パンドラアーツ

 声と共に、とんでもなく速い何かが放たれた。

 憂姫ですら視認出来ない速度で飛来したその何かは、今まさに振り下ろされようとしていた泰河の腕を肘から切断し、少し離れた地面へと突き立つ。


 それは、黒塗りの刃の小太刀だった。


「む……!」

「ああ、それアンタの身内からパクったものだからさ。後で返しといてくれ」


 サク、サクと地を踏む音。

 声の主はゆっくりと歩いて近づいて来ているようだった。語調にも歩調にも焦りが見受けられない。


「にしてもアンタはしゃぎ過ぎ。仮にもお偉い大佐様なんだろ? ちょっと落ち着けよ」

「……止まれ」


 耳障りな皮肉の主に、泰河は立ち上がりながら押し殺したような声色で警告する。

 マガツはまだ使っていない。だが、これ以上近づいてくるようなら、その時は。


「別に近親相姦を否定するつもりはないけどさ。父親から娘、しかも無理矢理ってのは流石にね。ロリコンの上にレイプ趣味とか流石にアウトだ」

「聞こえなかったか? 止まるがいい」

「しかもここ屋外だし。初っ端から野外ってどんだけアレな性癖してんだか。全く、これだから軍の連中は」

「――


 その一言と同時に、スイッチを切ったかのように台詞と足音が止まった。

 マガツによる強制停止。絶対服従の命令は、声の主の何もかもを縛り付ける。


 薄気味悪い気配も。

 耳障りな戯れ言も。

 蛮勇極まる足音も。


 こうなればもう、意図して解除しない限り動き出すことはない――


 はずだった。


「うるせぇよ」


 声は目と鼻の先から聞こえた。

 男だ。それも相当に歳若い、線の細い青年。

 口元には、へらへらとした笑みを浮かべている。


 腹の底まで響く踏み込みの衝撃。

 体は弓のように引き絞られている。

 振りかぶられた右腕が、臨界を迎える。


 拳が放たれた。


 そして泰河の首から上が根こそぎ弾け飛んだ。


「――――っっ!?!!」


 声にならない絶叫を上げながら、泰河は弾丸のごとき速度で吹き飛んだ。

 水切り石のように何度も跳ねながら空を切り裂き、転落防止用の柵に叩きつけられてようやく止まる。


 そんな泰河には目もくれず、青年はその場に屈み込み、憂姫の顔を覗き込んでいた。


「はは、酷い怪我。おーい、意識ある?」

「…………」

「……ちょっ、え、本当に生きてる? うっそ間に合わなかった!? やったかこれ!?」

「…………怪我、人に……なにを言ってるん……ですか……」

「おー、良かった……生きてた……」


 ギリギリセーフ、などとひとりごちながら青年、儚廻遥は額の汗を拭う仕草をする。

 そこで憂姫は、その体に、潰れたはずのない右腕があること……加えて、負っていた傷のほぼ全てが癒えていることに気づいた。


「……儚廻……その、腕は……」

「ああコレ? 新しく生えてきた。というか重傷者は黙ってて。回復魔法は使える?」

「…………」


 コクリ、と憂姫は小さく頷く。

 そんな憂姫に満足げに頷き返し、遥はゆっくりと立ち上がる。


「よし、それじゃ汐霧は回復魔法使いながら後方で待機だ。ゆっくり休め。時間稼ぎくらいならやってやるから」

「……儚廻」

「なに?」

「……ごめん、なさい……任されたのに、守れなくて……」


 誠心誠意、憂姫は謝罪する。

 命懸けの頼みを自分は果たせなかった。どころか死にかけ、頼んだ本人に助けられる始末。


 こんな結果、あまりにも自分が不甲斐なかった。


「……別にいいよ。結界がこうして残ってるんだ、頼んだ半分はしっかり果たしてくれたさ。僕だってお前の頼みを半分くらいしか聞けなかったし、おあいこだ」

「でも……」

「いいんだ。むしろ助かった。よく考えたらお前の父親には言いたいことがあったし、何よりお前が死にたくないって泣いた。はは、これ以上なんて望んだらバチが当たっちゃうよ」


 果たして、それは本心だったのか。

 判断のつかない口調で言い、青年は前を向く。


「だから、僕はそれに応える」


 歩き出す遥の横顔が、一瞬だけ憂姫の視界に入った。

 憂姫の見間違いか、光の加減か。

 そこには――欠片の笑みすら浮かんでいなかった。





 汐霧との会話を終えた僕は、ゆっくりと歩いていた。


 前方には汐霧父の姿。蒼穹との境界線である柵に寄り掛かるようにして立っている。

 とっくに再生を終えたその顔や腕は、奴の心根を表したかのようにドス黒かった。


「……数日ぶりだね、儚廻君。変わらないようで何よりだ。まぁ、かの【死線】がまさか出会い頭に攻撃するような蛮人だとは思ってもなかったが」

「だから【死線】じゃないっつの。そっちは随分黒くなったもんだ。ゴキブリみたいでお似合いだよ。というか僕こそいきなりマガツ使われるとは思わなかったんだけど?」


 たった一言でああも縛り付けられるとは。なかなかに恐ろしい力のようだった。

 牽制なのか適当に放ってくれたおかげで簡単に抜けられたが、侮っていいタイプのものではない。


「ふむ、君がここにいるということは、咲良崎は死んだのかい?」

「……死んではないよ。本気で、殺すつもりでやったんだけどね」


 それが必要になるほど咲良崎は強かった。

 死んではない、というのも僕が何かしたわけじゃない。殺すつもりで放った一撃を、彼女が死なないように対処しただけ。


 もし汐霧との立場が逆でも、きっと咲良崎はAランクの魔導師になっていただろう。

 そう思えるだけの強さが彼女にはあった。


「ああ、心配?」

「まさか……それにしても、私のこの姿を見ても君は存外驚いていないね。流石は【死線】といったところかな?」

「だから違うって……ああもう面倒くさい。驚いてないのはそういう予想もしてたからってだけだよ」


 可能性として考えていたのを高い順に並べると、この男がパンドラに内通していた、実はパンドラだった、赤の他人による犯行、盛大な自爆テロ、手の込んだ自殺など。

 少なからず思い当たる点はあったし、先のマガツと考えれば合点のいく箇所も多々ある。驚きよりも納得の方が先立っただけだ。


「それに全く驚かなかったってわけじゃない。正直よく分からない部分もある。けど、今そんなことはどうでもいい。違う?」

「ハハ、その通りだ」


 ――空間が胎動した。

 朗らかに笑った汐霧父の周りの空気が脈打ち、震え出す。

 それに合わせるように彼の体から立ち昇る禍力が増し、徐々にその全身に纏わりついていく。


「我が前に立ち塞がルと言うなら滅するノみ。例エソれが、我が娘ダろうと【死線】ダロうト――」


 もはや汐霧父の体は、禍力の霧に覆われ見えなくなっていた。

 声に掛かっていたディストーションがいよいよ酷くなり、より耳障りで、生理的に嫌悪感を抱くようなものへと変わっていく。


 霧が広がる。広がる、広がる、広がる。

 そして一瞬、収縮して――


『――今ノ私ナラバ、ソレガ出来ル!!!』


 パッ、と霧が晴れた。

 そこには一つの人型が立っている。


 濃紫の霧が人型に集まったような姿。

 輪郭は汐霧父のものと分かるが、それ以外は霧に阻まれて全く分からない。

 濁った白色の双眸と、深淵のように裂けた口だけが、その存在を強調している。


 僕は、そんなヤツの姿に見覚えがあった。


 人間の敵、パンドラ。

 それも、その極致とも言える個体。

 外(アウター)のAランクすら超える、最強クラスのパンドラ。


 タイプ『ヒトガタ』。

 ランクは、Sランク。

 古い古い記憶にあって――今なお色褪せない、僕の敵の姿だった。


「……はは、そっか」


 笑う。悲しさを、くだらなさを誤魔化すように。


 所詮、英雄なんて言われていてもこの有様だ。

 力に酔って、振り回されて、暴走して。挙げ句の果てに何もかもに悪意を向けて。


「はは、いいよ。いい感じの失望。本気で殺してやりたいって思うような、笑えるような絶望だ」


 ――結局、英雄は堕ちてしまったのだ。

 人間から化け物に。英雄から人殺しに。

 僕の、敵に。


 僕はくつくつと体を折って笑い、汐霧父へと呼びかける。


「ねぇ、化け物」

『何ダ?』

「お前は今、僕の敵になったよ」


 全身全霊を以ってして斃すべき、妹の仇へと。


 肩口までの制服を失った右腕を、前へと突き出す。その先にある汐霧父の心臓いのちを掴もうとするように五指を伸ばす。

 口の端を釣り上げる。残忍に、酷薄に、目をしっかりと開いて。先生に教わったように、笑顔を作る。


 それは先生のものとは似ても似つかない、醜悪な笑みだったのだろうけど。

 きっと、僕のようなバケモノには丁度いい笑みだったのだろうと。


 そう、思った。


「解放、パンドラアーツ」


 ――ドクン、と。

 言葉の直後、心臓が脈打つ音が響いた。

 それに伴って体の中央から、黒色の力が放出されていく。


 禍力。

 人間に災いをもたらす負の力。汐霧父が身に纏っているものと、全く同じ代物。

 違うところがあるとすれば、あちらは濃紫色なのに対し、こちらは純粋な黒であるところか。


 一切のツヤのない、漆黒ですらないただの黒色。


 そして、その黒は伸ばした右腕に纏わりつくようにして染めていく。

 肩までの肌色を、人と繋がるための温かさを、余すところなく塗り変えていく。


 やがて僕の右腕は、バケモノの腕という表現が相応しい凶器へと変貌した。


『ソノ禍力、ソノ姿……マサカ、君モ?』

「……あなたも、パンドラだったんですか……?」


 前方と後方からの問い掛け。

 汐霧父と汐霧。

 パンドラと人間から同時に放たれたそれを、僕は笑って否定する。


「あは、残念。二人とも全くの不正解だ。僕はそこまで人間やめてないよ」

『デハ、人間ダト?』

「それも外れ。そこまで人間が出来てるわけでもないからね」


 にこにこと笑おうとして、失敗。中途半端な笑顔を浮かべる。

 ……ああ、そういえばここへの道中で汐霧には聞かれたんだったか。


 僕は振り向かず、質問出来るくらいには回復したらしい汐霧に話しかける。


「汐霧、お前は僕に聞いたよね。『あなたは一体何なんですか』って。今、それに答えるよ」

「え……?」


 無事に帰れたら、とは言ったが汐霧は既に無事じゃない。

 なら、帰る前に話さないと約束を破ったことになってしまう。


 約束は、守らなければならない。


「――パンドラを喰らい、人間アーツを喰らわれた者。パンドラと人間の中間の、混ざり者より完璧な半端者」


 歌うように言いながら、僕は汐霧と汐霧父に見えるように両の手のひらに力を灯す。

 黒色と白色の二つの力。

 それぞれ禍力、魔力と呼ばれている力。

 互いが拒絶し合い、同居するはずのない力。


「世界にたった二人だけの、正真正銘のバケモノ。その名を――」


 勢い良く、その二つを握り潰す。

 白色と黒色の残滓がはらはらと宙を舞う中で、僕は右目を見開く。


 白と黒の場所が逆転して、パンドラのようになった、その眼を。

 さあ、終わりにしよう。


「――パンドラアーツ」


 そうして、僕は地面を踏み蹴り加速する。

 戦闘開始。

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