第6話 雨降って地すべり
歯を食いしばり息を止めてゴールを駆け抜ける。
「…………」
そこに表示されているのは、理想には遠い数字。むしろ一本前より遅くなっている。
黙り込む
「えっと……。これで三十本目だから。短距離っていっても四百メートルをそれだけやると、もう。だから体力が続いてないだけ。明日なら──」
「……ちょっと休憩してきます」
なぐさめるように肩を撫でる手から距離を取る。タオルも辞した。自分のものは持ってきている。
「あっ…………いや、そうだな。あまり気落ちしないように」
掛けられる優しい言葉に胸が痛む。
「はい、ありがとうございます」
なんとか笑うがあまり力が入っていなかった。ため息を押し殺してトラックから離れる。
思いつめても神経がまいってしまうだけだ。別のことを考えようと思考を転換させる。そうやってすぐ出て来るのはやはり、二日前のことだ。
結論から言えば、
『離れてく後姿しか見てないが、たぶん知らない奴だったと思う。中肉中背で髪は短めの男だ。特徴っていう特徴はそれ以外になかったな。
顔に関わりたくないと書いてはあったが、嘘は言っていない様子だった。本当に知らないらしい。手がかりを失くした
高跳び棒を運ぶ部員をぼんやり目で追って、その高い背丈にあの少年の姿を重ねた。
(とめき先輩も、あとは向こうの出方を見るってそれきり雑談しかしてくれないんだもんなぁ。わたしは部活あるから放課後も時間ないのに。昨日はなぜか陸上部の様子見に来てたらしいけど気づかなかったし……)
暴行はコミュニケーション事件からすでに二日が経った放課後である。このままでは明日で今週が終わってしまう。梅雨の間は陸上部も休みがちになるから、あの兄弟を知るにはいい機会なのだが。
なまじ鈴原に確認してあのストーカーが自分の見間違いではないと分かってしまったからだろう。悪意が急に立体感を得て無視できない。危険なストーカーを野放しにして自分のことを優先する気にはなれなかった。
(こういう、何かをするときに他のこと気にしながらっていう中途半端が嫌なんだよなぁ。結局いつも同じとこグルグル回って、どれも前に進めてない)
どこかでホイッスルが鳴る。
(ランニングマシーンより、こうやって外を思う存分に走りたい。トレッドミル機器は性に合わないよ)
スタートの合図で走り出せば悩みも想いも置き去りにして、ひたすらに走るだけ。あの時間の中で
本当は、タイムは結果に過ぎないのだ。
ただただ自分のためだけにあるあの時間が、
そう、自分一人なら、それでよかった。
脇に置かれたスポーツ理論の教科書を適当にめくってみるが文字は頭に入ってこない。紙の断面を指で次々に滑り落として前髪に風を送る機械と化す。そうやって見るからに暇そうなサボり部員と化していると、タオルで汗を拭いながら女子陸上部員がやって来た。部で唯一走り幅跳びを専攻している同級生の
「
「平気だよ
「ならいいけど。
あ、ねえ最近さ、クズって有名な
「あの先輩、遠くから見たら格好いいのがなんか悔しいよね」
「え、カッコいいかな?」
そういう目で見てなかった
「う、うん。ほらあの人って背高いし顔立ちも良いし。黙って真面目な顔されるとつい見ちゃうみたいな。あと声がなんかエロいよね。まあ、人を見下してるみたいな目つきと言動がアレだからすぐ現実に引き戻されるけど。それにあの先輩、いろいろヤバイ噂もあるじゃん?」
同意を迫るような視線だ。
答えない
「実際どうか知らないけどさ、あんなのと一緒にいたら周りの目きつくない? 嫌いにならないの?」
「あ……えっと、嫌うってほどじゃ……」
自分でも意外だが、あの
だから周囲が思うほどの嫌悪感は湧いていない。とはいえそれ以上の何かを抱くほどあの少年を知っているわけでもなかった。彼があの時の恩人である可能性がまだ捨てきれないというだけ。
ただあのストーカー捜索以来、彼の態度が異様に優しいのが裏がありそうで警戒してしまうくらいか。
思うことは本当にそれくらいで、
「あ、もしかしてああいうのが好み?」
「そういうのでもないけど……」
少女の目が好奇心に輝いているのを見てとって、
こういう場合、強く否定してもやんわりと肯定しても、相手の憶測をかき立てて都合の良いように解釈されてしまうだけだ。適当に誤魔化してしまうのが一番だと、
「なぁんだ。
「────っ」
ため息にどきりとした。
今まで誰かに言われた『好き』に同じ『好き』を返せたためしがない。『嫌い』にしても同様で、
共感で輪をつくる少女たちにとって、そのズレは異物であり
例えば告白してくれた男の子をお断りしたら、次の日から女子がみな冷たかったりするくらいには。
(ああ、やだなあ)
タイムはただの副産物。けれど、結果が出なければチームメイトを落胆させるのだ。その落胆の顔が
独りで走っていたいという思いと、他人の期待に応えたいと思う自分がいつも背中合わせで崖っぷちを覗いている。どっちに行っても片方を後悔する。分かっていても他人を捨てきれないのは、孤立は怖いから。
「いやぁ、ごめんね?」
冷たくなった体にそんな軽い苦笑が届いた。視線だけ上げると、
「困らせちゃったみたいで。それが先輩の友達経由で
「そんなんじゃないよ。ただ悪目立ちしてるだけだって」
「えー、そうかな。ほらマネージャーとか。
「? まあ普通に話すけど。部活の先輩だし」
身体の強張りは解けたが、やはりこういう話題の中だと居心地が悪い。だが自分から席を外すのは意識していると思われそうでできない。
早くどこかへ行ってくれないかなとつい視線を足元へ逸らしてしまう。
「あ、雨」
つられてスペースの外を見る。さっきまで日の差していたはずの空は薄墨のような雲に覆われていた。
音もなくぱっと見ではまだ降水を実感できないが、トラックに出ていた部員たちが慌てた様子で屋根のある場所へ走っていくので、確かに降り始めたらしい。
「今日は晴れのち曇りって言ってたのにね。通り雨だといいんだけど」
由利が腰を上げて呟いた。ゴムチップで舗装されたトラックの色が濡れた部分だけ濃く変わっていく。その変化が急速になる頃には、大粒の雨が屋根のトタンを叩く音が絶え間なくなっていた。
「もう……
遠くにこぼしたみたいな自分の声のあと、まだどこか聞きなれないチャイムが響いた。
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