第三章・枝を矯めて花を散らす

 色のない、秋の風が首筋をなぞる。

 ぴゅおっ、と風が顔を吹き抜け、服の裾が後ろになびいていた。冷たく乾いた風で、もう、夏の気配はどこにも残っていない。そろそろ、厚手のアウターがないと厳しいなと、二の腕を擦りながら思った。

 白露だろうか。

 視界が澄んで見えて、やけにすっきりしていた。だからなのかは分からないけど、いつもの道のりなのに、あのころより遠く感じていた。

 今日、大学さぼろうかな。

 眠いし、さむいし、なによりだるいし。あの真夏よりはぜんぜん過ごしやすくなってきたのに、このごろ、そんなふうに思ってしまうことが多くなった。

 とはいえ、そんなことする勇気なんて、僕には備わっていないけど。

 家の最寄り駅に向かうには、商店街を真っ直ぐ突っ切るのがもっとも近い道のりだった。

『花の商店街』というのが、ここの名前。

 どの店も破格の安さだということで、僕の母親を含め、マダムの間では密かに有名だったりもする。

 そのせいで、朝っぱらからうるさいったらありゃしない。

 それでも僕は大学生になった今も、そんな商店街を通り道にしている。たぶんそんな雰囲気も、嫌いじゃないのかもしれない。

 歩いているとフミさんが見えて、僕はそこに向けて小さく会釈をすれば、フミさんがこっちを見て顔中にしわを作った。

「この前はありがとうねぇ。写真を撮ってくれて」

 フミさんは本当に嬉しそうに笑って、僕の手を握った。しわしわな手だけど、なんだかずっと触っていたくなる手だった。

 この前、フミさんに頼まれて写真を撮った。

 たしか、最近生まれたばかりのお孫さんとの写真だった。ほっぺがまんじゅうみたいで柔らかくて、思い出すとまた触りたくなってくる。

 こんなふうに時々、商店街の人からお願いされることがある。そのときにはお駄賃をもらったり、なにかものをくれたりと、こっちも得はしていた。

 でもそれ差し引いても、写真を撮るのは楽しくて、良い経験にもなる。

 だから毎回、喜んで引き受けていた。

 僕は笑みを浮かべて、「いえいえ」と左右に手を振ると、なぜかフミさんは僕の顔をじっと見てから小首を傾げた。

「螢ちゃん、ちゃんとご飯食べてるかい? 顔が細くなってる気がするねぇ」

「そう、ですかね」

 僕はつい目を逸らしてしまい、それを誤魔化すように、袖のボタンを着け直したふりをした。

 するとフミさんは目じりにしわを作り、買い物バックの中からチョコを一個取り出して僕にくれた。今日はキットカットだった。

「甘いものでも食べて、頑張っておいで?」

 フミさんは何本かしか生えていない歯を見せて、大きく笑った。

 きゅっきゅっ、と僕の手を握った。

 自然と、顔が綻んでしまう。

 フミさんの優しさが、微かに熱を伝って流れ込んでくるみたいだった。

 いつもこんなふうにしてお菓子をくれて、笑顔で声をかけてくれる。だからか日課みたいなものになっていて、気づかなかった。

 いつも通りって、こんなにも暖かいものだったなんて。

 僕は頷き、すぐにチョコを食べていると、フミさんはいちだんと皺を濃くしていた。

 それが今できる、せめてもの恩返しだと思った。

「そういえば、お願いがあるんだけどねぇ」

 そう言って、フミさんはらくらくフォンを取り出し、写真を見せてきた。

 映っていたのは、フミさんがずっと育てている花壇だった。

 どうやら、それを僕に撮ってほしいとのこと。とうぜん引き受けると、お駄賃としてご飯をごちそうしてくれることになった。

 フミさんは料理上手だから、いっそうその日が楽しみになった。

 精肉店の正雄さん、花屋さんの池田さん、主婦の田中さんと挨拶をかわしつつ、商店街を抜けた。

 外に出ると、さっきまで喋りっぱなしだったせいか、とたんに静かになった気がする。中にいたときには聞こえなかった秋風が、とつじょ耳に押し寄せてくる。

 ちらりと振り返れば、僕はおもわず足を止めていた。

 小さな商店街だな、と改めて見ると感じる。

 それでも小学生の僕には、とても大きく映っていたんだろう。色々なものが売っていて、にぎやかで、活気がキラキラして星屑みたいで。

 まるでテーマパークに行くような、そんな気分だったのかな。

 だから毎日のように、母さんの買い物についていった。そのおかげか今もこうして、商店街にいる多くの人と仲良くさせてもらっている。

 商店街に行くのは、色々おすそ分けしてくれるということもあるけど、それ以外にも、面白いし、なにかと気にかけてくれるし。

 いるだけで元気をもらえるような、そんな商店街。

 今もこうして大学をさぼらずにいられるのは、『花の商店街』のおかげなのかもしれない。



 大学の講義が終わるのに合わせて、声が飛び交い始める教室。さっきまであんなにダルそうな顔をしていたのが、まるで嘘みたいに大きな声で笑っている。

 そんな中で、僕はもくもくと片づけをしていた。

 さっさと帰ってしまおう。

 そう思っていたのだけど、だれかに肩を叩かれる。話しかけてくるのなんて、たった一人しか浮かばない。

 振り返ると、なにかが頬に突き刺さった。

「螢、ほんと素直すぎ」

 こうして忘れたころにちょうど合わせて、蓮はなにかといたずらをしてくる。その度に文句を言いながらも、最後にはぜったいに笑っていたと思う。

 前までは、たしか。

「そうだね」

 けど、僕は口元だけを緩めていた。たぶん、だれが見ても分かるくらい、ぎこちない作り笑いだったと思う。

 それから僕は、もくもくと荷物を片付けていく。

 でも一定のテンポで、ゆっくり進める。

 僕が先に帰ろうとしたら、蓮はついてくるかもしれない。だから、蓮が飽きて帰るのを待っていた。

 けどそんな気持ちとは裏腹に、蓮は机に寄りかかり、なぜか笑顔を浮かべた。

「もう、真っ暗だな」

 蓮は窓の外に目を据えていて、僕もつられて横目で見てしまう。

 いつの間にか、窓から見える景色は黒く塗りつぶされていた。街灯と車のライトで、ちらほら怪しげに黄色くなっている。

 夜になるの、こんなに早かったっけ。

 毎週のようにこの時間には講義が入っていて、その度に窓の外は目に入っていたはずなのに、そんなことを思ってしまう。

 秋だから、夏より早いのは当たり前なのに。

 毎日が退屈で、一秒一秒が長く感じる。それなのに、一日なにをしていたのか分からない時だってある。

 今の僕は、どこか空っぽなのかもしれない。

 気づけば、ここには蓮と僕だけになっていた。

 お互い、無言でスマホをいじっていて、そんな中、廊下からは笑い声がときおり聞こえてくる。僕はそのたびに蓮のほうを一瞥してしまう。何回か、蓮からの視線も感じていた。

「今日、バイト?」

「いや、違うよ」

「そっか」

 蓮はそれだけを答えて、またスマホに視線を落とした。それを確認して、僕も同じようにスマホをいじる。

 気まずい。

 会話の糸口を探しているみたいな空間に、息が詰まりそう。

 でもそんなふうになってしまったのは、思えば当たり前なのかもしれない。

 僕が蓮のことを避けて、会う時間も話す時間もすごく減っていって。

 どんなふうに笑っていたか、忘れてしまった。

 そんなの前みたいに、くだらないことを気軽に話せなくなってしまうのには、十分すぎる理由に思えた。

 こんなふうになってしまったのは、まぎれもなく僕が原因。

 それなのに蓮は、毎日のように声をかけてくる。

 僕からしたら、意味が分からなかった。

 そんなことを聞くわけにもいかないから、こんなふうに探っていて、霧の中にでもいるみたいだ。

 でも、蓮の答えなんて、どうだって良いのかもしれない。

 こんな関係をさっさと終わらせてしまいたいと、そんなことばかり考えているんだから。

「なあ、螢」

「なに?」

 応えるけど、僕はスマホにずっと視線を向けていた。オフラインでもできる無料のゲームを、ひたすら進めていく。

 どうせ、この場を繋ぎだろうから。

 ゲームを進めていくけど、ぜんぜん記録が伸びない。だけど、あまりイライラしたりはしなかった。

 それは、蓮を横目で見てしまうから。

 どうして、急に黙り出したんだろう。顎に指を添えたり、ちらちらと僕のほうを見たり、窓の外を見たりと、落ち着きがない。

「蓮、どうしたの?」

 おもわず聞いてしまう。

 普段の蓮なら、余計なことまでずばずば言うはず。それなのに、今はこんなにくよくよとしている。

 こんなの、蓮らしくない。

 そこまで言いにくいことなんだろうか。

 蓮は覚悟を決めたのか、浅く息を吐いて口を開く。

「なんか、あったのか?」

 蓮はもみあげに触れながら、どこか不安気に眉を顰めて言った。僕は目を丸くしてしまってから、視線を落としていた。頬を掻いてしまい、背中の辺りから変な汗がじんわりと出てくる。

 気づいたんだろうか、菫さんと会っていたことに。

「どうして?」

「最近、変だなって」

 蓮が視線を逸らしていくのが、ぼんやりと目の端で見えた。

 どうしよう。どう答えれば良いんだろう。そんなふうに頭の中がぐるぐる混乱してきて、ひとまず、口角を上げて、目を細めて蓮のほうを向いた。

「そうかな。僕は、普通だよ」

 するとこっちを横目で見てきて、目がじゃっかん大きく開いた。蓮は自分のうなじを手でなぞってから、下していく勢いのままに太ももを叩いて、音を響かせた。

「俺ら、さ……いや、そうだよな」

 蓮は細い声で言って、少しうなだれて、なんだか独り言みたいだった。だからどう答えて良いのかも分からなくて、固まってしまう。背を向けて大きく伸びをしてから、蓮はポケットに手を突っ込んで上を向いた。

「なにかあったら、言えよな」

 蓮は手をひらひらと振って、教室を出ていく。僕はその後を見ながら、ぼうっとしてしまった。廊下のざわざわとした人の気配と、効きすぎた暖房が、いっそうそうさせてくる。

 蓮は、気づいているのかな。

 もう、菫さんと会っていないことに。

 菫さんは植物病で、たぶん検査とか薬とかがあるから毎週水曜日に病院に行っていて、そこに蓮も付き添っているんだろう、おそらく。

 本当にお姉さん思いなんだな、蓮って。

 でもよくよく考えれば、蓮なんだから当たり前なのかもしれない。

 もしかして、蓮といたほうが、充実した日々を送れるんじゃないだろうか。

 植物病だと知ってから、ずっとそんな思いがちらついていた。

 だから、僕は彼女に会えなかった。

 けれど今は、それでよかったと思っている。

 たった数週間の思い出より、家族の思い出のほうがずっと大きいだろうから。



 家に着けば、僕は真っ先に部屋のベッドへ倒れ込んだ。

 自然と「疲れたー」とベッドに向かって吐き出していて、動く気力といっしょに体が沈んでいく。

 いろいろとやるべきことはあるんだけど、今は、もうなにもしたくない。だんだんと、瞼が落ちていく。

 けど「ご飯できるてるよー」と廊下のほうから大きい声が聞こえてきて、ぱっちりと瞼を押し上げられた。

 僕はベッドに息を吐きだして、リビングに行く。せっかく作ってくれているんだから、食べないわけにもいかない。

 今日はカレーのようで、流し込むように一気に食べる。

「ごちそうさま」

「おかわりは?」

「いいよ、やることあるし」

「螢、少し疲れてるんじゃない? 最近、バイトの回数も多そうだし」

「大丈夫だよ。ただ眠いだけ」

「なら良いんだけど、あんまり無理しちゃだめよ?」

 心配そうに目を細めていて、僕は口角を上げる。

「分かってる。大丈夫」

 そう言って、すぐにリビングを出る。風呂とか歯磨きとか、寝る準備を済ませてから部屋に戻った。

 課題を始める前に、机の上に置いてある一眼レフカメラを手に取る。

 ブロアーというレモンの形をしたやつを、スポイトを使うみたいに押して風を起こす。それで大きなほこりを飛ばし、クリーニングペーパーで拭き取っていく。

 そんなふうにして、全てのカメラを磨いた。

 いつも使っている一眼レフカメラだけではなく、ミラーレスカメラ、そしてデジタルカメラも。

 一つ一つのパーツが高価だから、ということもある。

 けど、一番の理由は別にあった。

 カメラを磨いていると、それで撮った写真を思い出すことができる。そのときの感情や天気といった、ちょっと細かいところまで。

 だからカメラ磨きを、夏休みのころからルーティンにしていた。

 それが終わってから、机と向き合って課題を始めた。

 でもぱたりとすぐに手を止めてしまい、椅子に浅くもたれかかって見上げる。できもしないペン回しを始めしながら、天井に目を凝らしていた。

 掃除をさぼっているのが分かるくらい、天井がほこりっぽい。僕はフローリング用のワイパーを手に取ろうとしたけど、すんぜんで止めた。 

 こんなことをしている場合じゃない、早くやらなきゃ。

 そう言い聞かせ、また椅子に座る。

 だけど、どうにもやる気が湧かなかった。

 気分転換にでもゲームがしたくて、高校時代にちょびっと使ったきりだったNintendo Switchを探してみる。たしか、百均のセリアで買った白い収納ケースに入っていたはず。

 でも僕が手に取ったのはSwitchでも、PS Vitaでもなく。

 菫さんの写真が記録されている、SDカードだった。

 それを見つめて、近くにあるごみ箱に放ろうとした。

 けど一歩手間で踏み止まり、課題が表示されていたパソコンの画面を消す。深く息を吐き、そっとSDカードを差す。

 なんとなく、写真を見返すことにした。もしかしたら、彼女と関係のない写真も入っているかもしれない。そうだとしたら、とてももったいない。

 けれど、これを僕に見る資格があるのかな。

 なにも言わずに、勝手に離れてしまったのに。

 そんなことが脳裏をちらつくけど、すぐに左右に首を振った。

 これは、ただ確認をするだけ。

 別に、彼女に未練があるわけじゃない。

 そう心に言い聞かせて、力強くダブルクリックしてデータを開く。

 最初に出てきたのは、公園の写真。

 それから、まだ名前のない白猫。

 最近見かけないけど、やっぱりきれいな青い瞳をしている。くりっと丸くて、白目が埋まってしまいそうなくらい大きい。

 ブルーモーメントを見つめた、彼女の瞳によく似ている気がして、見比べてみる。でも、僕は頬を掻きながら、少しだけ笑ってしまった。

 想像以上に似ていなかった。

 とはいえ、多分、なんでも良かったんだと思う。

 どんなことだって彼女に結び付けてしまうような、そんな気がするから。

 気づけば、彼女にばかり目がいっている。

 彼女のことばかり思い出して、彼女をいつまでも思い浮かべていて、彼女でできているんじゃないかって、感じてしまうくらい。

 こんなんじゃ、ダメなのかもしれない。

 もう会わないと決めておきながら、いつまでも心の奥底では、あの夏の思い出が離れようとしてくれなくて。

 彼女への気持ちが、いつまで経っても咲き続けている。

 どうにかしなきゃいけない。

 でも、いったいどうしろっていうんだろうか。

 いつか彼女を忘れられるんだろうか、僕は。

 そんなことを、ずっと、繰り返し考え続けていた。



 空を見上げると目が痛くなるような、薄っすら明るい曇りの日。

 フミさんが育てている、花壇の写真を撮る約束をしていた。

 お駄賃である昼食は撮影後になっていて、僕は早めに朝食を済ませておいてフミさんの家へと向かった。

 フミさんの家は木造一階建てで、たまに街中で見かけるサザエさんの家みたいな形をしている。そこに、フミさんは一人で住んでいた。

 近くに住んでいる息子さんの家族がよく帰ってきてくれるらしく、あまり寂しい思いはしていないと、僕が高校生くらいのころに言っていたのを覚えている。

 でもそれは、フミさんの人柄のおかげでもあるんだろうと、今は感じる。

 家族だとしても、どんなに家が近かったとしても、好きな人じゃなければ頻繁に会おうとは思えないだろうから。

 スリッパを履き、最近フローリングを新しくしたという廊下をするすると歩いて、リビングに向かう。何回も来すぎているせいか、今履いている黒いチェックのスリッパは僕専用みたいなものだった。

 写真を撮る前、少しお茶をすることになっていた。これもいつものパターンで、僕の前にはすでにブラックコーヒーが置かれていた。

「いつもありがとうねぇ」

「大丈夫です。だいたいご飯ごちそうになってますし」

「そうかい? ならいいんだけどねぇ」

 呼吸を一つ吐くようにコーヒーを飲む。体の内側も、カップを握る手も、じんわりと温まっていく。

「螢ちゃん、大学は楽しいかい?」

 そんなことを急に聞かれ、僕は肩を強張らせてしまう。少しだけ冷めてきたコーヒーを飲み干し、すぐに笑みを取り繕う。

「はい、すごく楽しいです」

 そう答えるとフミさんは麦茶を一口飲んで、僕のほうを見つめ、じっとカップの中を覗いてから頬を緩ませる。

「……なら良いんだよぉ」とだけ言って、フミさんは空になった二つのコップを持っていった。

 なんか、少し間があったような……気のせいだろうか。

 たぶん、飲み込むのに時間がかかっただけかな。

 そんなふうにして、いつの間にか考えるのはやめていた。

 それから僕たちは、リビングの外から庭に出た。

 どんよりとした曇り空に出迎えられ、庭の土が若干だけど湿っている気もする。たしか、昨日の深夜に雨が降っていたと、天気予報でやっていた気がする。

 つい、笑みを零してしまう。

「良かったですね、今日曇ってて」

 無意識に出ていた言葉に、フミさんは眉を顰めていた。

 僕はスマホで曇っているときの花の写真と、晴れているときの花の写真を調べ、スクリーンショットしてフミさんに見せる。

「どっちのほうが、きれいだと思いますか?」

「曇っているほうかねぇ。でも、どうしてなんだい?」

「曇っているほうは光の当たり方が優しくなっていて、光の当たる強さが同じくらいになるんです。だから、雨のほうが簡単に、それにきれいに映りやすいんです」

 指を差しながら、できるだけ丁寧に説明していく。フミさんは首を縦に揺らしながら感心したように聞いていて、らくらくフォンのメモアプリに書き込んでいた。

「じゃあ、最初はきれいに撮っていきますね」

 まずは正面の斜め上あたりから撮って、それから角度や色味、明るさなどを変えていくことにした。思ったより水滴が反射してしまうからPLフィルターで取り除き、辛い角度のときはブレないように三脚を使う。

 風が止むのを待ち、シャッターを切る。

 コスモス、なでしこ、ミニバラ。色とりどりの風景を収めていく。良い写真ができても、僕は撮るのをやめない。

 選ぶのは僕ではなく、フミさんに確認してもらって決めている。

 あくまで僕ではなく、これはフミさんのための作品だから。

 そろそろ全部終わったかな、と大きく伸びをしていると、フミさんが奥からなにかを持ってきた。

「最後に、これをお願いできるかねぇ」

 そこにあったのは植木鉢に生えている、真っ赤な彼岸花だった。「へえ」とつい声が漏れてしまう。

「彼岸花って、あんまり育てるイメージなかったです」

「そうねぇ。死人花、って言われるくらいだもの」

「そうですね、毒もありますし」

 風が吹いて、彼岸花の花びらが一つ宙を舞った。その様子を見つめながら、フミさんは目じりに皺を浮かべて微笑む。

「でもわたしにとってはねぇ、彼岸花は生きがいでもあるのよ?」

 そして、また植木鉢に目を落とす。とたんに、今度は悲しそうに笑っているように見えて、僕は彼岸花に目を向ける。

 とても、しっかりと咲いていた。売り物とは違って荒々しさがあるけど、それよりもなんだかきれいだと、なんだか思えてしまった。

 なんて言ったら良いのか、分からなくなっていた。

 なにか、思い入れがあるのだろうか。

 そう思っていると、フミさんはこちらを見て笑顔になり、ぽんぽんっと叩いて縁側に座るよう促された。

 それからフミさんは昔の、第二次世界大戦のころの話をした。

 フミさんには、健一さんという旦那さんがいた。

 でも軍隊に入隊させられて、第二次世界大戦中に、惜しくも亡くなってしまったらしい。

「あの人はねぇ、大仏みたいに寡黙な、まさに男っていう人だったの。なのに、趣味は花を見るっていう、女の子みたいな人だったのよ? 変わってるわよねぇ」

 フミさんはくすくすと笑いながら言っていて、僕も頬が綻んでしまう。悪口を言っているようで、その言葉には、今も消えない恋心が見え隠れしている気がした。

 仲良しな夫婦だったんだろうな。そんなふうに、当時の写真を見ているみたいに伝わってくる気がした。

「だからね、花を見に行くのによく付き合ってあげてたのよぉ。それで最後にいっしょに見たのが、彼岸花だったわ。

 彼岸花は、親死ね子死ね、っていう別名もあるんだけど、どうしてか知っているかい?」

 僕はすぐに首を横に振った。たしかに彼岸花は、死、のイメージがあるけど、ここまでおそろしいものは聞いたことがなかった。

「彼岸花はね、花が咲いたあとに、葉が伸びてくるの。だからこれはねぇ、花と葉がお互いに殺し合ってそうなった、という理由で、こんな名前をつけられたと言われているらしいのよぉ」

 フミさんは、とても楽しそうに話していた。それは、たぶん。

「それは、旦那さんから聞いたんですか?」

 心の中で、旦那さんとの思い出に浸っているんではないかと思ったから。

 フミさんは、よりいっそう目を細めて頷く。

「私は、泣いてしまったのよ。あの人が次の日に死ぬのは、決まっていたから。たぶんあの人は話しながら、私の不安をどうにか紛らわそうとしてたんだと思うわ。でも、私にそんな余裕はもうなかったの。涙が、止まらなかったの。

 そのとき、あの人なにをしたと思う?」

「抱きしめた、とかですか?」

 ありきたりだけど、一番心が安らぐと思った。それに、僕ならそうすることしかできない気がする。

 でもフミさんは首を横に振り、目じりの皺を深くした。

「食べたのよ、彼岸花を」

 僕はおもわず固まって、首を傾げてしまった。まったくもって理解ができなかった。

 でも、一つ思った。

 彼岸花には、毒がある。

 まさか、亡くなったのって。

「大丈夫よぉ、けっきょくお腹壊しただけだから」

 僕の表情から汲み取ったのかフミさんは、はっはっはっと、体をうずくまらせるほど笑っていた。ほっとしつつも、僕もつられて笑ってしまう。

「そのときにねぇ、『彼岸花の葉っぱが伸びてきたら、またいっしょに見に来よう』って言ってくれたのよぉ、あの人。たぶん、精一杯の励ましだったんだろうねぇ」

 顔を赤くとろけさせていて、お孫さんが甘いチョコレートを食べているときにそっくりだと思った。

 まるで、若い頃のフミさんが目の前にいるのかと思わされるくらい、恋する乙女のような微笑みを浮かべていた。

 ずっと、笑っていたフミさん。

 そんなフミさんの顔から、ゆっくりと幕を下ろすみたいに笑みが閉じていく。過去から、フミさんが舞い戻ってくる。

 僕をちらりと見てから、彼岸花に目を落とす。

「そんなに大切な人でもねぇ、少しずつ思い出は抜け落ちていくものなの。

 たとえ私にとって、とこ花、のような人だったとしてもね」

 僕は首を傾げてしまう。

 とこ花って、なんだろう。

 なにかの、花の名前だろうか。

 気になったけど、今はあまり聞くに気になれなかった。そういう雰囲気じゃないじゃないのは、なんとなく感じていたから。

 フミさんは彼岸花をわが子のように撫でて、一つずつ言葉を紡いでいった。

 彼岸花を見ているけど、なんだか今ここにはいないように思えた。自分でもどういうことなのかは上手く表現できないけど、僕にはそう見える気がしていた。

 どうやら健一さんは人見知りが激しく、フミさんとでさえ、写真を撮ることを拒んでいたらしい。

 フミさんは一度家の中へと戻り、あるものを持ってきた。

 それはフミさんと健一さんと思われる、ツーショットの白黒写真だった。

 聞いた通り、健一さんはぶすっとした顔をしていて、それに比べてフミさんは今と変わらない、きれいな満面の笑みを浮かべている。

 愛し合っている、という言葉がしみじみと伝わってくる。

 そのフィルムを持っている白いニットの袖が濡れて、まだら模様になっていく。

「もっと撮っていれば、ねぇ」

 フミさんは息を吐くように言葉を零し、袖で目元を拭う。「年を取るとどうもいけないねぇ」、と微笑んでこっちを見た。僕も、なんとか唇の端を上げる。

「あの人が嫌がるだろうからって、言えなかった。それに、こんなふうに思うなんて、あのころは考えてもいなかったからねぇ」

 とたんに、真っ直ぐな目つきになって、僕は肩を強張らせてしまう。

 どうしてだろう、心がズキズキと痛む。

 まるで、自分のことみたいに。

「どうしたいのかしっかりと伝えることも、とても大切なの。自分のためにも、相手のためにもねぇ」

 フミさんは僕の手を強く、二回だけ握って、そっと離した。すんなりと言葉が馴染んできて、心の中に直で触れてくるみたいだった。

 離れてもしばらく、手はほんのりと暖かかった。

 それからの僕は、とにかく笑顔だったと思う。

 撮影を終えて、フミさんが作ってくれた煮物や焼き魚を食べながら、いろいろ話した。最近寒くなってきたとか、お孫さんのこととか。どういう話しをしたのかは、うっすらとだけ覚えている。

 でも、中身のことまではあまり思い出せない。

 なんだろう、そのときだけ夢にふけっていたみたいだった。

 食べ終えて、そろそろ良い時間だから帰ることを告げ、玄関に向かう。靴を履こうとすると、フミさんが靴ベラを刺してくれた。僕は履き終えて、振り返った。

 でも、頬を掻いて立ち尽くしてしまう。唇を糸で縫われてしまったみたいに、うまく口が開いてくれない。

 思い立ったのは良いものの、こんなことを聞くべきではないような気もしてきた。そんなふうに俯いていると、フミさんに肩を叩かれた。

 顔を上げれば、いつもの優しいフミさんの笑顔が待っていた。

「良いから、言ってごらん?」

 体の重りが、すっと抜け落ちていく。強張っていた唇を、何事もなかったかのように開くことができて。

 今の僕は、自然と笑えているのかもしれない。

「昔に戻れたら、フミさんは健一さんに写真を撮りたいと伝えますか?」

 最後に、どうしても聞いておきたかった。

 フミさんは目を丸くしてから、徐に目を細めて頷く。僕は頬を掻いて、また聞いた。

「断られたら、どうするんですか?」

「それなら、それで良いのよ」

「写真、撮れないのにですか?」

「それでも、あの人が本当に写真を撮りたくなかったことを、知ることができるじゃない」

 そう言ってフミさんは笑うけど、僕は目線を靴に落としてしまった。

 だったら知らないほうが、傷つかずに済むんじゃないだろうか。

 すると、フミさんの手が目の前に出てきた。

 そこにあったのは、いつもくれるチョコレートだった。

 お礼を言って受けてれば、フミさんは僕の肩を叩いて、瞳を見据えてきた。僕もおもわず、見つめ返してしまう。

「あの人がどうしたいかが、わたしにとっては一番大切なことだから」

 フミさんの瞼を細めて笑っていて、温かくて、真っ直ぐな瞳だった。本当にそう思っていることが、見えないなにかを通じて、僕に教えてくれるような気がした。

 僕はとっさに手を後ろに隠した。拳に力が入るのを感じていたから。大して隠すようなことではないんだとは思うけど、たぶん、男としての意地のようなものなのかもしれない。

 でも、思った。もしかしたら、そういうのがいけないんじゃないだろうかって。

 もう少し、むき出しになっても良いのかな。

 外に出ると、町並みは徐々に茜色へと近づいていた。立ち止まって、そこから零れるブルーモーメントを見つめていた。

 微かに、ペトリコールの香りがした。

 ちゃんと伝えて、相手がどうしたいのか知る。

 何十年も先輩のフミさんが言っているのだから、たぶん、正しいことなんだとは思う。

 けど、僕には無理だろうなとか、僕のことなんてなんとも思ってないだとか、そんな諦める理由ばかりが、ひっきりなしに僕の耳元で囁いてくる。

 それなのに、いつまで経っても。

 ふと浮かぶのは、花咲くような笑顔の彼女だった。

 頭の中はこんがらがって、子どもの部屋みたいにぐちゃぐちゃで。

 いったい、どうすれば正解なんだろうか。

 そんなことをいつまでも考えていた、僕だけど。

 とっくにもう、答えは出ているのかもしれない。

 今朝、早起きして整えた髪をぐしゃりとかき乱して、目一杯から両手を広げて、大きく深呼吸をした。

 それから、一気に走り出す。

 冷たい風をかき分け、肺が辛い物を食べたときみたいに痛んで、じんわりと、額や背中に汗が浮かんでいく。

 喉乾いた。さっさと帰って風呂入りたい。明日の課題、まだ終わってないや。

 あまり回らない頭で、ずっと考えていた。

 どうして、こんなことをしているんだろうって。

 ついに限界がきて、走れなくなってしまう。

 それでも、足を動かすことだけは絶対に止めなかった。

 今なら、まだ間に合うかもしれない。

 行っても、彼女がいないこともあり得る。

 というより、いない可能性のほうが十分高いと思う。

 たった数週間の付き合いで、それに二か月も会いに行かなかったんだから、当たり前だった。

 いなかったら、どうしよう。

 捨ててしまおうかな、彼女の映っている写真は、全て。

 それが、一番に思いついたことだった。

 少しくらいは、たぶん、マシにはなってくれるかな。

 その先はじっくりと時間をかけて、僕の中から失くしていけば良い。

 とにかく、会って確かめるしかなかった。

 すると、生暖かい風が背中から吹きぬけてくる。

 まるで夏の風がぶり返して、僕を後押してくれるみたいだった。

 僕はまた、走り出す。

 迷わないためにも、ひたすら前だけを向いていた。



 夜の帳が、もうすぐそこまで来ていた。

 でも、まだぎりぎり夕方だった。

 公園に着いた僕は、息を深く一つ吐いて、足を踏み入れる。

 街灯が眩しく遠くが見えなくて、彼女がいるかはまだ分からない。引き返してしまいたくなるけど、そんな足をひっぱたいて進んだ。

 光が、開けていく。

 道路の騒音に紛れるように心臓の音がどんどん大きくなって、手のひらに汗が溜まっていき、ライトで生まれた影に目がいってしまう。

 いなければ、楽なんだろうな。

 ここまで来ても、そんなふうに心が揺れてしまう。

 すると、「にゃー」という声がして、だれの鳴き声なのかはすぐに分かった。

「なんだ、君だったんだね」

 僕がしゃがむと近づいてきて、真っ白な毛並みに沿って撫でてあげる。僕の腕にすり寄ってくるものだから、つい頬を綻ばせてしまった。

 さっきまで張り詰めていたものが、口の中で飴を転がすみたいに溶けていく。

 最近会っていなかったから、存分に毛並みに浸っていると、ふと思うことがあった。

 そういえば、白猫と出くわすときは、いつだって彼女がいた。

 もしかして。

 ゆっくりと顔を上げて、いつも彼女と会っていたベンチのほうを見据えた。すると風が吹き抜けて、僕はおもわず瞼を下げてしまった。

 でも、うっすらと白いふわふわとしたものが見えた。

 そこから目を離さず、立ち止まりそうになる足を引っ張り上げて近づく。

 白のワンピースにクリーム色のもこもこしたカーディガン、それらが霞んでしまいそうなくらい真っ白な肌、そしてカンカン帽。

 もう少し近づけば、大きなくりっとしたかわいらしい瞳が僕を捉えた。

「螢、くん?」

 車のクラックションも、枯れ葉の転がる音も、なにもかも覆ってしまうほど。

 僕を呼ぶ声が、真っ直ぐ耳に届いていた。

 おもわず、立ち尽くしてしまった。

 その瞳は青紫色に光っていて、とても透き通っていて、空みたいにどこまでも続いているんじゃないかと思わされる。

 ブルーモーメントが、浮かんでいるみたいだった。

 見間違うことなく、菫さんだった。

 僕はいつまでもぼうっとしていると、菫さんは一度口を開きかけてから、そっと口を閉ざしてそのままベンチに座ってしまった。

 たぶん、怒ってるんだろうな。

 やっぱり、もうこれ以上関わらないが良いのかな。

 そんなふうに頭を悩ませてしまいつつも、白猫を抱きかかえて、ゆっくりな足取りで側まで向かった。

 ひと二人分くらい開けて、となりに腰を下ろす。

 話しかけてくれるのかな、という淡い期待を抱きつつ横目で何度か見るけど、菫さんはもくもくとチョコレートを食べていた。

 それに、あのころよりペースが増している気がする。しかもこういうときに限って白猫はいなくなっていて、会話の切り札もなくなってしまった。

 僕はどうすることもできず、ただ雲の流れを目で追っていた。時間の流れが、やけに遅く感じていた。

 これは、どうしようもないのかもしれない。

 そんなふうに思っていると、目の前になにかが出てきて、肩を強張らせてしまう。

 よく見るとそこにあったのは、菫さんの細くて白い手と、ビターチョコレート。これは、僕の好きな種類のチョコだった。

「ありがとうございます」

 そう言って受け取っても、菫さんはこっちを向いてはくれなかった。

 でも、僕はついくすりと笑ってしまった。

 たぶん、自分だけ食べているのは悪いと、菫さんは思ったんだろう。僕から見える彼女は、そういう人だった。

 チョコレートを食べていると、ため息が耳に入る。菫さんは空を見上げていて、僕もつられてしまう。

 けど、僕はすぐに自分の手へと振り向いてしまう。

「ブルーモーメント、だよね?」

 そう、囁いたと同時に。

 僕の手が、柔らかくて、冷えていて、小さなものに包まれる。

 菫さんは、僕の手を握っていた。

 おもわず彼女の手に目を凝らしてしまうけど、菫さんは涼しい表情でずっと空を見つめているのが、視界の片隅にぼんやりと映る。

 これは、どうしたら良いんだろう。

 離すべきなんだろうか。そのままにしておくべきなんだろうか。それとも、握り返すべきなんだろうか。

 僕はちらりと見遣ると、菫さんはこっちを向いていた。けど、僕はとっさに逸らしてしまう。ずっと、そんなことの繰り返しだった。

 どうしてか、菫さんは笑っていた。

 怒って、いないんだろうか。

 このままではらちが明かなくて、世間話でもした方がまだマシだろうか。そう思いつつも、なにも言葉は出てこないけど。

「初めて会ったときも、いっしょに見てたね」

「そう、ですね」

 僕はつい、言葉を詰まらせてしまった。ちらりと手元を見ては、また足元に目を落としていた。

 菫さんの指がもっと絡んできて、こそばゆかった。

 手汗、ひどくないだろうか。

 そんなどうでも良さそうなことばかりが、いつまでも気がかりだった。

「今さらなんだけど、ブルーモーメントって言葉、よく知ってるよね」

「それは、まあ、その、ちょっとした若気の至りと言いますか」

「どういうこと?」

「僕、中学生のころみんなと同じことが嫌だったんです。だから写真部で夕日の写真を撮るって決まったときに調べて、ブルーモーメントを見つけたんです」

「螢くんにも、そんな中二病みたいなころがあったんだね」

 菫さんはくすくすと笑っていた。僕もつられて笑いながらも、彼女を見ることはできなかった。

 なんでこんなことを話しているんだろう。こんなダサいこと、墓場まで持っていくつもりだったのに。でも案外すっきりしていて、つまっているものが抜けるみたいだった。

 菫さんを目の端で見ていると、笑みがいっそう深まってしまう。それにいつの間にか、彼女の手は温かくなっていた。

 ただ、笑ってくれるならそれで良いのかもしれない。

「そういえば、螢くんはどうして写真が好きなの?」

「そうですね、そんな大したことではないんですけど……」

 僕は頬を掻きながら、一つずつ記憶を掘り返して、言葉にしていく。

 写真を撮るようになったのは、商店街の人に頼まれたことがきっかけだった。

 あのときは貸してもらったデジタルカメラで、フミさんの息子さんとその義娘さん夫婦のツーショットを、母さんに手伝ってもらいながら撮った。

 そのときは色んな人に、上手とか、天才とか、大げさに褒めてもらった。

 まだ幼かった僕はそんな言葉を間に受けて、その年の誕生日プレゼントはデジタルカメラをねだっていた。今も、大切に部屋に置いてある、銀色のやつだった。

 けど写真を好きになった理由は、褒めてもらえたからではなかった。

 よく、覚えている。

 撮ったあと、満面の笑みで僕の頭を撫でてくれて、温かくて、また感じてみたいと思ったことを。

 それから僕は写真を撮り続けて、今でも、それは変わらなくて。

 僕はポートレートが、なにより好きだった。

 話し終えると菫さんはじっと、僕と彼女の繋がった手を見つめた。

 手を離すタイミングも、必要も、気づけばなくなっていた。

「螢くんは、人が好きなんだね」

「人、ですか?」

 菫さんは頷き、小刻みに、もみほぐすように握ってきて、僕はしびれたようにピンっと指が伸びてしまう。

 ふわりと微笑んで、僕を見た。

 まるで、花が咲くみたいだった。

「喜んでいるところを見て幸せになれるんだから、それは、人が好きだからだと、私は思うの」

 僕は首を傾げてしまう。

「でも、みんな嬉しいものなんじゃないですか?」

「たしかにそうだけど、そういうのはたぶん、やりたいことがあって、そのあとにくっついてくるものでしょ? だから始めるきっかけが、人の笑顔をみたいからって、とても素敵なことだと思わない?」

 菫さんは淡々と言葉にしながらも、目は優しく笑っていた。僕はトートバックの中に入っているカメラを覗き、片方の手で触れた。

 人が好き、か。

 彼女はそう言っていたけど、僕の中ではうまくかみ砕くことができなかった。

 そういう人なら、交友関係に対して積極的なんじゃないだろうか。

 僕に知り合いが多いのは、商店街の人たちがいるから。大学でもバイト先でも、あまり話せる人がない僕なのに、人のことを好きだなんて言えない気がする。

 じゃあどうして、人の笑顔を見て、写真を撮りたいと思ったんだろう。

 そんなふうにふけっていると、菫さんは腕時計に目を凝らして、一度空を見上げてから僕のほうを向いた。

「そろそろ、帰るね」

 そう、菫さんは笑みを浮かべて言った。

 いっしょに、菫さんの手はゆっくりとほどけていく。

 思いを馳せるように、僕の指の先まで伝わせていって、離れてしまう。僕の手は名残惜しむように彼女を向くけど、きゅっと手を閉ざしていた。

 彼女を見上げて、そっと目を落として手を組んでいた。菫さんが最後に触れたところに目を据えて、優しくさする。

 菫さんらしいゆったりとした、風でそよいでいる花びらのような声だった。

 いつもとなにも変わらない、夕日に照らされている彼女の横顔があった。

 けれど、僕は見逃さなかった。

 最後の一瞬だけ、手を離すのをためらって、ほんの少し震えていたことに。

 どうして菫さんは、いつも通りでいようとしているんだろう。

 そんなの、嫌でたまらなかった。

 このまま終わりにしたくないって、そう思うから。

 僕は、彼女の手を握っていた。

「どうして、なにも言わないんですか?」

 菫さんは肩を強張らせてから、立ち止まる。けど、こっちを振り向いてはくれなかった。なにも言ってくれなくて、空を飛ぶカラスの声だけが響いていた。

 それでも、僕は言葉を続けた。

「怒って、ないんですか?」

 握っている手に、つい少し力が入ってしまう。すると菫さんはこっちには目も呉れず、またベンチに座った。

 でも菫さんは、手だけは離そうとしなかった。

「螢くんは、私が植物病だってこと、知ってるんだよね?」

 僕は一度ためらってしまいながら、浅く頷く。菫さんは空を見上げて細く息を吐けば、徐に僕のほうを向いた。

 笑顔が、そこにはあった。

 でも。

「花みたいに、静かに花びらを散らせることができれば、それでいいの」

 笑顔の写真を何枚も撮ってきたからこそ、分かるのかもしれない。今でも、あの夏の微笑みを思い出せる。今の彼女の表情は、どこか引きつっているようにしか、僕には見えなかった。

 本当に、それで良いんですか?

 そう口から零れ落ちる前に、口を閉ざしてしまい込む。聞きたかったけど、一度逃げてしまった僕に、そんな資格はない気がした。

 それに、僕が聞いたところでどうにかなるなんて、あまり思えない。それなら、このままのほうが良いんじゃないかって、考えてしまう。

 なにも言わない僕を見て、菫さんはもう片方の手で、落ちている枯れ葉を拾う。

 枯れ葉を見つめて、彼女はまた笑った。

「だから、もう少しだけ、螢くんの側で咲かせてくれないかな」

 眉を細めて、唇の端を上げる。とても整った微笑みで、僕のためを思ってのことだってことくらいなら、分かる。

 けど、それよりも引っかかる部分があった。

 もう少しだけ、と言っていた。

 つまり、菫さんはもう長くない、ということなんだろうか。

 空いた口が塞がらなくて、壊れた機械みたいに手が震えてしまった。かすかに視界が、歪んで見える気がした。でも、すぐに首を振った。

 いやいや、そんなわけない。

 どこをどう見ても、僕となにも変わらないじゃないか。

 それなのに、もう少しって。

 もし、本当にもし、仮にでもそうだったとしても、それはいったい、いつだっていうんだろう。

 そう考えているとき、出会った日のことを思い出した。

 雨が嫌いなのは、たしか。

 菫の花が、六月に散ってしまうから。

 あれはやっぱり、ただそれだけの意味じゃなくて。

「まさか、梅雨に……」

 唇が震えて口ごもってしまうと、菫さんは首を傾げた。それから少し経って、彼女はハッとして目を剥いた。

「……えっと、知らなかったの?」

 僕はゆっくり頷くと。

 菫さんはそっと目を逸らして、横髪に触れて、力強く瞼を落とす。深く息を吐き出して、目じりに手を当てて、横に首を振った

「ごめんね、もう知ってるのかと思ってて」

「いえ、その、はい、大丈夫です。」

 僕は笑みを取り繕ってはみるけど、全くできていないのは明白だった。

 てっきり、あと何十年も先のことだと考えていた。

 だから今まで、早めに距離を取ってしまって、自然消滅させようとしていた。そのほうが、この先有意義な時間を過ごせるはずだと思ったから。

 道路のほうからタイヤの音ばかりが鳴って、互いの布が擦れる音が、ひどく耳に入り込んでくる。動くのさえ、ためらいたくなる。

 いろいろ声のかけ方を思いつくけど、どれもあまり良いとは思えなくて、とはいえなにも言わないわけにもいかなくて。

 どう、反応したら良いんだろう。

 握っている手に、力がこもってしまう。

 するとどうしてか、菫さんも握り返してきた。

 その手は少しだけど震えていて、瞳は雨雲のように灰色がかって見えた。

 気づけば、僕もまた握り返していた。

 菫さんの瞳が、じわりと色づいていく気がした。

 僕はじっと、手元を見据える。僕より一回りも小さな手を、僕は手で包み込んでいる。こうして見ると、僕のほうが力強いんだってことが分かる。

 そもそも勝手に、僕の中で彼女を大きな存在にしていただけなのかもしれないと、今ここで初めて気づいた。

 どうして、こんなことをしたんだろう。

 彼女の手を握り返すなんて、前だったら想像もできないことを、僕はしていた。笑っているけど、これが本当に正解なのかは、全く分からない。

 でも、菫さんが笑顔に戻っているなら、それだけで良い気がしてくる。

 となりを見ると、菫さんは子どもっぽく笑っていて、まるでふわふわと浮かんでいる、タンポポの綿毛みたいだった。

 こんなふうにも笑うのか、菫さんって。

 いつまでも見ていたくて、この先もずっと笑っていてほしい。

 どうしてかは分からないけど、笑顔じゃないと胸が締め付けられるみたいに苦しくなっていく。

 おもわずぎゅっと力強く抱きしめたくなるような、そんな感覚。

 でも、そんなことはなんだって良いのかもしれない。

「僕は、嫌です」

 体を正面に向けて、カメラを握った。

 まっすぐ菫さんの瞳を見つめていると、彼女は目を丸くしてから笑みを浮かべた。

「そっか。じゃあ、もうお別れだね」

「それも、僕は嫌です」

 左右に首を振れば、また菫さんはきょとんとした。

 すると、瞼が下がってしまうくらい強い風が吹く。本格的に冬が迫ってきていて、じゃっかん肌も痛くなるくらい冷たい。

 となりで菫さんが、体を震わせていた。

 余った手が赤くなっていて、とても冷たそう。

 その手も握れば、菫さんはまた手を震わせ、僕のほうを見上げた。

 最初は開いたり閉じたりして迷子みたいになっていたけど、しっかりと握り返してくれて、ボクもまた握り返す。

 僕はそこに目を落として、想いを言葉にした。

「僕は今までより、もっと、菫さんのことを知りたいです。このフォルダに、もっと菫さんでいっぱいにしたいです」

 菫さんは目を丸くしてから、すっと視線を手元に向けて、瞼を落とす。風で、彼女の髪が横になびいていた。

 すぐには答えず、菫さんはじっとしていた。

 僕は片方の手だけを離し、じっと空を見つめていた。

 だけど、どんな空なのかはぜんぜん頭には入って来ない。

 視線だけは、ずっと菫さんに向いていた。

『僕は、哀川さんを撮ってみたいです』

 初めて会った日は、たしか僕はそんなようなことを言っていた気がする。あのころは苗字で呼んでいたのかと、たった数か月前のことなのに懐かしく感じていた。

 思えば、なにも変わっていないのかもしれない。

 あのころも、今も、

 首を縦に振ってくれるだろうか。そんなふうに思って、カメラに目を凝らしていると、彼女はゆっくりとこっちを向いた。

 僕も、菫さんの瞳を見つめた。

「約束してほしいことが、あるの」

 変な間があって、息を吞んでしまう。

「なんですか?」

 菫さんは僕の抱いているカメラをそっと撫でてから、僕の瞳を見据えた。

 ブルーモーメントが反射して、ゆらゆらと揺れていて、まるで深い海の中にでもいるようだった。

 とても細い体のはずなのに、とても重い意思がこもっているような気がした。

「写真を撮ることだけは、やめないで。私が枯れてしまっても、ずっと、撮り続けて」

 目の奥を覗いてくるような、そんな視線だった。僕は少し固まってしまいながらも、しっかりと頷いた。

 写真をやめることなんて、想像もできない。

 だからこそ、どうしてそんなことを言ってくるのかは、僕には分からなかった。

 趣味は、大切にしろということだろうか。

 とにもかくにも、それさえ守れば、菫さんといられる。

 それならもう、十分に思えた。

 さすがにもう時間がないということで、次会う約束だけをして、僕たちは解散することになった。

 僕はいつも通り、その場に残った。

 知るためにはどうしたらいいんだろう。まず、同じ趣味の映画を見よう。それと、あまりやったことがないことをやるのも良いかもしれない。

 そこで、僕はあることを思い出した。

 でも、まだしばらく言わないでおこう。たぶん、菫さんは嫌がるだろうから。そうならないためにも、準備はちゃんとしておかなくちゃいけない。

 だからとりあえず、いっしょに映画鑑賞をすることにしよう。

 そう決めたのにも関わらず、まだ、家に帰る気にはなれなかった。

 だから、写真でも見ようと思った。

 この前に見つけた、菫さんが映っているSDカードを取り出し、カメラに差し込んでディスプレイに映し出す。

 菫さんの笑っている写真を見ていると、つい頬が緩んでしまう。

 他の写真だってそうだ。

 僕の撮ったポートレートを見ると、温かさが胸の辺りにまで伝ってきて、心に灯りがともるみたいだった。

 枯れ葉が舞っている、すっかり真っ暗になってしまった空を仰いでいると、なんにも映っていないフィルムみたいだと思った。

 色んな人の笑顔がぼんやりと浮かんできて、ふと感じた。

 人が好きだとか、僕にはきっと抱えきれないような大きなものではなくて。

 僕は写真を撮って、それを見てくれる大切な人を笑顔にしたいという、ただそれだけのために、こうして写真を撮っているのかもしれない。

 それが、今は少しだけ変わって。

 菫さんの笑顔が咲いていてくれるなら、それだけで良いのかもしれない。

 このときの僕は、まだ、そう思っていた。

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