる年齢はどの辺りを指すだろうか。二次成長を迎える頃合い、つまりは八歳から十八歳くらいまでの間を指すと考えられる。

 それに伴い、多くの少年少女は身体的にも精神的にも劇的に変化する。その変化、その期間のことを一般的に思春期と呼ぶ。

 そしてその中で生じる一種の摩擦。少年少女の心の中で芽生え、その心を蝕み搔き乱す一粒の種子。

 ある者にとっては生涯色褪せることのない宝石。

 またある者にとっては生涯心を蝕み続ける最悪の麻薬。

 そして、それは恐らくこの僕にとっては──


「……僕、先輩の後輩で幸せでした。すごく」


 ──生涯心を宝石となるのだろう。


「ふふっ、ありがと。私もね、君みたいな子が後輩でよかったって思うな」


 僕の言葉をそっくり返すように言って彼女は笑う。

 その言葉が、その笑顔がどうしようもなく心を揺さぶる。

 彼女の一挙手一投足、一言一言を五感が感じ取る度に、胸の内にずっとあった言葉が反射的に口から衝いて出そうになる。

 彼女と出会ってから今日に至るまで募らせ続けた一つの感情。今日この日、この瞬間を終点として燻ぶらせ続けた、たった一つの想い。

 出てしまいそうになる。伝えてしまいそうになる。

 今、ここで抑制の蓋を少しずらすだけでいい。

 そう、たったそれだけ。その行動一つだけで枷は外される。この胸を焦がし続けた情動の灯が溢れ出すことだろう。


「ッス……嬉しいです」 


 だが、しない。それだけはしないのだと、してはいけないのだと決めたのだ。

 故にこれでいいのだ。この想いはここで終局を迎える。そうするべきだと僕は自分自身に言い聞かせる。


「じゃあもう行くね。クラスの皆が打ち上げやるらしいから顔出さなきゃ」


「……はい。あの、先輩」


「なあに?」


「その……卒業しても、たまには会いに来てくれると嬉しいっす」


 去り行く彼女に思わずそんなことを言ってしまう。これで終わりだと決めていたのになんと未練がましいことだろうか。どこまでも女々しく浅ましい。一体どこまで醜いのだと己を嘲る。

 しかしそれでも、たとえこれが己自身を苦しめる選択でしかないのだとしても、彼女と会えるのをこれで最後にしたくはなかった。次を求めたかった。何が生れるわけでもない、何が始まるわけでもないのだが、それでも僕は求めた。


「じゃあね」


「はい。さようなら、先輩」


 こちらに小さく手を振って、彼女は去っていく。その背が小さくなって消えていくまで、僕は一歩たりとも動くことなく見送っていた。

 これが少なくとも二ヶ月前のこと。彼女が高校を卒業し、僕は進級して三年生になった。高校生活最後の一年ともなればどこもかしこも慌ただしくなるものだ。卒業後の進路はどうするのか、就職を選ぶのか、進学ならばどこを選ぶのかなどの話題が連日繰り返されている。どの道を選ぼうと、ここから先は誰もが自分の意志で生きていくことになる。

 社会に出ることを選べば生きるために金を稼ぐ。大学に進むことを選べば自分の意志で学びを深めていく。与えられるだけだった子どもから何かを得ようとする大人へと羽化する。だからこそ道を歩まんとする生徒も、それを送り出す教師も真剣に向き合っている。

 けれど、今の僕に限ってはそれらがどうでもいいとしか感じられない。

 別になりたい未来の姿が分からないとか、そんな厨二病染みた理由じゃない。ただ単純に、自分のこれからについて真剣に考えることがどうにもできそうにないのだ。

 あの日、先輩を見送ったときから、去り行く背中を黙って見つめていたあのときから、僕の中から何かがごっそり抜け落ちたような気がするのだ。

 まるで暗闇の中へ放り出されたような、地図も磁石も渡されないまま荒野に置き去りにされたような感覚だった。こうなった理由など一つしかない。思い当たることはそれしかないからだ。

 先輩がいなくなったから。もうこの学校にいないからだ。

 たったそれだけ。それだけのことでこんなにも空虚になるとは思わなかった。恋焦がれていた相手と当たり前のように会えないだけで、この世界全てから色が消えたように感じるなど。

 『恋は微熱のようなものである。それは意志とは関係なく生まれ、そして滅びる』とスタンダールは綴った。全くその通りだと僕は思う。

 先輩に恋情を抱いたのは果たしていつからだっただろうか。人が人を好きになるとき、好きになろうと思って好きになどならない。意志とは関係なく恋情という感情は生まれる。そして生まれた恋は刻一刻と滅びへ向かうのだ。だが、今のこの状態は滅びだと言えるのだろうか。

 あのとき、先輩へ想いを打ち明けず見送ったことでこの恋は果たして滅んだのだろうか。結論から言えば、それはないのだろう。そもそも先輩が卒業することなど初めから分かり切っていたことだった。学年が離れている以上、いずれこうなることは目に見えていた。余命幾ばくもない恋に縋っていたようなものだ。先輩と過ごす一日一日に、先輩が見せる優しさと笑顔に快感を感じていた。

 まるで点滴で扶養する患者のように、齎されるそれらに浸ることで自分を慰めていた。だからこそ、この結果は当然の帰結であり、この醜態は至極当たり前のことだった。実に情けないことだ。

 オフェイロンは『愛は後悔を封じ込めたボトルの中で生き続ける』と言った。

 ではこの心に空いた穴は後悔なのだろうか。自分は果たして後悔しているのだろうか。それは分からない。どうにも分からないのだ。

 こんな状態になってからしばらくしたある日、友人にも似たようなことを言われた。


「そんなになるなら告白しておいた方が良かったのに」


 友人からしてみれば、僕は勇気を出せずに告白できなかった挙句、その恋を引き摺る滑稽なピエロにしか映っていないだろうから。

 だが、僕にしてみれば告白していようがいまいが、どの道こうなっていただろうと思う。

 なぜなら薄々分かっていたからだ。恋心を抱いているのは自分だけで、先輩はそうではないということを。先輩からしてみれば、自分はただの後輩でしかないのだということを。

 そもそもきっかけは、部活動で先輩が後輩である自分に話しかけてきてくれたのが始まりだった。それは先輩と後輩のコミュニケーションでしかない。

 それから普段の学校生活でも会話をするようになった。たまに休日に一緒に出掛けたりもした。だがそれも結局のところ親睦を深めるための交流でしかないということを内心では理解していた。

 にも拘らずいつしか先輩への想いが芽生えていた。その芽を摘み取ろうと何度も思った。こんなことは不毛だと頭では理解していた。それでも抗おうとすればするほど、先輩の一挙手一投足に心が揺れた。揺れる度にそんな自分への嫌悪感も募っていった。実に救いようのないジレンマだろう。

 そんなことを延々繰り返した結果がこの心に空いた穴だ。全くもって度し難い。だがいつまでもこのままでいるわけにはいかない。

 穴が開いたなら塞がなくてはいけないのだ。でなければ自分は永遠にこの穴を抱えたまま生きていくことになるのだから。

 考えに考えて結論は出た。それは自分が与えられたものを今度は誰かに与えるということ。先輩から与えられた優しさ、後輩への厚意を自分もまた受け継いで後輩へ与える。それは先輩への恩返しの意味も含んでいた。自分がされて嬉しかったことは、自分も誰かにしなくてはならない。それは至極当然の道理だろう。


 結論が出てから行動は早かった。新しく入部してきた一年生達と積極的にコミュニケーションを取っていった。

 右も左も分からないであろう彼らに優しく指導し、彼らが困っているときは時間の許す限り相談に乗った。

 すると彼らもこちらに対して友好的な反応を示してくれた。それがどうしようもなく嬉しかった。誰かに優しくするという行為は相手だけでなく自分も満たされるというのはあながち間違いではないのだとそのとき実感したのだ。

 先輩から与えられた厚意がどうしようもなく嬉しかったように、後輩達からの好意もまた同じくらいうれしいと感じていた。もしここに先輩がいたら思わず尋ねてしまっていただろう。貴女のような素敵な人になれていますか? と。


 自分の生き方を変えてから一ヶ月程が経ったある夏の日、後輩の一人から遊びに誘われた。自分がよく世話を焼いていた女子だった。初めて顔を合わせたときは一緒に来ていた友人の傍を離れずどこか内向的な生徒だという印象を抱いていた。

 新しい環境で緊張しているのだろうと解釈した僕は彼女とその友人、そして他の後輩達も含めてよく会話をしていた。同級生の中に先輩という異分子が一人いるというのは違和感があったのか、最初は彼女たちは皆どこか委縮していた。

 それも当然の反応かと思い、少しずつ、けれど一人一人とちゃんと言葉を交わして親睦を深めていった。始めはあまり話さなかった彼女も徐々に心を開き、取るに足らない些細なことでも話すようになっていった。

 僕はそれを良い変化だと思った。実際のところ僕も決して社交的というわけではなかった。見ず知らずの相手、ましてや他学年の生徒と積極的に交流しようなどと嘗ては考えもしなかっただろう。今こうして後輩から遊びに誘われるまでの交友関係を築くことが出来たのは、やはり先輩との日々があったからだと常々思っていた。今このときも先輩は自分の中にいるのだ。それが嬉しくもあり誇らしくもあった。


 彼女と過ごした休日は楽しかった。普段とは比にならないほどの時間を後輩と過ごすのは新鮮であり刺激的だった。

 彼女もいつもより多くのことを話してくれた。日常で起きた些細な出来事から友人の話まで、彼女は嬉しそうに語った。彼女にとって自分はさしずめ学年の違う友人のように思っているのだろうと察し、そのように接してくれる彼女を嬉しく思った。

 だからだろうか、帰る彼女を駅まで送る道すがら、彼女に告白されたとき僕は大層驚かされた。


「私、せんぱいのことが好きです」


 そう言葉を紡いだ彼女の表情は、冗談を言っているようには到底思えない。それが本心であるということは否が応でも理解できた。


「その……なんで俺なの?」


 思わずそう尋ねてしまったことは誰にも責められないだろう。なにせ自分は彼女に好かれるようなことをした覚えはなかったのだから。僕の問いに対して彼女は恥ずかしそうに少しずつ理由を語りだす。


「せんぱいは他の先輩達よりもずっと私たち後輩に優しくしてくれました。私が困ってるときも気にかけてくれて、相談にも乗ってくれました」


「先輩が後輩に優しくするのは当然だろ?」


「でも私は嬉しかったんです。私の誕生日も覚えててくれて……」


 それは彼女の勘違いだ。自分が彼女の誕生日を知ったのはその当日で、彼女の友人が話しているのをたまたま聞いただけでしかない。当日に知ったのだからプレゼントなんてものは当然用意していなかった。

 だが知ってしまった以上、無視を決め込むのも憚られたが故に、彼女に誕生祝いと称して飲み物を奢っただけだ。思い返してみても、別に特別な何かを渡したわけじゃない。

 でもそれをわざわざここで言うのは空気が読めない行動でしかないため口を噤むしかない。


「その……せんぱいは私のことをただの後輩としか思っていないかもしれませんが……もし、もしもせんぱいがちょっとでも私のことを好きでいてくれているなら……」


 遜ったような言葉を紡ぐ彼女の声は震えていた。それが緊張か、あるいは不安であるのか。いやその両方であるのだということは僕にも分かった。

 彼女の今している行動はそれほどまでに緊張と不安を抱き、そして勇気のいるものなのだから。僕が嘗て出来なかったこと、やろうとしなかったことを今、彼女はしようとしているのだ。

 そして彼女はついにその決定的な一言を発した。


「付き合ってください……」


 固く瞼を閉じ、少し俯くようにして彼女は胸の内を明かした。

 その言葉を聞いた瞬間、僕の心に湧いて出た感情はただ一つ。


 どうしようもないほどのだった。


 彼女に恋心を抱かせてしまった。ましてや告白なんぞさせてしまった自分への嫌悪感。確かに彼女は後輩たちの中ではとりわけ可憐な少女だった。同期達の間でもしばしば話題に上がるほどには彼女は注目されていた。しかし僕は決して彼女に下心を持って接していたわけじゃない。

 僕はただ、先輩がしてくれたのと同じように後輩たちへ接していただけなのだ。後輩が困っている時は手を差し伸べ、頼れる先輩になろうとしていただけなのだ。

 それは先輩がいなくなって空いてしまった心の穴を埋めるための代替行為でしかない。自分が思い描く先輩像、後輩たちが慕ってくれるような理想の先輩を演じることで自分を慰めていただけに過ぎない。

 ただの自己満足。一種の自慰行為でしかない。

 だがそれによって一人の少女が自分に想いを寄せてしまった。その好意を伝えさせてしまった。この時点でようやく僕は気づいた。気づいてしまった。


 自分の行動は、自分と同じような人間を生み出してしまっただけだったということに。


 なんと皮肉なことだろうか。自分が心酔した麻薬に、結果として一人の少女を自らの手で沈めてしまった。

 脱却するために、穴を塞ぐために道化を演じたことで自分と同じ道を辿らせてしまった。

 底知れぬ後悔と自己嫌悪。どうしようもない怒りと情けなさが心を侵食していく。

 今ここで彼女の告白に否と突き付けることは簡単だ。その想いは勘違いだと、僕は君に好かれるような人間ではないと打ち明けることは簡単だ。

 だがそれをすれば彼女はどうなるだろうか。心を開き、自分の想いを打ち明けるに足る相手からそんなことを言われれば彼女は何を思うか。そこに思い至ったら、もう後には引けなかった。


「ああ。こちらこそ、よろしく」


 気がつけばそう口に出していた。ただ目の前の少女を悲しませたくないという瞬間的な理由で、僕は彼女の想いに応じると口にしていた。


「──っ! はいっ、よろしくお願いしますねせんぱい!」


 嬉しそうに泣き笑う彼女を見て、自分の選択は間違っていなかったのだと解釈する。

 彼女の純粋な好意に対して不義理であることから目を逸らして。

 今この瞬間の彼女の笑顔を免罪符にして。


 自分が何か致命的な過ちを犯したのだということに、気づかないふりをして。










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