第三章

第三章

何日かすると、事件の事はあまり詳しく報道されなくなった。一応、あの事件の犯人は、天草家に仕えていた女中が、これ以上主人である天草梢に付きまとうのはやめてもらいたいという理由で、秦野を殺害したということで結論付けられてしまった。ワイドショーでも、彼女の事は盛んに報道されていたが、数日で政治家の問題発言などを取り上げるようになり、天草梢の事や、秦野益男のことは、どこかへ行ってしまったようだ。まあ、テレビとか、新聞などの報道機関はいつも新しいものばかり取り上げて、古いものはどこかへやってしまうのが常であったが。

その日、田沼ジャックさんは、ひとりでカフェの席に座って、ぼんやりと何か考えていた。

「よ。ジャックさんじゃないか。どうしたの?こんな時に。何だかぼんやりしちゃって。」

いきなり車いすの音がして、杉ちゃんと蘭が隣の席に着いた。

「どうされたんですか。何か悩み事でも?」

蘭がジャックさんにそういうと、

「いやですね。今日武史の事で、学校から呼び出されましてね。」

ジャックさんは大きなため息をついた。

「また呼び出されたんですか?」

蘭が聞くと、ジャックさんははいと言った。

「まったくね。担任の先生から、イギリスの学校とは違うんだと理解してくれと、はっきり言われてしまいました。イギリスではなく、日本の学校、それも私立の小学校へ来ているということをもう少し考えてほしいそうです。でもですね、そういわれてもよくわかりませんよ。そういわれたって。」

「はあ、武史君は何をしたんだ?」

杉ちゃんがそういうと、

「だから、武史が描く絵が、学校で問題になっているそうです。この間、クラス全員で、学校近くに生えている樫の木を写生に行ったそうなんですが、とても樫の木とは思えない気持ち悪い絵を描いて、美術の先生も困ってしまったとか。もう少し注意をしてくれと学校の先生はおっしゃるんですが、僕は、本人の描く姿勢が大切だと思っているので、どうしたらいいのかわからないんですよ。なんで、こんなに何回も学校から呼び出され無ければならないんでしょうね。あーあ。どうしたらいいのだろう。」

ジャックさんは大きなため息をついた。

「そうですか、武史君はそんなにたくさん、問題のある絵を描いているんですか?」

蘭はジャックさんに聞いた。

「それに、これ以上変な絵を描き続けるのであれば、精神科に相談に行った方が良いとも言われました。そこでもし、具体的な病名が付いたなら、うちの学校では見切れないから、学校を変わってくれと。」

「学校を変わってくれか。其れならいっそのことそうしちゃったらどう?シュタイナー学校みたいな、そういう優しいことをしてくれる学校へ行ったら?そこのほうが、武史君の事を認めてくれるんじゃないかな。」

杉ちゃんはそういうが、蘭はそれは難しいよといった。

「だって、シュタイナー学校と銘打っているところは、近くにはないもの。電車で二時間以上かかるよ。」

確かに、シュタイナー学校と名乗っている小学校は、静岡県内にはなく、横浜まで行く必要があった。

「もうどうしたらいいんですかね。学校の先生が言った通り、病院に行った方が良いのかな。もう困ってしまってどうしようもないですよ。」

頭を抱えるジャックさんに、

「誰かに絵を習わせてみればいかがですか?もう親御さんだけで子供を一人前にしようなんて、そんなことはできない時代ですよ。親以外の人が関わっても、誰も文句言わない時代です。其れに、そういう一寸かわいそうな子を見てくれる絵画教室だって、探せばあるはずです。そういうところで、絵の描き方を教えてもらってはどうでしょう。」

と、蘭は提案した。

「おう、そいつはいいや。誰か、子供のための絵画教室をやっている画家を探してさ。一寸師事させるといいよ。武史君みたいに感性が良い奴は、きっと直ぐに覚えてくれるよ。保証してあげるさ。」

杉ちゃんもその話に乗った。

「そうですかねえ。あまり他人の手を借りるのは、一寸、申し訳ないというかなんといいますか。」

ジャックさんは、まだ不安そうな様子だったが、

「いえいえ、大丈夫です。家族だけで問題をのりこえるのがかっこいいとは限りません。中には、専門家を頼りにして、家がやっと成り立っているという家族だってあります。全然恥ずかしいことでもないし、申し訳ないことでもありません。むしろ、こういう世の中ですもの、専門家だってそのためにいるのではないですか。」

「蘭さん、ありがとうございます。日本では他人の手を借りようとすると、バッシングというかそういうものが多いので、一寸怖かったんですが、武史の事を考えると、専門家にゆだねるのも悪いことじゃないですよね。」

蘭にそういわれてやっと決断がついたようだ。

「僕も、インターネットなどで、子供向けの絵画教室を探してみます。本当に、背中を押してくれて、

ありがとうございました。」

「よかったねえ!」

ジャックさんがそういうと、杉ちゃんはカラカラとわらった。

その数日後の事である。天草家の広大な屋敷では、新しく雇われている家政婦が、今日は新しい絵画教室の生徒さんが来るからと、梢に言われて熱心に部屋の掃除をしていた。梢本人は、新しい生徒さんを迎えるため、絵画教室を行うアトリエで、絵の具の準備をしたり、画用紙の準備をしたりしていた。

天草家の時計が、10回なった。と、同時に、インターフォンがピンポーンと音を立ててなる。家政婦のおばさんが、はい、どなたでございますか、と、応答している声がする。小さな子供の声で、田沼武史ですと言っている声が聞こえてきた。まだ小学校の一年生ということだから、敬語もまだ使えないのではないかと梢は思ったが、その少年は思ったよりしっかりしていたようだ。家政婦のおばさんが、はいお待ちしていましたよ。と、武史君を、家の中に招き入れる。

「お嬢様。来ましたよ。田沼武史君です。」

と、家政婦のおばさんは、武史君を連れてきた。初めて通いに来る子供だから、きっと親も一緒に来るだろうなと梢は思っていたのであるが、来たのは武史君だけである。

「あの、僕、お父さんかお母さんは?」

思わず梢が聞いてみると、

「はい、僕はお母さんはもとからいません。お父さんはどうしても切れない仕事があって、今日は一人で来ました。」

と、ずいぶん大人びた様子で、武史君はそう答えるのであった。

「お父さんから、謝礼は預かっています。これをお納めくださいと。」

武史君は、梢に、封筒を渡した。確かに絵画教室の受講料である一万円が入っている。それは梢が、ホームページに明記している受講料と同じものであるから、其れでよいのであるけれど、どこかこの少年は、普通の子どもとは違うような気がした。

「よろしくお願いします。天草先生。」

と言って頭を下げる武史君。その顔は早く絵を描きたいと言っている子供の顔そのもので、梢はじゃあやってみようか、と武史君に画板と鉛筆を渡した。

「まずは、ここにある、ブドウとリンゴをスケッチすることから始めましょうか。」

と言って梢はテーブルにあるブドウとリンゴを指さす。

「じゃあ、まず、ブドウとリンゴを描いてみて。」

武史君は、そういわれてすぐに鉛筆をとって何か描き始めた。と言っても、本当に目の前にあるブドウとリンゴを描いているのだろうか?それよりも、なんだかわけのわからない物体を描いているように見える。

「武史君、ブドウとリンゴを描くのよ。」

と梢は武史君に注意したが、

「うん、だって、この部屋、すごい変なにおいがするから、それも一緒に描いた方がいいと思ったの。」

という武史君。梢は、しばらく彼の描く絵を見守ってみることにした。確かに、ブドウとリンゴのようにも見えなくもないが、その周りは、なんだか異様な物体がブドウとリンゴを取り巻いているような、そんな絵である。

「先生、描き終わりました。」

と言って武史君は、梢に画板を差し出した。

「じゃあ、先生から武史君にいくつか質問をするわ。其れに応えてみてね。」

梢は、絵に描かれているものを指さし、武史君に聞いた。

「この、ブドウの周りに描いてある、渦巻きはなにかなあ?」

「はい、お魚のようなにおいがするから、それを描いたの。」

と、武史君は素直に答える。

「先生、このアトリエでは、サンマの三枚おろしもするんですか?」

逆に武史君からそんなことを言われて、梢はちょっとびっくりした。だって、アトリエは、もうとうの昔に掃除をし、消毒までしてあるはずなのだ。

「先生は、ここでサンマを下ろして食べたんですか?ちょっと変わってますね。三枚おろしなら、台所でするものですよね?」

と武史君はそういう。まだ小さな子供であるから、ごまかしがきくだろうと思った梢は、

「ええ。まあね、台所から、このアトリエは近いから、そうなるんだと思うわ。」

と言っておいたが、武史君はすぐに、

「違うよね。台所は、この部屋からは遠いよ。僕、女中のおばさんと一緒にこの部屋まで来る時、台所を通らせてもらったけど、さんまの三枚おろしのにおいはしなかった。さんまの三枚おろしのにおいがしたのは、この部屋に来てからだった。」

と、子供らしく真面目そうな顔をして、そういうことを言う。なんでそんなことまでかぎ取ってしまうのだろうと梢は思ったが、

「まあ確かにそういう事もあるかもしれないけど、今は絵の勉強に来たんだし、絵の事を話し合いましょう。」

と、ごまかして、武史君の絵をもう一度見た。

「ブドウとリンゴの描写はよくできているわ。でも、もう少し、このリンゴが、新鮮であることをっ表現できるともっといいわね。じゃあそういうところを色で表してみようか。」

と、武史君に絵の具とパレットを渡した。

「先生、これは、どんな絵の具何ですか?」

武史君がそんな質問をしてくれたので、梢はちょっとほっとする。

「これはね、アクリル絵の具よ。水彩と油彩のいいとこどりと言えばいいかしらね。どちらの表現もできるから、便利で使いやすい絵の具だわ。」

「いやだ、僕、油彩の方が良い。」

いきなり武史君はそんなことを言いだした。

「どうして?」

と梢が聞くと、

「油彩のほうが、はっきりして、濃い色を出せるから、僕は好きだ。」

と、武史君はそういう事を言う。

「大丈夫よ。このアクリル絵の具では油彩のような表現もできる、便利な絵の具だから。まず初めに、アクリル絵の具で、色をつくるところから、始めてみましょうね。このブドウは何色に見えるかな?」

梢がそういうと武史君は、

「黒。」

と答えた。

「黒?そうかな?ブドウが何で黒に見えるのかしら?」

梢が聞くと、

「だって、周りに変なにおいが漂っているから、どうしてもブドウが黒く見えるの。普通のにおいじゃないもの。」

と答える武史君。

「じゃあ武史君にとって、普通の匂いって何かな?」

と梢が聞くと、子供らしく、口をつぐんでしまった。

「じゃあ、このブドウだって、普通のにおいがする場所に置かれているんだから、ちゃんと紫を塗りましょう。紫の絵の具をとってみて。」

梢が指示を出すと、武史君は、一寸迷って、紫の絵の具に手を伸ばそうとしたが、やっぱり黒をとった。

「なんで紫じゃなくて黒をえらぶの?」

「だって、僕たちが住んでるところと、先生の住んでいるところは、全然においが違うんだ。だからどうしてもブドウが紫じゃなくて黒に見える。」

梢が理由を訪ねると武史君はいかにも真面目そうに言うのであった。

「先生のお家は、なにがにおうのかな?」

「だから言ったでしょ。魚を三枚におろしているにおい。」

「先生は、魚を三枚におろしてなんかはいないわ。じゃあ、リンゴのほうはどんな色を選ぶか、一つ色をとってみて頂戴。」

梢はちょっと眉をひそめながら、武史君にそういってみた。武史君は、沢山あるアクリル絵の具の中から、赤茶色を取り出した。普通、リンゴを写生するのだから、赤か赤に近いピンクをえらぶはずだ。其れなのに武史君は、赤茶色をえらぶのである。

「どうしてリンゴが赤茶色に見えるの?どう見ても、リンゴは赤でしょう。まあ、赤ピンクということもなくはないけど。」

「だから、魚を下ろしているにおいも一緒に入っているから、赤茶色をとりました。このアトリエで、先生は魚を食べたんだ。其れは、そうだと思うけど。なんでですか?」

梢がいらだって武史君にそういうと、武史君は何も悪びれた様子もなく、そう答えるのであった。

おかしなことだ。梢にだって、魚を三枚におろしたようなにおいはしないのに、彼は魚を三枚におろしたにおいがすると言ってきかない。まったく正直な子供というか、なにか過敏すぎる子供である。梢は、一寸怖くなった。

「武史君、本当に、この部屋には、魚を三枚におろしたにおいがするのかしら?」

改めてそう聞くと、

「はい。します。」

と武史君は断定的にそういった。その言い方が、いかにもその通りという言い方だったので、梢は何だか、自分のしたことが見透かされているような気がした。

「武史君。もう少し、周りの風景をしっかり観察しましょう。このリンゴは赤茶色なんかじゃないわよ。これは目で見ればわかると思うけど、赤い色よね。だから赤い色で塗りましょうね。」

「そうかなあ。僕、どうしても赤い色に見えないんですよ。においが充満しているから、このリンゴは赤茶色に見える。」

そういう武史君に、梢はさらに怖くなる。

其れと同時に、家に設置されている柱時計が、11回なった。これで絵のレッスン時間は終了だ。そうすれば親御さんが迎えに来るだろう。武史君があまりにも過敏すぎるということを、親御さんに伝えなければならない。

「じゃあ、時間が来たので、今日のレッスンはここまでにするわ。初めてのレッスンなので、緊張したかと思うから、しっかり休んで頂戴ね。」

と、梢は子供相手の先生らしくそういうことを言ったのであるが、

「ううん、僕、何も緊張しなかった。」

と武史君は、にこやかに言った。

「ただ、アトリエの中で、魚を三枚おろしするのは、変だと思った。」

それは言うなと言いたかったが、梢は無理やり笑顔をつくらなければならなかった。それに、この部屋のにおいなんて、ほとんどの人は感じ取っていないはずだ。もしかしたら、子供だから口から出まかせに言っているだけかもしれないし。梢は、そう思い込むことにした。

五分ほどたって、インターフォンがなった。武史君の保護者が迎えに来たのだろう。梢が予想した通り、家政婦のおばさんが、武史君のお父様が迎えに来ました、と報告に来た。梢は急いで領収書を書いて武史君に渡し、お父さんに武史君を引き渡すために、二人で玄関先に行った。

「今日はありがとうございました。あの、武史が失礼な事を言ったりしませんでしたでしょうか。」

梢が玄関ドアを開けると、武史君を迎えにやってきたジャックさんは、頭を下げてそういうことを言った。何とも繊細そうな外国人男性という感じの人だった。

「ええ。まあ。でも武史君、においにいつも敏感なんですか?」

と梢が聞くと、

「はい、音やにおいに過敏であるのは昔からそうです。それによって、誰かに迷惑をかけたりしないか

、いつも心配でハラハラしています。」

と、ジャックさんは答える。

「そういうことでしたら、余計なことは絵には現わさないで、ありのまま、見たままを描くように言ってください。なんでも、目の前にあるものを描けばいいのに、においまで一緒に描こうとするものですから、其れで色遣いが変に成ったりするんです。其れははっきりしています。そういう敏感なところがもうちょっと緩和されれば、絵を描くことができるようになると思いますよ。」

と、梢は笑顔をつくってそういうことを言った。

「そうですか。ありがとうございました。月に二回レッスンをお願いしようと思っていますので、次回は再来週にまた来ます。本日はどうもありがとうございました。」

とジャックさんは、武史君に靴を履かせて、もう一度頭を下げて、天草家を出ていった。武史君が屋敷を出ていったのを見送ってから、梢はにおいの事は誰にも他言しないようにと言っておくのを忘れていたことに気付いた。もし、武史君が、においが変な家だったと父親に他言してしまったら、又疑われる可能性もある。梢は、急いでアトリエに戻り、部屋中をアルコールで消毒した。もうにおいなんかしないようにと必死になって床を磨いた。これまで、この部屋のにおいの事を言及した人物は、絵画教室の生徒さんを含めても、誰もいなかった。つまり武史君が初めてである。其れに、子供というものは大人に比べると口が軽いだろう。簡単に誰かにしゃべってしまう可能性は高かった。だから、この部屋のにおいは、十分に隠しておく必要があった。次の生徒さんが来るまで時間はあったから、梢は、猛ダッシュで近くのドラッグストアまで行き、芳香スプレーを買い込んで、アトリエ中に噴射した。いつもはそういうことは、家政婦さん任せで、家事なんて碌にしなかったお嬢様が、なんでこんなに熱心に掃除をしているのかと、家政婦のおばさんは、おかしな顔をしていた。

知らないうちに、梢の持っている芳香スプレーは空っぽになってしまっていて、部屋全体が偽物のバラの香りであふれていた。これであの少年に、魚を三枚におろしたとか、そういうことを言われることもないだろうと、梢はほっと胸をなでおろした。

「これ、捨てておいて。」

梢は芳香スプレーの缶を、家政婦のおばさんに渡した。全部自分でやろうとしたら、いつも家事が苦手なお嬢様がなんで今日に限ってご自分でゴミ出しを?と、家政婦のおばさんに怪しまれる可能性があると思ってそうしたのだ。家政婦のおばさんは、はいわかりましたとは言ったものの、一日で芳香スプレーが、四本も空になるのはなぜだろうという、疑問を捨てられなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る