終章

終章

数日後、又武史君が天草家にやって来た。梢は、アトリエ中に芳香スプレーをまき散らして、今度は、あの魚を三枚におろしたようなにおいがしないように仕向けた。いや、仕向けたつもりだった。

「こんにちは、武史君。」

玄関先でやってきた小さな小学生の男の子が、一寸肉たらしいというか、ほかの生徒さんより、もっと気を付けなければならないような気がした。

「先生、今日は。」

武史君は、ぺこりと頭を下げる。

「どうぞ、おあがりください。」

そういって、梢は武史君を、アトリエの中に案内するが、武史君は、アトリエの中に、入ろうとしなかった。

「どうしたの武史君。」

梢が行っても、武史君は入ろうとしなかった。

「だってすごいにおいが強烈なんだもん。」

外国人の子どもである以上、なんでも口に出して言ってしまうのであろうか。日本人の子どもだったら、たぶん、においがしても我慢できるはずだけど。

「なんだか、においがするんだもん。こないだみたいな、臭いにおいとはまた違って、なんかこのうちは、いつも変なにおいがしているよね。何か変だよね。この家は。」

武史君は、そういうことを言うのであるが、どうもその変が一寸怖いという気がしてしまうのであった。

「そんなこと気にしなくていいの。さあ、時間が無くなってしまうわよ。早く絵のレッスンを始め泣くちゃ。」

わざと、そういうことを言って、梢は武史君の気をそらそうとするが、

「でも、変なにおいがするのはいやだなあ。」

という武史君。だって、ほかの人は、芳香スプレーのにおいを、いい匂いだというはずなのに、なんでこの少年は、嫌だというのだろう。

「においなんて、すぐに忘れるわよ。絵のレッスンを始めましょう。」

梢は、武史君にそういって、無理やりアトリエに入らせ、画用紙を武史君に渡した。

「さあ、ここに置いてあるミカンを写生してみましょう。今日のミカンは何色に見えるかな。では、やってみましょうか。」

と、梢は、武史君に鉛筆を渡した。まず、輪郭線を鉛筆で描かせて、そのあと絵の具を持たせるというのが、今回の課題だった。どれだけ武史君が、ミカンの形を描く力があるか、それを試してみたいというたくらみもあった。武史君は、鉛筆でミカンを描き始めるのであるが、それはミカンというより、つぶれたラグビーボールのような形の、変な物体だった。

「ちょっと待って。武史君。ミカンはそんな形をしているかしら?よく見て。」

と、梢は注意するが、武史君は一生懸命描き続けている。

「武史君、これはミカンではないわよね。こんな形のミカンというものはどこにも無いわよ。」

梢はそういうが、武史君の答えはこうだった。

「だって、においがすごいから、その匂いも一緒に描くとこうなるんだよ。」

「武史君、そういことじゃないでしょう。絵を描くというのは、あるものをそのままに描くことから始めるのよ。」

「そうかな。」

梢が言うと、武史君はそういうことを言った。

「絵というのは、写真では無いでしょう。其れは、作者の勘が入っているから、面白いと色んな人が言うじゃないか。誰の絵だってそうじゃないか。ゴッホのひまわりだって、ちゃんとヒマワリを写真の通りに描いていないから面白いんだよね。」

「そうなんだけどね。まずそういうことをやる前に、絵の描き方というか、基礎的なところを習わないと。」

梢はそういうのであるが、武史君は、

「そうなのかな。見たものをそのまま描くというのは、見たものそのままじゃなくて、見たものをひとりの人間が見るというところから、違っていくんじゃないの。」

どうして、そういうことを言うんだろう。こんな屁理屈をいう子供なんて、見かけたことはない。

「武史君、絵を描くというのはね。もちろん、感性も大事なんだけど、まず初めに基礎的な技術として、本物そっくりに描くということも大事なのよ。まず、そこから始めないと、絵をきれいに描くのはむずかしいわ。まず初めに、基礎的なこととして。」

「でもみんな、基礎が大事というけれど、それができたって、応用問題ができなかったら、叱られるでしょ。学校の先生だってそうでしょ。」

と武史君は、小さい声で言った。

「どうせ、ぼくの学校では、難しい問題が解けて、運動ができるやつじゃないと、出来るなんて言えないじゃないか。みんな、それぞれ言いたい放題だよ。だれだれがだれだれよりできる、そういう話しか、面白い話はないんだ。其れよりも、誰から教えてもらった方がもっと感動するんだけどね。そういう話は一個もない。僕たちが喜ばれるのは、ほかの人たちより、いい点数を取って、いい学校に入って、その自慢をするときだけだよ。先生も、そういう風に考えているの?誰かと比べたら、それが面白いの?」

「比べるのが面白いって、それは、ほかの子の意欲を出してもらうために、比べることはあるけれど。」

梢がそういうと武史君は、

「ほらやっぱりそうじゃないか。みんな誰かが誰かより上で、いい学校に行って、いい学校に行ける人ではないと、幸せにはなれないんだ。だから僕はみんな劣っているから、嫌な奴しか見られないんだよ。」

と、応えるのであった。

「そうかもしれないけれど、あたしたちはその中で生きていかなければならないんだから、それは、ちゃんとしないと。」

「僕嫌だ。みんな、僕の事を、変な奴とか、気持ち悪いとか、そういうことしか言われないから、大人とか、教育者とか、そういうひとは好きじゃない。」

武史君はきっぱりという。子供がこんな事を言うなんて。梢は、もしかしたら武史君がこの家のことを誰かにしゃべってしまうのではないかという不安をさらに募らせた。世の中に対して、不満のようなものを持っている彼は、余計に誰かにしゃべってしまうような気がした。誰でも環境によって、性格も変わるし、発言も変わってくる。武史君のように、日ごろから否定ばかりされている子供は、誰か優しい人を見つけたら、全部それを話してしまいそうな気がしてならない。

「そうなんだ。先生は、武史君の事を否定もしないし、矯正しようとも思わないわ。じゃあ、やり方を変えるから、武史君も、先生が言ったとおりに描いてみようか。」

と、武史君に梢はそういってみたが、

「それはおかしいな。先生が言ったとおりにでは、否定しているように見えるんだけどな。其れってどこか、おかしいと思うんだけど。矯正しないと言っておきながら、言ったとおりに描いてみろなんて。」

と、武史君は答えるのであった。

「なんか先生、今日は変だね。部屋中を香りで充満させたり、否定しないと言っておきながら、言った通りなんて。一寸おかしいじゃないの。」

「そんなことないわよ。私は、正常というか、ちゃんとしている。変なのは武史君の方よ。あたしは、そう見えるわ。」

梢が急いでそういうと、

「やっぱり、大人ってそうだよね。大人は、そういう風に、自分は正しいというんだよね。僕はそういうことは嫌いだよ。大人は変なことばっかりにこだわって、変なところで正しいという。何だか嫌だなあ。」

と、武史君は嫌そうな顔をしてそういうことを言った。そういうことを言われて梢はますます不安になった。でも、今日の事を、絶対に、誰かにしゃべらないでねと言ったら、武史君は余計に、今日の事を誰かにばらすのではないかとおもった。

「今日は、もう帰ってもいいわ。何だか、もうやる気がなくなっちゃった。お父さんに言って、迎えに来てもらって。其れでいいから。」

「わかりました。」

と、武史君は子供用のスマートフォンを出した。ヨーロッパ人の子どもでもあるから、スマートフォンなどの電子機器を持たせるのは早いと思われる。ラインなどのアプリだって、使用するのは日本の子どもより習得は早い。だから、そういうところでは問題なく武史君は電話をかけることができ、直ぐに帰ってくれたのであるが。でも、梢は正直怖かった。武史君がジャックさんと一緒に帰っていくのを見送りながら、本当に子供というものは、ある意味末恐ろしいと、思ってしまったのである。

梢が、さて次回にはどうやって対処したらいいだろうと考えていると、又インターフォンがなった。何だと思って、一瞬、外へ出るのもたじろいでしまった梢であるが、

「お嬢様、お手紙が来ております。」

と言われて、梢は急いで玄関先へ行った。家政婦さんに郵便を渡される。一般的な茶封筒で、差出人の名前は特に書かれていないが、富士警察署とだけある。梢は、封を切って読んでみた。

「前略、梢お嬢様、もう契約は切れていますから、お嬢様ではありませんね。でも、そう呼びたいので、そう書かせてください。」

なんでも、前に家政婦として雇っていた、安田美千代からであった。なんで今時、この女性から、手紙が届くんだろうと梢は思った。

「お嬢様、安心してください。もうすぐ私は、裁判にかけられることになりました。警察も、私の自供を信じてくれたようで、ほっとしています。お嬢様は、いつもと変わらずに、絵画教室と個展を続けてください。お嬢様は、何も悪くないんです。すべては私がやったこと。お嬢様は、これから画家としての将来が約束されているのですから、もう私の事は、気にしないで結構です。私は、きっと、裁判官の人たちに詰問されて、判決が出て、刑務所に行くはずです。其れも、一生行くわけじゃない。何年かの話です。数年何てあっという間ですよ。お嬢様もどうか、ご自身の弱みを握られませんよう、強い気持ちをもって、過ごしてください。草々、安田美千代。」

美千代にとっては、別に何の変哲もない連絡なのかもしれなかった。安田美千代は、結婚もしていないし、子供もいない。だから、もうこの世の中から必要のない人間だから、もう逮捕されてもいいと言って、警察に出頭してくれたのだ。予定通り、美千代が犯人ということになり、警察も彼女の作り話にかなり共感してくれたようだけど。梢は、こんな手紙が来て、美千代が自分を脅迫でもするんじゃないかと思ってしまったのである。

美千代の手紙は、二伸が付いていた。そこを梢は急いで読んでみる。

「二伸、書き忘れましたが、この手紙の返事は書かなくて結構です。私は最後に、お嬢様の役に立てて、うれしいんですから、悲しむことではなく、喜んでいただきたいです。私のかわいいお嬢様。」

美千代は、梢が子供のころから天草家に仕えてきた女中だ。今は家政婦というけれど、昔は女中さんと、梢の家族は言っていた。そういうわけだから、私のかわいいお嬢様という表現を使ったのだと思うけど、梢は、この表現が怖くてたまらなかった。美千代は、私に何をしてくるつもりなんだろうか。どうしても、その文書通りに梢は読むことができなかった。

「お嬢様、どうされたんですか?」

先日雇ったばかりの新しい家政婦さんが、梢に尋ねる。梢は、もう少しで落としそうになった手紙を無駄な力で持ちながら、いえなんでもありませんよ、とだけ言っておいた。新しい家政婦さんは、美千代に比べたら半分の年齢に達していないほど若い人だ。そんな家政婦に秘密を知られたら。梢はそれも怖くてたまらなかった。

その数日後のことであった。梢が、何も起こらないで経過してくれて、良かったなと考えながら、アトリエで絵の具の整理をしたりしていると、いきなり新しい家政婦さんがやってきて、

「お嬢様、お客様がお見えです。」

と、梢に声をかけた。

「お客様とは誰?」

と梢が聞くと、

「はい、警察署の刑事さんです。」

家政婦は、事務的に答えた。梢はこんな時になんで警察が来るんだろうと考えながら、玄関先に出ると、

「天草さんですね。天草梢さん。実は一寸お伺いしたいことが在りましてね。」

と、スーツ姿の華岡と、部下の刑事が、警察手帳を見せて、威圧的に聞いた。

「はい、何でしょうか。」

梢がそう聞くと、

「実はですね。安田美千代さん、あなたのところに家政婦として雇われていた方ですが、昨日、留置場内で亡くなられました。洋服を自分で切り裂いて、首をつっての自殺でした。まあ、秦野益男を殺害したと彼女はうるさいくらい言っていましたんで、その通りなんだと思いますが、我々はまだ聞けなかったことが在りましてね。其れで今日は、あなたのところへお伺いしたわけですが。」

と、刑事は、そういった。その言葉に、後頭部を殴られたような衝撃を受ける。美千代さんが死んだ?だって、何年かすれば出てくるから大丈夫だと言ったのは彼女ではなかったか?それなのに自ら命を絶ってしまうなんて、彼女は何を考えていたのだろうか。

「天草さん。お伺いしますけど、あなた、秦野益男さんと付き合っていましたよね?」

刑事が、そこへ突っ込むようにそういうことを言った。梢が、ええ、まあとだけ言うと、

「じゃあ、彼が、あなたに結婚を迫っていた事も認めますか?秦野は生前、知人に漏らしていたこともわかっています。俺は、もうすぐ、ものすごい大金持ちのお嬢様をもらうんだと言いふらしていたそうです。」

と、刑事は言った。確かにその通りなのだ。秦野は、梢との結婚を求めてきた。梢自身は、そんなこと想定しないで、単なる友達としか見ていなかった。一度、友達のままでいましょうと言って断ったこともあったが、秦野は本気で考えていたらしく、梢にしつこく言い寄ってきた。梢は、どうしたらいいのかわからなくて、こっそり、美千代に打ち明けた。梢にとって、一番相談できる相手は美千代だった。父母も仕事でいつも不在だったから、相手にしてくれなかったので、美千代が最も幼い時の相談者だったのである。

「確かに、秦野はそうでした。でもだからと言って、私が、事件に関与してはいません。私は、事件当日、ホテルに食事に行っていたことは、刑事さんだってお調べになったと思います。」

ととりあえず用意されているアリバイを言ってみる。

「ええ、それはわかっております。美千代も、自分が単独で秦野を殺害したと言っております。美千代は、秦野を須津川まで呼び出して殺害したと言っていますが、私どもはそれはどうかと思うんですよ。第一、80近い年齢の美千代に、秦野を殺害することはできたんでしょうかね。まあ、美千代はすでに亡くなっていますので、そのあたりちゃんとした証言を得ることはできませんが。天草さん、胴でしょうかね。」

「でも、私にはアリバイが。」

と梢が言うと、

「ですが、変装すれば、誰でも自分の姿を変えることはできます。天草さん、私どもをなめてはいけません。ホテルで食事した時、あなたが、用事があると言って、ほかのご家族より先にかえったことはもう調べてありますよ。」

と、華岡はすぐに言った。

「ちょっと待ってください。確かに私は、かえりましたよ。でもそれは、気分が悪くなって、家に帰らせてもらっただけです。」

「それを証明できる人はおりますか?」

梢がそういうと、華岡はすぐに言った。

「もうなくなってしまっているけど、安田美千代さんが、その承認ですわ。私が、家で寝ていたのを、彼女は知っていたと思います。それを聞く前に彼女があの世に行ってしまったのが、残念でしたわね。」

「天草さん。其れは違いますね。」

と、別の刑事に言われて、梢はさらに動揺した。

「あなたは、美千代さんが秦野を殺害したと言っていますが、実は違うでしょう。確かに秦野を呼び出したのは、美千代さんだったかもしれませんが、そのあとで、あなたが自ら渓谷へ行き、とどめを刺したのではありませんかな?」

「でも私はそんなこと。」

「いいえ、あなたに似た人を、渓谷の近くに住んでいる住民が目撃しています。言い逃れはできませんよ。あなたこのままですと、秦野だけではなく、安田美千代さんの自殺を助長した事にもなります。」

梢は、警察の人たちが、こんな事を言うとは思わなかった。美千代が、お嬢様は何もしなくていいといった。だから其れでいいじゃないかと思ってしまった。其れなのに、警察はどうして余計なことまで調べるんだろうか。

「どうして、私だと思ったんですか。」

思わずそう聞いてみる。

「ええ、安田美千代さんを取り調べしているときにですね、美千代さんはあなたの事をこちらが言うと、逆上してお嬢様は絶対に違うというものですから。そういう風に感情的になって言うのですから、これは何か裏があるのではないかと私どもも思ったんですよ。」

と、華岡はそういった。なんで、そういうことがわかってしまうんだろうと、梢は小さくなってしまった。

「もしかして。あの、田沼武史という、一寸障害のある子が、何か言ったのですか。」

そう聞いてみると、

「いえ、彼にも話をお伺いしましたが、何も言いませんでしたよ。あの親子は、ただ、絵を習いに行ったというだけの事でした。」

とだけ、答えが返ってきた。梢は、何だそれだけの事かと同時に、自分があの少年にずいぶん振り回されてしまった事を知った。やっぱり、すべてを隠し通すことはできないんだと。

「はあ、天草さん、捕まったのかあ。何だか、この事件も平凡な事件だったね。ただ、秦野という男が梢さんにしつこいくらい言い寄ってきたんで、それをとめるために、やったのね。」

カフェに設置されているテレビを眺めながら、杉ちゃんはあーあとため息をついた。

「まあ、僕は初めからこうじゃないかと思っていたけど。」

と蘭は、彼女、つまり天草梢が、自分のところに刺青を依頼してきたころを思い出しながらそういった。

「彼女は決して器用な人間じゃないもの。僕のところに来る人は大体そうだけど、ちょっとしたことで

、考え込んでしまうくらい、不器用な人が多いよ。彼女もそうだったんじゃないかな。其れで秦野というひとを、殺害するに至ったんだと思う。」

「そうだねえ。」

と、杉ちゃんは言った。

「確かに、彼女は、ああいう絵を描くんだから、自分に嘘をつくことはできないっしょ。ああいう古賀春江みたいな絵を描く奴は、過敏すぎるほど過敏だからね。」


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一枚の絵 増田朋美 @masubuchi4996

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