第9話 相対するは恋心と無関心
いきり立った気持ちも昼食を挟んで全ての授業を終えるころには
待ち人はなかなか現れない。そろそろ部活が始まる時間になる。
背負った部活リュックを挟んで体育倉庫の壁によりかかった。先に荷物だけでも置いてくるべきだったか。生ぬるい風が吹くなか緊張で身体が冷えている。
こうやって何かを待つのは苦手だった。競技会のときも順番が回って来るまでの時間が一番苦手だ。上手くいくだろうか失敗しないだろうかと不安で考えすぎて頭の中がぐちゃぐちゃになる。
いっそピストルが鳴って、走り出す以外の選択肢がなくなってしまえばいいのだが。
カバンにはいつも、自分の背中を押すピストル代わりのクラッカーが入っている。それを実際に使うことはほとんどないけれど。
と、耳が足音を捉えた。
ではこの足音は誰か? そう考えて心臓が冷える。バッグを前に持ち身構えると、現れたのは見知った人物だった。
「あ、マネージャー。もしかして探しに来たんですか? すみません今日はちょっと遅れるかと──」
「何言ってる? 呼び出したのはキミだ」
世間話みたいな調子で言うから、意味を理解するのに数秒を要した。
中肉中背、髪は短めの男。特徴という特徴はなく、
いつも何気なしに見ていたその姿は、鈴原の言っていたものと合致する。つまりこの男こそ。
「ストーカー……?」
バッグを抱きしめる。唇が勝手に音をもらしていた。ハッとして口をつぐむ。マネージャーは目じりを微かに
「そんなんじゃない。違う。知りたいから、つい目で追いかけてしまう。背を追う。ぜんぶキミを知りたかったからだ。
「うっ……」
反論の余地もなかった。加えて自身の行いを反省する。あれ犯罪だった。木から蹴落とされても仕方ない。
などと気を紛らわせようとしてもじわじわと恐怖が上ってきていた。顔をバツで塗りつぶされたあの写真の気味悪さが思い出され身体の芯を震わせる。カバンからクラッカーを出して自分を振るい立たせたいのに、一挙手一投足を見張られている気がして動けない。手の平に汗がにじんできた。
「俺はキミのすべてが知りたいだけ」
「……無理ですよ、すべてとか」
「できるよ」
「無理です。どうせ他人は他人でしかなくて、相手の心なんて読めるわけないから、だから都合よく解釈して、食い違いが起こるのに」
だから他人の顔色なんて気にし過ぎるだけ無駄だと。割り切って自分に都合の良いように世間を解釈して、楽に生きてもいいんだと。誰にも理解してもらえず泣いていた
か細い反論はしっかり聞こえていたようで、マネージャーはまた目じりを
「なにそれ。あのクズの言いそうなことを。影響され過ぎじゃない」
「えっ?」
「もう白状する。バレてるなら」
マネージャーが距離を詰めようと足を上げる。
わざとらしいほど優しい笑みを張り付け両手を広げる。
「俺はキミが好きだ。初恋だ。失敗したくなくて、だから慎重になりすぎてたかもしれない。それだけ。ストーカーだなんて酷い。こんなこと多かれ少なかれみんなやってることだろう」
「初恋、ですか……」
その単語で、あれだけ怯えに震えていた胸がすっと冷えるのを感じた。
腕の力がゆるむ。気づけば
「恋ってどういう気持ちを指すものなのか、わたし上手く想像できないんですよ。特に初恋ってなんだか本当に分らない」
けれどたまに、その中から飛び出たいと訴えてくる人がいる。自分はこんなに特別なんだと熱弁してくる。特別扱いしてくれと願い出てくる。
だが、
みんな同じにしか見えないのだ。
「初恋って特別で、唯一無二じゃないですか。そのあとどれだけ恋をしても、それだけは絶対ゆるがない。その人間の人生における『恋』っていうモノのかけがえのない指標。わたしにはたぶん、その型が作れないんです」
時折、冗談ではなく他人の区別が付かない時がある。たまにしか顔を合わせないような人で、体型や髪型が同じだと、顔がどれだけ違っても同じに感じてしまう。何度も会ってようやく個人を識別するようになるのだ。
それはきっと、二人を同じ『あの時の人かもしれない』という枠に入れていたから。
そして
恋愛という枠が、初恋という唯一無二に形作られるはずのそれが、まだ存在していない。
マネージャーは急に語り始めた
「分らないからせめて参考に聞くようにしてるんです。教えてください。……それが本当にマネージャーの恋ですか?」
やっと分かりやすい話になったからだろう、マネージャーは食いついて手を叩かんばかりに声を張り上げた。
「当たり前だ。だって、こんなにキレイな感情は生まれて初めてだ。キミの力になりたい。キミを慰めてあげたい。キミの曇った顔を晴らそうと努力することが、こんなにも嬉しい! 気持ちがいい!」
目を輝かせるマネージャーに、
たった一言、『お前の足遅くなってねえはずだぞ』と。
彼を信じるのなら、疑わしきは一つ。
「そのために、相手を曇らせる嘘を
探る声音で問いかける。思えば高校に入ってから、選手のタイムを測定していたのはずっとこのマネージャーだった。マネージャーは心底分からないという笑みで首を傾げる。
「なにかいけない?」
そこに悪意はなかった。それが逆に
深呼吸で感情を鎮め部活バッグを肩に掛け直し、丁寧に頭を下げた。
「ごめんなさい」
下げたまま、身じろぎする足先だけ見つめる。
「マネージャーの気持ち、わたしには理解できません。だから──」
「どうして! キミのためならなんでもできる。キミになんでもあげるのに。なんでも買ってあげる。手に入れてあげる。俺の家、けっこう稼いでるんだ、キミの親じゃ想像できないほど。ほら、タイム伸ばすのにトレーニング器具欲しいって前言ってたね? 俺ならあげられる。欲しいものなんでも。尽くしてあげるから──」
「結構です。何もかも他人に与えられないといけないほど、わたしの心は貧しくないので」
きっぱりと言い切って顔を上げる。
「部活に行かないと。では、これで失礼します」
立ち尽くすマネージャーの横をすり抜けて、部室へと足を向けた。
雲の隙間から伸びる光のはしごを眺めて、ふと思う。そういえばあのマネージャーの名前はなんだったかなと。
どうしても思い出せないのは、きっと最初から彼をマネージャーという枠でしか見ていなくて、名前を個別に覚えようともしていなかったからだろう。
記憶を探るのを諦めて地面を蹴る。
「あっ、赤ペン先生返すの忘れた。うわぁ……どうしようこれ……」
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