拝啓、とこ花の君へ

@_ruki

序章・ペトリコールとブルーモーメント

 紅葉がきれいだね。

 世間ではそんなふうに賑わっている今日この頃で、残暑もすっかりなくなって涼しい。窓を覗けば、薄く雲がかかるくらいの、出かけるにはちょうど良い日差しだった。

 そんな日にカーテンを閉め切り、僕、嶋野螢は部屋に閉じこもっていた。

 なにをしているかといえば、ここ一年で撮った、たった一人の女性の写真を見返していた。

 くすりと、おもわず笑ってしまう。

 プリントした写真が、数えきれないほど部屋に散らばっていた。こうして見るとなんだかストーカーみたいで、改めて少し前の自分に驚かされていた。

 でもあのころは、これでもまだ全然足りなかったということだけは、しっかりと覚えている。

 それだけ、彼女に夢中だったのかもしれない。

 いつもよく笑って、こっちの気持ちまで明るくなるような、そんな女性だった。

 まん丸くて透き通った瞳を三日月の形に細めて、ふふっと控えめに笑っている姿が、目の前でファインダーを覗いているみたいに今でも、パッと目に浮かぶ。

 まるで、花のような女性だった。

 彼女を撮っていたのは、ほんの一か月前のこと。

 でも僕にとってはもう、あのときは、あのころのように感じていた。すごく不思議だけど、だからこそそれくらい、濃いひと時だったんだと思う。

 写真の中には、おいしそうにチョコを食べている姿があった。彼女は見かけに反して、お菓子好きに加えてコーラとかスプライトとか、体に悪そうなものばかり好き。食べない日はほとんど見ないくらいだ。

 いつだったか、『そんなことしてたら早死にしますよ?』と言ったら、彼女は。

『きれいに咲いた花だって、たくさんの薬が使われてるじゃない?』、となぜか優しい笑みで返してきた。

 ただの屁理屈だな、としか感じなかった、あのころは。

 そこに意味があるなんて、考えようともしていなかった。

 彼女を撮ることしか、僕の頭にはなかった。

 でも夏のあるときから、今にかけて。

 彼女が映った写真は、どこにもない。

 それはただ単に、彼女を撮らなくなったから。

 それなのに、彼女の姿だけをカッターで切り刻んだみたいに、僕は感じてしまう。

 今でも違和感を抱いてしまうのだから、不思議なものだ。

 とはいえ、今となってはどうだって良いことなのかもしれない。

 彼女を撮ることは、もう、できないんだから。

 ぴぴぴっ、とアラームが鳴る。そろそろ大学に行かなくてはいけない。僕はさっさと写真をしまい、ため息まじりに立ち上がった。

 夏休みが明けるといえば、大学が始まってしまうということ。洗面所に行き、顔を洗って化粧水とか乳液とか、いろいろと下準備をして部屋に戻る。服はガンクラブチェック柄のグレーのワイシャツと黒のスラックスパンツを着る。これが一番楽だった。

 いつもの流れで、ヘアアイロンとワックスを手に取った。

 けど手を止めてしまい、ため息まじりに元のところに戻す。

 こんなことしたって、もう意味ないから。

 机の上に置いてある、一眼レフカメラをトートバックにしまった。どこで撮るかはまったく決めていなけど、とにかく写真は撮る予定だった。

 一階に降りてリビングに向かい、朝食を取ってからソファーに腰掛ける。テレビに映っているニュースをぼうっと眺めながら、熱々のカフェオレをちびちびと飲む。

 テレビではアナウンサーが紅葉の映像を見ながら、「今年もそろそろ終わりですね」とニコニコと言っていた。このアナウンサー最近よく出てるな、と思いながらカフェオレをすすりつつ、深めのため息が零れていた。

 まだ、秋なんだよね。

 今年も終わりなのか、といつもなら思っているところだけど、なんだかここ最近はそう感じていた。

 たぶん、夏が退屈だったからかもしれない。

 またカフェオレを飲み、ため息を吐いていた。だいぶ、ぬるくなっていた。

 テレビでは天気予報に移っていて、僕は続けて流し見していた。東京は晴れのち曇りのようで、でも中部のほうでは雨の予報となっていた。この様子だと明日は雨だろう。

 ……雨、雨か。

 雨なんて、降らなければ良いのに。

 でもそう思ってしまうのは、傘持っていかなきゃとか、大学行くのだるいとか、そういうことではなくて。

 雨が降るたびに、頭に浮かんでくるのが。

 あのころいつも見ていた、彼女の笑顔ばかりだから。

 彼女は、雨が嫌いだった。

 理由は初めて会ったときに聞いたけど、当初の僕にはわけが分からなかった。

 ただ、今なら思うのは。

 僕が彼女だったとしても、雨を嫌いになるのかもしれない。

 いっきにカフェオレを飲み干して一息ついていると、母さんに「時間大丈夫なの?」と言われる。「大丈夫」と答えたは良いものの、重い腰はなかなか上がらなくて、十五分くらい経ってから「行ってきます」と家を後にした。この時間が大学の講義に間に合うギリギリの時間だった。

 外に出ると、涼しさの中にも懐かしさのようなものがあった。空気を吸ってみると、いつもより湿っている気がする。

 ほんの少しだけど、夏みたいな匂いがした。

 これは、にわか雨くるかもしれないな。

 ため息を吐きつつも、玄関まで折り畳み傘を取りにいってから向かうことにした。

 電車に乗って大学の最寄り駅で降り、あとはひたすら歩く。

 それなりに都会で敷地がないのもあってか、僕の通っている文慶大学まで約徒歩ニ十分かかる。大きい通りを真っ直ぐ進んで、右に曲がって左にある交差点を渡れば、すぐに文慶大学、略して文大はある。この道が最短で、簡単だから迷うことはない。

 そのいつもの道の間には、泉場公園があった。

 僕はちらりと横目で見てしまってから、頭を掻いてしまいながら前を向いた。

 ここはもう行くことのない、僕には関係ない場所だった。

 だけど、大切な場所でもあった。

 気づけば、空にはどんよりと雲がかっていた。この調子だと、本当に降り出しそう。降ってくる前にさっさと行こうとした。

 けど、なにか小さなものが目の前を横切るのが見えて、すぐに足を止める。

 にゃーと声がした。

 下を向くと、そこにいたのは真っ白な猫だった。

「なんだ、君だったんだ」

 しゃがんで撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めてすり寄ってきた。

 かわいいやつだ、と思いながら、そういえば久しぶりに見かけたことに気づく。まあ、野良猫だからそんなものだろう。

 名前は、ビオラという。

 といってもついこの前、僕が勝手につけた名前。しかも名前の由来も、なんとなく彼女によく似ているから、という適当極まりないものだった。

 今日は、この子を撮ろう。

 僕はカメラを取り出し、ビオラにレンズを向ける。相変わらずきれいな毛並みだった。そんなことを思いながら細かくピントを合わせていると、ぴゅっとフレームの中から消えた。

 ファインダーから目を離すと、ビオラが泉場公園に入っていくのが見えた。

 僕は足を止めて、ビオラの後ろ姿をぼんやりと眺めてしまう。

 思い返せば、彼女と合わせてくれたのはこの子だった。

 泉場公園は、東京にある公園ではそれなりに大きく、しっかりと遊具もある。夕方は子どもたちが遊んでいて、それが嘘みたいに朝なんかはとても静か。

 奥のほうには屋根のついたベンチがあって、僕と彼女はそこでよく涼んでいた。

 そして、ここは彼女と会っていた場所だった。

 ビオラがあそこに行くということは、彼女がいるということなんだろうか。

 腕時計を見れば、ちょうど夕方。

 それに夕焼けには、ネイビーのような深い青がかぶさっていた。

 ブルーモーメントが、空に浮かんでいた。

 だから、もしかしたら。

 そんなありえないことを、ここを通るたびにどうしても思ってしまう。

 それでも思ってしまうのは、いつまでも。

 僕の中で咲く花に、いつまでも惑わされているからなのかもしれない。

 空を仰ぎながら、込み上げてくる色んなものを抑え込む。

 そうしていたら、ぽつ、と頬になにかが当たる。水滴だと気づくと、ゆっくり雨脚は強さを増し、折り畳み傘を差したころには、あっという間にアスファルトは真っ黒に染まっていた。

 僕はおもわず、深呼吸をしていた。

 するつもりなんてなかったけど、あのころから癖になっていた。

 ふんわりと、雨の香りが鼻を抜けていく。

 これを、ペトリコールというらしい。

 ペトリコールという言葉を知ったのは、彼女と出会ったその日だった。

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