第3話

▼甲府 生糸商家の大廈高楼


【物語の最期の舞台は、第1話と同じく商家のお屋敷。この正月に寒いなか義母と亡き夫について語った仏間の真ん中に、なかば窒息するように苦しむお花の臥した姿が見えます。季節は二月、梅の花が咲く頃。ここからすぐ近く、縁側に咲く梅の香りも、今の寝てばかりのお花の体臭に妨げられ、仏間の敷居を越えることもできません。静かな屋敷の奥に、ぜぇはぁごほっという耳障りな息遣いが不気味に響きます】


お花   「がっ、ごっ」

義弟   「ちと、いいかい。開けるよ、いいかい」

お花   「ふぅ、え、ええ、どうぞ」

義弟   「大丈夫かい?今日はまた一段と苦しそうな」

お花   「すみません」

義弟   「いや、なに、いいんだ。ただね、防疫防疫と何かとかまびすしい世の中だ。ここまでしか近寄れなくて申し訳ないが」

お花   「いえいえ、こんなところへ来てくれるだけで、ありがたいです。みんなを喪って、とうとう一人になってから半月だ。とうとうわたしもお迎えなんだろうねえ。心残りはこのお腹の」

義弟   「いや、気を確かに持って。ここから具合も良くなるさ」

お花   「ごほっ、そ、そうね」


【言葉と裏腹に、悲しく、望みも絶えたような眼差しをしてお花はお腹の子をさすります。見かねて義理の弟は】


義弟   「話すのが辛ければ、もう行くよ」

お花   「待って。聞いて。大丈夫。ただね、わたしが死ぬと、この子も死ぬのだけが口惜しい。口惜しくて」

義弟   「こら、そんな弱気を言っちゃいけないよ。ほら、水と食べ物、薬を置いとくよ。良くなって、その子も無事産んで、お前さんも助かるんだ。ほら、気が大事だ」

お花   「ありがとう。でも、どうせこの咳じゃ、口にしたものもどうせ戻しちゃうよ」

義弟   「戻したっていい。口に入れてさ。まわりは気にしなくていいから、まずは食べて飲まなきゃ。良くなるものも良くならん。お前さんだけじゃないしさ」

お花   「うんうん、そうかい。ああ、きっと、きっと、この子は無事に」

義弟   「うん、そうだ。いよいよ苦しくなったら、その鈴を鳴らしてくれ。決して遠慮なんかするもんじゃないよ」

お花   「わかった。すまないね。すまないね」


【命尽きかける義理の姉を前に、半月ほど前に東京から飛んできた義弟も言葉少なに伏し目がち。悪疫はびこる甲府に、お家の大事と果敢に舞い戻ったのでしょうか。東京に残してきた妻子も涙をこらえて送り出すという一端の物語。そんな義理の弟を呼び止めて、お花はおもむろに】


お花   「聞いてほしいことはね、これだ。わたしが死んだら、わたしの里の実家と、いつもの葬儀屋さんに早めに伝えておくれ」

義弟   「また、なにを。いい加減にしなよ」

お花   「手数だけれど頼んだよ」

義弟   「もういいから。そんな心配なんてしていないで、体の快復に努めて」

お花   「いいんだ。いいんだが、死んでしまう前に、何とか、このお腹は切れないかねえ」

義弟   「・・・」

お花   「わかってる。ただね、万が一にも」

義弟   「今は万が一のことなんて考えなくていい」

お花   「もう十に一つ、いや、十中八九」

義弟   「やめてくれ」


【義太夫でしたらお涙ちょうだいの悲しい悲しい場面ですが、今のこの時勢じゃ、こんな一幕は大小どこの家でも見られるって?はぁ、いかに狂った世の中でしょう。悲観したお花に対しても、病魔は情け容赦はありません】


お花   「ごほっ、ごっ、がっ」


【おとなしいお花からは想像もできないような声とも息ともつかぬ音が発せられます。梅の花の季節、梅の花びらのような赤色が畳や布団のあちらこちらに点々と。そのわけは明らかなれど、傍から見るに、なんとも見るに堪えません】


お花   「そ、そうだ。写真と絵を、こちらへ。ああ、足元に」

義弟   「ああ、わかった」

お花   「足元に。ここだと血で汚してしまうといけないから」

義弟   「兄貴の写真、本当に生き写しだ。父も母も写真は嫌いで。とうとう撮らずに、残ったのはこの絵だけ」

お花   「どちらも今もありありと。ふふふ。あ、待って、あれ」

義弟   「どうした?」

お花   「みんな、来てくれたの?でもどうやって?」

義弟   「目を閉じてまで、またそんなこと、おっ」


【病人の冗談かと思った義弟ですが、直後にはこれが生死の境で見る幻覚だと思いいたり、さらに一歩病人へと近づいて】


義弟   「だ、だいじょうぶか?」

お花   「あら、悌二郎さん、ちょうど良かった。今、みんなで集まっているの。東京からわざわざ、今着いたの?」

義弟   「それは・・・」

お花   「どうしたのかしら?」

義弟   「ああ、聞こえてる、聞こえてる。そうだね」


【感染症予防の禁忌とされる接近を、また一段と近くしてしまうのは優しさのためでありましょうか。とうとうお花の咳さえ掛からんとする距離まで至りまして】


義弟   「落ち着いて、ね。ゆっくり、ゆっくり」

お花   「あっ、がっ、ほ」

義弟   「ほら、水を。どうせなら一緒に薬も、ほら」


【そう義弟が話しかけた刹那、今まででももっとも酷い噎せ返りがお花の肺腑の奥底から躍り出ます。息と唾だけならまだしも、今回は真っ赤な真っ赤な血反吐まで。そしてそれは、近くの義弟の顔に否応なしに飛び掛かって】


義弟   「うわっ、こ、これはなんと」


【すぐさま懐のハンカチで拭うも時すでに遅しというところ。ところが、義弟、一瞬は驚いたものの、なぜだか取り乱した様子はなく淡々と】


義弟   「驚いた。まぁ、いいから、この薬を飲もうか」

お花   「あ、ありがとうねえ」

義弟   「いいんだよ、ほら、ゆっくりでいい」

お花   「大きい咳が出たおかげで、薬を飲む余裕ができた」

義弟   「そりゃよかった」

お花   「よし、ありがとう」

義弟   「飲んだね、やっと。これでおしまいだ」

お花   「ああ、手間をかけたね。少し眠るとするよ」

義弟   「ああ、少しなんて言わずに、永遠に永遠に。だって、これは青酸カリだもの」

お花   「うっ、いっ・・・・・・」


【急転直下、お花は少しのあいだもがき苦しんだのち、とうとう布団から半身を乗り出した姿でこと切れます。ほんのふた月あまりの間に、お屋敷の住人はみな死出の旅路。最後の一人にいたってはまさか殺されるとは。一人残った義弟は無表情のまま、今は残るもう一仕事のこと、周囲とは異なる火葬の方法を考えるのに頭がいっぱい。暫時沈思したあと、ふと顔を上げ、襖の上桟を味気もなく見つめてから仏間を出て行ってしまいました】


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【落語台本】メアリー 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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