第7話 折りたたみ傘は理性的


 降り始めた雨は止まず、室内施設の使用申請を出していなかった今日は部活が切り上げとなった。


 予定外の降水だったせいか昇降口では傘を持ってきていない生徒がポツポツと雨止みを待っている。梅雨時期なのだから折り畳み傘でも入れておけばよかったと後悔したところで都合よく傘が生えてくるわけもなく。


 雨雲は分厚く、コンクリートを叩く雨脚はいましばらく続くだろう。それどころか雲の様子からしてさらに強く降りそうにも思える。


 仕方ないかと口内だけで呟き、つぼみは青信号を渡るような気軽さで踏み出そうとして、


「待て待て待て、濡れるだろうが阿呆あほうかあ!」


 腕を掴まれて屋根のある場所まで引き戻された。最近すっかり聞き慣れてしまった母音の掠れた低い声に振り返ると、やはり葛和くずわ十碼岐とめきだった。


「とめき先輩こんにちは」


「へえこんにちは。お前傘は」


「だって今日、予報だと晴れのちくもりだったじゃないですか」


 言い訳しつつ視線を落すと、十碼岐とめきはなぜか上履きとローファーを片方ずつ履いていた。下駄箱のすのこには横倒しになったもう片方が落ちている。どうやら靴を履こうとしてつぼみを見つけ、慌てて止めにきたらしい。


「そういう先輩は傘持ってるんですか?」


 下駄箱まで戻りつつ質問を返すと、十碼岐とめきはニヤニヤ顔をさらにしゃくに障る笑みに変えてカバンから紺色長方形の物体を取り出した。


「あ、折りたたみ」


 それはコンパクトかつ携帯性に優れたまごうことなき傘である。


「理性的な人間ってのはどんな事態にも備えておくもんだあ。濡れて帰るなんざ思慮を捨てたバカのやることだぜ」


「さすがとめき先輩、理智的、利己的、用意周到の鏡ですね!」


「ははは、全て事実だなあ! んでお前はこの雨量の中なにしようとしてたのかね」


「走って帰ろうかと。濡れる前に」


阿呆あほう、どんなに速く走っても重力加速度には勝てねえんだよ。全身ずぶぬれで風邪っぴき決定だ。熱でも出たら部活に響くだろ」


 部活時間にスポ特生をストーカー捜索に連れ出した男が何を言っているのか。

 一瞬、もしや部活が休みであることを知っていたのではと思い至るが、まさかと打ち消す。


 部活というワードにつぼみの意識がにわかに沈みだした。


「筋肉は風邪をひきませんし、ひいても部活は休めませんよ。それで学費免除されてるわけですから、最悪見学でしょうか」


「ああ? 走れねえスポ特生になんの価値があんだあ」


 からかうような些細な言葉がトドメとなる。気持ちが奥底へズンと沈み込むのを感じた。


「ですよね……走ることぐらいしか価値ありませんもんねわたし……」


 声のトーンが暗くなる。喉の奥から卑屈な笑いがもれた。


「へへっ、わたしなんて本当に駄目駄目なんです。歳重ねて成長するどころか高校生になってからよく失くし物するし。この間は部室で下着まで消えたし。マネージャーに過度な心配されるのも仕方ないんですよ……」


「おいどうした急に。なんかあったかあ?」


「…………最近の練習でちょっと」


「失敗か? なにがいけねえんだよ。そのための練習だろうが」


「自覚がないのになぜか記録が落ちてて……。原因が分からないんです。タイム計ってくれてるマネージャーにすごく慰められてしまって申し訳なさで幅跳び場の砂の下に潜りたい」


「それ陸上部ジョークかあ?」


「足にしか価値ないのに走りすら上達しない愚か者。わたしなんて人に心配かけるのが嫌で笑うけど愛想笑いってバレたらむしろ不快にさせかねないんじゃないかと思っていっそ能面でいたほうがいいかもだけどそれはそれで自分辛いですってアピールになって慰めを要求するみたいに思えてできない小心者ですよぉう」


 体操座りで縮こまり、鬱々うつうつとした嘆きを吐き続ける。十碼岐とめきがふむと頷いて彼女の両脇を掴んで無理やり立たせた。つぼみの身体が猫のように伸びる。


つぼみってメンタル落ちる時はとことんなタイプなのな。ずっと明るいまんまかと思ってたわ」


「うじうじ薄暗くてきのこ製造人間とか言うんでしょう」


「いや、面倒でわりと笑える」


「なんですかそれ」


 面倒なのに笑えるとはこれ如何いかに。


「わかってますよ。駄目だからこそ頑張らなきゃいけないんですよ。駄目なことも頑張る理由。努力を当たり前と思わず価値が見いだせるボロザコメンタルなのは恵まれていますねわたし……」


卑屈ひくつのくせして前向きになったな。低気圧でも自律神経整えてこ? しっかし、周りもどんより顔が増えてきたな」


 どこも部活が終わり始めたのだろう。昇降口に生徒の姿が増えてきた。みな傘がないようで途方に暮れ表情は暗い。


 迎えの車は混雑と事故を防ぐために校内までは入ってこれないことになっている。部外者の立ち入りにも厳しい。校門までは直線距離で二百メートル。濡れずに駆け抜けられる距離ではない。金持ち学校の無駄に広い敷地が仇となっていた。


 十碼岐とめきはその光景を見て気分良さげに口角を上げる。


「こりゃあ使える。ちょうっと待ってろ、お前らに理性を授けてやる。ここ動くなよ」


 とだけ残して校舎内へ戻って行った。


「……つぼみちゃん?」

「あ、マネージャー。お疲れ様です」


 つぼみが一人になるのを見計らったようなタイミングで男子生徒が声をかけてくる。


 さっき顔を合わせたばかりの、陸上部のマネージャーだ。親は大きなスーパーを経営しているらしく、近場の店の割引券などを融通してくれるために一般家庭の部員たちからは重宝されていた。本人も目立つ容姿ではないが穏やかで面倒見がいい。十碼岐とめきなどとは正反対の人柄だ。


「もしかして、傘ない?」


「お恥ずかしながら」


「──買ってあげようか」


「え?」


「売ってあるから、そこのコンビニ。一緒に行かない?」


 と大きな傘を広げる。二人で入って行こうということだろう。つぼみは数秒だけ逡巡し、丁寧に辞した。


「いえ、そういうのは結構です。それに人を待っているので」


 不快にさせないよう微笑んで言う。マネージャーは怪訝けげんに目を細めた。


「人────……そう。じゃあ仕方がない。俺は教室まで戻る。また明日」


「はい、部活で」


 互いに愛想笑いで別れた。その背を見送っていると、下駄箱で騒めきが起こる。つぼみは何事かと首を伸ばして様子を覗いた。


 廊下で教師が生徒たちに囲まれている。つぼみの授業担当ではないが、たしか数学のまこと先生だ。先日、女生徒の授業態度を注意し泣かせてしまったことで生徒間での評判がいちじるしく低くなっていたはずだ。


 教師はなぜか両腕いっぱいに傘を抱えている。


「マコちゃん先生、どうしたのこの傘」


 生徒の問いにまこと先生はしどろもどろに答えた。


「事務室に問い合わせて、置き傘を借りてきたんだ。急な雨だったから困ってる子が多いんじゃないかって」


 説明はどこか言わされているかのようにたどたどしい。だが目の前に現れた救い主の様子を生徒たちは気にしていないようで、口々に歓声を上げた。


「やるじゃん先生」

「助かるわ〜」


「えっと、傘は事務室に返しておいてね」


 弱弱しい注釈に分かった、ありがとうと言葉が乱れ飛ぶ。傘が生徒たちに行き渡ると、先生はどこかほっとした顔をしていた。


「よう、傘はゲットできたかあ?」


 肩を叩かれ振り返ると十碼岐とめきが戻って来ていた。十碼岐とめきが一瞬だけ視線をまこと教諭へ向ける。そのアイコンタクトが、なぜかつぼみの意識に残った。


「傘ならすぐ売りきれましたよ」


「はあ? そこはこぞって飛び込めよ数量限定タイムセールみたいに」


「でも、待ってろって言われたので」


 足元を両手で指差す。待てと指示された場所から一ミリも動いていない。


 十碼岐とめきは呆れたようにため息をついた。


「お前なあ……。話は変わるが、実はここにオレ用に確保したジャンプ傘があります」


「貸してくれるんですか?」


「はあ〜? 自分でチャンス逃したやつにオレが恵んでやると思うかあ?」


「ですよね……。その顔すっごくムカつきます」


「まあ、車で迎え頼むからついでに送ってってやるくらいはしてやろう。ほれ」


「わっ」


 投げ渡されたのはさっきの折りたたみ傘だった。

 十碼岐とめきはスマホを取り出しどこかへ通話を繋げる。その顔が緊張しているように見えるのは気のせいか。


 数度のコールのあと電話が繋がる。瞬間、十碼岐とめきは急に姿勢を正し虚空に向かって直角のお辞儀を繰り出した。


「はっ、連絡失礼いたします! はい十碼岐とめきです! 土曜の食材調達? もちろん付き添わせていただきます! それで今日なのですが、雨ですのでどうか迎えを頼めないかと。そうです、もう一名同行予定です。いえ殲滅せんめつ力は必要ありません。普通の車で…………ありがとうございます!」


 もう一度頭を下げ、通話を切る。瞬間どっと息を吐いた。その表情は疲労と安堵で青ざめている。


「あの、どこに連絡したんですか……?」


 つぼみは恐る恐る訊いてみる。傍若無人ぼうじゃくぶじんに無敵がごとく振る舞うこの少年がこうも低姿勢になるとは。あんなに腹から声を出してハキハキと喋る少年を初めて見た。

 あの通話はいったいどこの闇組織に繋がっていたのか。


 想像を膨らませるつぼみだったが、十碼岐とめきは軽く答える。


代摸よもさん。うちに住み込みで働いてる家政婦だ。ちょっと戦場帰りだから気難しくってなあ。大丈夫、礼儀正しくしてりゃあ五体満足で帰れる。良かったなあ」


「濡れて帰るよりリスク高いのでは!?」


「すぐ着くってよ。さっさと行くぞ」


「早過ぎっ。心の準備期間が欲しいです……」


「ちんたらすんな。あのおかたを待たせる気か!!」


「あのお方って呼びかたがもうラスボスじゃないですか!」


 背中を押され慌てて折りたたみ傘を広げる。並んで校門までの並木道を進んだ。


「お、やあっと釣れたかあ」


「?」


 歩きながらスマホの画面を見ていた十碼岐とめきが小さくなにかを呟いた。その画面が少年の後ろ、校舎のほうをズームして映していることに、ニ十センチは身長差のあるつぼみは気づけなかった。


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