第四章・あだ花
私、哀川菫は病院の待ち合い場所で座っていた。
今日は水曜日だから、先生に診察してもらう日だった。
あたりを見渡せば、いつもより人が多くて、待ち時間もすでに倍くらい過ぎていた。私は本を読んでいると、となりで蓮が欠伸をしているのが目に入る。
「今日は結構混んでるね」
「そうだな。暇だから、姉さんの本貸してよ」
「いつも借りてくるけど、自分で持ってこないの?」
「やだよ。荷物増えるし」
私は少し睨んでから、ため息交じりに本を渡すと、蓮は「さんきゅ」とだけ言ってそそくさと読み始めた。私はもう一度息を吐き、本に目を据える。いちいち気にしていたら、切りがない。
そんなにだるかったら、来なくても良いのに。
そんなふうに毎回思ったりもしている私だけど、一度たりとも口にすることはなかった。それを言っちゃいけないことくらい、私にも分かっている。
病院には、かなり慣れている。
十年くらい通っているから、当たり前なのかな。
それでも、気の置ける誰かがいっしょにいてくれると、なんだか心強い気はするものだった。
だから、蓮には感謝している。
ぜったいに、本人には言わないけど。
私の名前が呼ばれて、診察室に足を踏み入れる。
入るとまず目につくのは、青いカーネーション。透明な細長い花瓶に入れて、机に飾られていた。
白衣のボタンをしっかりと留めて着ていて、さらさらな茶髪を後ろでまとめる女性が、私を担当してくれている美(み)里(さと)さん。彼女はここに初めて来たときからの付き合いで、かれこれ長いことお世話になっている先生だった。
美里さんはじっと手元にあるファイルに目を据えてから、徐にこっちを見上げると、うっすらと口角を上げていた。
「レントゲン見たけど、あまり変化はないから大丈夫よ」
「そうですか」
私はぼんやりとレントゲンを見ながら、いつも通りの返事をする。ほっとしていいのか、落ち込んでいいのか、よく分からないからこう言うしかなかった。
でも今すぐどうこうならないなら、とりあえず一安心なのかもしれない。
「菫ちゃん、なんか変わったわね。それも、良い方向に」
「えっ、そうですか?」
首を傾げてしまうと、美里さんはにいっと唇の端をさらに上げる。
「螢くんっていう子と会うようになってから、表情が明るくなったもの」
頬に触れてみるけど、また首を傾げてしまう。いつもといっしょのような気がして、変わったといえば、少し肌が乾燥してきたくらい。
美里さんのほうを見遣ると、柔らかく目を細めて私の頭を撫でてきた。成人してからも子ども扱いしてくるのは、なぜか変わらない。
彼女はカーネーションに目を向け、そっと花弁に触れた。
青い花を飾っているのは、たしか、患者さんに少しでも落ち着いてもらうためだと言っていたのを思い出した。
「美里さんって落ち着いてるから、青い花がよく似合いますよね」
花に目を据えていると、ついそんな言葉が零れていた。落ち着いた雰囲気や、柔らかい大人な物腰は、とても板についていると思うから。
美里さんはぱっと手を離して、もう片方の手を握った。首を傾げてしまうと、苦笑いをしてこっちを向いた。
「青い花を飾っているのはね、私のためでもあるのよ」
「どういうことですか?」
彼女は目を落として、自分の指を撫でる。少しだけ、乾燥している指だった。でもそれは仕事を頑張っているからだと、私は知っている。
こんなこと怒られるから絶対に美里さんの前では言わないけど、私は美里さんの手のほうが羨ましかった。
私の手は、なにもしていないからきれいなだけ。
だから、自分の手があまりすきではなかった。
だけど美里さんは、私の手を見て、「いつ見てもきれいな手ね」と微笑む。でもそこに悪気がないのは分かっているから、私はいつも「でしょ?」と笑うことができた。
「菫ちゃんみたいに肌がすべすべだったころは、こう見えてかなりのあがり症だったのよ? それをどうにかしたくて、青い花を飾ってみたの。最初は気休めのつもりだったんだけど、触ってると、意外とこれが落ち着くのよね」
言葉じりを弱くして、美里さんはまたカーネーションに触れた。私は少し、呆然としてしまった。美里さんにもそんな時期があったなんて、想像もできない。
美里さんはこっちに目を澄まし、頬杖をついた。
「今だから、思うのよ。人って、なにかに縋ってるぐらいがちょうど良いのかなって」
にいっと口元を小さく笑わせて、また私の頭をぽんぽんと叩いた。私は俯いたまま黙ってしまった。
それから数十分の簡単なカウンセリングを受けて、私は診察室を出た。薬をもらってから待合所に行けば、蓮は私の本をぽいっと横に置いてスマホをいじっていた。
「お待たせ」
「おう。んじゃ、行こっか」
蓮はこっちをちらりと見てから、仏頂面で先を歩いていき、私は追いかけてとなりに並んだ。
今日の行先は、ここら辺で少し話題になっているカフェ。
私たちは毎週水曜日、会ってなにかをしようと決めていた。
これを提案してきたのは、蓮から。
思えば、私が退院したくらいのときだった。
とつぜん電話してきて、『カラオケ行こうぜ』と言ってきたことが始まりだった。今まで年に数回しか連絡を取ることなんてなかったから、本当にびっくりしたのを覚えている。
それからは、やりたいことを交互に決めている。
そういえば、どうしてあんなこと言ってきたんだろう。今さら気になって蓮に聞いてみると、ぷいっと目を逸らして前髪に触れた。
「さあ、なんとなく」
それだけを言ってポケットに手を突っ込み、「最近寒くなってきたな」なんて全く関係ない話しをしてきた。私がふふっと笑ってしまうと、蓮は睨んできた。でも、すぐに目元は柔らかく半円を描いていく。
蓮はすかしているように見えがちだけど、意外と分かりやすい。幼いころから、それだけはずっと変わらない。
植物病だと分かって、蓮は私と距離を取るようになった。
もしかしたら、どんなふうに関われば良いのか、分からなくなってしまったのかもしれない。私も、同じだったから。
本当は、私から歩み寄れば良かったんだろうけど、できなかった。
そのころの私は、中学生。
思春期真っ盛りで、そんな余裕はなかったんだと思う。
そのせいで、気づかないうちに素っ気なくなって、親の中は悪くなって、別居して、離婚して。
なにもかも私のせいだと、あのころは感じていた。
だけどもしかしたら、そのことに一番責任を感じていたのは私じゃなくて、蓮なんじゃないかって、今なら思う。
目的地であるカフェ、『リオン』に着く。
ドアを開けるとカランカランっとベルが鳴って、四角いテーブル席に案内される。コーヒーを二つと、キャラメルクリームパンケーキを注文した。
「そういえばさ、父さんが今度の土曜日にバーベキューしたいって言ってんだけど、行くよな?」
「うん、行く。お母さんにも伝えとくね」
「りょーかい」と蓮はスマホをいじり出した。お父さんに連絡しているんだろうな。
鼻歌を口ずさみながら、私もLINEでお母さんに報告した。休憩中だったのか、すぐに既読がついて、ぜったいに使いかたを間違えているスタンプが送られてきた。ふふっと噴き出してしまった。
でも一年前までは、こんなふうに楽し気なスタンプを送ってくることはなくて、いつも業務連絡みたいな返事が来ていた。
それに、まだ住んでいる場所は別々だけど、家族いっしょに過ごす時間が多くなった。
そう思えば、ちゃくちゃくと良い方向に進んでいて、復縁も、時間の問題なんじゃないだろうか。
梅雨が来る前に、そうなってほしい。
私がいる今なら、まだ、やり直せる可能性はあるし、これが最後の親孝行なのかなって、考えているから。
ウェイターが来て、頼んだものが並べられる。
クリームで覆われた真っ白なパンケーキに、キャラメルソースが良い見た目のアクセントになっている。とたんに甘い香りに包まれて、見ているだけでも楽しめる。
そこで私は、パンっと手の平を叩いていた。
「そうだ、写真撮って螢くんにも見せてあげよ」
「仲良さそうだな」
「まあね」
「もうキスくらいした?」
「するわけないでしょ、蓮じゃあるまいし」
睨みつけると、「冗談だし」と言って蓮はコーヒーを飲み、足を組んだ。欠伸をして頬杖をつき、すかしたように鼻で笑った。
「まあ、とにかく、楽しくやれてるんだったら良かったよ」
それからすぐに、蓮はスマホに目を落とす。そこで私はくすりと失笑して、唇の片端を上げてしまう。
「なに、螢くん取られて寂しいの?」
「そういうことじゃねーよ、気持ち悪い」
そう言いながらも蓮の口角はいつまでも上がっていて、私もつられて小さく笑ってしまった。
再び会うようになってから、螢くんとの関わりかたはちょっとだけ変わった。
前までは写真を撮る、ということしかしていなかった。
けど今は、例えばカフェに行ってただおしゃべりをしたり、近場で買い物をしたり、いっしょに映画鑑賞をしたりと、他のこともするようになった。
普通に、なんでもないことなのかもしれない。
けど私にとっては、もっと螢くんに近づけたような気がして嬉しかった。
食べ終えて店を出ると、すっかり日は沈みかけていて、街並みはどこまでも茜色に染まっていた。
「明日は、螢と会うんだよな?」
「そうだよ」
「そっか。螢に変なことすんなよ?」
にやにやしてきて、少し強めにどつく。
「そうだ、蓮もくれば良いんじゃない? 螢くんも喜ぶと思うし」
「良いよ、邪魔しちゃ悪いし」
「螢くんはそんなこと、思わないと思うけどね」
転がっている小石をこつんと蹴って言うと、蓮は一度こっちに目を遣ってから、小さくため息を零す。
「二人の時間、みたいなものがあんじゃないの?」
うなじの髪をクシャっとして、空を仰いで目を細めた。たぶん、眩しいからだけじゃないと思う。
「そっか」
それだけを言った。
そこに続けるべき言葉があるんだろうけど、今さら言うような関係でもない気がした。十年くらい前なら、考えもしなかったと思う。
それでも螢くんなら言うんだろうなって、そんなふうに思い浮かべると、つい顔が綻んでしまった。
家に帰るけど、電気はどこもついていなかった。なにも言わないまま、奥のほうにある私の部屋に入っていく。ぱちっと電機をつける音が嫌に響いたけど、もう慣れてしまったからあまり気にならない。
離婚してから、お母さんは仕事場に復帰した。
それから帰っても家にだれもいないのは当たり前で、いつの間にか、「ただいま」も言わなくなっていた。
部屋に戻って、『植物病』と書かれた袋から薬を取り出し、順番通りにひたすら飲んでいく。たくさんありすぎて、どれになんの効力があるかなんて、とっくのとうに忘れてしまった。それなのに、どれをどのタイミングで飲めば良いかは分かっているんだから、不思議だなって思う。
空気が悪いから窓を開けた。
少し身を乗り出せば、絹を裂くような風音が立ち、つい「さむ」って声を漏らして身を縮こませてしまう。
それでも空は暖かそうで、ところどころ濃さが違くて、水彩絵の具で描いたみたいだった。
どんどん、日の出ている時間が短くなっている。
枯れ葉が舞い落ちるのを見て、私はため息を零してしまう。
もう、冬なんだよね。
どうしてこんなに時間って、あっという間なんだろう。
そう、あっという間。
私があんなふうに枯れて、ひらりひらりと散ってしまうのも。
だからか、ときどき思ってしまう。
美里さんや両親、蓮。
そして、螢くんに。
このまま、頼りっぱなしで、良いのかなって。
美里さんは「なにかに縋っているくらいがちょうど良い」って言っていた。たしかに、そうだとは思う。螢くんや家族がいなきゃ、ここまで生活できなかっただろうから。
けど、なにもかも貰ってばかりの私は、そこに含まれない気がする。
私は、だれかに与えることはできない。
だから、つつましく過ごそうと決めていた。海外に行きたいとか、色んなお店をめぐりたいとか、そんなわがままは言わない。
それに私は今、とても充実している。
たまに過ごす、家族団らんもそうだけど。
螢くんとの新鮮な時間が、今は一番楽しかった。
そろそろ眠気が限界だし、風呂にでも入ろうかな。
立ち上がって部屋を出ようとすると、机の上でスマホが鳴った。だるくなってきた体に力を入れて、よっこいしょと取りに行く。
お母さんかな。
そう思って少し気だるげに見たんだけど、ついスマホを両手で握って、画面に顔を近づけてしまう。
電話してきたのは、螢くんだった。
彼が連絡してくるときはだいたいLINEで、アポなしで電話してくることなんて、まずないのに。
急に、なんのようなんだろう。
深呼吸をして、指を震わせながらもおそるおそる繋げる。
『どうしたの、螢くん』
『いや、さっき大学の講義終わったんですけど、今から会えますか?』
『うん、大丈夫、少しなら』
『今どこにいますか?』
『家だよ』
『じゃあ、待っててください。今から向かうので』
電話が切れると、私は一目散に立ち上がって、部屋の掃除を始めた。場所は、私の部屋だけに絞る。きっと螢くんは早歩きで来るだろうから、リビングまで手を伸ばすのは、時間的に無理そう。
体のだるさなんて、いつの間にか忘れていた。
窓辺を指で擦って、小姑並みにほこりをチェックしていると、インターフォンがなった。玄関まで行き、呼吸を整えて開ける。
「こんにちは、螢くん。どうしたの急に?」
「じつは、少し相談したいことがあって」
螢くんは頬を掻きながら目線を落としていて、とりあえず中に入れる。様子を見るにすぐには終わらなさそうで、急いで掃除したかいがあった。
部屋で待ってもらい、お茶を持っていく。お礼を言って螢くんは一口飲んで、息を吐くと、コップに視線を落としたまま口を開いた。
「菫さんって、海、好きですか?」
「えっ、うん、まあ、どちらかというと」
とうとつな質問に、つい口ごもってしまう。
「冬の海って良くないですか? 空気がぼやけて、夏よりぜったいきれいですよ」
「どうしたの、螢くん?」
窓の外を見据えながら淡々と言ってきて、おもわず螢くんの肩を揺らしてしまった。すると螢くんは頬を掻き、私の目を見つめる。
まるで、カメラを覗いているときみたい真剣な眼差しだった。
「いっしょに、海に行きたくないですか? それも、泊りがけで」
固まって、「えっ」と声を漏らしてしまった。
いったい、なにを言っているんだろう。
たしかに行きたいけど、それを私に行ったところで意味なんてない。そういうのは、きっと他の人と行ったほうが楽しいに決まっている。
そうだ、蓮を誘えば良いんだよ。
それを伝えようとするけど、すっと、私にスマホを見せてくる。
ホテルのホームページが映っていて、そこには海が一望できるホテルの一室の画像があった。
でも、どんな表情をしたら良いか分からなくて、顔を上げる。
そこには夕焼け色に頬を染めた、少し照れたような笑みが待っていた。
「菫さん、今度、旅行に行きませんか?」
空いた口が塞がらなかった。下を向いて、胸にかかる髪の毛先をいじっていた。きゅっと、きつく掴んでしまう。
旅行、私が?
そんなの、無理に決まっている。
たった数時間しか起きていられない私に、そんな大掛かりなことができるはずがないのに。
どう答えたら良いのか分からなくて、いつまで経っても下を向いていると、螢くんは私の肩を優しく叩いた。
「大丈夫です、考えはあります」
螢くんはスマホをすらすらと操作していく。目配せを織り交ぜながら、丁寧に話してくれた。表情を汲み取ったのか、それとも元々準備していたのか、螢くんにしては珍しく余裕のある行動だった。
関東県内に絞って、穴場スポットを調べてくれていた。移動にあまり時間を取られないためにも、そうしたらしい。
写真越しでも底が見えるくらい、透き通った青い海だった。水平線が、きらきらと星屑みたいに眩しかった。
じっさいに見たら、どれだけきれいなんだろう。
今はもう薄っすらとしか覚えていない、潮風や冷たい海を思い浮かべて、つい、子どもみたいに期待を膨らませてしまう。
けどそれといっしょに、とうとつな眠気が襲ってくる。瞼が落ちそうになるのを、ぐっと堪える。螢くんがいる前で、眠るわけにはいかない。
それでも私の中に流れている毒が、つたで締めつけるようにゆっくりと体の自由を奪っていく。
まるで、現実を突きつけてくるようだった。
左右に首を振り、私はどうにか笑顔を作ってスマホを押し返した。
「私にはむりだよ。じっと、花びらが散るのを待つしかないんだよ」
そっと、瞼を落とした。目のふちが熱くなってきて、零れ落ちてしまいそうだったから。
それと自分自身、なにを言っているのか分からなくなっていた。いつも通り、それとなく受け流してしまえば良いだけだった。行けたら良いね、ってこの先があるみたいに誤魔化せば丸く収まるんだから。
こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。
眠くて仕方がなくて、頭があまり回ってくれない。
ぜんぶ、ぜんぶ、植物病のせいだ。
どうして、私なんだろう。
でもそれを含めて、今の私だった。
十年ほど経った今、それをどうこう言うつもりなんてない。
「だから」
「菫さん」
螢くんは言葉を遮るように、私の唇に、そっと人差し指を重ねた。その視線の先には、私を見つめて微笑む、螢くんがいた。
「菫さんのおかげなんです。写真を撮る楽しさを、思い出せたのは。だから僕は、菫さんのためになにかしたいんです」
目を何度か瞬きしてしまうと、彼は口から手を離し、私と目を合わせたまま手を握ってきた。
その手は、少しばかり震えている気がした。
「ぜったい、楽しくしてみせます。僕を、信じてくれませんか?」
私はゆっくり頷いた。
けど、ずっと下を向いていた。
口の中で転がしている綿あめみたいに、顔が綻んでいくのが止まってくれなくて、手で顔を覆ってしまう。顔を上げることなんて、できるはずもなかった。
無理だと思いつつ、密かに行きたいとは思っていた。そのことに気づいてくれていた、ということもあるけど、それが一番ではなかった。
私はずっと支えられてきた。
病院の方たちや学校の先生と同級生たち、家族。
そして、螢くん。
本当に、いろいろな人たちに。
それなのに家族を壊して、隠しごとをして螢くんを傷つけて、助かりもしないのに迷惑ばかりかけ続けて。
本当に、どうしようもないのに。
それでも螢くんは、私のおかげだと言ってくれている。
こんなことを言われたのは今までなくて、私はどんな顔で螢くんを見れば良いんだろう。
だれかのためになること。
こんなこと、だれかにとってはすごく些細なことなんだと思う。
でも、私にはなにより特別なことなのかもしれない。
だって、こんなにも胸が張り裂けそうな気持ちになったのは、生まれて初めてだったから。
「菫さん」
なぜかティッシュを差し出してきた。
見上げると螢くんの眉は垂れ下がって、じっと私を心配そうに見据えていた。首を傾げてしまうと、螢くんは頬の当たりにティッシュを当てた。
見てみると、濡れていた。
泣いてるんだ、私。
「大丈夫、ですか?」
螢くんは、ぽんぽんと涙を拭ってくれた。
自覚したからなのか、どんどん視界がぼやけていく。きゅっと服の裾を握り、私は首を縦に振って彼を見つめたら、あっという間に笑顔なっていた。
「螢くん、ありがとう」
固まっていた螢くんだけど、少ししたらいっしょに笑ってくれた。そのあと私は、また涙が溢れ出てしまった。
螢くんが帰ってしまうと、とたんに眠くなってくる。なんだか、今日はいつもよりぐっすり寝られる気がした。
布団に入っても中々寝つけなくて、気絶してしまうことが多かった。
だけど螢くんのことを思っているうちに、いつの間にかちゃんと眠れる日が多くなっていた。理由は分からないけど、螢くんを思い出したり写真を見たりしていると、なんだか心が穏やかになることは確かだった。
一時期会わなくなったときから、いつの間にか、螢くんは私の中で大きくなっていた。
気づけば、思い浮かべるのは彼のことばかりになっていた。
それといっしょに、不安でいっぱいだった、ずっと。
写真のために、一緒にいるんじゃないかって。
でもそうじゃないんだって、さっき、螢くんは教えてくれた。だから涙が出てしまったのは、たぶん、そういうことなんだと思う。
さっきの「ありがとう」には、本当は続きがある。
だけど零れ落ちる前に、ぎゅっと心の奥深くに押し込めていた。
限りないくらい積もっていくけど、ぜったいに口にしてはいけない。
散っていくだけの、実を結ばない花。
あだ花にはふさわしくない、そんな言葉だった。
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