最低な君を忘れない~彼がセックスしてくれないから~

木立 花音@書籍発売中

第1話

 ベッドの上で、横になった私。隣で寝ている男の指先が触れてくるたび、緩やかな波となり、軽めの嫌悪感が押し寄せてくる。

 ビクンと身を震わせる様子から、怖がっているんじゃないかと心配になったのだろう。「大丈夫?」なんて尋ねてくるから、微かに感じる鈍い痛みを堪え、男の体をギュッと抱きしめてみる。

「大丈夫」と違うニュアンスを含んだ言葉で返すと、男は満足そうに笑んで、私の体に顔をうずめた。

 ちょろいもんだ。

 男なんて、みんなそう。

 ほんの僅か思わせぶりな態度を示して、ちょっとだけ体に触らせてやれば、簡単に金を落としていく。身体を重ねて、シーツをぎゅっと握りしめているだけで勝てるゲーム。本当にバカな生き物。


 あの人を除けば──。



「ひー、ふー、みー」


 明かりを灯したラブホテルの一室。貰ったお金を勘定しながら、うん、と私は頷いた。約束通りの金額だ。


「ねえ、ヒトってさ、なんでセックスするのかな?」


 床に落ちていた下着を拾い上げてはきながら、行為が終わった後によくする質問をぶつけてみる。


「え、理由なんているのかな?」と男は怪訝な顔をして言った。「そうだなあ。強いて言えば、やっぱ気持ちいいからじゃね?」


 そりゃあ、あんたは気持ち良かったでしょうね。行為中の反応を見てたらよくわかる。でも、こっちはそうでもなかったんだよね。はっきりいってちょい痛かったしセックスは五十点。それにしてもガッカリだよ。理由の一番、愛じゃないのかよ。容姿は八十点。金持ちそうだしそこも良し。でも、肝心の性格が三十点じゃ、こりゃあ次はないですな。


「なあ、次何時会える?」


 次なんてないよ。だってあんた、不採用だもん。


「一週間後くらいかな」


 そっか、と笑う彼に、あらかじめ準備しておいた嘘の名刺を渡す。住所も名前も全部偽物の、言い逃れ用の名刺。


「土曜日に連絡すんね。ん、これ自宅の電話番号? ここにかけちゃってオーケー?」

「オーケー、オーケー」


 繋がんないけどね。

 三十代前半。ちょっと不倫の香りがただようバランスの良い肩幅をした男の背中を見つめ、ちろりと舌をだす。ホテルを出るときチラと鏡を見やると、化粧がすっかり落ちおかめ顔になった自分の姿が映ってた。

 艶のある長い髪。反面やつれた顔に生気はなく、瞳の色も濁って見えた。

 

 そのまま男の車に乗って、自宅マンションの前までやってくる。


「じゃあ、また」

「また」


 そんな感じの仮初の挨拶を交わし、走り去っていく車を見送った。

 黒のビーエムダブリュー。車だけなら、百点満点なんだけどな。


 エレベーターに乗って五階に着くと、510号室と書かれた部屋のドアをそっと開ける。

 現在の時刻は深夜二時。流石に寝ているだろうかという予測は外れ、同居人の彼はまだ起きていた。

 リビングに顔を出すと、「よお、瑠衣るい。今日も遅かったじゃないか」と彼──吉川怜欧よしかわれおが尋ねてきた。今年で二十一になる私より十も上で、三十一になる社会人。

 今日も自宅で仕事をしていたのだろう。ノートパソコンの画面から顔を外して、ふっと相好を崩した。


「うん、ちょっと飲み会が長引いちゃってね」

「そっかあ、身体冷えただろ。風呂に入ってから寝るといいよ。沸かしておいたから」

「うん、ありがと」と言いながら彼の隣に座って背中に手を回すと、「ごめん、ちょっと疲れてるんだ」とやんわり否定された。

「あ、うん」


 これ以上押すと、ここから先は私が傷つく領域。心のベクトルがマイナスに傾き始めたここが潮時なのだ。決して深く踏み込んではならない。


「風呂、行ってくるね」

「逆上せないようにな」

「気を付ける」



 ぽちゃん、という雫が湯船に落ちる音が浴室に響いた。

 顔を半分だけお湯に沈め、立ち昇る湯気をみながらぼんやりと考えを巡らせていく。


 私は五歳になったころ、車の事故で両親を亡くした。保育施設に預けていた私だけを残し、信号無視の車に突っ込まれて、それはもう、呆気なく。そこから先の人生は、本当に何一つ良いことがなかったように思う。

 こんな時、親戚関係というのは案外役に立たないもので、引き取り手の無かった五歳の娘は、何軒かの親戚の家が押し付けあったのち、結局、児童養護施設に放り込まれてしまった。

 幼少期から大人たちの汚い部分ばかりを目の当たりにして育った少女は、みすぼらしい容姿同様、心まで薄汚れていた。

 児童養護施設でも他の子どもたちと上手く馴染むことができず、指導者である大人たちにへつらうこともできない私は、あっという間に孤立した。衣食住を与えられ、生き永らえているだけの無味乾燥な日々。

 将来の夢なんて、そんなもの到底なかった。私の心は乾き切っていた。

 そんな中現れたのが怜欧。養子にする子どもを探しているんだ、と言い、本当に何が良いのか分からないが、十八歳になり来年退所予定だった私を引き取った。

 そのまま何故か養子縁組をせず、このマンションで二人共同生活を始める。


「本当に、どうして私だったんだろう」


 ほう、と息を吐くと、吐いた息が湯気とまじりあって溶ける。

 なんだかんだ言って、年頃の異性二人による同居生活。私と彼が男女の関係になるまで、さほど時間は掛からなかった。

 週末は時々買い物をしたり、二人で映画を観たりもする。孤児だった私とて、性に対する知識は人並みにはあった。彼をどうやって喜ばせるか、様々な知識を吸収した。それなのに、彼は決して私を抱かない。

 手を繋ぐ。

 キスをする。

 お互いに裸になって触り合う。

 でも、そこから先の、最後の一線だけは決して超えさせてくれない。

 

 彼が抱いてくれないから、私は自分の性欲を紛らわせるため他の男に抱かれる。いや、もしかすると、腹いせのつもりなのかもしれない。彼の気を引こうとしているだけなのかもしれない。

 最低な女──。どうして、と不満を抱え、何処までも墜ちていく体を、今日も私はひとり慰める。



 翌日の朝。リビングに入ると、パソコンの電源も点けっぱなしで、テーブルの上に突っ伏して彼は眠っていた。

 怜欧の職業はライターだ。なのでこうして寝落ちしていることが時々ある。締め切りが近いんだろうな、と思いながら、彼の背中にそっと毛布を掛けた。

 朝食を準備した後、返ってくるはずもない「行ってきます」の挨拶を部屋の中に残して、私は510号室を出た。


 見上げた空は、天気予報通りの曇天。

 傘を一本握りしめて、仕事に向かうため駅を目指した。



 思えば、そんな予兆はあった。

 体格の良い働き盛りの男。裕福であることを匂わせる身なりと車。自信に満ち溢れた表情。不倫ではないか、という予測こそ外れていたが、ワガママに育てられた御曹司、という予測は当たってた。

 繋がらない電話番号に何度もかけることで、苛々を募らせていたのだろう。街角で偶然再会した時、強引に迫って来る男を拒むことができなかった。


 今思うとそれが二つめの間違い。

 何度も男たちに『体を売る』ことで、感覚が麻痺していたのかもしれない。適当にセックスしていれば、満足して解放してくれるだろう、という甘えがあったに違いない。


 自分の過ちに気が付いたのは、ホテルの一室に連れ込まれたあとだった。

 そこから先のことは、もう思い出したくもない。

 手足を押さえつけられ、強姦紛いの乱暴をされた。抵抗しようと身を捩るたび頬の辺りを拳で殴られ、次第に抵抗する意思さえも奪われた。

 苦痛をともなう地獄のような時間は数時間にもおよび、自宅マンションの前に放り出された時、既に時刻は二十三時を回っていた。


「ただいま」


 フラフラと覚束ない足取りで部屋まで戻ってきた私を出迎え、怜欧が目を丸くして驚いた。


「お前、どうしたんだその恰好」


 震えている声音から、心配してくれている、というのはわかる。


「ちょっとそこで転んだのよ」

「転んだだけで、そんなになるわけないだろ! 顔は痣だらけだし、唇の端も切れている」


 それに、服だってボロボロだしね。口の中はずっと苦い鉄の味で満たされていた。


「なんだっていいじゃない」

「乱暴されたのか」

「なんで──」

「瑠衣。お前、以前から体を売っているだろう?」


 気付いていたのか。隠し事なんて、するもんじゃないな。


「どうしてそれを」

「やっぱりそうか」


 嘘は見破ったぞ、と言わんばかりに、眉をひそめて睨んでくる彼。


「理由もなく帰りが遅くなるし、前々から怪しいとは思っていたんだ」


 どうしてわかったんだろう。理由にぴんと来た私が、「スマホ見たのね?」と彼を問質すと、図星だったのか視線を逸らして口を噤んだ。


「なにそれサイテー。人のプライベートを盗み見るなんて」


 サイテーなのは、どっちよ。私の方でしょ。


「俺は、お前の保護者みたいなもんなんだ。帰りが遅くなれば心配だってする。お前が悩みを打ち明けてくれなければ、スマホの通信履歴を見ることだってある」


 開き直った言い方と、『保護者』という単語に、私の心が完全に切れた。


「なにが保護者よ! 私があなたのことを好きなの知ってるんでしょ?」

「それは、そうだけど」


 そうよね。わかってるんだよね。


「あなたはどうなの?」

「え?」

「あなたは私のこと、好きなの?」

「あ、当たり前だろ」


 だよね。私もそれとなく、理解してはいるんだ。


「じゃあ、なんで……。なんで私の事、抱いてくれないのよ」

「それは……。ダメなんだ」

「なにそれ! 全然意味わかんない! あなたがそんな風に煮え切らないから、私は自分なりに欲望を満たしているんじゃない」


 サイテー、そんな捨て台詞を残して、私はマンションを飛び出した。

 何処に向かうつもりなのかわからない。あてもなく、走り続けているうちに、冷たい雨が降り出した。

 とたんに寂しさが加速してくると段々と足が鈍り、私は彷徨うように歩き始めた。

 雨に煙る街。

 ヘッドライトを点灯して行き交う車。眩しい光が雨粒に反射して、キラキラと幻想的な輝きを放っていた。

 イルミネーションの多い街並みをみて、そうか、クリスマスが近いんだと私は思う。

 煌びやかな街並みと、反面、薄汚れた私の心。


「なんなんだろう」


 悪態が自然と口をついてでる。

 端的に言って、彼は何も悪くない。身寄りのなかった私を何の見返りも求めずに引き取り、住む場所を与え私を愛してくれた。確かにセックスはしてくれないけれど、そんなもの私のワガママだ。

 一方で私はどうだ?

 生活が不規則な彼をサポートするため家事の手伝いこそしているものの、勝手に不満を募らせ外部で男と関係を持つ日々。挙句性質の悪い男に引っ掛かってこのザマだ。自業自得じゃないか。


「なんなのよ」


 もう一度愚痴が零れ落ちると、完全に足が止まってしまう。

 近くの自動販売機から暖かいお茶を買うと、公園の中に入りベンチに一人腰かけた。

 見上げた空は真っ暗で、星ひとつ見えやしない。まるで私の未来を暗示しているよう。降りしきる雨が顔を激しく叩き、どんどん体が冷えていく。

 お茶の缶を開け、一口飲み干すと、暖かさが底冷えする体にじんわりと沁み込んでいくようだった。

 こんな風に温めて欲しかった。本当は、あなたにだけ抱かれたかった。抑え続けていた本音が溢れでると、不意に意識に緩みが入る。気が付くと私は、ベンチに横になっていた。

 次第に視界が暗くなってくる──。



 私は夢を見ていた。 

 夢の中で私は怜欧と二人ベッドの中で抱き合っていた。

 彼が私の耳元でなにか囁き、私はそれに『愛してる』と返す。夢の中でなら、私たちは結ばれるのかもしれない。

 そう──夢の中でなら。



「あ、あれ」


 最初に目に飛び込んできたのは、白。夢の光景がまだ続いているのかな、とぼんやり思い、真っ白で四角いソレが天井だとわかるまで時間がかかった。

 どうやらここは、私の家ではないらしい。

 一つだけある窓から入り込む日射しは茜色。左腕に二本刺さっている点滴の管の先は、夕陽を鈍く反射している透明のバッグに接続されていた。

 そうか、病院なんだ、と認識が思考に追いついたその時、耳に馴染んだ声が聞こえた。


「ようやく目が覚めたか」


 私の顔を覗きこんでいたのは、少し疲れた様子の怜欧だ。


「あれ、なんでここにいるの?」

「なんで、じゃない。お前公園のベンチで倒れていたの覚えてないのか。俺が見つけるのがもうちょっと遅れていたら、肺炎になっていたかもしれないんだぞ」

「ごめんなさい」


 自分の不手際を思いだし、殊勝な態度で頭を下げるほかなかった。


「あの後、私のこと捜してくれたんだね」

「あたりまえだろう。冷たい雨の中、傘も持たず傷心だけを抱えて駆け出した人間を捜さないほど、人でなしに見えるか俺が?」

「いや。ううん、まさか」


 そんなはずはない。一緒に暮らすようになってまだ四年でしかないけど、彼の性根が優しいことも真っ直ぐな事も知ってる。誰よりも強く、私が。


「あれからどのくらい経ってるの?」

「一日くらいかな──」

「そう」


 茜色に染まった窓の外を見て、翌日の夕方くらいかな、と思う。


「少し熱がでてしまっている。でも、それ以外は特に問題無いって。あと、妊娠していないと思うけれど、生理が来なかったらもう一度受診に来なさいって医者が言ってた」


 妊娠という単語を聞かされて、あらためて事の重大さを思い知った。

 布団に半分ほど顔を埋め、『ごめん』と言った声が、タイミングよく彼と重なる。


「なんで怜欧が謝るの? 悪いのは、全部私の方なのに。私はただ、あなたの気持ちを引きたくて、自分の体を粗末にしていただけ。本当に、バカなのは私の方」

「いや、それも、元を正せば俺のせいみたいなもんだからさ。ちゃんと謝っておかなくちゃな、と思って」

「ううん、そんな」

「でさ」


 その時、彼が襟を正すように背筋を伸ばした。

 なんだろう、と私も聞く体勢になる。


「亡くなったお前の親父さんなんだけどさ。再婚だったの知っているか? 亡くなったお前の母親が、二人めの奥さん」

「え? いや、全然」


 まったくもって、寝耳に水の話だった。


「それほんとなの? と言うか、なんで怜欧がそんなことを知っている──え、まさか?」

「そのまさかだ」と彼は言った。「お前の親父さんが離婚した時、母方に引き取られた子どもが俺なんだ」

「じゃあ」

「そう。俺とお前は、腹違いの兄妹ってこと」


 思いもよらぬ方向から降ってわいた新事実に、頭の整理が追い付かない。「ほんとに?」と反芻するのが精一杯だった。


「幼いころからお袋には何度か聞かされてたんだ。お前には腹違いの妹がいるんだってね。でも、そん時は俺もまだまだガキだったからさ、何時の間にかどうでもよくなって忘れてたんだよな。でも、テレビで震災のニュースとか孤児になった子どもたちの姿を観ているうちに、親父が事故で死んでたのを思い出したんだ」

「それで態々探してくれたの?」

「そう。お前の方の親戚筋との繋がりは完全になくなっていて、捜すのにちょっと手間取ってしまったけど」


 ここで、彼は一度言葉を切った。


「言わなくちゃ、言わなくちゃ、とは思っていたんだ。優柔不断な兄で恥ずかしいよ」

「ううん、そんなことないよ」

「迎えに行くの。遅くなってごめんな」


 視界が強く滲んだ。もっと早く言ってくれれば、とは正直思った。でも、自分が逆の立場になったら、と考えたら、これまでの境遇の違いとか諸々恨まれるんじゃないかと怖くて言い出せない気持ちもよくわかる。そうか。だから彼は頑なに私のことを抱かなかったのか。自分たちの関係から何まで全てを知っていたからこそ。

 意地を張って、気を張っていた自分のことが恥ずかしくなる。もう、なんでもいいや。家族でも、兄妹でも、たとえ恋人になれなかったとしても別にいいかな。

 私は彼のことが好きで、彼も私を愛してる。それが家族としての愛でしかなかったとしても、今はそれだけで幸せかな、と私は思う。

 もしかすると。

 もしかすると私たちの関係は、このまま何も変わらないのかもしれない。日本の法律において、兄弟姉妹婚は認められていないのだから。

 でも、これでようやく『私』は変われる。


 サイテーだった私、サヨウナラ。


 サイテーだった君のことを、私は忘れない。


 弱くて歪んでいた自分の姿を胸に刻み、ここから私は前を向く。だから今は、この言葉だけを彼に伝えよう。


「私を見つけてくれて、ありがとう。お兄ちゃん」


 オレンジ色の光射しこむ病室で、床に長く伸びた二つの影が、やがて静かに重なった。




 最低な君を忘れない~彼がセックスしてくれないから~ END

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