第7話 折りたたみ傘は理性的
降り始めた雨は止まず、室内施設の使用申請を出していなかった今日は部活が切り上げとなった。
予定外の降水だったせいか昇降口では傘を持ってきていない生徒がポツポツと雨止みを待っている。梅雨時期なのだから折り畳み傘でも入れておけばよかったと後悔したところで都合よく傘が生えてくるわけもなく。
雨雲は分厚く、コンクリートを叩く雨脚はいましばらく続くだろう。それどころか雲の様子からしてさらに強く降りそうにも思える。
仕方ないかと口内だけで呟き、
「待て待て待て、濡れるだろうが
腕を掴まれて屋根のある場所まで引き戻された。最近すっかり聞き慣れてしまった母音の掠れた低い声に振り返ると、やはり
「とめき先輩こんにちは」
「へえこんにちは。お前傘は」
「だって今日、予報だと晴れのちくもりだったじゃないですか」
言い訳しつつ視線を落すと、
「そういう先輩は傘持ってるんですか?」
下駄箱まで戻りつつ質問を返すと、
「あ、折りたたみ」
それはコンパクトかつ携帯性に優れた
「理性的な人間ってのはどんな事態にも備えておくもんだあ。濡れて帰るなんざ思慮を捨てたバカのやることだぜ」
「さすがとめき先輩、理智的、利己的、用意周到の鏡ですね!」
「ははは、全て事実だなあ! んでお前はこの雨量の中なにしようとしてたのかね」
「走って帰ろうかと。濡れる前に」
「
部活時間にスポ特生をストーカー捜索に連れ出した男が何を言っているのか。
一瞬、もしや部活が休みであることを知っていたのではと思い至るが、まさかと打ち消す。
部活というワードに
「筋肉は風邪をひきませんし、ひいても部活は休めませんよ。それで学費免除されてるわけですから、最悪見学でしょうか」
「ああ? 走れねえスポ特生になんの価値があんだあ」
からかうような些細な言葉がトドメとなる。気持ちが奥底へズンと沈み込むのを感じた。
「ですよね……走ることぐらいしか価値ありませんもんねわたし……」
声のトーンが暗くなる。喉の奥から卑屈な笑いがもれた。
「へへっ、わたしなんて本当に駄目駄目なんです。歳重ねて成長するどころか高校生になってからよく失くし物するし。この間は部室で下着まで消えたし。マネージャーに過度な心配されるのも仕方ないんですよ……」
「おいどうした急に。なんかあったかあ?」
「…………最近の練習でちょっと」
「失敗か? なにがいけねえんだよ。そのための練習だろうが」
「自覚がないのになぜか記録が落ちてて……。原因が分からないんです。タイム計ってくれてるマネージャーにすごく慰められてしまって申し訳なさで幅跳び場の砂の下に潜りたい」
「それ陸上部ジョークかあ?」
「足にしか価値ないのに走りすら上達しない愚か者。わたしなんて人に心配かけるのが嫌で笑うけど愛想笑いってバレたらむしろ不快にさせかねないんじゃないかと思っていっそ能面でいたほうがいいかもだけどそれはそれで自分辛いですってアピールになって慰めを要求するみたいに思えてできない小心者ですよぉう」
体操座りで縮こまり、
「
「うじうじ薄暗くてきのこ製造人間とか言うんでしょう」
「いや、面倒でわりと笑える」
「なんですかそれ」
面倒なのに笑えるとはこれ
「わかってますよ。駄目だからこそ頑張らなきゃいけないんですよ。駄目なことも頑張る理由。努力を当たり前と思わず価値が見いだせるボロザコメンタルなのは恵まれていますねわたし……」
「
どこも部活が終わり始めたのだろう。昇降口に生徒の姿が増えてきた。みな傘がないようで途方に暮れ表情は暗い。
迎えの車は混雑と事故を防ぐために校内までは入ってこれないことになっている。部外者の立ち入りにも厳しい。校門までは直線距離で二百メートル。濡れずに駆け抜けられる距離ではない。金持ち学校の無駄に広い敷地が仇となっていた。
「こりゃあ使える。ちょうっと待ってろ、お前らに理性を授けてやる。ここ動くなよ」
とだけ残して校舎内へ戻って行った。
「……
「あ、マネージャー。お疲れ様です」
さっき顔を合わせたばかりの、陸上部のマネージャーだ。親は大きなスーパーを経営しているらしく、近場の店の割引券などを融通してくれるために一般家庭の部員たちからは重宝されていた。本人も目立つ容姿ではないが穏やかで面倒見がいい。
「もしかして、傘ない?」
「お恥ずかしながら」
「──買ってあげようか」
「え?」
「売ってあるから、そこのコンビニ。一緒に行かない?」
と大きな傘を広げる。二人で入って行こうということだろう。
「いえ、そういうのは結構です。それに人を待っているので」
不快にさせないよう微笑んで言う。マネージャーは
「人────……そう。じゃあ仕方がない。俺は教室まで戻る。また明日」
「はい、部活で」
互いに愛想笑いで別れた。その背を見送っていると、下駄箱で騒めきが起こる。
廊下で教師が生徒たちに囲まれている。
教師はなぜか両腕いっぱいに傘を抱えている。
「マコちゃん先生、どうしたのこの傘」
生徒の問いに
「事務室に問い合わせて、置き傘を借りてきたんだ。急な雨だったから困ってる子が多いんじゃないかって」
説明はどこか言わされているかのようにたどたどしい。だが目の前に現れた救い主の様子を生徒たちは気にしていないようで、口々に歓声を上げた。
「やるじゃん先生」
「助かるわ〜」
「えっと、傘は事務室に返しておいてね」
弱弱しい注釈に分かった、ありがとうと言葉が乱れ飛ぶ。傘が生徒たちに行き渡ると、先生はどこかほっとした顔をしていた。
「よう、傘はゲットできたかあ?」
肩を叩かれ振り返ると
「傘ならすぐ売りきれましたよ」
「はあ? そこはこぞって飛び込めよ数量限定タイムセールみたいに」
「でも、待ってろって言われたので」
足元を両手で指差す。待てと指示された場所から一ミリも動いていない。
「お前なあ……。話は変わるが、実はここにオレ用に確保したジャンプ傘があります」
「貸してくれるんですか?」
「はあ〜? 自分でチャンス逃したやつにオレが恵んでやると思うかあ?」
「ですよね……。その顔すっごくムカつきます」
「まあ、車で迎え頼むからついでに送ってってやるくらいはしてやろう。ほれ」
「わっ」
投げ渡されたのはさっきの折りたたみ傘だった。
数度のコールのあと電話が繋がる。瞬間、
「はっ、連絡失礼いたします! はい
もう一度頭を下げ、通話を切る。瞬間どっと息を吐いた。その表情は疲労と安堵で青ざめている。
「あの、どこに連絡したんですか……?」
あの通話はいったいどこの闇組織に繋がっていたのか。
想像を膨らませる
「
「濡れて帰るよりリスク高いのでは!?」
「すぐ着くってよ。さっさと行くぞ」
「早過ぎっ。心の準備期間が欲しいです……」
「ちんたらすんな。あのお
「あのお方って呼びかたがもうラスボスじゃないですか!」
背中を押され慌てて折りたたみ傘を広げる。並んで校門までの並木道を進んだ。
「お、やあっと釣れたかあ」
「?」
歩きながらスマホの画面を見ていた
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