後編
シリルはご機嫌で日本棋院の自動ドアを潜った。
院生研修を終えてすぐに出たので時刻は十七時すぎ。
外はオレンジ色になっているがまだまだ日の光はある。
シリルはふんふんとスキップしそうな勢いで坂を降りていく。Bクラス初戦、二回戦と勝利を納めたので余程機嫌がいいのだろう。
シリルの頬をかすめた桜の色が一瞬で水色になっているのを見てこすみは呆れ顔になっている。シリルは気がついた様子もない。念のため水色になった花びらをこすみは回収しておく。
苦手意識のあった葉山に勝ったのが大きかったのかもしれない。シリルは自分でも調子がいいのがわかった。
普段なら力で押し切ろうとしたり勝ち急いだりしてしまうような場面を冷静に着手することができた。
囲碁は基本的にいつ棋力が上がったのかがわからない。
それでもシリルは確かに少し強くなったような気がしていた。
何百何千時間という鍛錬が自分の実になっているのが実感できて嬉しくなる。
同じく全勝だったらしいこすみと並んで総武線に乗った。
天元に棋譜を見せに行くのだ。
院生たちは対局が終わろうがずっと鍛錬。
試合の熱が冷める前に師匠の元へと棋譜を見せに行き反省会を行う。
寝ても覚めても囲碁ばかり。
普通の中学生が聞いたら目をむきそうな生活だ。
それでもシリルとこすみは当然のような顔で天元の住む高田馬場へと向かう。
話題も院生手合いのものになる。
「あの石が死んだ」だとか「殺せそうだったのに」だとか随分と物騒な単語が並び、土曜の電車に揺られる親子連れなどがギョッとした顔でシリルたちを見てくるが本人たちは会話に夢中で気がついていない様子だ。
駅から十分ほど歩いたマンションのエントランスを潜り、シリルたちが天元の玄関を開けた。
天元が満面の笑みで迎えてくれる。
「こすみ、初日全勝おめでとう。上位陣との対局だったのによくやったな。」
ーーー天元はこすみを溺愛している。
こすみは小さな顔にくりくりとした大きな瞳…非常に整った顔立ちをしていた。
加えて囲碁棋士としても将来有望。親戚である天元が可愛がらないはずがない。
シリルには「葉山さんとの棋譜を見せろ」しか言わない天元にシリルは苦笑いする。
メールで結果は伝えてあるので天元は当然シリルがBクラスで全勝したことを知っているはずだ。
それでも天元が全く喜んでいる様子は見えない。
ブスッとしたシリルを見てーーーこすみは呆れた顔になった。
こすみにはわかったからだ。天元がシリルの棋士としての将来に本当に期待しているからこそ厳しいのだと。自分はまだ「可愛がられて」いるのだ。
その後はすぐに碁盤の前に三人で集合した。
シリルがパチリパチリと淀みなく棋譜を並べていく。
記録もつけてあるようなのだが…ちっとも見ている様子がない。自分の対局を完全に暗記しているようだ。
こすみはあまり記憶力が良い方ではないのでシリルのことを純粋にすごいと思った。
この兄弟子はきっと一月前の棋譜でも
検討会は三時間程度続けられ、シリルが帰っていった。
こすみは週末は天元の家に泊まる。
二人で夕食の準備をしているとーーー天元がボソリと言った。
「ーーーシリルはどんどん強くなるなあ。」
その後で「そう言えば有田はどうした?」と聞かれたので知らないと返しておく。
本当は遊びに行ったと知っているのだが…明日は来るだろう。言い訳は自分でして欲しい。
シリルが帰ると…本人の前では見せないようにしているのだろう、わずかにだが目尻を下げ嬉しそうな顔をする天元。
「あそこがよかった、あの辺はまだまだ粗がある」などとポツリポツリ。今日見たシリルの記譜についてコメントを述べていく。
こすみが黙って頷いていると天元は興が乗ったのか、彼にしては珍しく饒舌に語り続ける。
その師匠の様子を見て、こすみはどうやら葉山にシリルが勝ったのが天元もとても嬉しかったのだろうと悟る。
「結局な、棋士っていうのは何か欠けてる奴の方が大成するんだよ。有望な棋士は片親だったり病気だったり…複雑な事情を抱えてる奴があまりにも多い。そういう意味ではシリルは後がないからなあ。貪欲に勉強している。」
こすみは天元の言葉に返事をすることなく黙って野菜を切った。
その基準だと…両親が離婚しているこすみも大成できるななどと考えながら。
黙り込んだこすみの頭をポンポンと天元が撫でた。
「棋士っていうのは稼ぎが不安定だから婿としてはお勧めできんが…こすみのためなら俺がなんとかしよう。シリルをタイトルをいくつも取れるような棋士にしてやるよ。」
頭に乗った手をべしりとこすみが退ける。
余計なお世話だと睨むも天元はニヤニヤと笑うばかり。
いらっとしたこすみは…天元に向かって言い放った.
「天元先生がまずはタイトル取りなよ。」
うぐっと言って天元が胸を抑えた。
こすみの鋭い言葉は天元にクリティカルヒットしたようだ。
こすみはそんな天元を見てクスリと笑いーーー「あとね」と付け加えた。
「ーーーあたしが何千万も稼げるような棋士になるから大丈夫。」
ふっと視線をそらしたこすみのつむじを見て…天元がいかつい顔をクシャリと緩めた。
食後にまた対局しようなどと言い合う二人はーーー似た者同士なのかもしれない。
○
シリルは電車を乗り換え神奈川の自宅へと帰っていた。
時刻は二十一時を回っている。
明日もまた九時から院生手合いだ。
足早に自宅へと歩を進めーーー曲がり角を曲がったところで何者かにがっしりと肩を掴まれた。
シリルはギョッとして振り返りーーーぽかんと口を開けた。
それもそのはずこの世のものとも思えないほどに整った顔立ちの美女がシリルの背後に立っていたのだ。
しかも配色がおかしい。
髪も瞳も唇も燃えるような赤色。
真っ暗だというのにその女性の周りだけは少し発酵していた。
シリルは幻覚でも見ているのかと思い目をゴシゴシと擦ってみた。
しかし、美女は消えずーーー眩いばかりに光っているのもどうやらシリルの勘違いではないようだ。
二人はしばし見つめあいーーー先に口を開いたのは美女の方だった。
「ーーーお前、もしかしてボクのこと見える?」
シリルは質問の意味がわからなかった。
見えるも何も捕まえておいて何を言っているのだろう。
ーーーボンキュボンの美女じゃなくておっさんだったら通報してるぜ。
シリルは内心でそんな顔とを考えながらこくりと頷いた。
引き気味のシリルとは対照的に、赤髪の美女はパアアアアと顔を輝かせた。
「やっと見つけた!!こんな端っこの島国にいるなんて!!」
ダーウィンの国になんでいないのだとか蜥蜴と蛇くんが言うことをもっと早く信じればよかっただとかーーーシリルが口を挟む暇もなく意味不明なことをまくし立てる美女の口をシリルががっと右手を当てることで塞いだ。
強制的に黙らされた美女は驚いたように目を見開いている。
しかし、シリルは若干怒ったような顔で言った。
「ーーー俺、忙しいんで、失礼します。」
スタスタと歩きさったシリル。
その後ろを数匹の蛇と蜥蜴が追いかけていく。
美女はぽかんと立ち尽くしていたがーーーやがてこらえきれないと言った風に声を上げて笑い出した。
「ボクが見えるだけじゃなくて触ってなんともないなんて。ーーーどれだけの魔力を体に宿しているのやら。」
ーーー見つけたからには逃さないぞー。というシリルが聞いたら嫌がりそうな台詞を残して赤髪の美女は消えた。
ーーーリン。
路地には鈴のような音色と赤く輝く粒子だけが残されていた。
○
シリルは翌日日曜も三局の手合をこなしーーー二勝一敗、つまり通算成績四勝一敗としていた。
残留できそうな気配にシリルは頬が緩むのを感じていた。
もちろん四週間あるうちの一週が終わっただけだ。上位陣との対局はこれからだし気を抜くのには早すぎる。それでも自分の実力がBクラスでも通用するという確かな手応えも感じていた。
兄弟子である有田もシリルの棋譜を見て思わず唸っていた。
「ーーーなんかお前、強くなってねえ?」
ぐっと悔しげに表情を歪ませた有田を見てシリルはドヤ顔をかましてきた。
拳骨を喰らわされたがシリルは満足だった。
シリルは院生の序列が上がっていくたびにほっと肩の力を抜く。
シリルは常々思っている。自分には将来の選択肢があまりないと。
白と黒の石のみに触れていればお金が稼げる囲碁の棋士はシリルにとっては天職だった。
囲碁界の人々は他人の詮索をしないのもまたいい。シリルが悔しさのあまり水を出してしまい、ちょっと物を濡らしていたりしても、怪訝そうな顔をするのは一瞬だけ。
すぐに対局内容へと意識が持っていかれる。
様々なもの、人に関わらねばならない普通の会社員など絶対に無理だ。
クロコダイルの手袋は万能ではない。ふとした瞬間に色変えや炎や水が出てしまうのだ。
自分の不思議な力を解明するために学者になる道も考えたりはしたがーーーシリルは学校の勉強がとてつもなく苦手だった。
興味が湧かないことはとんとダメなタイプだったのだ。
後に引けないシリルはそれこそ両親が心配するほどに囲碁にのめり込んでいた。
シリルなりの親孝行でもあった。
父親はシリルについて神奈川に出てくるために転職までしたのだ。
シリルの幸せが自分たちの幸せだと言ってくれる両親のためにもシリルはプロにならなければいけない。自分のためにも、二人のためにも…そう思えば、同年代が夢中になっているテレビも漫画もゲームも全て我慢できた。というよりよそ見している余裕がなかった。
Bクラスに残留。いずれはAクラスに昇格。
シリルがそんなことを思いながら地元の夜道を歩いているとーーー見覚えのある人影が曲がり角に立っていた。
シリルはげ、という顔になって足を止めた。
明らかに誰かを待っている風の赤髪美女は…足を止めたシリルに気がつくとパッと顔を輝かせて走り寄ってきた。
「少年!ーーーさっきぶり!元気にしてた?」
一日前の出来事をさっきと表現する美女にシリルが訝しげな顔を向けていると…前から五十歳くらいの男性が歩いてきた。
道の真ん中に立っているシリルを苛立ったように見ている。
その視線が明らかにシリルより不審な赤髪美女へと全く向けられていないことに気がつきーーーシリルはゾッとした。
ーーーそういえば、昨日こいつはなんて言った?
「お前、もしかしてボクのこと見える?」…確かそう言ったのだ。
シリルは悟った。
これはシリルの持つ不思議な力関係の出来事だと。
明らかに人間離れした気配を持つ目の前の人物を視界に入れ、ますます自分が普通から遠ざかっていく気配にシリルは頭痛を覚えつつ…ニコニコと笑っている赤髪の美女の腕を取り、近くの公園へと誘導した。幸い夜の公園は無人である。
されるがままの赤髪美女の手を引いてシリルはベンチへと座った。
シリルの横に大人しく収まり、不思議そうな顔で首を傾げる美女を無視してシリルはスマホを取り出す。
電話をするわけでもないのにスマホを耳に当てたのはシリルが一人で喋っているのを不審に思われないためだ。
シリルはそこまでしてーーーようやく赤髪の美女の方へと向き直った。
「ーーー俺になんの用ですか?」
きちんと事情を聞いてやらなければまた現れる…シリルはそう悟ったのだ。
赤髪の美女は「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりに話し始めた。
そしてその話の内容は突拍子もないものだった。
いわくーーー
「ちょっとここじゃない世界でボク…まあつまり竜の加護が消えかかってるんだ。それで次代に引き継ぎたいんだけど…ボクもびっくり。次代のパートナーが世界のどこにもないの。ボクの力は確かに次代とパートナーに移ってるのに不思議だよねえ。流石のボクも焦ってこの世界に探しにきたってわけ。ダーウィンの国にいない時は絶望しかけたけど、念のため秀策の故郷にもきてみてよかったよ。大正解、これで国にキミを連れ帰れば万事解決!」
竜、ダーウィン…現実離れした架空の生き物や歴史上の名前がポンポンと飛び出す美女の言葉にシリルはぽかんとしていたが…最後の方に出てきた秀策、という名前には身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください。秀策って…あの、本因坊秀策ですか?江戸時代の?」
身を乗り出したシリル。
赤髪の美女は自分が反応して欲しかったところと違うと思いつつーーーシリルの瞳の中に燃え上がるように揺らめく赤色に気がついてにっこりと笑った。
そしてシリルの問いに応えることもなくーーーシリルの真っ白な頬に右手を添え、ちゅっと唇に触れた。
「ーーー!!!!?????」
シリルの持っていたスマホがゴトリと地面に落ちる。
バッと飛びすさりーーー首まで真っ赤に染めたシリルの反応を見て赤髪の美女は妖艶に笑った。
すごく柔らかくて、びっくりするほど熱い感触が生々しくシリルのもとには残っている。
唇を抑えて固まるシリルにーーー赤髪の美女は言う。
「他国の愛し子に興味を持つなんてダメだよー?キミはボクの選んだ愛し子なんだから。」
シリルは何を言われたのかわからなかった。
それでも、目の前にいる存在がとてつもなく美しくてーーーゾッとするほど魅力的なことはわかった。
シリルが惚けているとーーー赤髪の美女はシリルへとグイッと身を乗り出した。
縮まった距離と同じ分だけのけぞろうとして…公園のベンチはそれほど大きくないので、シリルはすぐに手すりにぶつかって後退りできなくなる。
「キミはボクのもの。わかったね?」
赤い瞳にじっと覗き込まれーーーシリルは何も考えることができずにこくこくと頷いた。
そんなシリルの反応を見て満足そうに笑った赤髪の美女はーーー「じゃあ行こっか!」と明るく言った。
シリルが「は?」と首を傾げるとーーーシリルの両手を取ってベンチから引っ張り上げた。
されるがままに立ち上がるシリル。
赤髪の美女はシリルの手にはめられている真っ黒な手袋を見ると、しばらく何か考え込んだ後で強引に引き抜き、それらをぽいぽいと放った。
あっとシリルが声を上げるも赤髪の美女は気にした様子がない。
あらわになったシリルの片手を掴んだままーーー指先からキラキラとラメのように輝く真っ赤な光を出して空中に不思議な紋様を描き始めた。
次々に起こる不可解な現象にシリルは茫然としていたがーーー赤髪の美女に向けて、ようやく言葉を発した。
「ーーーな、何してるの?」
シリルの問いに赤髪の美女はなんでもないことのように「異世界転移の準備」と応えた。
ーーー異世界…転移?
「ーーーはああああああああ!!!????」
急に叫んだシリルを見て赤髪の美女が怪訝そうな顔になる。
「ーーーそりゃあ竜が魔法陣描いてたら驚くかもしれないけど、いくらボクだって異世界転移は難しいんだよ?絶対失敗しないように魔法陣描いておかないと。」
いい子だからちょっと待っててね?と宥めるように言った赤髪の美女。
しかしシリルは「そうじゃねえ!」と叫び返した。
「勘違いじゃなきゃーーー俺、どっかとんでもない場所に連れていかれようとしてねえ?」
シリルが恐る恐ると言った調子で赤髪の美女に尋ねるとーーー「まあそうだね」とあっさりした返事が返ってきた。
「異世界だからこの世界の人間にはもう会えなくなるだろうねえ。ーーーしょうがないんだよ、馬鹿な人間が加護持ちを皆殺ししたりするから赤の魔力に余裕が無くなっちゃったんだ。」
赤髪の美女はそんなことを言いながらもずっと手を動かし続けている。
シリルたちの前には真っ赤に光り輝く直径二メートルほどもありそうな巨大な円が浮かび上がっている。
その円の中に見たこともない文字がたくさん描かれており、絶えず赤髪の美女の指先に呼応するように振動していた。
右下隅の空いていた場所に最後の文字を書き入れた赤髪の美女はーーー真っ青になって立ち尽くしているシリルをじっと見た。
シリルは泣きそうな顔で「放せ」と言ってくる。
しかし、二人の繋がれた手は離れない。赤髪の美女が…その細身からは考えられないような強い力でシリルの手を握っているからだ。
黙ってシリルを見ていた赤髪の美女はーーークシャリと笑った。
その顔がひどく優しげでシリルはなぜかとても懐かしいような気持ちになった。
続いて赤髪の美女は「ごめんね」と囁くように言った。
「ーーーごめんね、生まれる場所を間違えさせたせいで余計な苦労をいっぱいかけた。…この世界じゃ生き難かったでしょう?魔力が薄すぎる世界でシリルは浮いているよ。」
もう大丈夫ーーーそう言って赤髪の美女はシリルをギュッと抱きしめた。
シリルは言い返そうとしてーーーなぜかこぼれたのは嗚咽だった。
シリルはわかっていたのだ。
自分がこの世界に適合できていないことも。
両親には言っていなかったが…火や水なんて可愛いものだ。
成長するに連れもっと強い力が使えるようになっているのが自分ではわかっていた。
ーーーいつか、この力で周りの人を傷つけるかもしれない。
それは物理的なものなのかーーーそれとも他者から向けられる好奇心という名の心理攻撃なのかはわからない。
調和を乱す存在を人間は恐れる。
シリルはーーーこの世界にいないほうがいい。
シリルはストンと納得した。
瞳に指を突っ込んでコンタクトを外した。
視界がさっとクリアになる。紫の瞳は本来の赤を取り戻す。
赤髪の美女を見上げてこくりと頷いた。
「わかったーーーでもさ、せめてお別れくらいさせて?」
シリルの言葉に「もちろんだよ」とうなずいた赤髪の美女。…だったのだが勢いよく頷きすぎたのか、彼女の髪の毛が魔法陣に触れた。
途端に眩いばかりの赤い光を放ち始めた魔法陣。
ーーー赤髪の美女が「あ゛」と焦った声をあげた。
「ご、ごめん!うっかり魔法陣起動しちゃった!」
「ーーーはああああ!?」
あははははーという赤髪の美女の笑い声とともにシリルは地球から連れ去られた。
そして落とされた先で更なる苦悩が待っているのだがこの時のシリルはそのことを知る由もなかった。
囲碁のプロ棋士を目指していたはずなのになぜか異世界へと誘拐されたんだが。 橘中の楽 @Cho-cho
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