第一章・一凛の花つぼみ

 泉場公園に行こうと思ったのは、本当にただの気まぐれだった。

 大学二年生になって、多くの大学生がだらけてくるころ。それに夏休み前ということもあってか、外は今年の最高気温三十四度に達していた。湿気で髪はうねるし、セミの声はうるさいし、通学するには最悪だった。

 喉の渇きに耐え切れず、家の近くのコンビニで買ったミルクティーは、下に触れると若干の気持ち悪さを感じるほどまでぬるくなってしまった。でも喉は渇くから、飲まずにはいられない。

 色々あって今、とにかくため息が止まらなかった。

 そんなときに見つけたのが、泉場公園、というなんだか涼しそうな名前の公園だった。

 今まで何度も通り過ぎていた公園だけど、名前を知ったのは今日が初めて。

 なんとなく、立ち寄ってみたくなった。

 いつも余裕を持って家を出ているから、寄り道する時間は十分にあった。

 じいっと突っ立て見ていると、なんだか、だんだんと涼しそうな場所に見えてきた。気のせいだろうな、と思いながらも足を踏み入れる。

 泉場公園には珍しい遊具があったり、他では見られない緑があったりするわけではなく、とても普通だった。強いていうなら、公園全体が木に覆われていて、都会を抜け出したみたいな感覚を味わえるくらい。

 それなのに僕が行ってみたいと思ったのは、忘れかけていた子ども心、というものかもしれない。

 僕は今年で二十歳になり、酒も飲めるしタバコも吸えるしで、ある意味では子どもと大人の境目。そういうのが湧いてきても、おかしくない時期なのかもしれない。まあ、あまり関係ないとも思うけど、そういうことにしておく。

 公園の端のほうに、屋根付きのベンチがぽつりと立っていた。

 側には一歩で渡れる小さな川があり、カンカン照りの日差しでキラキラと眩しく光っていた。川を越えた先には少し黒ずんだような木の屋根があって、そのせいかどこか涼し気。

 なんだか、良い感じだった。

 気になって向かってみると、葉の擦れる音に出迎えられる。日陰は思っていたより快適で、葉っぱをすり抜けてきた風がほんのり涼しい。冷房に頼り切りな日本だけど、あながち自然も馬鹿にはできないな、と改めて偉大さを感じさせられていた。

 講義までまだ時間もあるから、僕はここで時間を潰すことにした。

 ベンチに手をかけ、だらりと腰かけて日向のほうを眺めた。小学生くらいの子どもたちが走り回っていて、つい笑みが零れていた。

 学校終わりなんだろうか。

 懐かしいな、輝いているな、とジュブナイルな写真を見た気分になる。

 気づけば、僕は一眼レフカメラをバックから取り出していた。

 僕のもう一つの瞳から、景色を覗く。

 ぱしゃり、とシャッター音が時を止める。

 ファインダーから目を離し、プレビューボタンを押す。

 夏風に揺れている木々に、遊具を使って遊ぶ子どもたち。子どもがきゃっきゃっと笑っているのが分かって、特別なことをしているわけではないけど、すごく楽しそう。

 ほんの少しだけ、わざとぼかしているからか、懐かしさが増している気がした。

 だからかもしれない。

 僕はこの写真に引き付けられていた。

 幼い頃は、馬鹿みたいに笑って、しょうもないことではしゃいで、怒られてわーわー泣いて。

 なにも、考えなくて良くて。

 今よりもっと、視界が澄んで見えて。

 とにかく、楽だった。

 ここにいると落ち着いて、心が休まる気がした。

 公園に入るのなんて何年ぶりだろう、とつい思い返してしまうくらい久しぶり。幼いころ公園は行くのが当たり前だったから気づかなかったけど、すごく良い場所だったんだな、と改めて感じさせられた。

 また、来ようと思った。



 次の日も、僕は公園に来ていた。

 午前中に来たからか子どもたちはいなくて、来ているのはおじいさんおばあさんくらいだった。

 昨日とは違ってどんよりと曇っていて、天気予報ではおそらく雨が降るのは明日と言っていたけど、僕は一応折り畳み傘をバックに忍ばせていた。カメラが濡れてしまわないよう、念には念の準備をしておかなければならない。

 より懐かしい雰囲気を引き出してみたくて、メニューからピクチャースタイルに入り、モノクロに設定してから、白黒の風景写真を撮っていく。

 すると、にゃー、というかわいらしい鳴き声が足元から聞こえてきた。下を向くと真っ白な猫がいて、しゃがむとその猫は僕の足にすり寄ってきた。

 撫でてあげると、いっそうとろんと目元が細くなる。

 うわ、めっちゃかわいい。

 つい笑顔になっていて、細くて柔らかい毛が気持ち良くて、ずっと触っていたくなる。

 顎のあたりを掻いてあげると、猫はこっちを見上げた。

 僕はおもわず手を止め、カメラを猫に向けていた。

 被写界深度を下げて、周りをぼかす。懐いてくれたのか、真っ直ぐこっちを見てくれて、焦ることなく何回も撮ることができた。撮った写真を見てみると、「すごい」と声が漏れていた。

 クローズアップ(顔のアップ)で撮ったのは、眩しくて細くなった猫の瞳だった。

 光に当たると、ほんのり紫がかっていた。

 珍しい瞳だった。

 だからかつい見とれていると、いつの間にか猫はどこかへ行ってしまった。もっと触っていたかったけど、猫は気まぐれというくらいだから、しょうがないようにも思えてきた。

 ひとまず重い腰を上げ、大学へ向かうことにした。

 泉場公園を出て交差点を渡り、文慶大学の中へ入っていく。一年生のころは少し迷うこともあったけど、今はもう行きたい場所にたどり着くことができるようになった。

 教室に入って講義の準備をしていると、だれかに肩を叩かれる。だれだろう、と振り返ったやさきに何かが頬に刺さる。僕はため息交じりにそれを退ける。

 こんなことを僕にするやつなんて、学内でたった一人しか知らない。

「螢って、ほんとに素直だよな」

「うるさいよ、蓮」

 僕は息を吐くように言うけど、友達である大沢蓮はそんなの全く気にせず、むしろ面白がって無邪気に笑っていた。僕はまたため息を吐いてしまい、諦め半分に手を動かす。

「そういえば、螢ってこの前出た課題終わらせた?」

「うん、終わったよ」

「まじかー、俺、分かんないとこあったんだよな」

 見せてくんない? 多くの人がそういうふうにねだってくるだろう、でも。

「じゃあさ、今度教えてもらっても良い?」

 僕は自然と、口の端が上げて頷いていた。たまにイラっとはするけど、蓮は軽そうな見かけに反して、真面目なところは真面目だった。

 だからこそ、友達でいたいと思うのかな。

 大学に入って初めてできた友達が、蓮だった。

 出会ったときから、こんなふうに子どもっぽいやつ。言ったところで変わらないから、もうなにも言わないことにしていた。

 けれど蓮のことが嫌いなわけじゃなく、むしろ学内では一番仲が良い友だちと言えるんだろう。

 とはいえ、蓮自身がどう思っているかは、知らないけど。

 僕がペンケースとかノートとかを出している間に、蓮の周りにはたくさんの学生が集まっていた。

 蓮はイケメンだった。顔はもちろんのことイケメンで、山崎賢人似の正統派。

 けど、なにより内面がイケメンだった。

 人の変化や困っている様子にいち早く気づき、声をかけてくれる。空気が悪くなったときは、率先して和ませることができるし、なにかを始めるときは絶対に蓮からだし。

 とにかく物事に敏感なやつで、みんなを笑顔にしてくれる。

 蓮は、太陽みたいだった。

 だからこそ、蓮が僕のことをどう思っているのか、確信を持つことができないんだろう。僕が知らないだけで、蓮にはもっと仲が良い友達がいるかもしれないから。

 それでも、一番だったら良いな、とは思うけど。

 退屈な九十分の講義が終わると、また一気に蓮のところに人が集まる。蓮が中心にいて、さっきの静かさが嘘みたいに色んな声でいっぱいだった。

 はたから見ていると、もはや自然現象のようにも見えてくる。眠いから寝る、時間が空いたから蓮のところに集まる、みたいな。たぶんどことなく間違っている気もするけど、ニュアンス的にはそんな感じだと思う。

 とにかく、蓮はすごいということだった。

 僕はその周りの一人で、楽しく笑っていた。

 でも僕はバイトがあるから早めに抜け出しすと、蓮に声をかけられた。

「あのさ、明日暇?」

「うん、暇だけど。バイトもないし」

「じゃあ明日学校でさ、分かんなかったところ教えてくんない?」

「良いけど、なんなら今教えようか? バイトまでまだ少し時間あるから」

 そう言って僕はペンケースを取り出そうとすると、蓮は僕の腕を掴んできた。蓮は一瞬目を丸くしてから、手を離して後頭部に置く。少しだけ視線が泳いでから、こっちを向いた。

「やっぱさ、明日にしようぜ」

 にこりと笑って言って、僕は少し溜めを作ってしまいながらも頷いた。蓮がグループの中に戻っていき、僕は教室を出た。

 蓮は水曜日だけ、会うことができない。

 そして、今日は水曜日だった。

 なにか用事があるのだということは知っているけど、それがなんなのかは、誰一人として知らなかった。

 スマホを手に取り、蓮とのトーク画面を開いて文字を打った。けどやっぱり打った文字を消して、スリープさせてスマホをしまった。

 なにかあるんだろうか、とつい勘ぐってしまいたくもなるけど、蓮からしたら嫌だろうからやめておいた。

 隠したいことの一つや二つくらい、誰にでもあるだろうから。

 それでも、気になってはしまうのだけど。



 僕がバイトをしている場所は、地元にあるチェーン店の本屋。

 学生にとっては放課後で、社会人にとっては会社終わりの時間だからか、レジのほうを見るとかなり混んでいた。

 控室に行くと、少し息を切らしている店長と出くわした。見るからに急いでいる様子で、僕は挨拶だけして通り過ぎると、店長はにかりと笑った。

「いやー、いつも来るのが早くてえらいね。いつもギリギリに着て少しだけ遅刻してくる先輩とは大違いだよ」

 先輩のことだからあまり大きく笑えない僕に対して、店長は豪快に笑っていた。更衣室にいる先輩にもぜったいに聞こえているだろうから、たぶん注意も含めたものなんだろう。

 店長は、基本的に優しい。

 失敗しても怒らないし、気配りもしてくれるし。でも、遅刻やバックレに関してはとても厳しい人だった。だから遅刻をしたことがない僕には、きっと優しいんだろう。

「今日は村上春樹の新作が出て混んでるから、がんばってね」

「じゃあ、早めに入りましょうか?」

「良いの? じゃあ、お願いしようかな。レジに行ってもらって良い?」

 僕は更衣室で早めに着替えてから、早足でレジに向かう。不器用なりになるべく急いでかつ丁寧にこなし、なんとかピークの時間を越え、閉店することができた。

 控室でベンチに座って一息ついていると、店長が入ってきた。

「いやー、今日はありがとね」

「いえいえ」

「それにしても、今日混んだね」

「そうですね」

「店的には村上春樹が新作を出してくれたほうがありがたいんだけど、嶋野くんからしたら迷惑な話だよね」

 はははっと笑いながら、店長は僕の前の席に座った。

 でもそこで会話は途切れてしまって、他の人は帰ってしまったから物音一つしない。僕からはなんの話題もなくて、帰ろうかと思ったら、店長は「そういえば」と前置きをした。

「嶋野くんっていつも写真関係の雑誌を社販で買ってるけど、写真、好きなの?」

「はい、そうです」

「じゃあ、自分で撮ったりもするの?」

「そうですね。撮れる日はいつも撮ってます」

「すごいねー。かっこいいとは思うんだけど、値段とか考えたら中々ね。一眼レフカメラだと、何十万とかしちゃうんでしょ?」

「まあだいたいそれくらいしますね。でも、中にはお手頃なやつもありますよ。望遠レンズを買わなければ、安くもなりますし」

「へえ。もうすぐ娘も小学生になるから、買ってみようかな。そのときは、嶋野くんに相談しても良い?」

「はい、大丈夫です」

 僕が笑顔で頷くと、店長は大げさに笑ってお礼を言ってくれた。

 こんなふうに店長は気さくで、話すのが苦手な僕にも気を使ってくれる。

 初めて来たときもそうで、今だって変わらない。

 正直本屋で働くのは、想像していたよりもきつかった。本を運ぶのは重労働だし、物音を立てないように神経をすり減らさなきゃいけないし。店長がいたからこそ、ここでバイトを続けられていると言っても過言ではなかった。

 そろそろ時間も遅いから、帰るための準備をしていると、店長はまた「そういえば」と言った。店長が話し始めるときは、たいていそんな感じだ。

「やっぱ、嶋野くんはプロのカメラマンになりたかったりするの?」

 首を傾げながら聞いてきて、僕は少し肩を強張らせてしまいながらも、笑顔で首を左右に振った。

「いえ、さすがにそこまでは」

「そっか。まあ、ほとんどの人がそうだよね」

 僕は挨拶をしてバイト先を出ると、まだ雨は降っていなかった。

 これなら折り畳み傘の出番はなさそう。一見、無駄に思えるけど、高い一眼レフカメラを守るためなら、僕にとっては大切なことだった。

 僕がバイトを始めたのは、写真部に入った高校から。

 もっと高性能な一眼レフカメラや、その他もろもろのカメラ関係が欲しかったという理由だった。

 といっても、プロのカメラマンになりたいというわけではなく、ただ楽しく写真が取れれば良いだけで、そこまで本気ではない。

 プロになるために写真を撮ったことは、一度もないと思う。

 サッカー部や野球部に入っている人で、絶対にプロになりたいと夢見ている人なんて、ほんの少ししかいないと思う。

 なんなら、一人もいない部のほうが多いはず。

 僕も試しに新人賞に応募したことが一度だけあったけど、かすりもしなかった。

 だから趣味の範囲で最大限できれば、それで良かった。

 夢を見られるのは、本当に手の届くところに夢がある人だけだろうから。



 ドアを潜れば、寒すぎるくらいの冷風と、古い本を蒸したような匂いがした。今日は蓮と図書室で待ち合わせをしていて、約束の十分前に着いた。

 大学なだけあって広い室内を進み、自習スペースに移動して奥のほうまで行くと、蓮はイヤホンをして勉強をしていた。声をかけても返事はなくて、肩を叩くと少し強張らせてからこっちを向いた。

「なんだ螢か」

「教えてあげるのに、それはひどいんじゃない?」

 苦笑を浮かべていると、からからと蓮は笑う。となりの椅子を引くと、そこには蓮のバックがあった。どうやら席を取っていてくれたようで、そのために早く来てくれていたんだろう。

「席、ありがと」

 そう言って座り、トートバックの中からペンケースを出していると、「ははっ」と横から噴き出したような笑い声が聞えた。横を向いて首を傾げていると、蓮はペンを走らせながら口を切った。

「螢のそういうところ、ほんと良いよな」

「どういうこと?」

「そういう素直なこと、言えないからさ、俺には」

 蓮は口元を緩めてこっちを見てから、また手を進めた。僕も課題をしながらも、さっきの蓮の言葉が引っかかっていた。

 ああ言っていたけど、蓮も普段からしっかりとお礼は言ってくれる。だいたいそんなこともできないような人が、人気者になれるわけがないのかもしれない。

 ただ、茶化してきただけなんだろうか。

 その可能性が高いけど、頭の片隅では違うような気もしていた。

 最初のほうは僕が教えていたけど、そのあとはずっと個々で進めていた。この様子だと、自分で解決しちゃったのかもしれない。

 だったら、昨日でも良かったんではないか。

 そう感じつつも、聞くことはできないけど。

 それからもわざわざ今日にした理由が分からないまま、時間は過ぎていった。

 蓮からお礼に奢ってもらったカフェラテを飲みながら腕時計を見遣ると、かなりの時間ぶっ続けでやっていることに気づいて、少し休むことにした。

 スマホをいじっていると振動して、なにかと思って見れば、ニュースアプリの通知だった。内容を見ると、僕は眉を顰めてしまった。

『植物病』の患者が亡くなった、という報道だった。

 この言葉を目にしたり耳にしたりする機会が、年々、増えている。

 それには、わけがあった。

 植物病というのは、かなり稀な病気で、百万人に一人の確率で発症すると言われている。発症すると、本当に少しずつ睡眠時間が長くなっていくという。数年、数十年も経っていくと、その障害は明確になって。

 そして、最終的には植物状態になってしまう。

 その状態から目覚めた患者は、たったの一人もいないらしい。この病気は後天性で、未だに完治させる方法は見つかっていない。そのため、入院生活による延命を余儀なくされる。

 この病気が発見されてから、日本でも安楽死が法的に認められた、とニュース番組で知った。

 他にも、まるでおとぎ話のようとか、もっとも美しい死にかたとか、炎上した発言もあった結果、『植物病』は日本でとても有名な病になっていったらしい。

 だからなにかと報道されていて、必ずと言って良いほど、『植物病』を知らずにはいられないような状況だった。

「植物病の人が、また亡くなったんだって」

 僕はそのことを何気なく、蓮に向かって言った。ちょうど何も話していなかったから、話題になると思ったからだ。

 でも、彼はなにも返してはこなかった。

 眉をひそめてしまいつつも蓮のほうを向くと、彼はなぜかぼうっと下を向いていた。目が、少し大きく開いて見えるのは、気のせいだろうか。

「どうしたの、蓮」

「……ん、ああ、いや、たしかによく見るよな、植物病」

 蓮は少し慌てたように頭を掻いて答えた。

 それからも笑みを浮かべながら話していたけど、僕にはどこか引きつっているように見えた。

 どうしたんだろう、蓮。

 なにか、あったのかな。

 でも、ただ課題のせいで疲れているだけかもしれない。

 だから僕は、いつもと変わらないように意識して話した。

 話題が尽きてきたころ、そろそろ始めたほうが良いと思って、蓮のほうに振り向いて言おうとした。

 けど、できなかった。

 それは先に、蓮が口を開いてしまったからだった。

「植物病って、どう思う?」

 蓮は目にかかるくらいのさらさらな黒髪を無造作にかき上げ、僕の目を見つめてきた。僕は、固まってしまった。

 この服どう思う? って聞くみたいに自然だった。

 たしかに話題を振ったのは僕だけど、それはとっくに前のことで、今さら掘り返す意味が分からなかった。

 頬を掻きつつ、首を傾げて聞いた。

「えっと、どうして?」

「いや、ただなんとなく」

 ただ、なんとなく。

 本当にそれだけで、こんなことを、あんな表情で聞くだろうか。

 そんなふうに考えてはしまうけど、蓮はいつも話しているときと同じ雰囲気で、やっぱりなんとなくなのかな、とも思えてきた。

 でも、いったいどう答えるのが正解なんだろう。

 植物病の人をかわいそうだとは思うけど、なんの関わりもない僕がそれを言うのはどうかと思うし、なんとも思わないのも、人としてどうなんだろうか。

 腕を組んで黙っていると、ははっと蓮は失笑した。

「ごめん、今のは忘れていいから。てか、休みすぎたな。さっさと始めようぜ」

 そう言って蓮はイヤホンをして、課題を再開してしまった。僕も手は動かしたけど、頭の中ではさっきのことでいっぱいになっていた。

 本当に忘れて良いとは、あまり思えなかった。

 冗談で植物病をどう思っているかなんて、聞いてくるだろうか。

 少なくとも、僕ではありえない。

 でも、問い詰めることはできなかった。

 そこまで踏み込んで良いのか、分からなかったのかもしれない。

 もうバイトに行かなければならない時間になっていた。だから蓮のほうを見るけど、なぜかこっちを向いていた。目を瞬かせてしまうと、蓮は天井を見上げて小さく息を吐いてから、横目でこっちを見た。

「なあ、螢」

 蓮は前髪に触れながら僕の名前を読んできて、首を傾げてしまう。

 すると一度こっちを見据えてから、すぐに逸らしてしまった。

「頼みたいこと、あんだけど」

 少しどもったような声で言い、僕は口を丸くしてしまうけど、とりあえず頷いておく。いつもの蓮らしくなくて、こっちまで少しぎこちなくなってしまう。

 蓮は後頭部を掻いて、こっちに目を向ける。

 かすかに、その瞳は揺れていた。

「再来週の水曜日にさ、姉さんと俺の写真、撮ってほしんだよね」

 一度開きかけそうになった口を、きつく閉める。黙って笑みを浮かべて、そっと頷いたら、蓮はどこかほっとしたように目を細めた。

 どうしてそんな深刻そうな顔なのか、写真を撮る訳がなんなのか、とても気になる。

 けど、赤の他人である僕が聞くべきことではないと思ったから、聞けなかった。

 友達とはいえ、蓮の姉である赤の他人を撮るため、お駄賃はしっかりと受け取るということで固まった。

 僕はいらないと言ったんだけど、そういうわけにもいかないらしく、こっちが折れるしかなかった。そのかわり、ご飯を奢ってもらうという約束にしてもらった。さすがに、友達からお金を受け取るのは、なんだか気が引けたから。

 バイトだということを伝えて、僕は図書室を後にした。

 図書室の近くだからなのか、やけに静かで、ずっと下を向いていた。少しだけ、歩幅が大きくなっていた。

 あんなに自信なさそうな蓮、始めて見た。

 今思えば、蓮は自分のことをあまり話さない気がした。

 あったとしても、趣味のことくらい。ああ見えて映画とか、漫画とか、小説とか、インドアな趣味が多いから、僕とはなにかと話しがあった。

 よく思い返しても、蓮は大人数でいるときはたいてい聞き役で、僕と二人のときも、家族や過去の話題が出てきたことなんて、一度もなかったかもしれない。

 水曜日の用事を教えてくれないのと、なにか関係があるのだろうか。

 いくら考えても分かりようがなくて、こつ、こつ、とソールで床を叩く音が、やけに大きく聞こえた。

 外へ出ると、ぽつぽつとまだら模様が地面にできていて、どんどん増えていく。念のため、折り畳み傘を持ってきておいて良かった。大学の門を出て、交差点を渡ったころには雨脚は激しくなり、気づけばアスファルトに模様はなくなって、真っ黒になっていた。

 アスファルトを打ち付ける小刻みな音、折り畳み傘からはみ出て微かに濡れて冷たい腕、土とか草とかに似た匂い。

 雰囲気にあおられ、僕はすかさずカメラを取り出した。

 夕立だった。

 雨なんて、久しぶりだ。

 梅雨に飽きるほど雨の写真は撮ったけど、どうやら、いざ撮れなくなると恋しくなるものらしい。

 さっそく、シャッターを切った。

 道路のほうを撮っていると、たまたま車が通って水しぶきを上げ、レース中みたいなかっこいい写真が撮れた。

 僕はしゃがんで、被写界深度を浅くして周囲をぼやかし、アスファルトを打ち付ける細かな水しぶきを間近で撮ろうと思った。

 けど、急に視界が真っ白になった。

 故障かと思って目を離せば、にゃー、と鳴き声が聞こえた。

「なんだ、君だったんだね」

 そこには昨日会った白猫がいて、目が合うとにゃーと返事をして、その猫は僕にすり寄ってきた。人馴れしすぎだし、毛についた水滴で濡れるし。

 でもこのかわいらしさの前では、全てがどうでも良く思えてくる。

 水滴を払いたいのか体を振ろうとしているのが分かって、とっさにカメラを服で隠す。大事なものは守れたけど、顔には水滴がたくさん飛んできた。顔を拭うと、まん丸い瞳が覗いてきた。僕はおもわず頭を撫でて、口元が緩んでいた。

 せっかくだから、雨バージョンも撮ろう。

 でもカメラを向けると、白猫は公園のほうに走っていってしまった。

 僕も後を着けて公園に入った。かわいい動物の気まぐれに振り回されるのは、そんなに悪くないかもしれない。

 人に振り回されるよりは、数倍マシだからかな。

 アスファルトから砂の道に切り替わると、べちゃべちゃと靴に泥がつく。少し落ちこんだけど、一回汚れてしまえばもう気にせず歩けた。

 追いかけるけど、屋根付きのベンチに入っていくのを最後に、姿が見えなくなってしまった。小さな川を一歩で越え、今朝来たばかりの場所に戻ってくる。

 けれど、僕は足を止めてしまった。

 だれかが、ベンチに座っていた。

 とっさに、茂みに隠れてしまう。こんなことするつもりなかったけど、なんだか反射的にやってしまった。しょうがないから、こっそりだれがいるのか覗き見る。

 僕は、見とれてしまった。

 女性の真っ白な頬に、一つ水滴が見えた気がした。

 雨かと思った。

 けど屋根の下だから、そんなわけない。

 泣いているんだろうか。

 気になってベンチのほうに近づいていくと、そこにはカンカン帽をかぶって真っ白なワンピースを着た女性がいた。

 気づけば、体が動いていた。

 トートバックに手を伸ばしてカメラを取り、しゃがみ込んで肘を膝に置いてぶれないように固定。カメラのファインダー越しに葉っぱの隙間から見据える。

 彼女の瞳に、しっかりとピントを合わせる。

 雨で遮られるかもしれないから、連射していく。

 葉と葉のすきまから見えた景色は、今まで撮ってきた写真をはるかに超えるくらい、僕の心を鷲掴みにしていたと思う。

 空を見上げている黒い瞳は、ビー玉にみたいに少し潤んでいた。

 やっぱり、泣いているのかな。

 なにを思い浮かべて、瞳にはなにが映っているんだろう。

 また、カメラを向けていて、彼女の瞳にズームさせていく。

 彼女の虜に、いつの間にかなっていた。

「ペトリコールの香りがするね」

 僕はおもわず、カメラを動かす手を止めていた。

 たしかに彼女はしゃべったけど、いくら辺りを見渡しても、彼女の周りにはだれもいなかった。

 ただの、独り言だろうか。

 そのわりには、問いかけるみたいな言葉だった気もする。

 再び、ファインダーを覗いてみる。

 でも僕は、すぐに目を離してしまった。

 ほんの一瞬のことだけど、彼女と目が合った気がした。

 まさか、僕に気づいている?

 確認するために、もう一度だけ見てみる。

 けど、真っ暗だった。

 まさか、雨に濡れて壊れてしまったんだろうか。

 焦って確認してみるけど、僕は目を丸くしてしまう。手に取ってからも、じっくりと見てしまった。

 レンズのところに、なぜかカンカン帽が引っかかっていた。

「すみません。それ、私のです」

 声のほうを向くと、そこにはあの女性がいた。

 意外とアルトみたいに低くて、肌に張りつくような湿った声。

 聞いたことない声なのに、すっと胸に馴染んでいって、よく分からないけど、ずっと昔から聞いていたみたいな、そんな感じだった。

 心臓が、雨音を上書きするくらいうるさくなっていた。足元ばかり見つめてしまい、前を向くことなんてできなかった。

 気になって、仕方がなかった。

 勝手に撮っていたことを、知っているのかどうか。もしバレていたのなら、僕はもうおしまいだ。でも自業自得だから、言い訳をするつもりはない。

 けど、彼女は湿気をもろともしないような艶やかな髪を翻し、僕から目を逸らしてしまった。

 そして小川を跨いで屋根の中に入り、傘を畳む。彼女はベンチに座っていて、手元にはさっきの白猫がいた。

 さっきの言葉は、この猫に向けてのものだったのだろうか。

 そういえば、この帽子どうしよう。とりあえず返そうと思って、彼女の歩いたところを辿っていく。

 カンカン帽を渡すと、彼女はいっそう目じりを細めた。

 お手本のような、とても整った微笑みだった。

「写真、好きなの?」

 僕のお腹辺りを見つめていて、それが首からぶら下がっている一眼レフカメラだと分かって、僕は頷いた。

 彼女は「そっか」とだけ言った。

 表情に出さないように、ほっと一安心していた。

 どうやら、なにも気づいていない様子だった。

 木のベンチを叩いて、「座ったほうが良いんじゃない」と彼女に言われる。僕は一瞬体を強張らせてしまいながらも、ベンチのほうに歩いた。断るほうが、たぶん変だろうから。

 余裕を持って、人二人ぶんくらい離れて腰掛ける。

 すると彼女はビニール袋をあさり、なにかを取り出して僕の手に置いた。

 くれたのは、チョコレートだった。

「帽子を拾ってくれたお礼に、あげるよ」

 僕は会釈をしてから食べると、彼女も同じものを食べる。喉が渇くだろうからと、ついでにコーラもくれた。

 拾っただけにしては貰いすぎていて、少し申し訳なくなる。それでも断るのはなんだか気が引けたから、彼女のすることに従うことしかできなかった。

 コーラを一口飲んで一息つけば、なんだか笑みが零れていた。

 なんとも言えない独特な甘みと強炭酸が、喉の奥で痺れる。ペットボトルをペコペコとへこませながら、黒い液体に目を据える。

 そういえば、コーラなんて久しぶりだ。

 大学に入ってからというものの、少しかっこつけてコーヒーとか紅茶ばかり飲んでいた。だからなのかは分からないけど、すごくおいしく感じる。いつの間にか半分くらい一気に飲んでいた。

 おもわず出そうになるゲップを抑え込んで、つい涙目になってしまうと、彼女は笑顔を浮かべていた。つい目を逸らして、コーラを飲み干していた。

 そんなふうにのんびりしていると、隣りから肩を叩かれた。

「もしかして、急ぎの用事とかあった?」

「急ぎではないですけど、この後バイトがあります」

「そっか。傘わすれちゃったから、雨が止むまで話し相手になってもらおうと思ったけど、それなら早く行ったほうが良いよね」

 そう、少し眉を垂らして言った彼女。

 僕は頬を掻いて、彼女から視線を逸らしてしまう。

 それならどうして、そんなふうに笑うんだろう。

 そんな些細なことが、僕には気になって仕方がなかった。でもどうして、気になってしまうんだろう。

 分からない、分からないけど。

 しっかりと体を向け、少し、詰め寄ってしまう。

 どこか、ほっとけないのかもしれない。

「いや、大丈夫です」

「えっ?」

「たぶん、通り雨だからすぐ止むと思いますし、それに僕はバイトまで写真を撮るつもりだったので。だから、その」

 僕は一通り喋ってから、おもわず頬を掻いてカメラに目を逸らしてしまった。

 きょとん、としているのがカメラのディスプレイに反射して見える。話すことに夢中になっていて、ぜんぜん気がつかなかった。

 おそるおそる、彼女のほうを向く。

「ありがと」

 彼女は、笑みを零した。

 僕にだけ向けられた表情が、雨なんかすいすいと簡単にすり抜けてしまって、僕の胸にまで届いてきた。

 心が熱い。

 夏の暑さなんかより、ずっとずっと熱い。

 僕はまた、カメラに目を落としてしまった。

 たかが数分話すためだけに、なにをそんなに必死になっているんだろう。彼女が美人だからだろうか。でもそれだけだとは、あまり思えなかった。

 目が合うと、彼女はやんわりと表情を緩めた。僕もつられて笑みを返すけど、僕は頭の中で首を傾げてしまった。

 彼女の笑顔を、もっと見ていたい。

 けどそれといっしょに、思うことがあった。

 きれいな笑顔なんだけど、見つめれば見つめるほど違和感のようなものがチラついていた。

 でも、どこがどうとかは、なんにも分からなかった。

 すごく、ふんわりしたもの。

 それを知りたくて、もっといっしょにいたいと思ったのかもしれない。

 それでも、僕はなかなか話しかけることができずにいた。

 なにをしたら良いのか、分からなかった。

 切り札に、白猫の話しでもしようかと思っていたんだけど、いつの間にかどこかへ行っていた。

 だからどうしようもなく、ぼうっと空を眺めていた。

 雨は変わらず激しく、上から聞こえる水をはじく音に包まれている。

 そのせいで、となりから音が聞こえてこない。

 今、なにしてるんだろう。

 横目でみると、飲み物を飲んだり、なにかを食べたりしていた。

 カメラをいじるフリをして、ちらちらと彼女を見てしまう。

 それでも気取られないように、ずっと上を向いていると、彼女がこっちを向くのが視界に入った。

「学生、だよね?」

「はい、大学生です」

「そっか。私、大学に行ってないんだけど、やっぱり大学って楽しいの?」

「そうですね。想像していたようなはっちゃけた感じではないですけど、とても充実してます。えっと……」

 そういえば、まだ――。

「そういえば私たち、まだ名前も知らなかったね」

 後頭部に触れながら、彼女は笑みを向けてきて、僕もついつられて笑顔になっていた。

 でも、不思議なことがあった。

 彼女は、私たち、と言った。

 そんな些細なことなんだけど、僕は気になってしまった。

 どういうつもりで言ったんだろう。

 どうしてそんなふうに他人のことを、私たち、と括れるんだろう。

 分からないけど、心の内側が温められるような、笑顔になってしまうような、浮つくような、少し変な気もちだった。

 受け入れてくれている証拠、みたいだからだろうか。

 ただ、嬉しかったということだけは、僕自身が感じていることだった。

 哀(あい)川(かわ)菫(すみれ)。

 彼女の名前はそういうらしく、ついでに名前の由来まで話してくれた。

 菫の花のように可憐で、菫の花言葉のように謙虚な、そんな女性に育ってほしいという思いかららしい。彼女は「単純だよね」と笑いながら言った。

 そのうえ、ピアスを開けたときは痛くないか心配されたり、ちょっと具合が悪いだけで病院に行かせようとしてきたり、とても過保護だということも教えてくれた。僕もいっしょに笑ってしまった。

 なんだか、とてもほっこりした気持ちにさせられる。

 愚痴なのに、大学にいるような、今どきの若い女性たちとはまったく違う。

 彼女には、親の陰口のような言葉にもしっかりと暖かさがあって、家族が好きで、大切だということがひしひしと伝わってくる。

 だからこそ、僕は自然に笑えているんだと思った。

「なんだか螢くんって、大人だね」

 彼女はとうとつに言ってきて、つい頬を掻いてしまった。そういうことを言われたことがないということもある。けどそれ以上に、面と向かって言われるのが、なんだか気恥ずかしかったのかもしれない。

「そう、ですか?」

「うん。こんなふうにちゃんと人の話し聞いてくれる人って、あまりいないと思うよ」

 花開くように一段と大きな笑顔になって、彼女から目を離せなかった。

 まるで絵に描いたような、きれいな表情だった。

 でも僕は、彼女の言うようなそんな人じゃないと思った。

 僕は自分が話すより、人の話しを聞いていたほうが楽しいというだけだった。

 そこには単に面白い話しが思い浮かばないという理由もあって、前から直したい性格だとも感じていた。だからとくに、人の話しを聞く、ということに気を使っているわけではないのかもしれない。

 でも、彼女はそんなところを良いところだと思ってくれている。そういう考えもあるんだなと、感心してしまった。

 彼女の視線がこっちを向いて、不思議そうに首を傾げた。僕はとっさにそっぽを向き、意味もなくカメラをいじっていた。

「そういうもの、なんですかね」

「そうだよ。私の弟なんか、ろくに話なんて聞いてくれないんだから」

「弟さんいるんですね」

「うん。私の五つ下の、たしか今は大学二年生だったと思うよ」

「あ、僕も二年です」

「螢くんと同い年なんだね。そっかー」

 彼女は目を落とし、足をぶらぶらさせていた。はたから見れば、それは楽し気に映るのかもしれない。

 けど僕にはその足が、空中でさまよっている花びらのように見える気がした。

 なにかあったんだろうか。

 気になって聞いてみると、彼女はちらっとこっちを見てから、また足元に視線を戻してしまった。

「螢くんとは、こんなに話せるのになって、思ってね」

 彼女は苦笑いをしていて、僕は開きかけた口を止めて、そっと閉ざした。

 喧嘩でもしているんだろうか。

 だから、すぐ仲直りできますとか、そういうものですよとか、何個か励ますような言葉が浮かんだ。

 けど、なにも知らない僕がそんなこと言って良いものなのか、迷ってしまった。

 彼女はたぶん口にしないだろうけど、ただ鬱陶しいだけだと思った。僕が言われても、きっとそう思うだろう。だから、なにも言わずに彼女の話に耳を傾けるしかなかった。

 どうやら、弟さんが中学生になるころ、少しだけ気まずくなってしまったらしい。

 そのころの僕も、家族に対して素っ気なくなっていたから、まあおそらく思春期のようなものだろう。

 でも弟さんは、困ったときはそれとなく助けてくれたり、しっかり誕生日プレゼントはくれたりしていたらしい。

 きっと、根は優しい人なんだろうとは思った。

 彼女は一通り話し終えると、空に向かって深く息を吐く。

 話して、満足したのかな。

 でも、違う気もする。

 どうしてだろう。

 彼女の空を見据える瞳が、風を受けた彼女のワンピースのように揺らいでいたからかな。

 弟さんと、いったいなにがあったんだろうか。

 気にはなるけど、触れてはいけない部分だとも感じていて、どう声をかけたら良いかなんて、分からなかった。

 僕がなにも言わずにいると、彼女は話しを大学のことへ移らせた。

 どうやら、大学でどういうことをしているのか知りたいらしい。

 僕には人を笑わせられるような、面白い話しは持ち合わせていないけど、一応考えてはみる。

 でもけっきょく、授業はありえないほど退屈だとか、学食のハンバーグ定食がうまいだとか、そんなありきたりなことばかりしか言えなかった。

 けれど彼女は、頷いたり、ときおり質問も混ぜたりしながら、風にそよぐ花びらのように柔らかく笑っていた。

 この人は、本当になんでも楽しむことができる人なんだなと、また一つ感心させられていた。

 彼女は、どんなふうに過ごしてきたんだろう。

「哀川さんは今、どんな仕事をされているんですか?」

 話しの流れ的にも、個人的にも気になって聞いてみる。

 そっと、となりを見る。

 けど彼女は答えないで、じっと、彼女は空を見上げていた。

 気づけば、雨は弱くなっていた。

「雨、もう止んじゃうね」

 そう呟いて、彼女はずっと空を見つめている。

 けれど、僕の視線はいつまでも、彼女のままだった。

 彼女は雨が止んだら、帰ると言っていた。

 止んじゃうね、と言っていた。

 それはつまり、まだ帰りたくない、というふうに捉えて良いということなんだろうか。

 期待して、良いんだろうか。

 それでも、口を開くことができなかった。

 彼女から、目を背けてしまう。雨でくしゃくしゃになった靴で足踏みをして、水の抜ける音を鳴らす。

 聞くことなんて、僕にはできないのかもしれない。

 それじゃあまるで僕が、帰りたくない、と言っているみたいだから。

「ペトリコールって、知ってる?」

 おもわず、首を傾げてしまう。

 そんな言葉、聞いたことがなかった。

 それに、どうしてそんなことを突然言ったんだろう。

 彼女は得意気に唇の端を上げて、意味を教えてくれた。

 ギリシャ語で、石のエッセンス。

 雨の匂いを差す言葉らしい。

 僕は目を閉じて、空気をめいっぱい吸い込んでみた。じんわりと、雨の世界が胸いっぱいに広がっていく。

 これが、ペトリコールか。

 石の地面に打ち付ける雨を見下ろしてから、なぞるように空を見上げる。つい、笑みが零れてしまう。

 どんよりとして薄暗いはずなのに、とても輝いて見えて。

 まるで、新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいな、そんな気分だった。

「雨、好き?」

 ゆっくりな口調で、雨、という言葉を強く表すように言う。僕は変な間を作ってしまってから頷いていた。

 素直に、好きです、と言葉にするのがなんだか気恥ずかしかった。

「どうして、雨、好きなの?」

「雨の音や匂い、景色って、なんだか落ち着かないですか? それに、雨が降るだけで、同じ景色でもぜんぜん違うふうに見えて、写真を撮るのが、もっと楽しくなるんです」

 言い終えて一息つくと、彼女が目を丸くしているのが見えて、口元を手で押さえていた。

 熱くなって語りすぎた。

 もしかしたら、引かれてしまったかもしれない。

 雨漏りするみたいに、少しずつ僕の不安を煽っていく。

 けど彼女は、「そっかそっか」と感心するように首を縦に振っていた。どうやら余計な心配だったようで、心の中でほっと一安心していた。

 けど彼女の一言に、僕の心はまた乱される。

「私はね、雨、嫌いかな」

 彼女はこっちに振り向くと、花が咲くようにそっと笑った。

 僕はおもわず固まって、ぽかんと口を半開きにしてしまった。

 たしかに、嫌いと言っていた。

 だったらなんで、好きかどうか聞いてきたんだろう。

 ペトリコールという言葉を、知っているんだろう。

 どうして、笑うんだろう。

 それが表情に出てしまっていたのか、彼女は困ったように眉を顰めた。

 けど、口元の笑みは崩さなかった。

「梅雨には、菫の花は、散っちゃうからね」

 彼女は、また空を見上げた。

 強い風が吹くと、彼女の頬に水滴がぶつかった。

 まるで、花びらから雨の雫が伝っているみたいだった。

 いつの間にか雨は止んで、空は夕焼けになっている。

 けれど、僕の心はまったく晴れていなかった。

 そう言われても、困ってしまう。

 はたして、それだけで雨が嫌いになったりするんだろうか。

 もっと、違うわけがある気がする。

 つい探ってみたくもなるけど、そんな簡単に聞いて良いものなんだろうか、とも悩んでしまう。

 彼女の視線を渡って、僕も空を仰いだ。

 夕焼けは、普段見ている茜色ではなくて、青と紫が重なったような色に、少しずつ移り変わっていく。

 ブルーモーメント、という夕焼けだった。

 きれいですね。

 そう言おうと思って、となりを向いた。

 けど、言えなかった。

 もっときれいなものを、今、見つけてしまったから。

 レンズ越しじゃないのに、被写界深度が浅くしているみたいに周りがぼやけて、彼女だけがくっきり僕の目には映っていた。

 彼女の瞳が、薄っすらと紫がかっていた。

 普通なら、こんなにきれいに色が載らないはず。

 だけど、彼女の瞳は違くて。

 ピアノの音色のように、透き通っているからかな。

 景色の良さを引き立たせるような、そんなきれいな瞳だと思った。

「きれいな夕焼けだね。そうだ、撮らなくて良いの?」

 湿って重くなった風が吹いて、彼女の長い黒髪にふわりと空気が含まれる。

 彼女の髪を伝って僕まで風が届き、石鹸の香りがして。

 そして、より強いペトリコールの香りがした。

 髪を押さえて、彼女は空を見上げながら微笑んでいた。

 けど僕の視線は、いつまでも彼女の瞳に注がれていた。

「僕は、哀川さんを撮ってみたいです」

 彼女は目を丸くしてから唇の片端を上げる。

「ふーん」とだけ言って、後はなにも言ってくれなかった。

 僕はハッとなって、そっぽを向いてしまった。カメラに目を落として、ディスプレイに映る自分の姿を眺めていた。モノクロでも、顔がちょっと赤いのがなんとなく分かってしまう。

 まるで、口説き文句じゃないか。

 どうして、こんなこと言ってしまったんだろう。

 彼女は、ふふっと笑っていた。

 冗談だと思ってくれたんだろうか。それとも、気持ち悪すぎて引かれたんだろうか。変な汗が止まらなかった。

 彼女は立ち上がったけど、僕は影をずっと追うことしかできなかった。一歩一歩、踏みしめるように近づいてくる。雨が止んだからか、カウントダウンのように、砂が擦すれる音がやけに大きく聞こえてくる。

「良いよ」

 おもわず「えっ」と声が漏れてしまう。僕はとっさに顔を上げると、彼女は笑顔で首を縦に振った。それでも、首を傾げずにはいられなかった。

「本当に、良いんですか?」

 ついつい聞き返してしまうけど、彼女は嫌がらずに笑みのままもう一度頷いてくれた。

 僕はほっと一息を吐いて、空を仰いでしまった。

 正直、今は嬉しさより、安心のほうが大きかった。

 本当に、これから彼女を撮れるんだ。

 そんなふうに徐々に実感してくると、顔が緩んでいってしまって、ついガッツポーズを決めてしまった。ふふっと笑い声が聞えてきて、顔が熱くなって、すぐに手を引っ込めていた。

「でも、今日はだめ。私、もう帰らなきゃいけないの」

「そうですか」

 じゃっかん目を落としてしまうと、彼女はまたふふっと小さく笑みを零した。

「でも、明日なら良いよ。会えるのは、夕方だけ。それと、水曜日と土、日曜日は用事があるから、会えないからね」

「はい。ぜんぜん大丈夫です」

 僕は顔を上げてすぐさま頷くと、彼女は微笑む。

「螢くんって、ほんとに素直だね」

 彼女はいっそう大きく笑った。顔が熱くなるのを感じて、おもわず目を逸らしてしまった。

 からかわれっぱなしなのも嫌で、彼女のほうをしっかりと見る。いつの間にか彼女は、優しく目元を細めていた。

「でもね、良いことだと思うよ」

「そう、ですか?」

 僕は言葉を詰まらせてしまいながら、首を傾げていた。すぐに顔に出て、嘘がバレやすいだけなのに、なんの良さがあるんだろうか。

「まあ、まだ分かんないよね」

 空気に溶け込んでしまいそうな声で呟くけど。

「帰ろっか」とスイッチを切り替えるみたいに花笑みで言った。

 身支度をしている彼女には、声をかけて良い雰囲気は少しもなくて、おとなしく僕も帰る準備を進めた。

 けど、一つだけ思ったことがあった。

 迷ったけど、帰る直前に声をかける。

「菫の花が散ってしまうから、雨が嫌いなんですよね?」

「……うん、そうだよ」

 彼女は首を傾げるようにして頷く。僕はしゃがんで、さっきの雨に打たれてしおれている花の背筋を、すっと伸ばしてあげる。

「それなら、また種を植えて、きれいに咲かせれば良いんじゃないですか?」

 顔を上げ、目の端で彼女を見遣る。

 じいっと僕のほうを見つめて、彼女はおもむろに自分の手元に目を落とす。ハンドクリームを塗るように指を擦り、薄く目を細めた。

「たった、一凛なの。同じ花は、二度と咲かないんだから」

 夕焼けが逆光になって、彼女の顔が暗くてあまり見えない。

 だけど、その瞳は潤んでいる気がした。

 彼女は帰ったけど、僕はまたベンチに腰掛けた。

 たばこの煙のような空をぼんやりと眺めて、ふうっと息を吐き出し、腕を組んで瞼を落とす。

 ますます、菫さんのことが分からなくなってきている。

 僕は彼女自身が菫の花を育てていて、それが枯れてしまうのが悲しいからだと少し前まで考えていた。

 けどやはり、別の意味があるのは間違いない。

 彼女はいったいなにを思って、ああ言ったんだろうか。

 それも気になるけど、ひとまず、いつも通り撮った写真を見返す。撮った写真を見返すのがルーティン。でも、ぜったいに写真を消したりはしない。このさき、なにかで使える可能性もあるからだ。

 そういえば最後に撮ったのは、彼女を隠し撮りしたものだった。

 改めて、とても透き通った瞳だと思わされた。

 でも、一つだけ思うところがあった。

 どこか、違和感があった。

 それがなんなのかは分からない。煙が肺に溜まるみたいにもやもやしていて、気になって、過去の写真をさかのぼってみた。

 商店街の精肉店の店主、林太郎さんの結婚式のときに撮った写真が出てきた。

 林太郎さん、笑顔ぎこちないな。

 そういえば、いつも声を張っている林太郎さんがすごく緊張していて、周りに笑われていたことを思い出した。

 でも一世一代のことだから、僕だってそうなるんだろうな。その前に、彼女ができるかが不安なんだけど、とりあえず今はどうでも良い。

 さすがに結婚式終盤には慣れてきたのか、自然になってきていた。けど、それでもどこか違和感のようなものを感じずにはいられなかった。

 作り物っぽいような……。

 僕は、ハッとなって立ち上がっていた。そして、彼女の写真に目を据えた。

 彼女の表情は、たしかに笑っていた。

 けれど、瞳だけは笑えていないようにも感じる。

 花びらの中で閉じこもっているみたいに、僕の目には映っていた。

 まるで彼女は、一凛の花つぼみのようだった。

 これは彼女に許可を撮らず、こっそり撮った写真。

 だから緊張するはずなんてなくて、笑っているなら自然に笑えていないとおかしいはずだった。

 もしかしたら、さっきの言葉も関係しているのかもしれない。

 だんだんと夜のとばりが下りようとしていて、カメラをしまって歩き出した。いつもなら、バイトめんどくさいな、とか、明日も学校か、とか思う時間帯だった。

 でも頭の中は、彼女のことでいっぱいだった。

 風景に溶け込ませたり、公園だったら遊具を使ってみたりと、どんなふうに彼女を撮ろうか、いつまでも考えてしまった。

 なんとしてでも、彼女の笑顔を撮ってみたい。

 いったいどんなふうに、彼女の瞳は咲くんだろうか。

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