終章・とこ花
どんよりとした鼠(ねずみ)色の空の下で、菫さんの葬儀は行われた。
本当は身内や親戚だけで行われるはずだったんだけど、花さんと輝さんのご厚意で、特別に僕も参加させてもらっていた。
そこで、初めて彼女のすっぴんを見た。
すごくやつれていて、異常なくらい白くて、これらを隠すためにメイクしていたんだと、僕は今になって知った。
そのとき僕は、両手に力が入ってしまって、爪が食い込んで、血がじんわりと滲んできていた。
浮かれていた自分が、ひどく恥ずかしかった。
最後に行われた火葬が終わって、出てきたのは菫さんの骨だった。そこからきれいに並べられて、専門の方にどこがどの部位なのか説明される。
でもそんなこと、全く頭に入ってこなかった。
本当に彼女なのかなって、思ってしまう。
火葬場に入って、出てくるまで、全部見ていたはずなのに、どうしてなんだろう。
そんなことをぼんやりと考えていれば、いつの間にか葬儀は終わっていた。
各々、自由に過ごしていた。
さっきまでは涙を拭っている人も多かったけど、話している人たちは薄っすらと笑みを浮かべていて、ひそひそとした声がひたすら聞こえてくる。
そんな中で、僕は一人突っ立ってジュースを飲んでいた。当たり前だけど、菫さんの家族以外に話せる人なんて誰もいない。
なんとなく、ぷらぷらと外に出てみる。手持ちぶさたな僕には、散歩くらいしかすることはなかった。
「どこ行くんだよ」
急に呼ばれて振り返ると、そこには蓮がいた。
「まあ、ちょっと散歩」
「んじゃ、俺も行くわ。あそこにいると、息が詰まりそうだし」
ポケットに手を突っ込んで、蓮はとなりに並んだ。欠伸をしながら、転がっていた小石を思いっきり蹴り飛ばした。
僕はつい、口角を上げてしまう。不謹慎だとは思うけど、それを抑え込むことはできなくて、僕はいつまでも笑顔だった。
とても蓮らしくて、少しほっとしているのかもしれない。
火葬場は自然の多い場所に建てられていて、辺り一帯は緑に覆われていた。僕たちはただひたすら、緩やかな下り坂を歩く。
「なんもないな」
また欠伸をしながら、変な声で言う蓮を見て、くすりと笑ってしまう。
「そうだね。でも僕は、こういうところ歩くのけっこう好きかもしれない」
蓮はちらりと横目でこっちを見て、「そっか」と唇の端を上げた。
僕は辺りを見渡しながら、目を細めてしまう。
アスファルトの上に落ちているハンカチとか、雑草の中でひっそりと咲いている黄色い花とか、見つけては興味を惹かれてしまう。
こんな見かたができるようになったのも、彼女のまねごとをするようになったからだった。
出会ったばかりの、あの夏。
菫さんは想像していたよりは、ずっと変わっている人だと感じていた。
意外とお菓子とか強炭酸とかが好きで、よくからかってくるようなお茶目な人だったということもある。
けど、なによりも。
何でもないように思える花が、じつは面白い生えかたをしていたり、名前をつければ素敵な思い出になると言ったり。
独特な見方だなって、尊敬していた。
だから、今の僕があるのは、菫さんのおかげだった。
火葬場が小さく見えてきたころ、菫さんと出会った泉場公園のベンチと似た場所を見つけて、僕たちはそこで一休憩することにした。
のんびりしていると、蓮はスマホで曲を流す。
スピッツの『楓』だった。
言葉のない時間が続いたけど、そこに変な気まずさはなかった。むしろ半身浴をしているみたいに、心が休まる気さえしていた。
ぼんやりと、空を見上げていた。
分厚い雲に、空一面が覆われていた。
菫さんと出会った日も、こんなふうに薄暗い日だったな。
そんなふうに耽っていると、蓮はとたんに音楽を止めて。
「ありがとな」
そう、雨粒みたいにぽつりと呟いた。
「どうしたの、急に」
つい首を傾げてしまうと、蓮はちらりとこっちを見てから、膝に肘をついて手を組み、靴のほうに目線を落とした。
柔らかく目を細めて、微笑んでいた。
菫さんに、とても似た笑顔だった。
「植物病になってからの姉さんってさ、どこか無理に笑ってたんだよ。
植物病っていう、メディア受けする名前のせいで、しつこく付きまとわれたり、嫌なこと聞かれたり、大変な時期があったことも含まれてるかもしんない。
けど、たぶん、ただ辛かったのが、一番だったんだと思う。もし自分が余命宣告なんてされたら、耐えられない。
正直、見てるの辛かった。
でもしょうがないことなんだって、むりやり納得させてたんだよ」
僕は、口を半開きにしてしまった。
そんなこと、菫さんから聞いたこともなかった。
だから、菫さんは名前に深い思い入れがあったのか。
どうして、言ってくれなかったんだろう。
そんなふうに一瞬、考えてしまったけど、僕に心配をかけたくないから言えなかったのかなって、今なら思えていた。
彼女はとても人思いだって、もう知っているから。
それから蓮は、僕のほうに体を向けた。
「けど螢と会ってから、姉さん、自然と笑うようになっていったんだよな。それくらい、螢との時間が支えになってたんかなって、今なら思うよ。俺じゃ、ぜんぜんダメだったんだって。
だから、ほんとにありがとう」
手紙をつづるように言葉を紡ぎ、深々と頭を下げた。拳を握りしめているせいで、黒いスラックスパンツがしわだらけになっていた。
僕は頬を掻いてしまってから、蓮の肩を叩く。彼が顔を上げると、僕は笑みを浮かべて口を開いた。
「いっしょにいたかった。ただ、それだけだよ」
本当に、それだけだったんだと思う。
僕は菫さんと違って、多くの思いを他の人に捧げることなんて、できはしないんだから。
彼女の笑顔を見ていたい。
それが、僕の願いだった。
僕は自分のために、彼女と過ごしていたんだ。
「そっか」
蓮がにかりと笑えば、雲の隙間からじんわりと日が差してきた。夏を感じるような、とても眩しい光だった。
ぱしゃりと、時間を切り取った。
この空と、僕たち二人のツーショットを撮った。
蓮は太陽のような満面の笑みを浮かべていて、それに比べて、僕はとても少しぎこちなく笑っていた。
いつも通りの僕たちだなって、なんとなく思った。
菫さんの仏壇に、これを飾ってあげよう。
菫さん、喜んでくれるだろうか。
そろそろ戻ろうかなと、カメラをしまおうとする。
けれど、僕は手を止めてしまった。
カメラのケースに、白い紙が入っていた。
なんだろう、これ。
眉を曇らせてしまいつつも、取り出してみる。
「これは……」
おもわず、目を丸くしてしまう。
そこには、『螢くんへ』と書いていた。
見たこともない字だけど、おそらく菫さんのなんだろう。
袋を開けてみる。
手紙と、一枚の写真が入っていた。
写真は、旅行に行ったときや泉場公園にいたときに、菫さんが僕たちのツーショットを撮ったものだった。
角度は曲がっているし、僕だけなぜか少しピンボケしているし、あまりできの良い写真とは言えないのかもしれない。
だけど、好きだなって思った。
今までのどんな写真よりも輝いていて、人の体温に触れて心が温まるような、そんな感じがしていた。
そうか、そうだったんだ。
好きな人と撮れば、どんな写真だって、素敵な思い出になるのか。そのことに、カメラ歴八年目にしてやっと気づけたのかもしれない。
それなら、もっと撮れば良かった。
フミさんと同じことを思ってしまったけど、おそらく、そういうものなんだろう。フミさんから旦那さんの話を聞いていたからこそ、そんなふうに思うことができた。
それから、僕は手紙を手に取った。
となりを見遣ると、蓮はゆっくりと頷く。
僕も頷き、手紙に目を据えた。
『これを読んでいるということは、私はもう、ここにはいないということなんだろうね。なんだか変な気分だけど、螢くんには必要だと思うから、こうして手紙を認(したた)めたいと思います』
僕も少し、変な気持ちになっていた。
手紙越しなのに、まるでとなりで会話しているような、そんな気がするからかもしれない。
『会ったばかりのころはね、素直な良い男の子だなって、螢くんのことを思ってたの。気も利くし、どんな話にもちゃんと耳を傾けてくれるからね、君は。
螢くんといると、素でいられたの。
たぶん、心が安らいでいたんじゃないかな』
僕はつい、頬を掻いてしまう。
そんなふうに思っていたんだと知ると、なんだか気恥ずかしくなってきた。
『螢くん、きっとこれからモテるんじゃない?笑
蓮みたいに顔だけで女性が寄ってくるのなんて、学生の内だけだよ。
素敵な女性と出会えることを、私は空の上から祈っています』
僕は首を振っていた。そう言ってくれるのは嬉しいけど、とてもそんなこと想像すらできなかった。
それに、菫さんより素敵な女性に会えるとは、とても思えない。
『あと、できればなんだけどね。
写真は、撮り続けてほしいかな。
私ね、螢くんの写真を見るの、とても楽しみにしてたの。
プロになる気なんてない、って螢くんは言ってたけど、私はそんなことないんじゃないかなって思ったよ。
本気じゃなかったとしたら、あんな丁寧に写真撮れないし、次を追い求められないよ。
がんばって努力して、螢くんの写真が良くなっていくのを見るのが、自分のことみたいにわくわくしてたの。
がんばってる人って、かっこいいんだなって、思えたの。
だからね、私も頑張ろうって思えた。
生きるの、頑張ろうって思えた。
私は、とても幸せでした。
だからなんにも、悔いは残っていません。
思えば、螢くんと出会えたのは、植物病になったおかげでもあるのかもね。
だったら、ほんのちょびっとくらい、植物病に感謝しなきゃいけないのかもね。
それと最後に、螢くんにはお願いがあります。
私のことは、心の片隅にでも置いといてください。
たまに思い出してくれるだけで、私は十分嬉しいです。
だから、好きな人ができたら、絶対に私にも報告してね。
すごく楽しみにしています。
毎日、大切に過ごしてね。
ばいばい、螢くん』
読み終えたあとも、じっと手紙を見つめていた。
何度も、何度も読み返してしまった。
その度に、思い知らされる。
唇をきつく締めて、喉にぐっと力を込めて、溢れそうになるものをむりやり抑え込む。
たぶん僕は心のどこかで、菫さんはまだどこかで生きているんじゃないかって、思いたかったのかもしれない。
思っていたよりも低くかった、アルトの声も。
せっけんみたいな、いつまでも嗅いでいたくなる香りも。
とても柔らかい、真っ白な肌も。
絹のように、艶やかでさらさらな黒髪も。
景色をさらに美しくして映し出す、水晶のように透き通った黒い瞳も。
花がゆらゆらとそよいでいるような、あの微笑みも。
これから先、一生、触れることはできない。
そう、突き付けられていた。
空を見上げると、灰色のキャンパスに、ぼんやりと菫さんの笑顔が浮かんだ。
ゆっくり、瞼を下ろす。
菫さんは、今、あそこにいるのかもしれない。
だったら、教えてほしい。
菫さんがいない今、僕はなにを撮れば良いんだろうか。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
ペトリコールの香りが、すうっと鼻を抜けていく。
もうそろそろ、雨が降るらしい。
散歩するためだけにわざわざ傘なんて持ってきていないから、僕たちは火葬場に戻ることにした。
そういえば、彼女は雨が嫌いだった。
だけど僕にとっては、特別な天気にもなっていた。
ペトリコールの香りを嗅げば、雨を見れば、彼女のことを思い出すことができる。
でもそれといっしょに、思うことがあった。
夕方を見たって、夏になったって、花を愛でたって、どんな時でも彼女との思い出に触れることになるんじゃないだろうか。
もしかしたら、なんだって良いのかもしれない。
いつだったか、フミさんが亡くなった夫のことを、とこ花と言っていた。
あのあと、僕は意味を調べていた。
「いつまでも散らずにいる花」を、とこ花と呼ぶらしい。
今なら、フミさんの気持ちがよく分かる気がした。
どんなものを感じたとしても、きっと彼女のことを思い出してしまうだろうから。
心の片隅になんて彼女を置けるとは、とうてい思えない。
だから菫さんのお願いは、もうすでに、叶えられそうになかった。
ぽつりと、何かが頭に落ちた気がした。
もう雨が降り始めてきて、僕たちは駆け足で向かう。
けど、僕は転びそうになってしまう。
なぜかアスファルトのど真ん中に、すみれの花が咲いていた。
その拍子に、手に持っていた袋を落としてしまった。
中から、二つのものが飛び出ていた。
手紙と、さっきの写真がひっくり返っていた。
拾い上げると、おもわず顔を近づけてしまった。
なにか、文字が書いてある。
そして僕は固まって、目を見開いてしまった。
気づけば、だんだんと雨脚は強くなって、まるでカーテンみたいだった。
雨水で服が重りを背負ったみたいに重くなってきて、寒くなってきて、このままだと風を引きそうだった。
それでも僕は身動きを取ることができなかった。
ひざから、崩れ落ちてしまう。
写真の裏には、手紙の続きが書かれていた。
『ごめんね
うそをついてました
ほんとはね
しょくぶつびょうがにくい
なんでわたしなの
しにたくない
けいくんといっしょにいたいよ
ずっといっしょがよかった
もっといきたかった
けいくん
いっしょうわたしのことわすれないで
だいすきなあなたの
いちりんのはなでいたいから』
僕はおもわず、膝をついてしまった。
くしゃくしゃに、写真を丸めてしまった。
なんども、地面に拳を打ち付ける。
それから僕は、空を仰いでいた。
冷たく鋭い雨が、僕の頬を打ち付けていく。
その合い間を縫うように、温かい雫が頬を流れて、首筋を伝っていった。
蓮がしゃがんで、雨に濡れながら僕の肩を掴んだ。
「螢?」
僕は蓮のほうに振り向いて、瞼を少し下げて、頬を緩ませて、むりやり笑顔を取り繕った。
「大丈夫。ぜんぶ、雨だから」
蓮はなにも言わず、小さく笑みを浮かべて、手を貸して起こしてくれた。
火葬場に着けば、気休め程度にハンカチで濡れた部分を拭う。蓮は持ってきていないようで、貸してあげた。
僕は頬を掻いて、口を切る。
「ごめん、ちょっとトイレ」
そう言って、僕はその場を後にした。トイレを通り過ぎて、誰もいなさそうなところまで行って、僕は壁にもたれかかるように床へ腰掛ける。
天井を見上げて、ため息を深く吐いてしまった。
くしゃくしゃにしてしまった写真を広げて、もう一回だけ目を通していく。
また、込み上げてきて、すうっと目の端から零れ落ちていく。
唇を、丸めてしまう。
どうして、今になってこんなこと言うんだろう。
もっと早く教えてくれれば良かったのに。
でもよくよく考えれば、僕になにかできるとは思えなかった。
だから菫さんは心の奥底に、ずっと、しまってくれていたのかもしれない。
それにしても、最初の手紙とは違って荒々しい字で、両手を使って一生懸命書いている姿が目に浮かんでくるようだった。
たぶん、書いたのは僕が熱を出していたときだと思った。そうじゃなきゃ、わざわざ写真の裏に書いたりしない。
あの日、彼女の心を追い込んでしまった。
僕のやってきたことは、正しかったのかな。
彼女を、苦しめていただけだったんじゃないだろうか。
でも、そんなことはもう知りようがない。
いろいろ考えてみたけど、一つだけ確かなことがあった。
それは、菫さんにはあっちでも笑っていてほしいということ。
だからひとまず、僕はこれからまで以上に写真を撮っていくことにした。
彼女もきっと、楽しみにしてくれているだろうから。
でもその前に、まずは菫さんの写真を全て、彼女の下に送るところからだった。
僕は家に帰っては、すぐに写真を印刷した。
次の日、菫さんの家に向かった。
約一年分だから、バックは大量の写真でパンパンだった。それだけ、彼女に夢中だったんだ。
合掌をしてから、仏壇の前に写真をお供えした。
そこには、旅行中に約束していたものも含まれていた。
自分の寝顔を撮ってほしいと、菫さんにはお願いされていた。
最初はどうしてこんなことを頼んだのかさっぱりだったけど、今ならなんとなくだけど、分かる気もした。
おそらく、写真を撮ることをやめてほしくなかったんだと思う。
写真を撮っているかどうか、会うたびに聞いてきたから、間違ってはいないはず。
もしかしたら、他にも意味もあるのかもしれない。
でもそれは、追々気づくことができれば良いのかなって、思っていた。
顔を上げて、菫さんの花開くような微笑みに目を据える。
これも、僕が撮った写真だった。
となりには、僕たちのツーショットの写真を飾らせてもらった。
それと菫さん、蓮、僕が映った写真。
こっそり、僕が撮っておいた写真だった。
それと、もう一つのお願いも叶えられそうです、菫さん。
僕はスマホを取り出して、待ち受け画面を菫さんに見せる。
仏壇に飾ってあるものと、いっしょの写真。
それにバックにも同じものが入っていて、写真もよぶんに刷っておいて家にもたくさんある。
これでデータが飛んだとしても、菫さんを忘れることはない。
もしかしたら僕はこれまで、彼女のために写真を撮り続けてきたのかもしれない。
こんなことを思うなんて、都合が良すぎるかな。
でもそう思ったほうが、これからも良い写真を撮っていけるような気がした。
さっそく、僕は誰もいない廊下を撮った。
菫さんなら、どんなふうにこの景色を色づかせるだろうか。
そんなふうに、彼女の笑顔を思い浮かべながら考えていると。
頬を、なにかが伝っていく。
ぐいっと、急いで拭った。
毎回、こんなふうに泣いてしまうんだろうか。
でもそれも、良い気がしてきた。
それだけ、彼女のことが好きだという、証しだと思えば。
外に出ると、さんさんと日差しが照りつけていて、じわりと汗が出るような蒸し暑い風が肌にぶつかる。
ちらほら、蝉時雨も聞こえてくる。
もうそろそろ、梅雨が終わりを迎えて、夏が来る。
菫の花が、風に吹かれて散ってしまう。
それでも、僕の心の中では、とこ花のように。
一凛の花として。
菫さんは、咲き続けていく。
了
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