第五章・花の父母に濡れたとしても
かすかに、塩の香りがする。
窓から張りつくような湿った風が吹き込んで、覗き込めば、真っ白な砂浜が細かく光っていた。先の見えない広大な海が、すぐそこにはあった。
写真を撮ったら、どんなふうに映るんだろうか。
そんなふうに思い浮かべてみるけど、僕が手に持っているのは、一眼レフカメラでもなく、ミラーレスカメラでもなく。
プラスチック製のトランプだった。
「はーい、私の勝ち」
「菫さん、強すぎじゃないですか?」
「入院中死ぬほどやったからね。今はもう負ける気がしないよ」
僕、嶋野螢が少し項垂れていると、菫さんはこっちを見ながらにやにやしていた。僕は小さく息を吐き出し、トランプをかき集めてシャッフルすると、彼女は両手で頬杖をついた。
「まだやるの?」
「やります、勝つまで」
ふふっと噴き出す声がしたけど、聞こえないふりをした。
新年を迎えた後の冬休み中、約束通り僕たちは旅行に来ていた。
泊まっているのは海の近くのホテル。
なのに僕たちは、部屋の中でトランプをやっていた。
寝る前でも良いんじゃないか、とは言ったんだけど、菫さんは今したいらしい。ずっとババ抜きをやっていた。でもけっきょく一回も勝てないまま、海を見に行くことになった。
「あ、ちょっと待って」
菫さんはポーチを手に持って、お手洗いに行った。
紫色の花柄のポーチで、彼女にピッタリのだと思った。
おそらく、化粧直しだろう。
数分したら戻ってきて、僕たちは部屋を後にした。エレベーターに乗って一階に降りると、若い女性二人とすれ違った。そのとき「カップルかな。めっちゃ美人だよね」という声が微かに耳に入った。
となりでくすりと笑う声が、しっかり聞こえてきた。
「私たち、カップルに見えるんだね」
「まあ、男女でいればだいたいそうなんじゃないですか?」
「ふーん」
「なんですか?」
横目でじっと見てきて、つい聞いてしまう。菫さんは自分の頬に指を刺した。
顔、赤くなってるんだろうか。
とっさに頬を押さえて、ぺたぺたと触ってしまう。すると彼女はまた声を出して笑った。少し睨みつけてしまうけど、僕はすぐにやめていた。
なぜか彼女が、枯れ葉が落ちるのを眺めているときみたいに、眉を顰めて笑っていたから。
「でも、なんか不思議」
「そうですか?」
首を傾げて聞くと、菫さんは体を強張らせてゆっくりと僕のほうに向いて、左右に首を振った。
「ただ、なんとなく思っただけ」
菫さんはにこりと微笑み、「今日は一段と寒いね」と話しかけてきた。話題を変えられてしまって、掘り返すこともできなかった。
なんだか、違和感があった。
でもこういうことは、たまにある気がする。
とても悲しそうに笑ってから、僕を見て優しく笑う。
僕はその度に、少し心がざわついてしまう。
その表情はまるでなにかを悟ったみたいに弱々しくて、今すぐにでも壊れてしまうんじゃないかって、すごく心配になる。
僕に、なにかできることはないだろうか。
そんなことばかり、このごろずっと考えている。
菫さんにはいつだって、幸せそうに笑っていてほしいから。
ドアを開けたときに感じたのは、湿った冷たい海風と、口の中がじゃりじゃりしそうなくらいの塩臭さ。
それと、おもわず目を細めてしまうくらい眩しい、沈み欠けた太陽の日差しだった。
「きれいだね」
本当に子どもみたいに目を輝かせて、波と風の音にかき消されそうな声で菫さんは言った。これを見られただけでも、いっしょに来られて良かったと思えた。
立ち尽くして、おもわず目を細めてしまう。声も出ないくらいきれいで、僕はすかさずカメラを向けた。
でも海ではなく、彼女の横顔をカメラのフレームに収めた。
僕はその写真をディスプレイに映し出し、瞳の部分を拡大する。その瞳には、くっきりと景色が映し出されていた。
まるで、鏡みたいだった。
「こんなときも写真?」
振り向くと、菫さんはそよぐ髪を押さえ、にいっと唇の端を伸ばしていた。僕は小さく笑ってしまってから、また彼女にレンズを向けた。
手でも抑えきれないくらい強い風が吹いて、彼女の長い髪を細かく梳(と)いていく。
「こんなとき、だからですよ」
ぱしゃりとシャッターを切る。彼女は風向きとは反対を向いて微笑み、風に笑いかけているみたいだった。
被写界深度を開かなくても夕焼けが霞むくらい、彼女はひときわ輝いていた。
「寒いね」
菫さんは体を擦っていた。たしかに今日は風が強くて、天気予報でも今季最大の寒波だと言っていた。
僕はマフラーを外し、菫さんの首に回した。彼女は目を丸くしてから、首に巻かれたマフラーを握った。
「悪いよ。螢くんが冷えちゃう」
「大丈夫です。こう見えて、僕、暑がりなので」
マフラーを握り、さっきより強く縛る。すると彼女は目を瞬(しばたた)かせて、マフラーに口元を埋(うず)めた。「ありがと」と声を籠らせて、僕は海を見ながら「はい」とだけ言った。
菫さんは微笑み、僕と同じところを見据えて微笑む。
「なんだか、とても霞んで見えるね」
「冬(ふゆ)霞(がすみ)、ですね」
ぽつりと、声が漏れていた。菫さんは僕のほうを向いて、地平線で欠けている太陽のように目を細めた。
「どういう意味なの?」
「冬の朝とか、夕方に遠くの景色がぼやけて見えるので、俳句ではそういうふうに表現することが多いそうです」
僕は空をぼんやり見ながら言うと、ふふっと、小さな笑い声が聞えてくる。
「それも、中学生のときに知ったの?」
「それはもう、忘れてください」
唇の端を上げていて、僕はそっぽを向いて頬を掻いてしまう。けどとなりから笑い声が聞えてきて、僕もつられて笑ってしまった。
二人で、夕焼けをバックにツーショットをスマホで撮った。
再び会うようになってから、こういう写真を撮ることも多くなっていた。恥ずかしいから僕からあまり言うことはなくて、だいたい菫さんから誘ってくれる。
はあっと息を吐いた。ふわふわと、空に浮かぶ雲に溶け込むように登っていく。僕にも、この景色はとても澄んで見えていた。
でも、本当に季節のせいなのかなって、考えてみたりもしている。
もう一回、菫さんのほうを見る。すると彼女は顔を綻ばせて、僕はシャッターを切っていた。僕も気づけば、同じように笑っている気がする。
もしかしたら、理由はなんだって良いのかもしれない。
菫さんといっしょなら、どんな景色も透き通って見えるような、そんな気さえしてくるから。
菫さんは、僕の肩を突く。じっと、地平線のほうに目を据えていた。
「私、今なに考えてると思う?」
とつぜんそんなことを言ってきて、僕は首を傾げてしまう。
「それは、この景色を見て、ということですか?」
菫さんは頷き、僕は顎に指を添えていた。
彼女のことだからきっと、きれいとか、広いとか、普通のことは言わなさそう。もっと、意味がありそうな言葉を言いそうな気がする。
「そうですね……世界が溶けてなくなってしまいそう、とかですか?」
菫さんから、ふふっと噴き出す声が聞えた。
「それは私じゃなくて、こじらせてた螢くんが思ったんじゃないの?」
「それ、ずっと引きずるんですね」
少し睨みつけるようにして瞼を狭めると、菫さんはもっと笑みを深くした。すると彼女は「座らない?」と段差を指さしながら言って、僕は頷いた。
きっと、もう少し夕焼けを見ていたいんだろう。
それは僕も、同じ気持ちだった。
少し近づいたからか波の音が大きくなって、気づけばぼんやりと、僕たちは日の入りを眺めていた。
なにもしない時間が、しばらく続いた。
せっかく旅行に来たのに、という思いが頭を過ぎるけど、僕はあまり話しかける気にはなれなかった。
そんな時間も、ありなんじゃないだろうか。
今の僕には、なんだかそう思えていた。
でもそろそろ時間もないから、いつまでもこうしているわけにはいかない。
帰りましょうか、と菫さんに声をかけようとした。
けど。
柔らかくて、くすぐったい、石鹸の匂いをしたものが頬に触れた。
肩に、温かいなにかが乗っかった。
そこには、菫さんの頭があった。
すぐそこに彼女の顔があって、呼吸の音が直に鼓膜へ触れるみたいに聞こえてくる。顔が、ぶわっと熱くなっていくのを感じる。
どきっとしてしまった。
幸せだと、思ってしまった。
だけどそれは、本当に一瞬のことだった。
おもわず目を見開き、固まってしまった。肩には遠慮を感じないような重さがかかっていき、だんだんと吐息が荒くなっていく。
まさか……。
とっさに菫さんの腕を掴んで、揺さぶろうとした。
けど彼女の手が、僕の手に触れた。
「大丈夫、ただ、少し眠いだけ」
そう言って薄っすらと笑みを浮かべ、空を仰ぎ、深く息を吐き出してしまった。とにかく、安心していた。
でも胸は苦しくて、水の中にずっといたときみたいだった。
菫さんは無理をしていたのに、僕は……。
そこで僕は、ハッとなって口を半開きにしてしまう。
菫さんが座ろうと言ったのも、話そうとしなかったのも、体が辛かったからだろうか。
それなのに、浮かれていたせいでまったく気づかないで、いつまでも海なんか眺めて、幸せだなんてのんきに思っていた。
彼女が植物病だって、僕は知っていて側にいるのに。
本当に、馬鹿みたいだった。
薄く伸びた影に目を落としていると、菫さんは僕の目の前で手を振った。それから、夕焼けに向かって指差した。
菫さんの瞳は、海みたいに夕焼けが輝いていた。
「思っていたことなんて、ほんとに、なんでもないことだったの。ただ、螢くんといっしょに見れて良かったなって、そう思っただけ。本当に、それだけなの」
菫さんは海風に逆らうように、めいっぱい笑っていて、花が咲いているみたいだった。
僕の手を、きゅっと握った。
ほんの少しだけ震えているのを、今度は見逃さなかった。
「他の人には、この景色がどんなふうに咲いてるんだろうね」
なびく髪を押さえながら、菫さんは僕の目を見つめていた。
頭の中を覗いてくるような、澄んだ眼差しだった。
菫さんには、僕がどんなふうに見えているんだろう。
絶対に口にはしないだろうけど、どんくさいとか、気が利かないとか、思っている可能性もある。
もしそうだとしたら、僕は立ち直れないだろうな。考えただけで、落ち込んでしまいそうになる。
でも思えば、それも僕から見えた景色でしかないのかもしれない。
ぜんぶ、僕の想像でしかないんだから。
少し元気が戻ってきた菫さんは、大きく伸びをして立ち上がり、僕たちはホテルに戻ることにした。お互い、部屋でシャワーを済ますことにした。僕が上がったころには、菫さんはベッドに寝転んでいて、僕は電気を消そうとするけど。
「楽しかったね」
振り返れば、菫さんは俯せのままこっちを向いていた。
「寝てたのかと思いました」
「寝てないよ」
「寝なくて良いんですか?」
「大丈夫、まだ」
枕に顔を沈めて、声を籠らせていた。椅子に座っていると、菫さんは僕の名前を呼んで手招きをした。となりのベッドに腰掛けると、菫さんは枕元にからひょこっと顔を出して、手をかざしてきた。
「写真、見たいな」
僕は頷き、カメラをプレビュー状態にして渡す。菫さんは見ている間、何度も欠伸をしていた。とても眠たそうで、僕はペットボトルの水を渡す。
でも彼女は、ペットボトルの蓋すら開けられなくなっていた。
「ごめん、空けてもらって良い?」
「あ、はい」
開けてあげると、ほんのちょびっとだけ飲んだ。いくつか見てから、僕のほうをすっと見上げた。
「写真、撮る回数減ってたりする?」
「そんなことは、ないと思いますけど」
「そっか」と菫さんは欠伸をしながら、カメラをこっちに向けた。もう、満足したんだろうか。とりあえず、受け取ろうとした。
けれど、菫さんは手を離してくれなかった。
「一つ、お願いがあるの」
「なんですか?」
菫さんは僕の服の裾を握って、二回引っ張る。こっちに来て、ということだと思って、そっと彼女のそばに顔を近づけた。
彼女は、耳元で囁いた。
「――」
「えっ、どういうことですか?」
僕はおもわず目を見開き、聞き返してしまった。けど菫さんは小さく笑って瞼を落とし、眠ってしまった。
いったい、どういう意味なんだろう。
本当にこれが彼女の望みだとしたら、とうてい僕には理解できないことだと思った。でも今は確かめようがないから、ひとまず叶えてあげるしかなかった。
体が冷えないように、布団を首元までしっかりかけてあげから、僕は椅子を窓の近くに置いて座った。
窓の外からは、さっきの海が一望できた。
今日は、楽しかったな。
いっしょに旅行に来られたこともそうだけど、いっしょにゲームをしたり、カップルだと勘違いされたり、二人で並んで海を眺められたり、
そのせいで僕は今日、けっこう浮かれていたのかもしれない。
植物病だって、忘れてしまうくらいに。
他の人からすれば、どう見ても普通の女性で、どこをどう見ても植物病には見えないんだと思う。
見えてないから、他の人と同じように接することができる。見えかただけでがらりと、なにもかもが変わってしまう。
見えかた、か。
僕はどんなふうに、これから菫さんを見れば良いんだろう。
植物病としてなのか。
それとも、忘れてしまえば良いのか。
だけど、どっちを選んだとしても、間違えているような気がしてならなかった。もう、わけが分からなかった。
窓に反射している自分の顔が見えて、僕は一気にカーテンを閉め切って、下を向いてしまう。
とても、情けない顔をしていた。僕は大きく深呼吸をして、手の力を緩め、近くにあった水をいっきに飲み干した。カーテンがしわくちゃになっていた。
薄く夕日が差し込んでくる天井を見上げながら、そっと瞼を落とす。
僕はカメラを手に取り、電源を入れた。
彼女のお願いを、叶えるために。
満開だった桜の面影はもう、あまり残っていない。
雨が降ってしまったせいだった。桜の花と葉が散りぢりになって、しんなりしていて、アスファルトにたくさん寝そべっている。
大学の授業が終わって外に出てみると、曇り空から薄っすらと夕日が差していた。暖かくなってきて、ジャケット一枚を羽織るだけでちょうど良いくらい。
蓮と待ち合わせをしていて、入り口で待っていると、数分して「お待たせ」と時間ぴったりに来た。
大学の大通りには桜の木があって、僕たちはその真ん中を歩いていた。新入生がサークルの勧誘を受けていて、そんな時期もあったな、と誘いを全て断った僕は思った。
蓮は新入生なんかに目も呉れず、じっと桜に目を凝らしていた。
「今年の桜は、短かったな」
「まあ雨だったし、しょうがないね」
桜をしり目に歩いていると、「そうだ」と急に蓮は振り向いてきて、僕は立ち止まってしまった。
「桜餅、買ってこうぜ」
「どうして?」
首を傾げてしまうと、蓮は小さく笑みを浮かべ、緑が生え始めている桜の木に目を据えた。
「母さん、桜餅好きだから、春にはいつも買ってってんだよ」
「そっか。でも、食べすぎは良くないよ」
「なんで?」
僕は桜の木の下まで行ってしゃがみ、桜の葉を拾って蓮に渡した。
「桜の葉にはクマリン、っていう毒があるからね」
「マジかよ」
慌てたように投げ捨てていて、僕はつい噴き出してしまう。鋭い目つきでこっちを見てきて、僕は咳払いをして桜の木の下に指をさした。
「本当だよ。ほら、桜の木の下にはあまり雑草が生えてないでしょ? それも、クマリンっていう毒のせいなんだよ。でも触っても大丈夫だし、桜餅も食べ過ぎなきゃ大丈夫だから」
「螢って、無駄なこと詳しいよな」
「一言余計だよ」
そう文句を言えば、蓮はからからと笑う。僕もつられて笑ってしまうけど、口下がうまく上がってくれなかった。少し、ぎこちなくなっている気がした。
それは、一つの懸念があったから。
「念のため、菫さんには食べさせないようにね」
「まあ、そうだな。念のためにな」
蓮は桜の木に目を澄まし、襟足をいじる。でもすぐにまたおおげさに笑って、あいかわらず太陽みたいなやつだと思った。
「今日も、来るだろ?」
「……うん、菫さんに会いにね」
少し間が開いてしまうけど、なんとか頷いて笑みを浮かべることができた。それを見て蓮はいっそう唇の端を上げて、先を歩いていく。僕はほっとしたい気持ちを心の内に潜ませ、あとを追いかけた。
南寄りの風が、頬を掠めていく。花の香りがどの季節よりも強くて、町の色もそこはかとなく明るくなっている気がする。
春は始まりみたいな、そんな風潮がある。
始めたり、変われたり、なにかときっかけにしやすい、そんな季節。
だから、春を待ち望んでいる人は多いのかもしれない。
でも今の僕には、大学三年生になったことも、成人したことも、どうでも良いような気がした。
春と夏の間には、梅雨が待っている。
春一番が僕の中に吹き抜けて、隠そうとしているものをぶり返してくる。
左右に首を振って、まだ大丈夫だと、そう心で繰り返す。
夏の思い出も、きっと映せる。
梅雨で、終わったりなんかしない。
レンズ越しで見ている僕には、とてもそんなふうに思えないから。
菫さんの家に着くと出迎えてくれたのは、菫さんのお母さんと蓮のお父さん、花(はな)さんと輝(ひかる)さんだった。
今年の春から、結婚はまだしないけど、四人でいっしょに住むことになったのだと、菫さんから聞いた。
しかも意外なことに、蓮が率先して仲直りさせようとがんばっていたらしい。
ちらりと、蓮のことを見ると目が合った。
「なんだよ」
「良かったね、仲直りできて」
僕は前にいる二人を見ながら、つい口角を上げてしまうと、蓮はぼんやりと同じところを眺める。「まあな」とくすりと笑って、横目で目配せしてきた。
「菫さん、すごく喜んでたよ?」
蓮はすっと視線を逸らし、うなじにかかる襟足に触れた。
「あっそ」
そんなふうにぶっきらぼうに言う蓮だけど、その頬はほんのりと赤く染まり、目じりは山なりに円を描いていた。
こういう始まりがあるんだと思うと、春も悪くないなって思える。
それに、春が梅雨の前で良かった。
もし梅雨が春の後だったら、この光景を菫さんは見ることができなかったかもしれないから。
まだ菫さんが目を覚ますまで時間はあって、僕と蓮はリビングでコーヒーとお菓子を食べていた。そこには、花さんと輝さんもいた。
「ありがとうね、いつも来てくれて」
「いえ、来たくて来てるだけなので」
「良かったわね、蓮。良い友達ができて」
「うるさいよ、母さん」
二人のやり取りに、僕はつい笑ってしまう。すると花さんはこっちを向き、ニコリと微笑んだ。菫さんの笑顔は、母親譲りなんだろうと思った。
「これからも、いつでも遊びに来て良いからね?」
「……はい」
僕は少しだけ間を開けてしまって、それから、なんとか笑顔になることができた。
花さんは別に、なにか意味を込めて言ったわけじゃないんだろうけど、いっしゅん、頭を掠めてしまった。
梅雨を越えた、夏のことを言っているんじゃないかって。
「螢くん、菫がもう来て良いって」
花さんにそう言われ、僕たちはリビングを後にした。菫さんの部屋の前に着くと、蓮は「んじゃ」と手をひらひらとさせて、自分の部屋のほうへ歩いていく。
「前から思ってたんだけど、蓮は来ないの?」
肩を掴んで言うと、蓮は浅く息を吐いて横に首を振った。
「俺は良いよ。姉さんの顔なんて、もう見飽きたしな」
蓮はそう言って自分の部屋に入ると、つい、僕は頬を掻いて下を向いていた。
たぶん、気を使ってくれているんだろう。
僕にとっては嬉しいことでもあるんだけど、家族の時間を奪っているんじゃないかって、たまに感じてしまう。
左右に強く、首を振った。無理やりにでも、指で唇の端を引っ張り上げてから、両頬を軽く叩く。変な顔で、菫さんに会うわけにはいかない。
ドアを開けると、菫さんはベッドの上で座っていた。
去年も着ていた真っ白なワンピースを着ていて、手にはカンカン帽を抱えていた。僕はいつも通り、近くの椅子に座る。机の上にはもう、お菓子とコーヒーが準備されていた。僕はブラックで、菫さんはカフェオレだった。
それと菫さんは毎回、しっかりとメイクをしている。
「前から思ってたんですけど、メイクするのめちゃくちゃ速いですね」
「まあ、そうだね。ほんとに簡単にしかしてないけど」
「無理しなくても、大丈夫ですよ?」
そう言ったのは、メイクしなくても、菫さんは絶対にきれいだと思うから。本当に好きな人だったら、みんなそう感じるんじゃないかな。
彼女の手を握ると、擦るようにして握り返してくれた。
「ううん、良いの。螢くんの前では、少しでもきれいでいたいから」
首を振ってから上目遣いで見て、菫さんは目を細めて笑わせた。
僕はつい、頬を掻いてしまった。顔もどことなく痒いし、熱を出したときみたいに火照ってくるし。
そんなふうに思ってくれることが、男として、素直に嬉しいのかもしれない。
それから、菫さんとはいろんなことを話した。蓮は意外と真面目に勉強していることや、最近ハマっている曲のことなど、他愛無いこと。
「これね、お母さんの手作りなんだよ?」
クッキーを食べていると、菫さんは口角を上げて言った。僕はおもわずじっくりと眺めてしまった。どこかのデパートに売っていそうなくらい、きれいな見た目で、加えてとてもおいしかったからだ。
「すごいですね。ちょっと高めのクッキーかと思ってました」
「螢くんは、料理としないの?」
「そうですね、あまりしないです」
そっか、と菫さんはチョコクッキーを頬張る。僕も取ろうとすると、チョコばっかり減っていることに気づく。
本当に好きなんだな、チョコ。
小さく笑み零してしまうと、菫さんは。
「いつか、食べてみたいな」
そう、零れ落ちるクッキーの破片みたいに小さな声で呟いた。
「考えておきます」
クッキーを食べながら言うと、菫さんがにっこり笑うのが視界の端に見えた。僕も、つい口角を上げていた。
いつか、と言っていた。
それはたぶん、これから先のことを差していて、彼女が前向きである証拠でもあるんだと思う。つまり、今日の菫さんは体の調子が良いということで、僕はひとまず安心していた。
ちらりと、壁にかけてある時計を菫さんは見た。
いつの間にか時計の長い針は一周していて、いつの間にか、窓の奥も夕焼け色に染まり切って薄暗くなっていた。もう、菫さんの眠るときまで迫ってきていた。
菫さんはカフェオレを飲み干し、足を組んでカップを置く。するとなぜか、真っ直ぐな眼差しで僕の目を見てきた。
「大学、しっかり通ってる?」
つい体を強張らせて、視線を逸らしてしまう。
「はい、毎日通ってますよ」
菫さんはじっと見据えてきて、喉を鳴らしてしまった。心の中を探られているみたいだった。口元を緩めて「そっか」と菫さんは言って、僕のバックを指さした。
「写真はなにか新しいの撮った?」
「そうですね、それなりには撮ってますよ」
僕は電源を入れ、プレビューを開いた。この前に撮った雨の町並みと、大学に咲いている満開の桜。
いろいろ見せていくと、菫さんは欠伸をした。そろそろ限界なようすで、寝るよう促すと彼女はベッドの中に入る。
そして、水をすくうみたいにそっと手を握った。
「螢くん、おやすみ」
「おやすみなさい、菫さん」
きゅっと優しく力を込めると、菫さんは目をとろんと細めて瞼を落とした。
しばらく、僕はそのままでいた。頭を撫でても反応はなくて、彼女はぐっすりと眠っていた。気持ちが高ぶって、おもわず抱きしめたくもなるけど、どうにか頭と手に触れるだけで抑え込んでいた。
いつも、こうして眠るまで側にいる。
これは最近、菫さんから頼まれたことだった。旅行に行ったあの日、菫さんは僕が隣にいてくれて、普段よりも深く眠ることができたらしい。だから別に、僕にやましい気持ちがあったわけじゃない。まあどっちにしろ、そこまでの勇気なんて僕にはないだろうけど。
目にかかっている前髪を横に流してあげると、彼女の頬がちょっと緩んだ。
好きだなって、こういうとき思ってしまう。
彼女だったら、いつまでも見ていられる気がしたけど、そんなわけにはいかない。
守らなくちゃいけない約束があるから、僕はカメラを取り出して電源を入れた。
いつもと違う、メモリーカードに差し替える
そして、僕はあるものを撮った。
みんな、傘もってるなぁ。
レジで仕事をしていながら、なんとなくそんなことを思った。
たしか明日から梅雨入りで、夜になると雨が降るとお天気お姉さんが言っていたから、僕もビニール傘は持ってきていた。
今日はバイトが終わったあと、菫さんと会う約束をしている。
といっても、今日も変わらず会うのは家だから、関係のないことだった。泉場公園ではもう、四か月ほど待ち合わせをしていない。
あのころが、すごく懐かしく感じる。
でもそれは最早、しょうがないことだった。
彼女にこれ以上、負担をかけるわけにはいかないのだから。
一通り客が落ち着いてレジを離れようとしたら、店長に声をかけられた。申し訳なさそうに、後頭部を掻いていた。
「螢くん、少し相談があるんだけど、来週の金曜日とか午後から入れたりしない?」
「すみません、その日は予定があって」
「そっかそっか。じゃあしょうがないね」
僕は会釈をして仕事に戻ろうとするけど、店長は「そういえば」と前置きをした。
「螢くんってシフトあまり入ってないけど、さいきん忙しいの?」
「まあ、そうですね。もう三年生なんで」
「そっかー。無理はしないようにね」
店長はにっこりと笑って、僕はお辞儀をしてその場を後にした。
淡々と本を陳列していると、センター試験対策の問題集を見つける。
高校生のころに使っていたのと同じやつで、大学受験が一番つらかったな。そんなふうに思って苦笑いしてしまう。
けど、目を落としてため息を零してしまう。握ってしわをつけてしまう前に、元の位置に戻す。
あんな苦労して入った大学も、今ではサボりがちになっている。バイトに入っていないのも、本当は大学が忙しいからじゃなかった。
菫さんに会うことを、なによりも最優先にしていた。
大学もバイトも、べつに今じゃなくたってできることで、卒業さえできればなんだって良かった。今の僕に、そこまで熱意を持てるようなことなんて、そこにはないんだから。
彼女はもう、外にすら出られなくなってしまっている。
ということはつまり、時間はあまり残されていないのかもしてない。
彼女との時間を大切にしたい。
今の僕には、それしかなかった。
だから、決めていた。
夕方は菫さんに、全てを注ぐと。
それが僕にできる、最善のことだと思うから。
菫さんの家に着くと、花さんが出迎えてくれた。
輝さんは仕事で、蓮は大学の講義があるから今日はいないようだった。花さんも元々は仕事をしていたけど、菫さんのこともあってか、いっしょに住むのを機に退職したらしい。
「菫、まだ寝てるけど、入る?」
そう、にこにこと笑っていた。
けど、以前よりも白髪と皺が増えているのは、おそらく気のせいではなかった。目元も、少しだけ腫れていた。
僕は頬を掻き、ゆっくりと頷く。
「はい、できれば」
花さんはにこりと笑って、彼女の部屋に入れてくれた。きれいに掃除されていて、石鹸っぽい良い香りがする。
僕はベッドの側まで椅子を持っていって、音を立てて起こしてしまわないように座る。手を包んで、彼女のことを見つめる。
寝返りを打ったのか、長い黒髪が顔にかかっていて、鬱陶しそうだから退けてあげる。毛先まで手入れされていて、さらさらで艶があり、顔にも薄くだけどメイクが施されていた。
おそらく花さんがしているんだろう。
おそらく、もう自分ではメイクができないのかもしれない。
そんなふうにしていれば、菫さんは目を覚ました。
肩を叩いて声をかける。目をしょぼつかせていて、僕に気づくと柔らかく目じりを垂れさせた。つい、笑みを零してしまった。
「螢くん、できれば起きてから来てほしいんだけど」
笑って誤魔化していると、彼女は唇を尖らせてからふふっと笑った。
菫さんは起き上がろうとしていて、僕は体を支えてあげた。起き上がれば、運動した後みたいに小さく息を吐いた。
「お茶、取ってもらって良い?」
僕は頷いて、机の上にあるペットボトルを取ろうとした。
けど、体を強張らせてしまう。
そこには紫色の花柄が入ったポーチがあって、大量の薬がむき出しになっていた。いつも、ペットボトルとセットにして置いてある。
何度も見ているはずなのに、慣れてくれない。
僕は見ないふりをしてペットボトルを取り、彼女に渡す。お茶を飲むと、菫さんは笑顔を向けた。
「今日は、どんな写真を見せてくれるの?」
カメラを指さしながら彼女は言って、僕は「そうですね」と言ってカメラの電源を入れた。
過去に撮ってきた写真を見せていく。今日は、高校時代に撮った写真たちだった。写真を見せながら、そのころの思い出を話すことが、一連の流れになっていた。
こうなったのは、春を越えたくらいのときだった。
今では、もう、菫さんは一時間も起きていられなくて、だから話せるのは、たった一つや二つだけだった。
それなのに、どうして写真のことなんて話したいんだろう。
分からないけど、菫さんが望んでいるなら、ただ従うだけだった。
菫さんに楽しく過ごしてもらうのが、一番だから。
どんな写真だったか話しているけど、僕はぜんぜん違うことを考えてしまう。ぼんやりと、写真に目を据えていると。
「もし、高校生のときとか、もっと早く会えてたらって、思うときがあるんです」
気づけば、そんなことをぼやいていた。ハッとなって、ゆっくりと彼女のほうを見遣ると、きょとんと目を丸くしていた。僕の指先に触れると、徐に口元を笑わせた。
「高校生のときの螢くんを見ても、今の螢くんとは違うふうに見えていたと思うの。
あのときに出会えたから、今の私たちがあるんだよ」
「そう、ですかね」
首筋を掻きつつ、首を傾げてしまう。菫さんは、子どもみたいに大きく頷いた。
「会うべきときに、私たちは会えたんじゃないかな?」
じっと写真を見つめて、満面の笑みで菫さんは言葉を紡いだ。
それなのに僕は苦く笑ってしまって、とっさにカメラのディスプレイに目を落とす。彼女にこんな顔を見せるわけにはいかないから。
気づけば、菫さんは眠たそうに目を瞬かせていた。僕はゆっくり体を倒してあげて、布団をかけてあげる。
このまま、眠るのかな。
そう思っていたけど、彼女は瞼を閉ざすことなく、じいっと僕のほうに目を据えてきた。
「大学、ちゃんと通ってる?」
「はい、毎日通ってます」
「写真も、撮ってるんだよね?」
「はい、とりあえず」
「うん、なら良かった」
菫さんは頬を緩めて、僕のほうに寝返りを打つ。けど、中々彼女は眠ろうとしなかった。
「寝なくて、良いんですか?」
「うん、もう少しだけ」
菫さんはそう言って、僕の服の裾を引っ張った。
「こっちに、来て?」
でも、目を合わせてはくれなくて、僕は固まってしまった。
こっちに来て、とは少し体を寄せれば良いんだろうか。
ひとまず椅子を近づけてみる。睨むように目を細めてきて、僕は頬を掻いて眉を顰めてしまった。間違っていることは確かなんだけど、いったいどうすれば良いのかは分からない。
そんな僕を見かねたのか、菫さんはふうっと息を吐いて、ぐいっと、僕の腕を力強く引っ張った。
菫さんの体の上に、覆いかぶさってしまった。
なにが起こっているのか、わけが分からなくて、また動けなかった。とにかく急いで退こうとするけど、彼女は腕にめいっぱい力を入れてきて、離してくれなかった。
正直、振りほどけないこともなかった。
でも、彼女が望んでいることだと諦めて、彼女を抱きしめることにした。どこもかしこも柔らかくて、彼女の良い匂いがして、僕よりほんのり温かくて。
ここにいるよ。
そう、伝えてくるみたいだった。
「温かいね、螢くん」と、笑うような声が耳元でした。
「菫さんのほうが、ずっと温かいですよ」
いつまでもそうしていると、寝息が聞こえてきた。彼女はいつの間にか眠っていて、僕はまた椅子に座って、彼女の手をそっと握った。
その手に、つい力が入ってしまった。
菫さんの目じりから、一筋の涙が流れていた。
約束を果たして、彼女の家を出る。彼女と出会った、泉場公園に向かった。ベンチに座って、彼女を撮った写真を見返していく。
どれも笑っている写真ばかりで、写真を撮っていないときだって、彼女はずっと笑っていた。
けれど眠るとき、たまに泣いてしまうときがある。
眠るのが、怖いのかな。
もっと早く会っていれば、彼女は泣かずに済んだんだろうか。
『会うべきときに会えた』と菫さんは言ってくれたけど、どうしてもそんなことを何回だって考えたてしまう。今さら、意味なんてないのに。
とたんに、雨が降ってきた。周りの音をすべて包んでしまうような、強い雨脚だった。
梅雨が、もう目前だった。
そういえば、傘がないことに気づく。菫さんに会いたくて急いでいたせいか、バイト先に忘れて置きっぱなしだった。
濃い灰色の曇り空を仰ぎ、手だけを差し出す。瞬く間に、びしょびしょに濡れていって、手を引っ込める。濡れている場所に、すうっと指をなぞっていく。
また、上を見上げた。
弱まるまで、待つべきなんだろうな。
けど、僕の足は雨の中へと向かっていた。
雨の冷たさが、今はなんだか心地良い気がした。
それに、ふと思った。
なにもかも洗い流すには、ちょうど良かったのかもしれない。
微睡みの中、ずっと梅雨の音が鳴いていた。
耳元で流れているみたいに不快で、おもわず瞼を起こし、枕元にあるスマホを取ってイヤフォンを差す。あいみょんの『マリーゴールド』を流して、僕は天井を見上げた。
ずぶ濡れになって帰った次の日、僕は季節外れの風邪にかかってしまった。まるでバチでも当たったみたいで、むしろ、今後の笑い話にでもなりそうだと思った。
ただ、一つ気がかりなのが、菫さんのことだった。
いちおう連絡はしてあるけど、最低でも、あと四日くらいは会いに行くことができない。もちろん菫さんがくることも無理なわけで、会える時間が減ってしまった。
菫さん、今どうしているだろうか。
といっても、僕と会えなくても、大丈夫そうだとは思っていた。
でも、そのほうが良いのかもね。
楽しみの一つであるくらいのほうが、僕には気が楽かもしてないから。
寝返りを打って、大きく息を吐く。熱のせいで頭がぼうっとして、色々考えてしまって、そのせいでいっそうくらくらする。ひどく、悪循環だった。
『麦わらの、帽子の君が揺れたマリーゴールドに似てる』
そう歌詞が流れて、菫さんの姿が頭に浮かんでくる。
会いたいなぁ、菫さんに。
あなたの笑顔が、たまらなく恋しい。
なんだか、体調とかどうでも良くなってきた。
体を起こしてベッドから出ようとしたけど、予想以上に体は重いし、めまいはするしで、床に倒れ込んでしまう。
なんで、風邪なんか引いたんだろう。雨の中を走らなければ、こんなことにはならなかったのに。
床がひんやりしている。
気持ち良くて、かくかくと瞼が落ちていくけど、僕はぶんぶんと頭を振った。
こんなところで、寝るわけにはいかない。
菫さんに、会いに行かないと。
でも、一歩も動けなくなってしまった。
気づけば、死んだように眠っていた。
「螢くん」
僕のことを呼ぶ声が聞こえてくる。
母さんだろうか。
でもそれにしては濁ったような声ではなくて、純水のように透き通った、きれいなアルトの声だった。
それに僕の部屋では感じられない、石鹸のような香りがする。
瞼を開ければ、真っ白なワンピースにかかる長い黒髪と、僕よりも一回りも小さい顔が見えた。ほんのり赤みがかった白い肌に、くりっとした大きな瞳が二つ浮かんでいた。
僕が映り込んでしまうくらい、まっさらな瞳だった。
おもわず、飛びのいてしまった。
幻でも、見ているんだろうか。
それとも、まだ夢の中なのだろうか。
僕の目の前にいたのは、まぎれもなく菫さんだったからだ。
「螢くん、大丈夫?」
「いや、だいぶおかしいかもしれないです」
頬をつねって、ついでにビンタしてから言うと、「これなら大丈夫そうだね」とくすくす声を漏らしていた。
花咲くような笑顔と、頬の痛みで、菫さんだと確信した。
体を起こしてみる。まだ体はだるいけど、ぼうっとする感じは少しマシになっていた。菫さんと会えたからだろうか。そうだとしたら、菫さんはもう僕にとっては天使なのかもしれない。いや、実際もう天使であることは間違いないんだけど。
いや、今はそんなことどうだって良い。
「どうして、ここにいるんですか?」
「それは、心配だったからだよ。螢くんなら、這いつくばってでも会いに来そうだからね」
僕の頭をポンポンとしてから、そっと頬に触れた。ちょっとひんやりとしていて、気持ち良かった。
否定はできなくて口を閉ざしてしまうと、菫さんは僕の手を握りながら、どうやって来たか話してくれた。
どうやら、輝さんに車で送ってもらったらしい。
よく首を縦に振ってくれたものだと思った。最初は反対されていたらしいけど、菫さんが日にちを跨いでまで、どうにかこうにか説得したらしい。
僕はつい、笑ってしまった。
けどそれはほんの一瞬で、服に皺ができるくらい胸を握ってしまう。
ずきずきと、内側が痛んだ。
菫さんの顔を見ることができなくて、いつまでも彼女の足元に目を凝らしてしまう。きれいで、人形みたいに細い足だった。
こんなに細い足で来てもらったんだと思うと、とても情けなかった。
彼女はもうあまり動けなくて、それでも無理をしちゃう人だって、一年を通して知ったはずなのに、ここまで来させてしまって。
本当になにをやっているんだろう、僕は。
唇を噛みしめてしまう。湯が沸くみたいに体が熱くなって、頭がぼんやりとして、視界がぼやけていく。
頬になにかが伝って、気づけば。
「菫さん、帰ったほうが良いんじゃないですか?」
そんなことを口にしていた。「どうして?」と菫さんは首を傾げていて、僕もはっとなって口元を押さえてしまう。
なにを言っているんだろう。
僕のために来てくれたのに、失礼にもほどがある。
そんなことは、分かっているんだと思う。
だけどぼうっとして、ぜんぜん頭が回らなくて、片隅に浮かんでいるちょっとした嫌なところが、いように大きくなっていた。
上っ面の僕が、外に追いやられていく。
「菫さん、自分がどんな状況か分かってるんですか?」
口を丸くしてから、菫さんはなにかを言おうとした。でも、ゆっくりと口を閉ざして目を手元に落とす。
こんなこと、言うつもりなんてなかった。
それでも、止まってはくれなかった。
「菫さんは、いなくなっちゃうんですか?」
彼女は、困ったように眉を垂れさせる。
「まだ、いなくならないよ?」
僕の手を握った。
暖かくて、柔らかくて、愛おしくて、張り裂けそうでたまらない。
その手を、胸の中で抱きしめる。
「でも、すぐ、じゃないですか。もう、梅雨に、なっちゃったんです」
鼻が詰まっているからか、声がうまく出ない。
「でもね、もしかしたら夏かもしれないし、冬かもしれないし、一年後の梅雨かもしれないよ?」
菫さんは微笑みながら、もう片方の手で、頭を優しく撫でてくれた。
花畑の上で眠っているみたいに、とても心が安らぐ。
そのはずなのに、視界がいっそうブレて、嗚咽が激しくなっていく。
ますます、積み重ねてきた隠し事が崩れ落ちていく。
「もう、嫌なんですよ。菫さんがいなくなることを、考えなきゃいけない、今が」
僕は布団を引き剥がし、壁を殴りつける。手の甲が濡れて、ヒリヒリしていた。何度も何度もくりかえして、気づけば手の甲に痛みを感じなくなってくる。
すると、目の前が真っ暗になった。
とても柔らかくて、好きな匂いに包まれて、僕の体よりもずっとずっと暖かくて。
熱があるだけの僕なんかより、菫さんのほうが比べものにならないくらい辛いはずなのに。
叫びたいのは、彼女のはずなのに。
僕に触れているところは、どこもかしこも優しかった。
「どうして、いなくなっちゃうんですか」
胸の中で声を籠らせる。
菫さんは、繰り返し頭を撫でてくれた。
「ごめんね」
「菫さん、僕の前からいなくならないでください」
「うん」
「ずっと、いっしょにいたいです」
「うん」
「家事も、仕事も、ぜんぶ僕がしますから」
「螢くんなら、できちゃいそうだね」
ふふっと笑って、僕の頬に触れて、頬をすり寄せた。
菫さんの肌に、吐息に、熱に、心を揺さぶられる。
首筋まで、涙が流れていく。
嗚咽が、溢れ出てくる。
好きだなって、何回だって思ってしまう。
会ったときから、今も、きっとこれからも。
「菫さん、大好きです。僕だけの花に、なってくれませんか?」
好きが花開いて、積っていくんだろう。
菫さんの肩が強張るのを感じた。
腕の力が抜けたかと思えば、今までないくらいの力で抱きしめてくる。
僕は彼女を抱き寄せて、ベッドの中にまで引き込む。
横に並んで、傍から見たら恋人のように、すき間を埋めるように抱き合う。
そして彼女は、囁くように言った。
「ありがと」
たった、それだけだった。
まるで軽やかに風を受け流す、一凛の花のようだった。
でも、しょうがないとも思った。
伝えられただけで、十分なのかもしれない。
そう、頭の中で繰り返して、納得させたはずなのに。
大声を出して、泣いてしまった。
嘘だった。
ぜんぜん、良くなんかない。
本当は、好きだと言ってほしかった。
ずっといっしょにいたいと、言ってほしかった。
好きで、好きで、大好きだ。
僕はずっと泣いていて、菫さんはいつまでも抱きしめていてくれた。
いつまでも、こうしていたかった。
でもいつの間にか、僕は泣き疲れて眠ってしまった。
その瞬間、聞き間違いかもしれないけど。
ごめんね、と言っていた気がした。
枯れてしまった花びらのような、とても掠れた声だった。
目覚めると、菫さんは横で眠っていた。
そこで、あのまま寝てしまっていたことに気づいた。
昨日のことが今さらのようにぶり返してきて、恥ずかしさでいっぱいだった。彼女が眠ってくれていて、初めて良かったと思った。
平熱まで下がっていて、体のだるさもどこにもなかった。今さらだけど体臭が気になってきて、寝ている隙に僕は風呂に入り、身だしなみを整えておく。
夕方までまあまあ時間もあるし、なにかご飯でも作ろうかな。
菫さんも、食べてみたいと言っていたことだから、きっと喜んでくれるはずだ。
体にも良さそうで食べやすい、雑炊でも作ろう。一度だけ作ったことはあって、だいたい覚えてはいるけど、念のためそのときに見たネットを開く。
昆布とかつお節でだしを取っている間に、えりんぎ、舞茸、大根、人参、白菜を細かく切っていく。
だし汁に野菜を入れて煮込み、その間にご飯を流水で洗う。そうすることで、ご飯がさらっとしておいしくなるらしい。
それから味付けに醤油と塩を加え、溶いた卵を回し入れて完成。
一応、味見をしてみる。
普段はあまり料理をしないから心配だったけど、ちゃんとだしの味が染みていておいしかった。
菫さんが目覚めるまで、カメラでも磨きながら待つことにした。
つい、鼻歌をしてしまう。
喜んでくれるだろうか。
その瞬間を撮るのが、楽しみでしょうがない。
ずっとそわそわして、にやにやしながら、菫さんの側に座って待った。
夕方になったけど、まだ起きる様子はなかった。
前よりも、起きる時間が遅くなったのだろうか。ご飯が汁を吸ってしまいそうだけど、念のためだし汁はよぶんに用意してあるから、足せば良いだけ。
彼女の頬に触れ、笑顔を浮かべてしまう。
起きるのを、待つだけだった。
でも、夜になっても菫さんは起きなかった。
こういうふうに起きない日も、たまにあるんだろうか。
蓮に聞こうと思って、スマホを手に持つ。
けど、そっと机の上に戻した。
明日になれば、きっと起きてくるだろう。
雑炊だって、また作り直せば良いだけだから、なんの問題もない。
朝になった。
けっきょく一睡もできなかったけど、不思議と目は冴えていた。
おそらく、彼女がどんな反応をするか楽しみで、眠れなかったんだと思った。
また僕は夕方になる前に、雑炊を作った。数をこなしたおかげか、昨日よりも手際もよく、味も整っているような気がした。
ベッドの側に座って、頭をそっと撫でる。
僕が料理を作ったって知ったら、彼女はどんな表情をするんだろう。
やっぱりまず、僕が作ったことを疑うだろうか。
それとも、満面の笑みではしゃいでくれるだろうか。
そのときは、絶対に写真に収めよう。
どんな表情の菫さんも、僕にとってはどれも宝物だ。
僕は彼女の手を握り、額を当てる。熱を分けるように、しっかりと包み込む。
「早く、目を開けてください」
それだけを、僕は思い続けた。
だけど、夜になっても目を覚まさなかった。
僕は膝に肘をついて項垂れて、眉間にしわを寄せてしまう。つい、歯ぎしりをたててしまう。
うすうす、感じていた。
菫さんはもう、僕へ笑いかけてくれないことなんて。
それでも、諦めない。
この手を離すことなんて、できるわけなかった。
まだ彼女は暖かくて、石鹸の匂いがして、どこをどう見ても、ただ眠っているようにしか見えなかった。
彼女はまだ、ここにいる。
夜が深くなっても、僕は手を握りながら、じっと、祈るように俯いていた。
ずっとぼうっとしていて、菫さんとの思い出ばかりが、走馬灯のように流れ込んでくる。
とても鮮やかに思い出せて、もしかして一度寝て目を覚ましたら、明日の夕方には起きてくるんじゃないかとさえ感じていた。
彼女の顔にかかった髪を、そっと除ける。
頬はほんのりと赤く染まっていて、唇は潤んでいて、僕よりもずっとずっと温かかくて、いつもの寝顔と、なに一つ変わらない。
それなのに、どうして。
本当に、もう、あの笑顔は見られないんだろうか。
だれでも良い、嘘だと言ってほしかった。
でも、しょうがないことだったんだろう。
いつかこのときが来るって知っていても、いっしょに過ごすと決めたんだから。
僕はゆっくりと、指先まで伝わせて手を離す。
花びらが散るように、彼女の熱が抜けていった。
目の前が、ぼやけていく。
唇を、きゅっと噛みしめて、抑え込む。
とにかく、蓮に伝えなきゃいけない。
そして、謝らなくちゃいけない。
菫さんをしばらく、独り占めしていたことを。
もう一度、菫さんの顔に目を澄ます。
いつまでも、頭を撫でてしまう。
止めどなく、頬が濡れていく。
また改めて、想わされる。
本当に、好きなんだなって。
どうして、菫さんが植物病なんだろう。
彼女じゃなくちゃいけないのかな。
そんな理由、どこにもないじゃないか。
いっそのこと、彼女を蝕んでいる毒を、僕に移せたら良いのに。
菫さんのいない世界なんて、少しも想像もできない、したくない。
だから目を覚ましてよ、菫さん。
気づけば、僕は彼女の頬に手を据えて、ゆっくりと顔を近づけて、目を閉じて。
――頬にそっと、唇を触れさせていた。
目を丸くして、とっさに距離を取っていた。
僕は今、キス、したんだろうか。
自分でも信じられなくて、呆然としてしまった。
死んだ人が口づけで目を覚ますという、白雪姫という童話があった。
もしかして……いや、そんなはずないか。そもそも、そんなことでどうにかなったら、苦労なんてしないんだから。
僕は近くにあった椅子を蹴り飛ばした。
すると、なにか白い袋に当たって、中身が出てくる。
そこには、ウィダー㏌ゼリーとスポーツドリンクがあった。
菫さんが、僕のために持ってきてくれたんだろうか。
だけど、僕はおもわず声を出して笑ってしまった。
たしかにゼリーは食べやすくて、体調が悪い人にはうってつけなんだけど、まさかプロテインのゼリーを持ってくるなんて思わなかった。ヨーグルトだから、選んでしまったのかな。そうだとしたら、とんでもない天然だった。
でも、胸が張り裂けそうなくらい嬉しかった。
そして、意味とか、そういうことじゃないのかもしれないって、今ごろになって気づくことができた。
大好きな彼女のために、なにかをせずにはいられなかった。
ただ、それだけだったんだと思う。
そっと彼女の頭を撫でて、蓮に電話をしようとした。
けど、おもわずスマホを落として、立ち尽くしてしまう。一歩ずつたじろいで、壁にもたれかかってしまう。
なにが起きているのか、理解できなかった。
彼女の瞼が、かすかに震えていた。
そして、ゆっくりと開いていく。
「菫さん」
飛びつくように、彼女の下に駆け寄る。
彼女はじいっとこっちを見てから、少しの間そのままでいた。
徐に目を細めて、唇の端を上げた。
「螢、くん」
僕は抱きしめた。
「苦しい」と聞こえても構わず、体の中に入れようとしているくらい、ぎゅっと抱きしめ続けた。
「ごめんね、螢くん」
細い声で言って、腕を背中に回してくれた。
弱いけど、すごく力強かった。
「どうして、謝るんですか」
「だってもう……ね? 写真、がんばってね」
本当に、申し訳なさそうに目を落としているのが横目に見える。
どうして、菫さんはこんなにも強いんだろう。
こんなときでさえ、僕のことなんか考えている。
いつも聞いてくるけど、写真なんて、どうだって良いじゃないか。
でも思えば、彼女はずっとそうだったのかもしれない。
相手のことばかり考えて、自分のことなんて後回し。
不器用な人だなって、どんくさい僕のくせに思ってしまう。
だからこそ、恋をしてしまった。
そんな彼女に言われたいのは、ごめん、なんかじゃない。
僕は腕の力を緩めて、体を離す。左右に首を振り、彼女の肩を掴んで、くりっとした大きな瞳を見据えた。
「だったら、他の言葉が良いです」
一度口を開いてから、飲み込むように口を閉ざして、告げた。
「ありがとうって、言ってほしいです」
ある言葉は、押し込むことができた。
けれど、目から溢れ出てくるものは、我慢することができなかった。
菫さんは、ふふっと小さく笑った。
僕の唇の端に、ゆっくり指を添えた。僕より一回りも細い指は、とても震えていた。それでもぐいっと、無理やり引っ張ってきた。
「私は、あなたの花になれたかな?」
目頭が熱くなってきて、喉に力を込めて押し込む。それからにいっと唇を広げて、目を細めた。
そして、大げさかなってくらい僕は笑った。
控えめだけど、精一杯、彼女は目を細めて笑った。
ひらひらと風にそよぐ花びらのように、彼女は首を傾けた。
「ありがと」
彼女の瞳は、本当に笑っているように見えた。
そして、花びらが舞い散るみたいに、ひらりと瞼を落とす。
いくら声をかけても目を覚まさなくて、もう、二度と奇跡は起こらないんだって、なんとなく悟ってしまった。
それでも零れ落ちそうになるものを必死に堪えて、僕はカメラを取り出して、彼女をレンズ越しに覗く。
彼女との、最後の約束を守らなくてはいけない。
ピントを合わせて、シャッターを切ろうとするけど、雨にけぶるみたいにぼやけて、なにも見えなかった。
手も、小刻みに震えていた。
カメラの故障なんかじゃなかった。
彼女が起きている間は、たぶん、僕は笑えていたと思う。
とはいえ、そろそろ限界なのかもしれない。
目にある水たまりが、一気に溢れ出してしまう。
もう、泣いても良いよね、菫さん。
ぼんやりと、レンズ越しに見えていた。
最後の最後に、菫さんはまるで。
すみれの花を咲かせるみたいに、愛おしく笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます