おはようございます、驚愕
32体目のパンドラを抜いたと同時、僕たちは樹海を脱出した。
ここまで来ればもう安全だ――などと慢心せず、そのままの速度を維持。
数百メートルの距離を瞬時に踏破し、僕たちは結界内部へと帰り着いた。
「ぐっ……つ、はぁ、痛ったたた……」
ブチリ、ブチリという嫌な感覚に顔をしかめながら抱えていた咲良崎をゆっくりと下ろす。
彼女は立とうとしたものの、膝が折れたか腰が抜けたかしたらしい。べちゃりと地面に潰れた。
「ふぅ……咲良崎、生きてる?」
「……確実に、寿命が10年は縮まりました……」
「はな、そりゃ良かった」
むしろよく今まで意識保てていたくらいだ。魔導師でも何でもない一般人なのに、メイドってすごいんだなぁ。
そんなことを考えている間に処置が終わった。手を開閉して調子を調べてみる。
うん、今日も今日とて絶好調。いつも通りだ。
「……よし、完了っと。立てる?」
「まだ……少し、辛いです。すみません」
「おっけ、ならおぶってあげる。手ぇ出して」
「……また、さっきみたいにならないことを祈ります……」
「僕だって嫌だよ。よいしょっと」
出来るだけ負担が掛からないように咲良崎をおぶり、その場に立ち上がる。
ふむ、女の子にしては結構重いな。感心感心。
「行き先は汐霧の屋敷でいい?」
「はい……」
「なら、僕もそこに用あるから寝てていいよ。足が拾えたら起こすからさ」
「ありがとうございます……ふふ」
「ん?」
振り返ると、瞼を閉じて笑顔を浮かべる咲良崎の顔があった。
そういえば、コイツが笑う所を見るのはこれが初めてだな。
「儚廻様は……優しいのかそうでないのか、よく分からない方ですね……」
……外に一般人連れ出して、脅しに近いやり方で話を聞き出して、生死の選択を迫って約束を取り付ける。そんな男が優しいか優しくないか分からないなんて、コイツも難儀なやつだな。
僕は少しだけ自虐的に笑って、口を開いた。
「……まぁ、これでも体の半分が優しさで出来てるって評判だからね。友達には満場一致でいい性格してるって言われてるんだ」
「ふふ……」
「ほら、いいから寝てろって」
「ありがとうございます。そうさせて頂きます……」
本当に限界だったのだろう。言うなり僕の肩に頭を預け、寝息を立て始める。
それはどこかあどけなさを感じる、ちょっと見たことがないほど穏やかな寝顔だった。
……いや、あるか。
昔々、僕の世界が幸せだった頃に毎日見ていた――妹の寝顔にそっくりだ。
「……やっぱり汐霧に似てるよ、お前」
独りごちて、僕は歩き出した。
◇
人一人抱えながらの移動は思ったより時間を食うらしい。
E区画を出てすぐに車を拾ったにも関わらず、汐霧の屋敷に着いたのはそれから2時間も経ってからのことだった。
汐霧家の敷地内に入ると同時、ちょうど目に付いた庭掃除をしていたメイドさんに僕は声を掛ける。
「あ、そこなメイドさん。ちょっとすみません」
「はい?」
「汐霧父って今どこにいますか?」
「ご主人様ですか? 今ですと……恐らく執務中ですので、書斎にいらっしゃるかと。あ、何かご用でしたら私から伝えておきますよ?」
「それならコイツを頼んでもいいですか? 疲れてるみたいだから適当なところに寝かせてあげてください」
「え、わっ、ちょ、ちょっと……!?」
半ば無理矢理に咲良崎を押し付け、振り返らずに歩き去る。
僕の尊敬していた人の言葉だが、男は前だけを見て突き進むからかっこいいのだ、うむ。
「っと、着いたか」
軽くノックしてみるとすぐにロックの解除される音がしたので、中に入る。
「やぁ、待っていたよ、儚廻君」
「こんにちは。先日ぶりですね」
にこやかに迎えられた。ので、僕もにこやかに応対する。
部屋の中にいるのは汐霧父だけだった。軍の仕事か、たくさんの書類と端末に囲まれている。
そういえば咲良崎が言ってたな。今度軍の異界化区画の攻略作戦があるとか。
具体的にいつなのかは知らないが、この様子だと結構近いのかもしれない。気を付けておこう。
「すまないが、見て分かるように立て込んでいてね。早速本題に入って貰っても構わないかな?」
「ええ。それじゃ、はいコレ」
コトリ、と音を立てて懐から取り出したものを机の上に置く。
それは小さな結晶だった。腐った絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたかのような、気持ちの悪い灰色。形は半球型だ。もともとは球型だったのだが、手に入れる過程で半球型にしてしまった。
光っているわけでも輝いているわけでもないのに、その大きさに見合わない存在感を強調している。
これこそが、今日僕がここに来た理由だった。
「コレが……」
「はい。先日受けた依頼対象の
汐霧父から与えられた『課題』をクリアした証拠として、昨日の夜の咲良崎と別れた後に探し出して取ってきたのだ。
パンドラの禍力は人で言う指紋や声紋のように、個体ごとに波長が異なっている。
件の混ざり者は、汐霧の傷跡から検出された禍力を分析して波長が割り出せていた。
あとは氷室に頼んで場所を特定して貰い、切り刻んで始末するだけ。欠伸が出るほど簡単なお仕事だった。
まぁ、そのせいで行こうとしていた学園街の店が軒並み閉まり、クロハに文字通り死ぬほど拗ねられたのだが……。
「俄かには信じられないな……」
「解析や禍力の無力化は研究所の方でやって貰ってますんで、もし疑うなら確かめてみてくださいな」
「ああ、違う違う。そこを疑っているわけじゃないさ。私が信じられないのはこれを正式なランクを持たない学生、それもE評定の落ちこぼれがやったということだよ」
「はは、不思議なこともあるものですね」
へらへらと笑い、追求の視線を受け流す。笑顔は最高のポーカーフェース、とは誰の言葉だったか。
受け流せているかは、まぁ別の問題だ。
「とにかく、これで依頼は達成ですよね? 約束の金は指定した口座に振り込んでおいてください。それじゃ僕はこれで」
「まぁ待ちたまえ。そう急くこともないだろう?」
「忙しいんでしょう? そんな中佐様のお時間を頂くなんて、とてもとても」
「流石に少し話すくらいの時間はあるさ、儚廻君。いや――【死線】と言った方がいいかな?」
「…………」
扉へと向けていた足を止め、振り返る。
死線。死線、か。
「……まさか、それ僕のこと言ってるんですか?」
「【草薙ノ劔】とは正規軍の呼称だ。正規があるということは当然、非正規のものもある。守る者のない、パンドラへの憎しみのみで生きているような人間の集まる軍組織が」
「へぇ、そりゃ初耳」
「名を【叢雲ノ
「日本語通じてます?」
辟易とした感情を隠さず言うも、汐霧父は構わず痛々しい妄想を吐き続ける。
「数年前、【叢雲ノ剣】……通称ムラクモ部隊は最強の組織だった。一人一人が一騎当千の強者であり、普通の魔導師では一生掛かっても使えないような魔法を当たり前に使う。その中でも、隊長は別格の強さを誇っていたという」
「知りませんって」
「高い身体能力と、自由自在に巡り死を与える鋼糸。付いた異名が【死線】……君のことじゃないか?」
「聞けよ……」
延々と続くいい歳こいたオッサンの妄言に、そろそろ本気で否定しようとした、その時。
僕の懐の携帯と汐霧父の机の上の端末が、同時に甲高い着信音を響かせた。
「ああ、私だ。何があった?」
瞬時に軍人の顔になった汐霧父を前に、僕も自分の端末を取り出す。
表示された名前は……梶浦。長い付き合いである友達の名前に、僕は急いで回線を繋ぐ。
『――遥か。今どこにいる?』
「現在地は汐霧の屋敷。何かあった?」
『緊急事態だ。市街にパンドラ及び混ざり者が現れた。ライセンス持ちの学院生全員に掃討任務が与えられている』
「なっ」
いきなり伝えられた現実味のない事実に絶句する。
こいつは今、何て言った?
「……パンドラ混ざり者、それに学院生? 何故軍が動かない」
『父から聞いた話だが、正規軍はあと一週間後に異界化地区への大規模遠征がある。それに備えるため、今は動かせる人材や装備がほとんどないそうだ』
「……は、本末転倒じゃないか、それ」
住民のために異界化地区を攻略しようとして、そのために住民を見捨てる。
流石は軍。いつまで経っても愚かなようで何よりだ。
「とにかく分かった。僕はどうすればいい?」
『俺と合流出来るのが一番だが……今いる場所が安全ならそこから動かないでもいい。ひとまず俺の座標を端末に送っておく。戦闘許可が下りたら来てくれ」
「了解。いけそうだったら合流する」
『ああ。……遥』
「うん?」
『死ぬなよ』
「はは、ありがとう。お前もね」
無口なあいつらしい優しい言葉に頷き、回線を切ろうとする。
『……何? 待て、まだ切るな遥』
しかし寸前で漏らしたその言葉に、僕は動きを止めた。
「どうした?」
『……お前に伝えるべきかどうか迷ったが、一応伝えておく』
「?」
いつも毅然とした態度の梶浦が、この緊急事態において迷うようなこと?
考える僕に、梶浦は言葉を続ける。
正しく僕を驚愕させる、そんな言葉を。
『他の小隊からの報告だ。市街地へと向かう途中で……E区画へと向かう、汐霧憂姫の姿を見たらしい』
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