囲碁のプロ棋士を目指していたはずなのになぜか異世界へと誘拐されたんだが。
橘中の楽
前編
人間は自分が持ち得ないものに憧れを抱く生き物だ。
魔法が使えない人間はファンタジーの世界に夢中になるし、空が飛べないから飛行機やスペースシャトルを開発したりする。
だからシリル=オゾンは…普通に憧れている。
駅に貼られた巨大な映画広告に描かれた文言を見て舌打ちしているのもそのせいだろう。
主人公がドラゴンと戦う日本でも有名なアメコミ映画のパート3が公開するそうだ。
主人公の魔法の杖から出る炎を見て、先ほどの出来事を思い出したのだろう。
「碁盤を焦がすんじゃねえ!」とゲンコツを喰らわせてきた師匠の顔がシリルの表情を曇らせる。
首に巻いた母親お手製のマフラーにもふりと顔を埋めたシリル。
眉間に刻まれたシワは深く不機嫌な様子を隠すこともない。
そんなシリルとは反対の…楽しそうに騒いでいる集団が前から歩いてきた。
「なんか面白えことないかなあ。」
「ハシカンと付き合いてえなあ。」
「ばっか、田中みたいな平凡やろうが相手にされるわけねえだろ!」
最寄りの駅から帰る途中の道は地元の中学の通学路だ。
本当であればシリルも登校しているべき中学校。
一瞬びくりと肩を竦ませたシリルの方を見ることもなく、紺色の学生服を身にまとった集団がシリルの横を通過する。
部活動帰りだろうか。そろいの白いエナメルバックを肩にかけている。
飛び交うスラング。中身がないのにひどく楽しそうな会話。
耳に挿したイヤホンから流れる曲では彼らの声はかき消せない。
グッと眉間に眉を寄せたシリルを隣を歩くランドセルの少女が心配そうに見上げた。
「ーーーシリル、大丈夫?」
シリルは少女の問いかけに応えない。
慣れた様子で少女が呆れたように肩を竦める。
黙って歩く二人。
少女の家よりシリルの家の方が駅に近い。
シリルの家の前まで着いた時ーーーシリルは言った。
「ーーー普通になりてえ。」
シリルが無造作に伸びた髪を鬱陶しそうにかき上げる。
中性的な顔立ちなこともあり、シリルは女子に見られることも多い。
日に焼けていない真っ白な額がさらされ、隠されていた二つの紫色が少女の視界に入る。
シリルの瞳は真っ赤なのだ。
黒のカラーコンタクトを入れても紫に見える隠しきれないその瞳は、黒や茶色といった落ち着いた色合いを持つ日本人の中ではひどく浮いて見える。
こすみが何を言おうか迷っていると…シリルはフーッと息を吐き出した。
一つ首を振ったあとで少女の方を見るシリル。
「ーーーこすみ、天元先生との今日の対局勝った?」
名前を呼ばれた少女…こすみはクスリと笑った。
シリルの話が急に変わるのはいつものことなのだ。そして話の内容は大抵囲碁のこと。
「勝ったよ…次から三子局でいいって。」
にっこりと笑ったこすみ。
シリルは先ほどまでの仏頂面とはうって変わり、満面の笑みを浮かべた。
わしゃわしゃとこすみの頭を撫でる。
こすみが「子供扱いしないでよ」と口を尖らせるも、「実際子供だろ」と笑うだけだ。
「その分じゃ、次の院生採用試験受けられるんじゃね?」
シリルの言葉にこすみがうん、とうなずいた。
負けてらんねえなと真剣な顔になったシリル。
それもそのはず。二人の歳の差は二歳。
十八歳までの子供たちのための囲碁のプロ棋士養成機関ーーー通称院生では実力が全て。
天元プロに指導を受ける兄弟弟子の関係にある二人も碁盤を挟めばライバルだ。
強い順からA〜Dクラスまで分けられている院生。
成績により毎月順位は変動し、Aクラスの一位を取り続ければ晴れてプロ棋士の仲間入りをできたりもする。
シリルは今月の院生手合いで初めてBクラスへの昇級を果たしていた。
死に物狂いでCクラスの子供たちとの対局を続け、なんとか昇級できるレベルの好成績を収めた先月。夏のプロ試験予選への出場のためにも、なんとしてでもBクラスへの残留を果たしたいところだった。
「詰碁やろ」などと言って挨拶もせずに家へと入っていってしまったシリルをこすみが寂しそうな顔で見送っている。
こすみの想いに気がついていないのなどシリルくらいだ。
こすみは天元の親戚にあたる。
幼少期から気づけば囲碁をやっていたクチだ。
そしてあっさり一目惚れをしたのだが…当の本人は日々を生き抜くのに必死で全く気がついていない。
「手から火が出るんじゃ恋バナに興味がなくても仕方ないかあ。」
むうと口をとがらすこすみ。
せめて小学校最後の全国大会の応援くらい来て欲しかったとこすみは思う。
何度もせがんだのに…シリルは日々の院生手合いで頭がいっぱいなようでこすみの話を聞いていたのかは怪しい。
ーーー日本棋院にいるんだから、ちょこっと二階まで降りてきて…頭撫でてくれればよかったんだけどなあ。
Cクラスなら手合いは一日二局か三局だったはずだ。
空き時間があったのではないかとこすみは思うのだ。
まあ、シリルは対局後はずっと師範と検討しているので望み薄かもしれないが。
しばらくシリルの家を恨みがましそうに睨んでいたこすみ。
しかし諦めたのか自宅の方へと足を進め始めた。
シリルは囲碁のことしか考えていない。
こすみのことを考えてもらうには少なくとも院生からプロになるくらいの環境と心境の変化がないと無理だろう。
こすみもそれはわかっていた。ーーーシリルは普通には生きられない。自分はプロになるしかないとよく語っているし、こすみもそれを否定できない。よって邪魔もできない。
こすみの思考は今日の出来事ーーーシリルが原因のボヤ騒ぎへと流れる。
膨れっ面から笑い顔になったこすみをすれ違う人が奇妙な顔で見ている・
ーーー有田くんとの対局に夢中になりすぎたんだろうなあ。死活を読み切ってドヤ顔で石置いた瞬間、火が出て天元先生カンカンだったなあ。
シリルの特殊能力ともいえる「火を出したり、水を出したり」は天元門下生の間では公然の秘密となっている。
シリルは明らかにおかしい自分を受け入れてくれる天元とその門下生たちが大好きだった。
そしてこすみも囲碁に関しては鬼のように厳しいが普段は優しい天元が好きだ。
シリルによって隅が黒焦げにされた碁盤を見て「碁盤は大切に扱え」と怒っていた。
それでも天元がシリルに弁償を求めているのは見たことがない。
プロになれそうな将来有望な門下生を師匠である天元が可愛がるのは当然かもしれない。
こすみは天元がシリルのいないところで「あいつの棋風は俺に似ている」と満足げに語るのをよく見る。要は、囲碁の対局スタイルが気に入っているらしい。
こすみは聞いたことがある。「シリルの超能力」をどう思っているのかと。
しかし天元は心底不思議そうに言った。
「そりゃあ緑色だった畳がシリルが手をついた瞬間に真っ黒になったときは驚いたが…碁盤と碁石の色は変わらないから問題はないだろう?」
何を言っているんだ、と言わんばかりにこすみを見てきた天元。
こすみも確かになどとうなずいていた。
ーーーこすみも院生に入ろうと思うくらいの囲碁バカだ。
青春を丸投げしてでも白と黒の碁石を並べ続けられる人種なので天元の「囲碁理論」に納得してしまったのだ。
一芸を極める人は誰も彼もがおかしいのかもしれない。
普通の人と物事の重要度や優先順位が異なるのだ。
わかりやすく言えば院生の多くは修学旅行や体育祭に参加しない。
土日に行われる行事に参加すると院生手合いが全て不戦敗になるためだ。
次の月のクラスが降格になる可能性がある。
また高校に進学しない子供もいる。義務教育ではないためだ。
一生に一回しかない中学の修学旅行。
それよりも週末に行われる院生手合いが大切だったりするのだ。
学校という普通の子供たちが生活の中心としている機関を二の次にしている子供たち。
そんなある意味「普通でない」子供たちの集団であるからこそシリルも馴染めるのかもしれない。
それがわかっていたからシリルの両親もシリルを囲碁の世界に入れようと思ったのだが。
そもそもシリルが普通でなくなってしまったのは五歳の時だった。
それまでは目が真っ赤でクウォーターであること以外は普通の子供だったのだ。
五歳のシリルが公園を走っていると…大地震が起きた。
震度6もあったその地震。
シリルはドテッと頭から転んだ。
ぐったりと倒れたシリルを見て血相を変えた母親が病院へとシリルを連れて行ったが特に異常は見つからなかった。
ほっと安心したシリルの両親。
しかし、やたらと家に赤い爬虫類が現れるようになったり、六歳の時にはシリルが触ったものの色が変わるようになったりし始めた。
自分の息子の手によって真っ赤なトマトが真っ青になるのを見たシリルの母親。
頭を抱えた。
試しに食べてみたトマトからは味がしなかった。あえていうなら水の味がした気がした。
シリルの母親はシリルの能力について父親に相談した。
父親も息子にいろいろなものを握らせ、色の変化の法則を発見したまでは良かったが…そこから頭を抱えた。
「これは、なんとしてでも隠さなければ…。」
六歳だったシリルは小学校入学を控えていた。
毎晩ああでもないこうでもないと話し合う両親。
そんな二人を横目にのんびりとアニメなど見ているシリル。
ピカピカのランドセルが青から黄色に変わったのをみてシリルがしょんぼりと肩を落としたりもしている。
「黄色はカッコよくない…。」
ーーーランドセルは買い換えればよかった。幸い黒は変化しない色だったので黒のランドセルを買えばよかった。
しかし、どう考えてもシリルは小学校の集団生活で浮いてしまう。
両親はシリルを愛していた。
自分の子供がいじめを受けたり、国や何かの研究対象にされたりするのは嫌だった。
ーーーせめてシリルが自分の生きる道を選べる年になるくらいまでは守らなければ。
どうしようかと頭を悩ませているところで…ちょうどシリルが見ていたアニメの再放送で、主人公が囲碁をやっていたのだ。
ハッとした顔になった父親。
すぐさま充電した後、床に放置されていたスマホへと駆け寄っていく父親。
訝しげな表情で見る母親を気にする余裕もなく…どこかへと連絡している。
「ーーーまさき、久しぶりだな。…突然で悪いけど仲がいいって言ってた囲碁のプロの先生紹介してくれねえ?…なんでって、シリルを弟子入りさせたくてさ。」
こうして父親の友達の紹介で囲碁棋士である天元に会ったシリル。
東京に住んでいた天元に弟子入りさせるべく、シリルの両親は神奈川県へと移住した。
毎日天元の家へ修行へ行くシリルを送り迎えしたのは母親だ。
シリルがクロコダイルの手袋をすれば無差別に色を変える心配がなくなるという事実が発覚するまでは、シリルが学校でものの色を変えて泣きべそをかくたびに迎えにも行った。(担任に交渉してシリルはモノクロの道具しか使わせないと約束したのも母親だ。「うちの子は色素アレルギーなんです、ほら見てこの真っ赤な眼!太陽にも弱いから体育にも出られないし、絵具もとても触らせられないウンヌンカンヌン…」とモンスターペアレントも真っ青な剣幕で教師を圧倒したりもした。)
日本棋院(囲碁の総本部)で大会が行われる時には父親も応援へと行った。
少年少女囲碁大会でシリルがベスト8入りした時にはお祝いもした。
家族手を取り三人でシリルの体質と闘ってきたのだ。
シリルが囲碁にのめり込むにつれて学業を疎かにし始め、赤点ばかりとっても決して怒ったりしなかった。
「シリルは囲碁を頑張ってるからな。大丈夫、学校の勉強は後からでもできるから、何も心配しなくていい。」
シリルが対戦表に負け印の黒のハンコをずらっと押して帰ってきて部屋で泣いていたときは母親はシリルの大好物のハンバーグを作ってくれた。
Cクラスになかなか残留できなくて気持ちが負けそうになっていた時は一緒に棋譜並べをやってくれたりもした。
ーーー父親はシリルと一緒に囲碁を始めたのだ。あっという間に有段者になったシリルとは異なり実力は初心者に毛が生えた程度だったが、それでもシリルの話を聞いて理解することはできた。
「AIの布石はやっぱ難しいわ。ーーー俺はそのおかげで有田くんに勝てたけど。」
兄弟子に勝ったんだと言ってニコニコと笑うシリルを見て母親も「よかったわね」と笑っている。
窓からじーっと赤い蛇がシリルを見ているが、シリルも母親にたいして気にした様子がない。
蛇や蜥蜴など爬虫類、しかも全てが毒々しいほどに赤い彼らがシリルを見ているのはいつものことなのだ。
はじめは気持ち悪がっていた母親も、彼らが何をするわけでもないのを理解してからはむしろ可愛がっているくらいで、餌など与えてやったりしている。
「院生になって二年…ようやくプロ試験の予選が受けられそうなんだ。」
飲み物のようにカレーを食べ切り、自室へと上がっていったシリル。
母親は呆れた顔になっている。
時刻は十九時だがーーーきっとシリルは一二時過ぎまでひたすら碁盤と向かい合い続けるのだ。
近所の奥さんが子供がゲームばかりやって勉強をしないと話していたのを思い出す。
「うちの子もそうなんです」なんて言ったが…わかっている、彼らのやっているゲームは全く別物であると。
それでも、シリルの母親は「プロになる」ということの厳しさがわかっているつもりだった。
ふとした時にシリルの右手の人差し指の爪を見て驚いた。碁石の持ち過ぎでピカピカなのだ。
何より、小学校で泣いてばかりいた息子が目を輝かせて一つのことに打ち込んでいるのだ。
親としては応援するしかないだろう。
そんなことを考えながらーーー食卓を見て、ガックリと肩を落とした。
「…シリル、オレンジジュースのペットボトルには触らないでって言ったのに。」
真っ黒になった不気味な液体を見て母親ははあとため息をついた。
ジャバジャバと液体を流しに流しながらーーーその液体にキラキラとした粒子が混じっているのを見て首を傾げる。
「本当にシリルは不思議な子だわ。」
この世のものとも思えない元オレンジジュースを見て母親はクスリと笑った。
そして…何もいない空間を笑顔のままで睨みつける。
「ーーーだからあなたにシリルはあげないわ。」
○
まだ朝の風は冷たいが、春を迎えた日差しの色はどこか暖かで、お堀の横の桜の花びらが風に吹かれてチロチロと舞う。
JR市ヶ谷駅の改札を抜け、シリルはこすみを連れて市ヶ谷の日本棋院へと続く坂を登っていた。
いつもはおしゃべりなこすみも口数が少ない。
それもそのはず、四月四日土曜日ーーーこすみの院生デビュー戦の日だった。
しかし、そんなこすみに優しい言葉をかけるでもなくシリルはズンズンと坂を登っていく。
シリルにとっては日常の一部となっている院生手合い。
Bクラス残留を果たすべく頭の中は昨日仕入れてきた定石(囲碁序盤で用いるの戦法)でいっぱいだ。
エレベーターホールを抜けたところで…シリルは顔見知りに出会した。
Cクラスで切磋琢磨する仲だった少年はシリルを見て「Bクラスから早く落ちろ」などと呪詛の言葉を吐いたが…すぐに斜め後ろにちょこんと立っているこすみに気がついたらしい。
そしてその手がーーーシリルのリュックをがっしりと掴んでいるのを見てギョッとした顔になった。
「え。え。誰?彼女?」
ーーー顔似てないし妹じゃないよな!?
年相応の少年らしくからかうように騒ぎ出した友人を見てーーーシリルが嫌そうな顔になった。
「同門の妹弟子。ーーー今日から院生なの。迷子になりたくないから一緒に行くって聞かなかったんだ。日本棋院には何度も来てるだろうし、対局会場は案内見ればわかるし、女子と男子じゃ控え室が違うから意味ねえって言ってるのに。」
はあ、とため息を吐くシリル。
そんなシリルを見てしょぼんと肩を落とすこすみ。
少年は無言で二人を見比べーーーげしっとシリルの膝へと蹴りを入れた。
いってえ!と涙目になったシリルを無視してゲシゲシと少年は蹴りを入れ続ける。
「この鈍感野郎が!」
少年がグイッとシリルに近づいたため、こすみがびっくりしたように手を離した。
チーン、とちょうど良いタイミングでやってきたエレベーターにシリルが逃げ込む。
シリルは未だに騒いでいる友人を無視して対局場のある六階と…女子控え室のある四階のボタンを押してやる。
そして、エレベーターが停まり先に降りようとしたこすみを呼び止めた。
不思議そうな顔で振り返ったこすみを…シリルが覗き込む。
紫の瞳は日常で見ることがに色で、こすみはその瞳に見つめられるたびに何も言えなくなってしまう。
黙り込んだこすみの反応を見たシリルは…何やら勘違いしたらしい。
心配そうな顔になって言った。
「女子控え室一人で行くの怖いのか?ーーー大丈夫だよ、原田さんもいるだろうし。」
一緒に行ってやろうか?というシリルの問いかけに応えることなくこすみがプイッと顔を背けた。
シリルは不思議そうに首を捻っているが…同じエレベーターにいた友人にはバッチリ見えていた。
こすみの耳が赤くなっていることが。
「ーーーお前、そういうとこだよ!!!!」
ぎゃあっと騒いだ少年の声はーーーちょうど開いたエレベーターと運悪く廊下に立っていた師範に聞きとがめられた。
「ーーー登坂くん、静かにね。」
少年が気まずげに頭を下げる中で、シリルはスタスタと会場へ入っていた。
頭の中は今から行われる対局のことでいっぱいなのだろう。
足取りが浮き浮きとしたものなのは初めてABクラスが使う方の対局場に入れるからだろうか。
シリルは「よう」と手をあげながら友人たちに挨拶し…机に置かれた対戦表を確認に向かう。そして最初の対戦相手を見てーーーゲッと顔をしかめさせた。
「葉山かよ…最悪。」
ボソリと呟いたシリルに…「最悪で悪かったな」と横から声がした。
シリルがギョッとしたように声の方へと顔を向ける。
立っていたのはシリルの対戦相手である葉山その人だった。
彼女は若干十歳にしてBクラスに残留し続けている。
今年のプロ試験では本戦出場もあり得ると噂されている院生内きっての有望株だ。
十三歳のシリルは三つ年下の彼女に一度も勝てたことがない。
いや、勝つどころかいい勝負まで持って行けたことさえない。
ーーーBクラスに昇級できるのと残留できるのには一子くらいの実力差がある。
シリルの同門である有田がよく口にしているセリフだ。
有田はちなみに今月はCクラスに降格した。シリルと入れ替わりになった形である。
来月は逆の立場で入れ替わっている、というのが天元門下全員一致の見解だが。
シリルはギリっと歯を食いしばった。
二人はしばし睨み合い…視線を逸らすと黙って同じ碁盤へと向かう。
向かい合って座り、また睨み合い出した二人を隣にいた少年が笑った。
「朝からお熱いことで…シリル、今日はせめて終局までいけよ。」
いつも
シリルはムッと口を尖らせる。
「俺だってやりたくてやってるわけじゃねえよ。…ただ、こいつと打つと調子狂うっていうか、いつの間にか戦いになってるっていうか。」
ぶつぶつと言い訳するように話すシリルを見て少年が笑った。
「相手のペースにのまれてるってことじゃん」と笑われシリルがグッと黙り込む。
少年はシリルをやりこめて満足したのかーーー葉山へと向き直った。
「ーーーにしてもお前は女流枠で抜けろよな。俺らの予選の枠が減るじゃねえか。」
少年が言っているのは毎年冬に行われる女子専用のプロ棋士採用試験のことだ。
葉山は今年最有力株と言われていた。
それでも試験を突破しプロになったのは別の人物だったが。
葉山がプロになっていれば、Bクラス以上の院生が出場できるプロ試験の予選枠が一人増えると言いたいのだ。たかが一人、されど一人…葉山のようなBクラス常駐メンバーがいるかいないのかはそこそこ大きな問題なのだ。
悔しそうな顔でグッと黙り込んだ葉山。
さらに言葉を続けようとした少年をーーーシリルがじろっと睨みつけた。
その視線のあまりの冷たさに…少年がたじろいだように黙り込む。
シリルは冷たい目のままーーー吐き捨てるように言った。
「死に物狂いでやってダメだったんだよ…ここに残りたくて残ってるやつなんて一人もいねえよ。」
シリルの言葉に少年も確かにと頷いた。
すぐに緊迫した空気は霧散する。
側から見ると刃物のようなやり取りもーーー勝負師である彼らからすると日常的なものだった。全員が友人で…全員がライバルなのだ。
無差別に学校に集められた生徒などよりかはずっと強い絆…仲間意識で結ばれていると言ってもいい。
比較的年齢層も低く人数の多いC、Dクラスの部屋からは喧騒と師範の叱責が聞こえてくる。
院生などと言っても所詮は子供の集まりだ。
年相応に騒ぐ子供も多く、師範は囲碁の指導だけでなく生活指導のようなことも任されている。
ダダダダと誰かが走り抜ける音が聞こえるも、シリルは黙って目を瞑った。
天元や有田と検討した新型の定石を脳内でリピートする。
ーーー葉山は定石に詳しいタイプじゃねえし、試すにはうってつけだな。
こすみをはじめとする五人が院生に新たに加わったが…紹介の間も、シリルの意識はずっと対局のことへと向けられていた。
手元の腕時計を覗き込んでいる師範。
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返る会場。
小学校低学年の子供もいる院生だがーーー対局前はさすがである。
プロ養成機関の生徒らしく、表情は真剣そのもの、皆が今からどこへ打ってやろうかと考えている顔になる。
九時になった。
「それでははじめてください。」
師範の掛け声。
ガシャガシャとにぎりをする音が聞こえーーーほぼ一斉に対局時計のボタンが押される。
ーーーピー。
「お願いします。」
パチリ。対局開始。
先行である黒番となったシリルは脳内に並べた対局予想図を碁盤の上に描いていく。
一か月のリーグ戦は長いようで短い。
一戦一戦が大切なのはいうまでもなく…特に残留のためには中間程度の順位の子供とあたる今週は非常に重要だった。
シリルはまだ上位陣ーーーつまりAクラスから降格してきた生徒には勝てない。
自分がよくわかっていた。彼らは強い。一手一手の洗練され方が違う。
それでも昇級勢は…格上の相手を喰らっていかなければまた元のクラスに逆戻りだ。
心は熱くーーー思考は冷静に、相手の出方を読んでいく。
Bクラスの対局は長ければ三時間弱かけて行われる。
その間ずっと盤面を睨み続け、集中し続けているのだから彼らはやはりどこか普通でないのだろう。
葉山の表情は冴えない。
やはり新型の定石は見覚えのないものだったようだ。
シリルは内心ニンマリとしながらサクサクと着手を進めていく。
中盤に考量時間を残すためだ。
しかし、葉山の返しもなかなかのものだった。
さすがと言わざるを得ない。
やはり「有田に1子は強い」と言わせるだけあって着手に形勢を決めてしまうような緩みはない。
それでもじわりじわりと有利に盤面を進めていくシリル。
ーーーこれ、いけちゃうんじゃねえ?
シリルが
堅い手と言われそうなよく言えば堅実、悪く言えば少々覇気にかける一手。
その一手を見て葉山の大きな黒い瞳がきらりと光った。
ぞくりとシリルの背を何かが駆け抜ける。
パチリと軽い音を立てて放たれた葉山の一手はーーー緩やかだった局面を一変させるような激烈な手だった。
「喧嘩しよう?」
そう言わんばかりの葉山の着手にーーーシリルがニンマリと口元をあげた。
ーーー売られた喧嘩は買わなきゃなあ!
ふとシリルが視線を上げるとーーー同じタイミングでシリルを見ていた葉山と目があった。
緊迫した局面に反しーーー思わず二人は顔を見合わせて笑った。
ーーーここからが楽しいところだね?
シリルも負け時と着手を放ち、葉山の白石を分断しに行く。葉山の攻めの棋風にシリルが乗る形になった。
対局前に横の友人にからかわれた言葉はすっかり忘れてしまったようだ。
Bクラス一局目の中で最長となった二時間半にも及んだ二人の試合は…シリルの二目半勝ちで幕を閉じた。
友人らに「お前勝ったの!?」とどつかれるシリルを葉山が悔しそうに睨みつける。
「…いつまでも年下に負けてられねえんだよ。ーーー俺には囲碁しかねえんだから。」
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