第二章・昨日の花は、今日の夢

 今日も変わらず、唸るような熱い日差しだった。どこにいるかも分からないセミが、声だけはやかましく教えてきて、よけいに夏を主張してくる。

 朝だというのに、汗が止まらなくて肌がペタペタするし、背中の汗で服が張り付いて気持ち悪いし。

 僕にとって夏は、写真を撮ること以外で得することなんてなかった。

 だから、夏が好きではなかった。

 今僕は、バイト先の本屋に向かっていた。

 いつもなら授業があるこの時間帯だけど、今は夏休みで、その分バイトの時間に費やしていた。新しい機材やその他の趣味なども含めると、嫌でもバイトはしなければいけなくて、夏休みを活かさないわけにはいかない。

 本屋に着くと、まだ開店していないから静かだった。店内で流れているBGMを鼻歌しながら控室へ向かうと、店長とすれ違って挨拶をした。店長は少し目を丸くして、にかりと笑顔になった。

「嶋野くん、なにか良いことでもあった?」

「え、どうしてですか?」

「なんだか、いつもより挨拶が元気な気がしてね」

 僕は首を傾げてしまう。

「静かだからじゃないですか?」

「あー、うん、そうかもしれないね」

 店長は腕を組みながら納得したように頷いて、僕もそれに合わせて頷いた。すると店長はちらりとこっちを見た。

「でもなんか、いつもよりにこにこしてるよね」

 とっさに頬を片手で挟んだ。

 そんなに顔に出ていただろうか。

 それが本当だとすれば、ちょっとはずい。これ以上墓穴を掘らないよう、さっさと控室に入ろうとする。

 すると店長は「そういえば」、と前置きをした。

「休日なのにロングで入ってないのって、このあと予定があるから?」

 僕は一瞬肩を強張らせてしまいながら頷くと、店長はまるでなにかを察したかのように優しく目じりが垂れていった。

「そっかそっか。じゃあ、今日もがんばってね」

 そう言って店長は店の中へと行って、僕はため息交じりに頬を掻いていた。これからはマスクをしようかな、とも思ったけど、熱くて着けてられないだろうから、やめておくことにした。

 開店しても、あまりお客さんは来なかった。

 朝だということもあるけど、夏休みだとたまにこういう日がある。このままこんな感じだと良いなと思いながら、まばらに来るお客さんに挨拶をしていた。

 ついつい出そうになる欠伸を噛みしめる。さすがにだれも来ないと、それはそれで辛かった。

 暇つぶしに、店内に流れているBGMをバレないように口ずさんでみた。米津玄師のlemonという歌。あまりカラオケにいかない僕だけど、人気すぎてどこでも流れているから、自然と覚えてしまっていた。

 そういえば僕はいつも、鼻歌だったり、歌を口ずさんだりしない。

 良いカメラが買えたときとか、アプリの無料クーポンが当たったときとかでも、僕は鼻歌を歌ったりしてまでは喜ばなかった気がする。

 相当、浮かれているのかな。

 でも、しょうがないことだとも思った。

 今日の午後は、哀川菫さんと会う予定なんだから。

 にしても、今日は本当にお客さんが来ない。もはや、レジに立っている意味さえないようにも感じてきた。

 時計ばかりに目がいってしまう。あがり時間はまで、あと一時間くらいあっって、こうも暇だとたった一時間でさえ果てしなく感じてくる。

 ついには堪えきれず、手で隠しながら欠伸をしていると、店長と目が合ってとっさに口を閉ざした。店長が近づいてきて、少し俯きがちになってしまう。注意されるんだろうな。

 そう覚悟していたけど、かけられた言葉はまったく違うものだった。

「暇だし、嶋野くん早上がりしちゃっていいよ」

「良いんですか?」

 つい聞き返してしまうと、店長はにかりと笑って僕の肩を叩いた。

「良いよ良いよ。たぶん今日はずっとこんな感じだろうし。それに、さっきから落ち着きないしね」

 そう言って店長は、不細工なウィンクをしてどこかへ行ってしまった。

 どんだけ浮かれてるんだよ、僕。

 そう小さな声で自分に言いつけつつも、顔が緩むのを止めることはできなかった。

 今日は彼女と、泉場公園で会う約束をしていた。

 約束している、というよりは、彼女がいるから行く、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 初めて出会ってから、気づけば二週間くらい経っていた。

 これで、会うのは六回目。

 会うのは、決まって夕方だった。

 僕は急いで着替えて店を出て、泉場に向かうため電車に乗った。夏休みだということと昼すぎだということから、車内は席が埋まるくらいには混んでいて、僕はドアの近くで立って寄りかかっていた。

 いつもならイヤホンをしているところだけど、本屋にいたときみたいに歌を口ずさんでしまいそうだからやめておいた。とはいえ、スマホをいじるのもなんだか煩わしい。

 なんとなく、窓の外を覗いた。

 最近、そんな日が続いている気がする。

 カンカン照りの日差しで、住宅地が眩しく光っていた。夕方までには少しでも落ち着いていると良いな。

 僕自身がそうでなってほしいということもあるけど、被写体になってくれる菫さんには、できるだけ良い環境でいてほしい。

 そういう点では、日中とはいえ会うのが夕方で良かった。

 そういえばどうして、菫さんは夕方にしか会えないんだろう。

 今までは緊張とか、撮ることに夢中になっていたとかで気づかなかったけど、普通に考えて社会人だったら働いている時間帯。

 だから、夕方限定で空いている人なんて、すごく珍しいことだった。

 芸能人だったり、フリーランスで働いているクリエイターだったりするのだろうか。

 大人びているような、子どもっぽいような、そんな不思議な雰囲気が彼女からは感じるから、それだったら頷ける気もした。

 それとも、主婦なのだろうか。

 十分、あり得る。きっと優しい穏やかなお母さんになりそうだと思った。

 思い返してみれば、今なにをしているのか聞いたあのときも、雨の話しではぐらかされたままだった。

 僕が大学二年で、本屋でバイトをしていて、写真を撮っていて。こっちのことを菫さんは知っているのに、僕は彼女の生活をあまり知らない。

 知っているのは、刺激的な炭酸飲料とチョコレートが好きで、それに弟さんがいるということくらい。

 なんだか、不平等なようにも思えてきた。

 だけどそれは、僕と彼女との心の距離を表していると、そんなふうにも考えられるんじゃないだろうか。

 これから先、その差を埋めていくことができるのかな。

 そんな不安を胸に、じりじりと熱い駅へ降りた。

 菫さんが来るまで時間があるから、適当にファミレスのランチメニューで昼食を済ますことにした。のんびり過ごして時間を潰し、夕方になる頃に泉場公園へ向かった。

 着いても、まだ菫さんはいなかった。

 その間に持ってきたお菓子を食べながら、露出補正とか調光補正とかカメラの設定をいじる。ちらちらと、入り口のほうに目がいってしまう。

 いつも、こんな感じだった。

「螢くん」

 雨を滲ませたような大人びた声が、夏の蜃気楼を溶かして僕の下に届く。

 振り向くと、真っ白なワンピースをゆらゆらとさせて、カンカン帽を深く被っている女性がいた。

 まちがいなく、菫さんだった。

 彼女は僕のことを、螢くん、と名前で呼ぶ。

 最初に話しているときから感じてはいたが、彼女はクールな見かけとは違って、よく笑う気さくな女性だった。

 そんな彼女だから僕のことを、螢くん、と名前呼びしてきたんだろう。それは逆でも同じようで、菫、と呼ぶよう迫ってきた。

 渋っていた僕だけど、名前で呼ばなければ口も利かない、という子どもみたいな手を使ってきた。

 だからしょうがなく、菫さん、と呼ぶことになった。

 今では自然と口にできるようになったけど、初めはつい口ごもってしまったり、目を逸らしてしまったりと、情けない姿を見せてしまっていた。

 今思えば、そこまで名前呼びにこだわる必要があったんだろうか。

 呼び方なんて個人の自由で、あまり押し付けるようなところは見たことがない。

 あるとしたら、好きな異性に……それはないな。どう見ても僕のことを、男として見ていないだろうし。

 でも、それで良いのかもしれない。

 僕は、写真を撮れれば十分だから。

 カメラに手をかけ、レンズを彼女に向けた。

 何枚か撮って確認していると、どれも写真映えする素敵な笑顔だった。つい、こっちまで笑顔になってしまう。

 そんな様子を横から覗き込んできて、菫さんはふふっと噴き出した。

「まさかいつも早く来てるのって、来るところを撮るためだけ?」

「いや、まあ、それもありますけど。僕のほうが年下ですし、それに」

 そこで、口を止めてしまう。菫さんは首を傾げながら、覗き込むように僕を見てきた。僕は一度視線を向けてから、すぐさまそっぽを向いてしまった。

「まあ、遅刻するわけにはいかないんで」

「ふーん、真面目だね」

 僕は頬を掻き、苦笑いしてしまう。

 いちおう男ですし、と本当は言おうとしていた。別に言っても良かったのかもしれないけど、なんとなく嫌だった。

 写真を撮る前に、僕たちは各々が持ってきたお菓子を広げた。

 菫さんのは、もちろんチョコ。

「またチョコですか」

「たしかにチョコだけど、今日はガーナのブラックチョコだから」

 なぜか少し得意げになっていて、僕はまた引きつりながら笑っていた。

 菫さんはいつもチョコを持ってくる。

 わけは単純で、ただ好きだというだけ。

 彼女いわく、ミルク、ブラック、ホワイト、の基本ローテーションに、たまにミントやストロベリーなどの特殊な味を混ぜれば、毎日おいしく食べられるらしい。だからって、毎回食べる必要はないと思うけど。

 こっちからしたら少し厳しいところがあって、僕はいつもチョコ以外の、それも甘いものを除いたお菓子を持ってきていた。

 とはいえ、彼女はチョコしか食べない偏食な人というわけでもなく、僕が持参したお菓子もおいしそうに食べていた。

 だからもしかしたら、ルーティン的なものなのかもしれない。

 ルーティン、か。

 思えば、僕にはそういうものはなにもなかった。

 なんとなくでやっていることはあるのかもしれないけど、意識してやるとでは話が全く違う気がする。

 なにか一つ、写真を撮るためにやっても良いのかもしれない。

 といってもなにも思い浮かばなくて、まあ、それはのちのち決めることにした。

 僕はじゃがりこのじゃがバター味を持ってきた。この味は僕が一番好きな味だった。紅茶を飲みながらじゃがりことチョコを交互に食べていると、なぜか菫さんが難しそうに眉を顰めているのが視界に入った。

 声をかけると、彼女はじゃがりこをじろじろと見ながら口を切る。

「なんでこれの名前、じゃがバター味なんだろうね」

 いっしゅん固まってから、首を傾げてしまう。

「どういうことですか?」

「だってチーズ味があるんだし、だったらじゃがチーズ味にしたり、バター味にしたりとか、どっちかに寄せるべきじゃない?」

 たしかに、と顎に指を据えていた。すると、なんとなく考えがまとまって、言葉にした。

「でも、バター味より、じゃがバター味のほうがなんとくおいしそうじゃないですか? 味のイメージをも、しやすい気がしますし」

「そっか、たしかにね」

 菫さんは納得したように首を縦に振っていた。

 けれど、僕はそのことについてまだ考えていた。

 バターとじゃがバター。

 別にどっちだって良いのかもしれない。

 それでも、おもしろい着眼点だと思った。

 僕は今まで、名前に対して首を傾げたことなんてなかった。

 名前は、ただ呼ぶためのもの。それに元々あるものを勝手に変えることなんて、簡単にできることではない。

 だからこそ、そこに意識が向かなかったのかもしれない。

 ちらりと目を向けると、ぽりぽりとじゃがりこを食べていた。僕はその横顔に向け、そっとシャッターを切った。

 彼女にとってはなんてことないんだろうけど、どうしてそんな景色が見えているのか、僕にはとても気になっていった。

「螢くんって、彼女いるの?」

「はい?」

 菫さんはチョコを食べながら言ってきて、とっさに彼女のほうを向いて、甲高い変な声が出てしまう。

「彼女、いるの?」

 少し、詰め寄って聞いてくる。

 いったい、なにを言っているんだろう。

 さっきまでじゃがりこの話しをしていたのに。

 とにかく、急いで手と首を左右に振った。

「ふーん」と菫さんは花びらのようにふわりと微笑む。

 僕は一度口を開きかけてから、小さく息を吐いてじゃがりこを食べた。

 かり、かり、と音がして、黙っていることを許してくれているみたいだった。

 それがよけいに、胸を絞めつけてくる。

 どうして、こんなに余裕なんだろう。

 僕は、彼女の一つ一つのことで、いとも簡単に揺さぶられてしまうのに。

 軽く息を吐き、いっきにじゃがりことチョコを食べまくった。それを見て菫さんは小さく笑っていた。

 彼女が笑ってくれるなら、それで良いのかもしれない。

 お菓子を食べ終えたら、僕たちは腰を据えて撮影を始める。特に決めているわけじゃないけど、これがいつもの流れになっていた。

 ここ数日は、雲一つないと言って良いほど、きれいに晴れていた。そのせいかずっと同じ風景になってしまって、さすがに公園には飽きてきていたころだった。

 そこで僕は公園近辺をぶらぶらしないかと提案し、菫さんも頷いてくれた。

 でもよくよく考えてみれば、僕は通学路以外の道をほとんど歩いたことがなかった。どうしようか、と地図アプリを開きながら考えていると、菫さんに肩を突かれた。

「せっかくだし、調べないで歩いてみない?」

 僕の手に、彼女の手を添えていた。とっさに手を引っ込めて、僕はそっぽを向きながら頷く。彼女は少し目を剥いてから、くすくすと堪えるように笑っているのが間接視野で見えて、僕は少し早足になっていた。

 彼女は、ただスマホを引っ込めてほしかっただけ。

 そんなことは、分かっている。

 けど触れたところが、異様に熱い気がする。

 彼女に見られないように、触れたところに目を据える。

 まだ、感触が残っている。

 赤ちゃんの手みたいに、柔らかい手だった。

 でもそれ以上に、花の茎みたいに簡単に折れてしまいそうな、とても細長い指だった。

 普段なら行くことのない、大学から逸れた道に入っていく。そこは住宅地になっていて、ずっと同じような景色が続いていた。

 本当になにもないな。

 そう思いつつも、たんたんと歩き進めていく。

 けど、足を止めてしまう。

 菫さんがとなりにいなかった。振り返れば、少し離れたところで彼女が道の端でしゃがみ込んでいるのが見えて、急いで駆け寄る。

「大丈夫ですか、菫さん」

「うん、大丈夫。ただ、面白い花だなって思って」

 彼女の指さす先には、アスファルトと塀のひび割れた隙間から生えている、小さい黄色の花があった。

 特別きれいなわけでもなく、どこにでも生えていそうな花に見えた。

 いったい、なにが面白いんだろう。

 そう思って彼女に尋ねてみるけど、逆に首を傾げられてしまった。

「螢くんは、この花が普通に見えるの?」

「そうですね、よく見る花だと思いますけど」

「私は、そうは思わないかな」

 菫さんはそっと花に触れ、綿あめのように柔らかく微笑んだ。

 その花も彼女に応えるかのように、そよそよと揺れている。まるで僕には、母親が子どもの頬に触れているように見えた。

「どれも、特別な花、ということですか?」

「そうじゃないよ」

「じゃあ、どうしてですか?」

 菫さんは茎から上に向かってなぞっていき、花びらを優しく撫でた。

「私には、こんなふうに力強く咲けないから」

 南風が、僕たちのすき間を吹き抜けていく。

 彼女の長い黒髪とワンピース、そして花びらがゆらりゆらりとそよいでいて、まるで僕には通じ合って、楽しく踊っているように見えた。

 僕は、見とれてしまった。

 花にも、菫さんにも。

 アスファルトを突き破る花。

 なにがなんでも生きてみせる、と僕らに訴えかけているみたいだった。そう思うと、植木鉢の花より、だんぜん魅力的に見えてくる。

 そこで、思うことがあった。

 だから病人や選手といった、なにかに抗っている人を表現した写真には、たくさんの人が惹かれてしまうんじゃないだろうか。でも同時に、それらはありきたりなようにも思えてくる。

 ただ、この花なら。

 僕は無意識にカメラを向け、シャッターを切っていた。

 もちろん、花の写真と。

 花を愛でている、菫さんの横顔もいっしょにカメラフレームに入れていた。

 たしかに、花も良い写真になった。

 けど、やはり引き付けられていたのは、もう一枚の写真だった。

 こんなふうに、僕には見えない風景を見せてくれるから、彼女を映し出したいと思うんだろうか。

 分からないけど、一つ言えるのは。

 どんなにきれいな花が咲いていようとも。

 彼女という花の前では、ピントが合わないみたいに、どこまでも霞んで見えるかもしれない。

「螢くんは、こんなふうに咲けると良いね」

 菫さんは微笑んで、そんなことを言った。僕は固まってから、カメラに目を落として頬を掻いてしまう。

 どう、答えれば良いんだろう。

 そもそも、僕にそんな力強い生き方ができるとは、とても思えない。

 でもそんなことよりも、もっと引っかかるところがあった。

「菫さんも、じゃないんですか?」

 そう聞くと、菫さんの手元に力が入るのが見えて、ゆっくりと顔を上げる。彼女は口元だけを緩めて、花に向けて目を細めた。

「私はね、いつまでも蕾のままなんだよ」

 葉の擦れあう音みたいに小さく、彼女は囁いた。

 真っ直ぐ、彼女の澄んだ瞳を見つめてしまう。

「それは、どういう意味ですか?」

「さあ、なんだろうね」

 彼女は優しく目を笑わせて、花びらが散るようにワンピースを翻した。

 けっきょく、彼女は答えてくれなかった。

 僕もこれ以上、聞くことはなった。

 聞かれたくないんじゃないかって、なんとなく感じたから。

 それからは、菫さんに色々お願いしながら写真を撮っていった。

 すると、すぐ側から、にゃー、という聞き覚えのある鳴き声がした。振り向いてみれば、そこには白猫が座っていた。

「やっぱり、君か」

 手を寄せると白猫はすり寄ってきて、抱きかかえてあげた。すると菫さんはこっちまで来て、白猫の頭を撫でた。

「かわいいね」

 彼女はそう言ったけど、僕は凍ったように固まってしまった。

 せっけんの匂い、静かな吐息、微かに伝わってくる熱。

 そんなよこしまな感覚に、じっくりと意識が沈んでいく。

 こんな光景、動物園にでも行けばいつだって見られるのに、どうしてだろう。

 ずっと眺めていられるくらい、愛おしかった。

「この子も、一人なんだね」

 僕のほうを向いて微笑んでいたけど、どこか悲し気で、水たまりみたいになにかをため込んでいるように見えた。

 この子も、一人。

 一人なんだろうか、菫さんも。

 けれど、とてもそうは思えなかった。

 気さくで笑顔の絶えない女性。

 だからきっと、言い間違えただけなんだろう。

 肘で固定しつつ、彼女の瞳を撮っていった。ブルーモーメントの時のようにはいかないけど、夜の星空のようにとても澄んでいた。

 そしてやはり、彼女の瞳は笑っていなかった。

 撮り始めてから、ずっと変わらない。

 初めはまだ壁があるからだと思っていた。けど、菫さんの人柄的に違うような気もする。写真を撮られるのが嫌い、ということも考えたけど、それならそもそも撮らせてくれないだろうし。

 けっきょく、なにも分からなかった。なんなら、僕には一生分からないことのかもしれないとも感じ始めていた。

 僕には、役不足なんだろうか。

 そんな気持ちが、心の片隅に浮かんでいた。

 僕は深く鼻で息を吐き、続けてシャッターを切った。そうやっていくと、砂糖を水に溶かすみたいに心が落ち着いていく。

 そんな撮影中に、菫さんはぱたりと笑顔をやめてしまい、レンズ越しの僕を見据えてきた。

「ねえ、この子たちに名前つけてあげない?」

 とつぜんそんなことを言われ、僕はファインダーから目を離して首を傾げてしまう。

「えっと、どういうことですか?」

「白猫とこの花に、名前をつけてあげたいの」

 真っ直ぐな眼差しで見てきて、目を瞬かせてしまいつつも、どうにか頷いた。菫さんが真剣だということは、間違いないから。

 また、名前だった。

 名前に、なにか思い入れがあるのだろうか。

 そうじゃなければ、こんな立て続けに名前について触れてこない気がする。

 でもこれはある意味、彼女を知ることができるチャンスなのかもしれない。

 ひとまず、名前をつけたい理由を聞いてみる。すると菫さんは、僕の腕の中にある白猫を取って抱きかかえ、毛並みに沿って撫でた。

「特別なものに、したいからかな」

 僕はまた首を傾げてしまう。けど菫さんはちらりと上目づかいでこっちを見るだけで、なにも言わないまま白猫を撫で続けた。

 そこに手が伸びそうになるけど、とっさに手を引っ込めた。

 僕が撫でているときよりも、白猫は気持ちよさそうにしていた。

 どうしてかはパッと見では分からなくて、彼女の指をじっと目で追っていく。

 なにかが違うということだけは分かる。力加減とか、角度とか、そういうことではないのかもしれない。ちらりと、彼女の顔を見遣る。

 彼女は真っすぐ白猫の表情を見つめていた。僕は手のほうに目を向けると、ときおり撫でる場所を変えていることに気づく。白猫がうっとりすると、彼女は笑顔を浮かべてそこを撫で続けた。

 どうやら白猫の反応を見て、撫でかたや場所を変えているようだった。

 僕はかわいい表情の猫が見たくて撫でていて、ほかの人もたぶんそうだと思う。だからこそ菫さんは、他の人とは違う感じがして。

 触れてみたいと、思ってしまったのかもしれない。

 目を細めている白猫を見ていると、僕もつい頬が緩んでしまう。

 たしかに僕も、名前はいつかつけてあげたいとは思っていた。可愛がっているから、当たり前な気持ちなのかな。

 けど、一つ分からないのは。

「どうして、花にも名前をつけるんですか? 花には、もともと名前がありますし」

 そう言って菫さんを見つめてしまう。

 彼女は首を振るわけでも、頷くわけでもなく、ただ花を見据えて微笑んでいた。

「蝉の鳴き声って、すごく鬱陶しいよね。でもね、蝉時雨って聞くと、なんだか風情を感じない?」

 ひとまず頷く。僕にはあまり理解できなかったから、そうするしかなかった。僕の表情を一度見てから、ニコリと目を笑わせて、菫さんは続けた。

「だからね、なんでもないことにも名前をつければ、私たちだけの特別な思い出になるかもしれない。それって、とてもすごいことだと思わない?」

 また、頷くことしかできなかった。

 でもさっきまでの頷きとは、まるで意味が違った。

 特別にしたいから、名前をつける。

 菫さんは当たり前のように言っているけど、そんな簡単なことではない気がする。

 自分の子どもとか、ペットとか、気に入った人形とかに名前をつけるのは、そのものが特別だから。

 でも彼女にとっては真逆だった。

 普通のものでも、名前がつけば特別になる。

 とても斬新で、ロマンチックに思えた。

 カメラに目を凝らしていると、おもわず手に力が入ってしまう。ディスプレイに映っている自分の写真が、どこか普通に見えてくる。

 どうしてこうも、彼女に気づかされることが多いんだろう。

 それとも、僕の頭が固いのかな。

 彼女の瞳に映っている景色は、どれも輝いて見えているんじゃないかとさえ思えてくる。

 花を見据える、彼女の瞳に目を向ける。

 キラキラして、澄んでいて、ラメが舞っているスノードームのようだった。

 たぶん、もともとの出来が違うんだと思う。

 だからかもしれない。

 彼女が写真を撮ったほうが、良い写真を撮れるんじゃないかという、ひどく情けない考えが浮かんできた。

 菫さんの心のレンズで撮った写真は、いったいどんなふうに映るんだろうか。

 彼女は、なにかと名前について触れることが多かった。

 名前、か。

 両手の親指と人差し指で、フレームをかたどって覗いてみる。

 彼女だったら、この写真にどんな名前をつけるんだろうか。

 そこで僕はハッとなって、ゆっくりと両手を下ろして、じいっと花に目を凝らす。

 なんでもない風景に、名前をつける。

 こうすることで他にはない、賞でも通用するような良い写真になるんじゃないだろうか。

 それを彼女に伝えると、満面の笑みを浮かべて手のひらを合わせた。

「良いね、とても楽しそう。でもね……」

 菫さんはちらりと、こっちを向いた。おもわず首を傾げてしまうと、彼女は手の甲を擦りながら目を山なりに細める。

「名前があるのも、良いことばかりでもないなって、思っただけ」

 花を見つめながら息を吐くように言葉を零し、僕はその横顔を見つめていることしかできなかった。

 なにか、あったんだろうか。

 でもすぐに彼女は、「どんどん撮ってこ?」と微笑んでいた。もしかしたら、思い違いかもしれない。僕も、口角を上げる。

「でも、一つしばりをつけようと思っています」

「しばり?」

「はい。どの写真にも、菫さんが映っていてほしいです」

 ぽかんとしてから、菫さんは首を傾げる。

「それって、私がいる意味あるの?」

 僕は頷き、カメラの画面に目を澄ます。

「菫さんのおかげで、思いつくことができたので」

 そう言って、レンズ越しに菫さんを見据えて、すかさずシャッターを切る。そこには、花のようにささやかな笑みが映っていた。

「じゃあ、写真の新人賞に出したりするの?」

 カメラから目を離すと、撮った写真を見ながら菫さんは聞いてきた。僕は一瞬肩を強張らせてから、頬を掻いてしまった。

「いや、その……」

 じいっと地面ばかりを見つめて、カメラが震えるくらい、握る手に力がこもってしまった。彼女を、ちゃんと見ることができなかった。

 どうしてだろう、言葉が出てくれない。

 そんなふうに僕が答えあぐねていると、菫さんはなにかを察したかのように大きな笑顔になった。

「まあ、それは撮ってみてから考えても良いよね」

 菫さんは立ち上がり、僕の前を歩いていった。僕は大きくため息を零してしまいながらも、後を追いかけた。

 名前は後々つけることにして、僕たちは写真を撮り続けた。

 フェンスにぎっしり絡まっているツタの写真や、たった一つだけ残された子どもの靴、工事中なのか空き地を塞ぐ、長方形の黄色いバリケードのようなもの。

 色んなものを撮って、すべてに菫さんが映っている。

 空を見上げると、自然とため息を零してしまう。

 さっきまで真っ青だったのに、もう、じんわりと茜色が染みこんでいく。

 なんとなく、そこに向けてシャッターを切ってみた。見てみると、その写真よりも僕の見えている視界のほうが、少し霞んで見えている気がした。

 プロになるつもりなんて、さらさらない。

 そこにやましさなんて何もなくて、前からずっと思っていたことで、色んな人に伝えていることだった。

 それなのに、菫さんにはきっぱりと答えられなかった。

 いつもなら呼吸をするように、笑顔を浮かべて言えるのに。

 どうして、素直に言えなかったんだろう。

 やっぱり、言うべきなのかな。

 そんなことを考えつつ菫さんの方に振り向くと、また隣りにいないことに気づく。振り返ると菫さんはしゃがんでいて、またなにか見つけたのかと思って声をかける。

 けど、返事は来なかった。

 縮こまって、まったく動く気配がなかった。

 僕は急いで側に駆け寄ると、菫さん少し苦しそうに口角を上げていた。

「ごめんね、ちょっと疲れちゃった」

「いや、こちらこそすいません。気づかなくて」

 手を貸して、菫さんを起こしてあげる。

 今日はここまでにすることにして、少し休んでから帰ることにした。地図を開いてみると、大通りにドトールがあるのを知って、ひとまず向かうことにした。

 涼しい店内に入って前後の二人席に着くと、菫さんは軽く息を吐いた。顔色も少し悪くて、薄っすらと汗が額に滲んでいる。たぶん暑くて出ているものじゃなくて、とても辛そう。僕はバックから紅茶を取り出した。

「菫さん、まだ飲み物残ってますか?」

「ううん、全部飲んじゃった」

「じゃあ、これ飲んでてください」

「ありがと。でも、良いのかな店内で」

「大丈夫です。注意されたら、僕が説明するんで。買ってきますけど、なに飲みますか?」

「じゃあ、オレンジジュースで」

 僕はレジの列に並びながら、チラチラと菫さんの様子を窺ってしまう。でも見たところ大丈夫そうで、一安心していた。

 ただ一つ、引っかかることがあった。

 菫さんは元々、体調が悪かったんだろうか。

 しゃがみ込んでしまったのは、泉場公園を出て十五分かニ十分くらい歩いたときだった。だから、可能性はそれくらいしか思いつかない。

 無理、させていたんだろうか。

 足元に視線を下げ、唇をきつく噛んでしまう。

 ずっといっしょにいて気づけなかったのが、本当に情けなかった。

 オレンジジュースとアイスコーヒーを持っていき、彼女の前の席に着いた。すると彼女は目線を落として、横髪に触れていた。だいぶ、汗も引いてきていた。

「ごめんね」

 菫さんは苦笑いしながら言い、僕はすぐさま左右に首を振る。

「いや、こっちこそ気づかなくてすみません。これ、ハンカチ使ってください。あの大丈夫ですか?」

「うん、もう大丈夫」

「そっか……それなら、良かったです」

 僕はほっとしてコーヒーを一口飲むと、そこで会話は途切れてしまって、コーヒーを飲むペースが上がっていた。こんなに気まずいの、出会ったばかりのころ以来だった。

 すると、前からくすりと噴き出したような声が聞えた。

「私、体力ないんだよね。けっこうインドアだから」

 菫さんは眉を垂らし、困ったように笑みを浮かべていた。どうやら、話そうと思えるくらいには元気になったようで、僕もそこでやっと笑顔になれた。

 でも同時に、舌打ちをしたいくらいイラついてしまった。

 菫さんが、こんなふうに自然と笑顔を浮かべられるくらい、元気になっているはずがない。僕がいつまでも暗い顔をしているから、無理しているんだろう、きっと。

 菫さんに、気を使わせてばかりだ。

 体調が悪いのは、僕じゃなくて彼女。

 このままではいけない。

 僕は浅く息を吐き出して、口を切った。

「意外ですね。旅行とか、アクティブなことが好きなのかなって思ってました」

「そんなことないよ。旅行なんて、もう十年以上も行ってないもの」

「そうなんですか。でも、僕も修学旅行から一度も行ってないです」

 菫さんはふふっと笑って「仲間だね」と言い、僕も「そうですね」と頬が緩んでしまった。

 それにしても、意外だった。

 いろいろと面白い視点を持っているからか、旅行とか散歩とかで発見して、無意識に身に着けたものだと思っていた。

 だとしたら、いったいどんな趣味を持っているんだろうか。気になって聞いてみると、バックから一冊の小説を取り出した。

「本とか漫画はよく読むかな。それと映画とか」

 まんま同じ趣味だった。ガッツポーズが出そうになるのをどうにか堪えつつ、僕は色々と聞いていった。

 どうやら菫さんは、恋愛映画が好きらしい。

 それも『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』とか、『orange』とか、意外と女子高生が好きそうなものばかり。

 にわかな僕だから、マニアックな海外映画がきたらどうしようかと思っていたけど、ほとんど僕が見たことあるものばかりだから安心した。

 気づけば、少女漫画が映画化したものが多かった。

「菫さんって、少女漫画好きなんですか?」

「あっ……やっぱりバレちゃうよね」

「バレたくなかったんですか?」

 そう聞くと、菫さんはじゃっかんそっぽを向きながら、長い黒髪の毛先に触れた。くるくるとねじるけど、解けばするりと元に戻っていく。

 彼女は、上目づかいでこっちを見た。

「だって、ちょっと恥ずかしくない? この年で恋愛に夢見てるの」

 少し固まってから、くすりと笑ってしまうと、菫さんが訝しげに目を細めていた。

 けど、そんな表情もとてもかわいかった。いつまでも見ていた気がするけど、嫌われたくもないからさっさと口を切った。

「そうですか? 僕も読みますよ、少女漫画」

 僕は決してバカにして笑ったわけではなくて、ただ同じようなことを考えているから、つい笑ってしまっただけだった。

「そうなんだ。なんだか、そっちのほうが意外だね」

 そのことを汲み取ってくれたのか、菫さんはくすくすと笑う。笑ってくれたことが嬉しくて、僕もいっしょに笑顔になっていた。

 やっぱり、笑顔が一番好きだ。

「じゃあ今度、いっしょに映画見ませんか?」

「あ、良いねそれ。でも、写真撮る時間なくなっちゃうかもよ?」

「良いですよ、ぜんぜん。それに……」

「それに?」

「いえ、なんでもないです」

 僕は頬を掻きながら言ってから、「これ、片づけてきますね」と誤魔化すように飲み終えた二つのグラスを片付けに行く。

 菫さんがもう帰らなければいけない時間になっていることに気づき、今日はここで解散になった。

 でも僕はもう少し残っていくことにして、カフェラテを追加で注文した。

 カメラのディスプレイで、今日撮った写真を振り返っていき、それぞれの名前の候補を考えることにした。

 まずは最初に撮った、アスファルトから突き破って生えている花の写真から。

 いないいないばあ、びっくり箱、人への下克上、さよならアスファルト。

 色々思い浮かんでメモアプリに書きだしていくけど、カフェラテが三分の一くらいになったときには、考えるのをやめていた。

 ぼうっと、写真を眺める。

 でも、菫さんにばかりに目がいっていた。

 彼女がどんな表情をしているかという、たった一つのことだけだった。そしてどれも、ずっと見ていられるくらいきれいだった。

 私たちの特別な思い出。

 菫さんはたしか、そう言っていた。

 だったら、彼女といっしょに決めたほうが良いんじゃないだろうか。

 それに菫さんがいてくれたほうが、なんだか、もっとおもしろいアイディアが浮かぶ気もする。

 そんなふうに、いろいろ理由は思い浮かぶ。

 けど、ぜんぶ方便に思えてくる。

 どうしてだろう。

 分からなくて、写真を見返していく。

 どれも良い写真なのは、間違いなかった。でも真っ先に目につくのは、楽しそうに笑う彼女の顔ばかり。

 そこで僕はあることに気づく。

 くすりと笑って、ディスプレイに映る彼女をそっと撫でていた。

 ああ、そうか。

 僕はただ、彼女といっしょに過ごしたいだけなのかもしれない。

 いっきにカフェラテを飲み干し、さっさと店をあとにした。夜に近づこうとして涼しくなっているとはいえ、熱いことに変わりはない。

 でも今は、どうでも良くなっている気がする。

 さっきまで、涼しい部屋にいたからかな。

 それもあるんだろうけど、それだけではないのは、たしかだと思った。

 後ろから生暖かな夏の風が吹いて、服が一気に前へなびいていく。僕の背中を押してくれるみたいで、足が浮ついていくのを感じていた。

 僕は今にでも走り出して、叫びたい気持ちでいっぱいになっていた。

 大学受験に受かったときも、中学時代に初めて彼女ができたときにも、こんなこと感じたこともなかったのに。

 講義を受けているときも、バイトをしているときも、空を仰いだときも、窓の外を眺めたときも。

 ふとしたときに想うのは、いつも彼女で。

 つい今の関係の、その先を求めてしまう僕がいた。

 僕と彼女では、なにもかもがつり合ってはいないんだろう。

 そんなことは、分かっている。

 けれどもこの気持ちは、そんな些細なことではなくならないのかもしれない。

 こんなの、初めてだった。

 みかん色とグラデーションしている、ブルーモーメントを見つめる。

 深く息を吐いて、網で焼いた餅のように、つい、頬が緩んでしまった。

 やっぱり、今も浮かぶのは菫さんの笑顔ばかりで。

 十代、最後の夏。

 僕の心には、恋の花が芽吹いたのかもしれない。



 水曜日の昼、相も変わらず蒸し暑い日。

 曜日に水がつく日だからかな。今にもぽつりときそうな曇り空を見ながら、くだらないことを思った。

 いつもならこの時間帯は講義があるけど、今日は講師の都合で休みになっていた。

 だったらちょうど良いだろうと、『姉さんとの写真を撮る』というこの前の約束を今日にすることした。

 それでも、待ち合わせ場所は文慶大学の入り口前だった。

 どうして用もないのに大学で待ち合わせているかというと、ただもっとも分かりやすいから、ただそれだけの理由。

 いちおう、十分前には着くようにしていた。

 けど、門の前にはもう誰かいた。黒のスラックスと白のワイシャツを着た男性。遠くでも分かるくらい、かっこいい雰囲気が漂っていて、だれなのかはすぐに分かってしまった。

「ごめん、おまたせ」

「いや、今ちょうど来たとこだから。てか、この会話きもいな」

 そう言って蓮はくすくすと笑って、僕も笑ってしまう。たしかに、男同士だと意味もなくきもい気がした。

「蓮、今日の格好普通だね」

「なに、いつも変ってことかよ」

「いやそうじゃなくて、腕時計しかつけてないし、落ち着いた服装だなって」

「まあ、ちょっとな」

 蓮は襟足に触れながらそれだけを言って歩き出し、僕はそのあとについていく。まあ、そういう気分の日もあるんだろうと、こっちで勝手に解釈することにした。

 そういえば場所はどこなんだろう。

 今さらのように考えていると、蓮はこっちに振り返る。

「行く前にさ、飯食いに行かね?」

 蓮はお腹をさすって、少し眉間に皺を寄せていた。僕は少し悩んだけど、頷いた。昼ご飯を食べてきたからそんなにお腹空いてないけど、ぎりぎりピザ辺りならいけそうだから。

 たった二回の会話で決まったのは、案の定、学生の味方サイゼリア。

 蓮はミラノ風ドリアを、僕はマルゲリータピザを頼んだ。もちろん、ドリンクバーはなしで。水を飲んで一息つき、僕は蓮のほうを見遣る。

「そういえば、写真を撮る場所ってどこなの?」

 そうなにげなく聞いたつもりだったけど、間の悪いことに注文した二つのものが着てしまった。なんだか、もう一回言うのも変な気がする。

 とりあえず何事もなかったかのように食べていると、蓮は一口食べてから口を切った。

「ここ」

 それだけを言ってスマホを差し出してきて、蓮はもくもくと食べ進める。

 でも僕は、おもわず手を止めてしまった。

 そこに映っていたのは、ここから一番近い順東大学附属病院だった。

 そこで、蓮の落ち着いた格好に合点がいった。

 ということは、もしかして。

 僕は頬を掻いてしまいつつ、ちらりと蓮を見遣った。

「もしかして、蓮のお姉さんって、入院してるの?」

「してないよ」

 蓮はスマホを取り上げて、いじりながら淡々と言う。

 冷たすぎる冷房のせいか分からないけど、手のひらが湿っていくのを感じていた。まだ半分くらいしか減っていないけど、僕は水を入れてくると告げて席を立つ。水を注ぐ音が、直接耳に入ってくるみたいに聞こえてくる。

 蓮の答えは、もはや、なにかを隠しているようにしか見えなかった。

 最初はお姉さんが病気だったり妊娠していたりと、なにかしらの理由で入院しているのかと思ったけど、そうではないらしい。

 ということは、蓮なのだろうか。

 そうじゃなければ、わざわざ病院で撮る必要も、水曜日の用事を隠す必要も、なにもないから。

 そういえば蓮はこのまえ、植物病のことをどう思うか聞いてきた。

 もしかして、蓮は。

 嫌な考えが、鎖で結びつくようにどんどん繋がっていく。でも蓮から直接聞いたわけではないし、植物病なんて奇病、かかる方が珍しいし……。

「お客様」

 そう声をかけられ、僕は水が溢れ出ていることに気づいて、急いで止める。蓮の心配そうな顔が見えて、僕は「ぼうっとしてた」といちおう言っておいた。

 前を見遣ればタイミングよく、蓮は噛み切るように欠伸をしていた。僕はそっと、口に水を含ませて転がす。口がすごく渇いて、気持ち悪い。

 なんでもないはずの行動が、今の僕には、どこかわざとらしく見えてしまった。

 僕がいつまでも黙っているからか、「このドリア下手したら週五で食べてる」とか、「同じ学部の山下が彼女に振られた」とか、蓮はなにかと話しかけてきた。

 こんなに無理をさせているのに、いつまでも呆然としてはいられない。僕はなるべくいつも通り話した。

 でも、胸の辺りはいつまでも落ち着かなかった。

 まるで、蝉でも住み着いているみたいだった。

 お互い食べ終えて、僕はトイレに行く。手を洗うとき、自然と鏡に目がいっていた。そこで笑顔をやってみて僕は、ははっと乾いた声で笑ってしまった。

 初めて自分の作り笑いを見るけど、引きつっているにもほどがある。

 こんなの、蓮にバレているに決まっている。

 どうしてここまで不器用なのかな、僕って。

 おもわずため息が零れてしまいつつも、両頬を叩いて蓮の下に戻った。これから撮影なんだから、こんな所でいつまでもウジウジしてはいられない。

 後ろのポケットに入っている、折り畳み式の財布を取り出す。

 けえお、伝票がどこにもなかった。店員が持ってくるのを忘れたのかと思って呼ぼうとすると、蓮に止められた。

「そろそろ時間だし、行こうぜ」

 蓮はそれだけを言って、席を立った。僕は一瞬ぼうっとしてしまってから、すぐにあとを追いかけた。顔が綻んでしまいそうになるけど、必死に押し殺した。

 たぶん、僕がトイレに行っている間に払ってくれていたんだろう。なんだこいつ、って思った。でもひとまず、「ありがとう」とお礼は言っておく。

 すると蓮は小さく笑って、「おう」と言ってすぐに前を向いた。なんとなく照れ隠しなんだということは分かって、自然と僕も笑顔になっていた。

 ここまで和ませてくれているのに、変な写真は撮れないな。

 今は写真のことだけに集中しようと、心の中で何回も言い聞かせた。

 順東大学附属病院までの道のりは、大通りをただ真っ直ぐ行くだけという、とても単調なもの。ひたすら、歩く時間が続いていた。

 でもそこに気まずい風はいっさい吹いていなくて、なんなら芝生で寝っ転がって日向ぼっこしているのと同じくらい居心地が良い。

 心を許されているみたいで、僕はけっこう好きなのかもしれない。

 蓮は、どう思っているんだろうか。

 横目でとなりを見遣ると、蓮はうっすらと口角を上げて、空を見上げていた。僕の頬も勝手に緩んでしまった。

 信号が赤になって、足を止める。

 手持ち無沙汰になって無意識にスマホをいじっていると、蓮がこっちを向いているのが視界に入って、振り向いた。目が合うと蓮は視線を落とし、口を閉ざしていた。

 でも信号が青になると、歩きながら蓮は話し出した。

「じつはさ、俺の親って離婚してんだよね。そのせいで、姉さんとは別々に暮らしてるみたいな」

 蓮は前髪をいじりながら言ったあと、徐に息を吐き出す。でも僕は口を開くこともできずに、ただ頷くことしかできなかった。

 それを合図に、また蓮は話し出す。

「でもべつに、今はあんま気にしてないから」

「うん」

 今回は声を出して、表情も緩めることもできた。すると蓮はやんわりと頬を上げ、淡く朱色に染めた。

「だからまあ、たまには姉弟の写真も良いかなって」

 腕を上げてぐいっと大きく伸ばし、ポケットに手を突っ込んだ。つい、僕は笑顔になってしまう。

 珍しく、蓮が恥ずかしそうにしていた。

 だからということもあるけど、一番はそこじゃない気がする。

 今まで蓮は、内側をあまり話してくれなかった。そんな彼が、素直じゃないにしろ、僕には話してくれた。

 それが、ちょっぴりくすぐったかったのかもしれない。

 蓮は僕のほうを見て、革の白い腕時計に見せてきた。「これ、姉さんに貰ったやつ」とくすりと笑って言う。じっと、蓮は腕時計に目を据える。

「べつに言わなくても良いか、って思ってたんだよ。でも協力してもらうのに事情知らないのは、さすがにどうなんかなって。それに姉さんの前で急に知ったら、どうしたら良いか分かんなくなるな、とも思ったんだよ」

 こちらをちらりと見ながら、言葉を次々と並べていく蓮。頬が緩んでしまって、収まってくれない。

 いつも飄々としているからこそ、なんだか少しかわいく見える。

 でも、そんなことより。

 僕を信頼していないから話してくれないんじゃなくて、気を使ってくれていただけなんだと知れて。

 溢れ出す気持ちを、堪えきれなかったのかもしれない。

「ありがと、話してくれて」

 蓮と目を合わせて言うと、蓮はもみあげに触れながら小さく笑って、「おう」と呟くように言った。

 なんだか今日は、蓮の知らない一面がいっぱい見られた。

 友達として、距離が近くなった気がして嬉しくて、そんな蓮のお姉さんとも仲良くなりたいと、素直に思った。

「蓮のお姉さんって、どんな人なの?」

「うーん、頑固、みたいな? てかなに、気になんの?」

「まあ、蓮のお姉さんだし」

「まあ、俺に似て美人だけど、あの人だけはやめとけ。めんどくさいから」

 まじめな顔で言ってきて、僕はすぐさま首を横に振った。

 なんだか勘違いしているし、それとなんだか言い回しがおかしい気もする。けどまあ、蓮が美人だということは、きっと相当なんだろう。

「べつにそういう意味で聞いたわけじゃないよ」

「なんだよ、つまんねーの」

 蓮はからからと笑いながら、後頭部で手を組んでいた。僕もつられて笑ってしまった。くだらない会話だと思ったけど、僕は意外と好きなのかもしれない。

 いつの間にか、順東大学附属病院にたどり着いていた。

 蓮がすたすたと入っていくのを横目に、僕は深く息を吐いて足を進めた。

 話しに夢中になっていたけど、忘れていたわけじゃなかった。

 蓮は何かしらの、重い病を患っているかもしれない。

 でも今はとにかく、なんともないように振る舞おう。

 きっとそれを、蓮も望んでいる気がするから。

 病院に入ると、保健室よりも濃いアルコール臭がして、眉間に皺が寄ってしまう。体はかなり強いほう。小さな病院にさえ、予防接種くらいでしか行ったことがない僕にとっては、すごく強烈だった。

 蓮は「ちょっと待ってて」と言って、受付近くの待合スペースに向かう。なにやら探している様子で、蓮は再びスマホに目を向ける。すると、蓮はため息を零して戻ってきた。

「まだだって。てか、それなら早く言えよって感じだよな」

 蓮は普段あまり言わない文句を、すらすらと口にした。

 姉弟の間では、普段こんな感じなんだろうか。いつも澄ましている蓮でも、なんだかんだ弟らしいところもあるんだな。

 ついくすりと笑ってしまうと、蓮にぎろりと睨まれた。僕は咳払いをして、座って待つことを提案した。

 隣に座らせてもらうおばあさんに会釈してから、腰を下ろす。

「蓮のお姉さんって、少し天然なんだね」

「違うって。ただドジなだけだから」

 蓮は苦笑しながら左右に手を振っていて、僕はいっそう唇の端が上げてしまう。

 もしかしたら、蓮とお姉さんは意外と仲良しなのかもしれない。喧嘩するほど仲が良いとは、よく言ったものだと思った。

 蓮の手にあるスマホが震えた。

 蓮はため息交じりに立ち上がったのを見るに、たぶん、やっと蓮のお姉さんが着いたんだろう。

 僕は蓮とは違った意味で深く息を吐いて、後ろをついていった。

 蓮が声をかけて、近づいていく。

 でも、立ち尽くしてしまった。

 口を動かすこともできなくて、石にでもなっているみたいだった。

 僕の前に立っていたのは、一人の女性。

 おそらく、蓮のお姉さんなんだろう。

 たしかに、目を疑ってしまうほど、美人な女性だった。

 でも、問題はそんなことじゃなかった。

 長い黒髪に乗っかったカンカン帽に、白いワンピースと、それにも負けないくらい真っ白な肌。

 そして黒く澄んだ、ガラス玉みたいにまん丸な瞳。

 こんなの、見間違いようがなかった。

「菫、さん?」

「え、螢くん?」

 おもわず、声が漏れていた。それはどうやら、菫さんも同じようだった。

「え、なに、知り合い?」

「うん。友達、みたいな感じだよね?」

「まあ、そうですね」

 菫さんが目配せをしてきて、僕はどうにか応える。開いた口は塞がらないし、頭はスクランブルエッグみたいにこんがらがっていた。

 まさか、蓮のお姉さんが菫さんだったなんて。

 たしかに見比べてみれば、大きくてくりっとした、カラコンいらずの瞳はよく似ている。

 それに、菫さんと蓮の会えない日は、同じ水曜日。

 たぶん、いつもここで待ち合わせして、毎週会っているからなんだろう。

 そこらへんを踏まえると、姉弟だということには納得がいくような気もしてくる。

 それでも、あまりにも突然のこと過ぎて頭が追いつかず、僕だけが会話から取り残されてしまう。

 知らない内に、蓮はトイレに行っていた。

 つまり、二人きりだった。

 いったい、なにを話せば良いというんだろう。

 そう思って、僕も蓮に便乗しようとした。べつにトイレに行きたいわけじゃないけど、今は行くしかない。

 でもその前に、菫さんに肩を叩かれて引き留められてしまう。

「まさか、蓮の友だちが螢くんだったなんてね」

 ははは、と僕は明らかに嘘くさく笑ってしまう。

「僕も、まさか蓮のお姉さんが菫さんだとは思いませんでしたよ」

「そうだよね。あんまり似てないから」

「そうですか? 周りがよく見えている所とか、そっくりだと思いますけど」

「へえ」

 菫さんは一瞬肩を強張らせてから、目を細めてこっちを見据えてくる。僕は目を逸らして、頬を掻いてしまった。

 体が熱くて痒くて、急に暖房の効いた部屋に入ったときみたいになっていた。

 蓮、速く戻ってこないかな。

 ちらちらと、トイレの入り口を見てしまう。するとふふっと笑い声が聞えて、振り向く。

「蓮の友だちが螢くんで良かったよ」

「まあたしかに、知らない人よりは良いですよね」

 いくら社交的な菫さんだとしても、初めて会った人に写真を撮られるのは、緊張するんだろうか。そう思っていったのだけど、菫さんは首を横に振った。

 そして、花開くように笑った。

「蓮の友だちが、螢くんで良かったってこと」

 僕は頬を掻きつつ、そっぽを向いてしまう。そんなふうに思ってくれるのが、素直に嬉しかった。

 蓮が戻ってきて、僕たちは病院を後にした。

 撮影場所は歩いて五分くらいのところにある、本望寺というところ。そこには自然に囲われた大きな公園もあるようで、きょうのメインで撮る場所でもあった。

 本望寺は、菫さんと蓮が幼いころによく来ていた公園らしい。だからせっかく撮るなら、思い出の地が良いということで意見が固まったらしい。

「やっぱり、良いところだよね。来てよかった」

「そうだな。姉さんが駄々こねなかったら、もう来なかったかも」

 蓮が唇の片端を上げて言えば、菫さんは蓮に向けてどつく。僕はおもわず。笑ってしまった。

「木陰で涼しいし、なにより、匂いが好きです。雨っぽくて」

 僕は深呼吸をして言うと、菫さんも僕と同じように真似た。それから笑顔になって僕を見たて、そして、下を向いた。

 真下に転がっていた石ころを蹴飛ばして、その行く末にじっと目を澄ましていた。

「私も好きだったな、この匂い」

 僕はその横顔を見つめてしまった。僕の爪の長さくらいありそうなまつ毛は、微かに垂れ下がっていて、少し歪んで見えた。

 でもこっちを振り向いたときには笑顔で、緑の雰囲気に溶け込んでしまいそうなくらい自然だった。

 涙目だったように見えたんだけど、気のせいだったんだろうか。

 それに、雨が過去形の好きだった。

 僕は高校生のころまでゲームが好きだったけど、今ではもうほとんどやらない。好きだったものが、好きではなくなる。

 そんなのは、よくあることなのかもしれない。

 けど好きだったものが嫌いになるなんて、よっぽどのことがないと起こらないんじゃないだろうか。

 菫さんが雨を嫌いなのは、梅雨に菫の花が散ってしまうから。

 どうして、嫌いになってしまったんだろう。

 そんなちょっとしたもやもやを抱えながらも、写真の撮影は始まってしまった。

 最初は話しながら、なにげない風景を撮っていく。

 菫さんはもちろんのこと、蓮も緊張に強いからなのか、それとも撮影者が僕だからなのか、硬い感じはあまりしなかった。

 いっしょに過ごしているから、なんとなく分かるのかもしれない。笑ったときの目元とか、困ったときの髪に触れるしぐさとか、よく似ていた。

 素直になれないと言っていた、二人だけど。

 僕からしたら、すごく仲良しにしか見えなかった。

 それなりに撮り終えた僕たちは、ベンチで少し休憩することになった。

 菫さんはお手洗いに行き、僕と蓮の二人きりになる。僕はさっき撮った写真を確認していると、蓮も横から覗いてきた。

「良い写真だな」

「うん、そうだね」

「なあ、少し歩かね?」

 頷き、僕たちはすぐそばにあった階段を上っていく。湿っていて滑りそうだから、少し慎重に登っていく。蓮は慣れているからか、僕より少し登るのが速かった。

「姉さんのこんなに笑った顔、久しぶりに見たかも」

 そんなふうに蓮は目を細めて、つい首を傾げてしまう。

「そう? 仲良さそうに、見えたけど」

 蓮は目線を外し、襟足を軽くかき上げた。そこが痒いのかぽりぽりと掻きながら、階段の出っ張った部分に足先を乗せて、たったっとテンポよく上っていく。

「たぶん、螢のおかげだよ。いつも素っ気ない会話して、終わりみたいな感じ出し」

 どんどんペースを上げて行くわりに、声は少しずつ色をなくしていく。

 振り返り、僕の目を見据えた。

「だから、姉さんのことよろしくな」

 太陽のように、眩しく笑っていた。

 蓮は踵を返し、歩き出した。僕はその背中に目を凝らし、立ち尽くしてしまう。蓮に声をかけられ、追いかける。

 それから僕たちの会話は、なんてないことだった。

 オープンキャンパスに来ていた女子高校生にかわいい子がいたとか、バイトがだるいとか、今月も金欠とか。

 僕はなにも答えなかったのに、どちらからもさっきの内容をぶり返すことはなかった。

 でも僕の頭の中ではずっと、そのことを考えてしまっていた。

 よろしくな、ってなんだろう。

 友達としてなのか、それとも僕の菫さんに対する想いに気づいてなのか。

 ほんの一瞬はそんなふうに思ったけど、やっぱり違う気がした。

 あのときの蓮の視線は真っ直ぐで、僕の心に突き刺してくるみたいだった。なにか覚悟を決めたような、そんな重い表情だった。

 だから、やはり蓮は……。

 僕は顔を上げ、木漏れ日の中で瞼を落とした。自然の澄んだ香りを吸っても、頭の中は少しもすっきりしてくれない。

 いったい、どう答えれば正解だったのかな。

 そればかりが、いつまで経っても離れてくれなかった。

 ベンチに戻ると菫さんは座っていて、もう十分に撮れたからと、僕たちは解散することになった。

 菫さんは家が近所で、僕と蓮は電車だから道を分かれた。歩いていると途中に自販機があって、蓮はそこで立ち止まって財布を取り出した。

「喉乾かね? 螢はなに飲む?」

「いや、さすがにもういいよ。自分で買うから」

 そう言いながら、僕は後ろポケットに手を持っていく。あれ、と思って反対側も前ポケットも叩く。

 けど、なかった。

 いちおうバックの中も探ってみるけど、やはり見つからない。それを蓮に伝えると、蓮は顎に指を添えた。

「サイゼのときはあったんなら、病院くらいしかないんじゃね? 螢の折りたたみだし、歩いてるだけじゃ落ちないだろ」

「たしかに。ごめん、先帰ってて」

 僕は手を振って、病院へ向かって走る。でも院内はさすがに走るわけにはいかないから、早歩きで座っていた場所に行く。

 すると、おばあさんに話しかけられた。

 たしか、となりに座っていた方だった。

「これ、あんたのかい?」

 その手にあったのは、たしかに僕の財布だった。僕はなんどもお辞儀をして受け取ると、おばあさんは目じりに皺を増やした。

「良いんだよ。それよりも、菫ちゃんと蓮ちゃんの友だちなのかい?」

「あ、はいそうです」

 するとおばあさんは、またいちだんと皺を濃くして、僕のほうにしっかりと座り直した。そこで僕は、なんとなく察してしまった。これは確実に長くなるやつだった。

「そぉかいそぉかい。じつはね、菫ちゃんとは同じ部屋で入院しててねぇ、最近まで、よく話し相手になってもらってたんだよ。それでねぇ」

「えっと、待ってください」

 僕はおもわず手をかざして、止めてしまう。おばあさんは呆けた顔して首を傾げていたけど、そんなことを気にしている暇はなくなっていた。

 今、なんて言った。

 入試? 乳製品?

 いや、本当はちゃんと聞こえていた、入院って。

 菫さんが、入院?

 きっと、聞き間違いだろう。

 そうで、あってほしい。

 そう何度も頭の中で繰り返しつつ、おばあさんに尋ねた。笑顔でいるのを、忘れてはいけない。

「菫さんって、入院してたんですか」

「そぉだよ。今も水曜日とかは来てるけどねぇ」

 水曜日。

 そして、蓮が聞いてきた植物病。

 植物病は起きられる時間が短くなっていき、最後には植物状態になってしまう。

 菫さんと会えるのは、夕方だけ。

 ぜんぶが磁石になったみたいに、いっきに結びついていく。

 だからかもしれない。

 僕はおもわず、聞いてしまった。

「植物病、だからですか?」

 すぐに聞かなければ良かったと、後悔した。

 けど、もう遅い。

 おばあさんはなんどか瞬きをして、急に口元を押さえた。それを目の当たりにしてしまった僕は、たぶん、もう笑顔ではなくなっている。

「もしかして、知らなかったのかい?」

 肩が強張ってしまいながらも、なんとか首を縦に振った。おばあさんは目を落とし、両手を強く握ってから、すとんと肩を落とした。

 たぶん、菫さんに悪いと思っているんだろう。

 よくよく考えてみれば、騙すようなことしていたことに気づいた。申し訳なくなって謝ると、おばあさんは優しく目を細めた。

 徐々に胸が痛くなって、ひもで縛られているみたいだった。

 僕はもう一度おばあさんに頭を下げてから、院内を後にした。

 そろそろ夕方のくせに、いつまでも蒸し暑い。

 僕は空を仰いで、ため息が零してしまう。でもべつに、この暑さの原因である太陽に向けてのものではなかった。

 スマホが振動した。

 開いてみると、『見つかったか?』と蓮から連絡が来ていた。

 僕は「うん」とだけ送り、スマホをそっとバックの中にしまった。いちおう、電源も切っておいた。

 なんとなく、僕は病院の庭にあるベンチに腰掛けた。両太ももに肘をつき、うなだれるように座る。丸まった影が、足元にできていた。

 ただ、ぼんやりと前だけを見ていた。

 喉かな空気が流れていて、欠伸が出てしまいそうなほどだった。

 目の前では、看護師の女性が車いすのおじいさんに微笑みかけて、楽しそうに話している。普段ならつられて微笑んでしまいそうな風景だけど、今の僕には作り笑いすらできる気がしなかった。

 赤の他人とでも、どんなに性格の合わない人とでも、看護師の方はああやって笑顔で関わらなければいけない。

 僕に、そんなことができるんだろうか。

 ぜったい、できない気がする。

 本当に、すごい職業だと改めて思った。

 カメラの電源を入れて、菫さんの映っている写真、一つ一つに目を通す。

 どれも笑顔で、楽しそうな思い出。

 一週間くらいしかないのに、懐かしく思えてくる。

 僕は額を押さえ、震えるように深く息を吐いていた。

 こんなこと、思いたかったわけじゃないのに。

 植物病のせいで、たださえ時間が限られている。

 それなのに、僕のわがままに付き合わせている。

 これから、どうしたら良いんだろう。

 僕は立ち上がり、大きく空気を吸った。

 こんなときに限って香ってくるのは、ペトリコール、石のエッセンス。

 そういえば夕立があるかもしれないとニュース番組で、お天気お姉さんが言っていたのを思い出す。

 すると、雨が降り出した。

 水滴が服に浮くような、優しい雨だった。

 雨で始まり、雨で終わる。

 そう思うと、ぴったりな日なのかもしれない。

 好きだったな。

 そんな心のささやきは、雨の中に溺れさせてしまおう。

 狂い咲きの花は、たった一週間で散ってしまったようです。

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