4つ目の選択は?

松本タケル

第1話

「トロッコ問題って知ってる?」

 夕暮れ時の喫茶店で彼女は唐突に尋ねてきた。

「モロッコ?」

 僕は答えた。

「違う、違う。それはアフリカにある国の名前でしょ。トロッコよ、トロッコ。線路を走って貨物を運ぶやつ」

 少し冗談を言っただけなのに、わざわざ説明してくれるが彼女らしい。もちろん、トロッコが何かは知っている。実物は見たことがないが。

「で、それの何が問題なんだい?」

「ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるかっていう倫理上の議論があるの。その例としてトロッコが使われているの」

 彼女は話を続けた。

「トロッコが走っていたら制御不能になりました。このままでは前方で作業中の5人がひかれてしまう。偶然、あなたは線路の切替器の近くにいました」

「それは偶然だね」


「もし、切替えた場合、その路線の先には別の作業員が1人で作業をしています。あなたは切替えますか? って問題のこと」

「5人の命を選ぶか、1人の命を選ぶか選択を迫られている。でも、どちらを選んでも問題が残る。究極の選択ってやつだね」

「そう。でも、トロッコって言われても身近に感じないよね。だから、何か良い例がないか考えてみたの」

 飲みかけのアイスティーをストローでかき混ぜながら彼女は言った。


 彼女は科学部、そして僕はバスケットボール部。同じクラスという以外、接点がなかった。偶然の出来事をきっかけに付き合うことになったのは半年前、高校2年の冬だ。受験準備が本格化する高校3年生を目の前に彼女をつくっていいものか少々悩んだが間違っていなかった。


 彼女は理科系専攻のいわゆるリケジョだ。数学と物理が得意な彼女は、成績優秀で国立大学の工学部を目指している。電気電子分野から宇宙、生物まで彼女の興味は幅広かった。


 彼女の話はどれも僕がこれまでの人生で興味を持たなかった分野だった。それが不快かと言われるとそんなことはない。逆だ。彼女は難しいことを平易に話してくれた。内容はどれも僕には新しく、刺激的だった。今回のトロッコ問題も同じだ。そんな言葉、聞いたこともなかった。


「それで、どんな例を考えたの?」

「最近、芸能人が浮気や不倫をしたって報道がされているじゃない。それってトロッコ問題かなって」

 彼女は一息ついて続けた。

「私が結婚していたとして、旦那が浮気をしているのを知ったとします。私が知っているということを旦那は知りません。私はどうしますか、という場合」

「浮気のどこがトロッコ問題なの?」

「いくつか選択肢があると思うの。まず1つ目。旦那に事実を突きつけるの。あなた、浮気してるでしょって」

 僕の目をじっと見つめて彼女は言った。


「でも、これはリスクが高いと思うの。別れてくれたらいいけど、逆上されて出て行かれちゃうかもしれない。相手の女性に走り、そのまま離婚。養育費も払ってもらえないみたいなパターンもありえる。これってリスクが高いよね」

「確かにあり得るね」

「2つ目の選択肢。見て見ぬふりをするの。もし、旦那との間に子供がいたとすると、愛情を注ぐ先が子供になっているかもしれない。それなら、生活を続けるのも悪くないかなって。子供が生きがいになっているかもしれないし」

 僕の返事を待たずに彼女は続けた。

「でも、これって何も解決になってないよね。結局、浮気相手に走って、1つ目と同じ結果になるかもれない。結局、リスクが高いままってこと」

「さすが、理系。よく検討しているね」

「それでね、まだあるの。3つ目の選択肢。相手の女性に詰め寄るの。別れてくれって」

「それは、大胆だね」

「これでうまく別れてくれたら、元の生活が続けられる。旦那にもばれない。それなら、リスクが低いよね」

「でも、その女性から旦那に伝わり、問題がこじれるかも」

「そう、そうなの。結局、問題が複雑になり嫌気がさして相手の女性に走るかもしれない。結局、この選択肢もリスクが高いってこと」

「で?」

「で、これってどれも選べないので、トロッコ問題かなって」

 ニコッと笑って、僕の顔を見つめて続けてこう言った。

「まあ、私の彼氏はそんなことしないけど」


 僕は背筋に悪寒が走った。まさかあのことを知っているのか? でも浮気といわれるレベルではないのだが・・・・・・。僕は話をそらすことにした。

「前にも言ったけど、次の週末にバスケットボール部の試合がある、見に来る?」

「うん。応援しに行く」

 彼女はこの半年、全ての試合を見に来てくれた。応援団の一群から離れ、遠くからひっそりと見ていた。応援団の雰囲気になじめないそうだ。


「地区大会を突破すれば次の大会に進めるけど、次の相手は昨年の優勝校だからなあ。勝てる可能性は小さいだろうね。もちろん勝つ気で臨むのだけど」

「負けたら引退ね。そうすれば、いよいよ受験戦争に突入」

「僕は同じ大学には行けそうにないけど・・・・・・」

「都内の大学狙いでしょ。それなら、家から通えるし、今と何も変わらないよ」

 その後、他愛のない話をし彼女と別れた。電車に乗り、最寄り駅で降りた。駅から家まで川沿いを歩く。周囲は薄暗かったが、蒸し暑さが残っていた。ふと、先週末の事を思い出していた。


 この前の日曜日、女子バスケットボール部のキャプテンのA美と映画を見にいった。僕は男子バスケットボール部のキャプテンとして彼女を戦友のように思っていた。そんな彼女から突然誘いがあった。

「映画にいかない?」

「おお、いいぜ」

 と軽い気持ちで答えた。しかし、彼女の気持ちは軽くなかった。映画後の公園で突然、告白された。

「リケジョのかわいい彼女がいるのは知ってる。でも・・・・・・それでもいいので、私と付き合って」

 予想外の告白に僕は驚き、即答ができなかった。

「あ・・・・・・あまりに突然なんで。少し考えさせてくれないか」

 と絞り出すように言った。その後、互いに気まずい雰囲気が流れ、すぐに別れた。


 なぜ、その場で断らなかったのだろう。プレーヤーとしてのA美は魅力的だった。そして、女性としても。しかし、これまでA美を付き合う対象として考えたことはなかった。男女の友情は無いという人もいるが、僕は本当に互いにスポーツで頂点を目指す仲間のように思っていた。

 そこに、突然の告白。即答で断るとこれまでの関係が壊れてしまうかも、と深層心理で思ったのだろう。そう結論付けた。

 「明日、ちゃんと断ろう」

 僕は小さくつぶやいた。

 

 そのとき、鞄の中でスマートフォンが鳴った。

「直接、電話なんて珍しい。誰だ?・・・・・・え、A美?」

 彼女とはSNSでしかやり取りをしたことがなかった。

「A美?・・・・・・・」

「た、助けて!」

 息を切らしているのが分かる。走っているのか?

「A美、どうした」

「近づかないで!」

 必死なため、僕の声が聞こえていないようだ。ドタッ、ドンドンと激しい音が聞こえる。室内のようだ。

「来ないでって言ってるでしょ!」

 ガシャと音がした後、A美の声が小さくなった。スマートフォンを地面に落としたのか? 僕は立ち止まり耳を凝らすことしかできなかった。

「どういうこと・・・・・・4つがどうしたっていうの? 4って何よ」

 A美を追いかけている相手と話しているのか。相手の声は全く聞こえない。

「バレなきゃリスクが最小?問題にならない?・・・・・・あなた、何言ってるの? 気でも狂ったの。キャー」

 叫び声と重なってグシャと鈍い音がした。その直後に電話は切れた。

(終)

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