解放

「……外しましたか」


 ――随分と近くに、咲良崎の顔があった。

 それを見て、僕はようやく自分が彼女にもたれかかるようにして倒れていることに気付いた。


「邪魔をしないでくださいませ、儚廻様」

「……うっ……ぎ、ぃイ……ッ!?」


 腹が灼熱する感覚が、脳味噌を焼く。

 咲良崎の右手――今も腹を抉っている小太刀が無茶苦茶に動く。上下左右と縦横無尽に、僕の内臓をジグソーパズルのようにメチャクチャにしていく。


 体がビクビクと痙攣し、口からは獣のような声が漏れ出た。


「では、今度こそ」


 そんな僕を他所に、咲良崎は悠々と小太刀を引き抜き構え直す。

 狙いは変わらず汐霧。突き飛ばされ、倒れこんだまま呆然としている彼女など、そこらの一般人ですら簡単に殺せてしまう。


 無機質な凶刃が、彼女の頭へと振り下ろされる――


「させ……る、かッ!」


 倒れかけの姿勢そのままに、僕は体当たりを敢行した。

 地面を這うような低姿勢に加え、咲良崎は先の攻撃で僕のことは完全に戦闘不能にしたと思い込んでいたらしい。


 不意打ちの一撃は、モロに入った。

 大きく体勢を崩す咲良崎に、僕は追撃の左腕を振るう。


「【インスタント――!」

「当たりません」


 呟き、軽快なバックステップ。彼女はリズム良く跳躍して後方へと退がる。

 僕の腕は掠りもせず、虚しく空を打ち抜いた。


 今の動き、それに最初の接近と刺突。

 そのどちらも、おおよそ僕の見た咲良崎の身体能力では不可能なものだった。


 考えられるのは、彼女は咲良崎に化けた……いやしかし、この感じは間違いなく本人。幻惑の類の気配は塵ほども感じない。

 だとすれば……考えられる要因、は。


「ごぽ」


 気がつくと、口からは粘り気のある液体が溢れていた。どくどくと流れる血液が、迅速に水溜まりを形作っていく。

 最初の刺突と内臓パズルは、どうやら思った以上に致命的だったらしい。


 ……これじゃ、限界もそう遠くなさそうだ。


「……咲? 儚廻……?」


 見ると、汐霧は未だに尻餅をついたまま呆然としていた。

 だがそれも無理のないこと。

 自分の信じていた人間に殺されかければ誰だってそうなる。僕だってそうだった。


 ――だからと言って、それが許されるわけではない。

 後から後から溢れる血液を手で掻き出して、僕は口を動かす。


「……っぁ、はぁ……汐霧、転移装置まで……走れ。今すぐ」

「え、あ、でも……儚廻、傷が」

「――いいから、早く行けッッ!!」


 ビクリ、と。

 絶叫を叩き付けられた汐霧の肩が、可哀想なほど跳ね上がった。


 声に押し出されるようにして、彼女はよろけながら立ち上がり転移装置へと駈け出す。

 彼女の今の精神は、魔法などとてもじゃないが使えるような状態ではないだろう。装置に辿り着くまでおよそ数秒が必要だ。


 当然、それを見逃してくれる咲良崎ではない。


「行かせてしまうとお思いですか」

「……行かせてくれるとお思いさ」


 汐霧との中間距離で、僕と咲良崎はぶつかり合う。

 翻る黒塗りの刃。暗い室内では見え難い斬撃に手刀を合わせ、僕は時間稼ぎに徹する。


「しッ……!」


 短い気勢とともに、咲良崎が独楽のように回転した。

 いつの間にか左手にも小太刀を展開していたらしい。両手の刃による縦横無尽の斬撃が駆け巡り、僕の全身が細かく切り刻まれていく。


 疾い、そして鋭い。

 咲良崎の攻撃は手数や攻撃速度もさることながら、その精度が非情なまでに研ぎ澄まされていた。


「ッそ……!」


 左腕を今可能な最速で駆動させる。二の腕や手のひらにも赤い軌跡が刻まれる中、僕は諦めずに振るい続ける。

 最低限、致命傷になるものに絞って手刀で防いでいるも――対処が全く間に合わない。


「く、ぅ、あ……」


 結果として、僕の全身は不出来な細切れ肉のような様相となっていた。

 それでも心臓狙いの刺突だけは手のひらで受け止め、命だけを必死に繋ぐ。


 そして、永遠にも思えた数秒が終わった。


「…………儚、廻――」


 疾走の足音が止まり、僕の名を呼ぶ声が聞こえる。

 目だけで振り返ると、彼女は既に転移装置へと手を掛けていた。


 目標達成……などと気を抜いていると、肩から腰までを袈裟懸けにバッサリと裂かれた。痛ってえ。

 汐霧は転移の光に包まれながら、言う。


「咲を……お願いします」

「……努力はするよ。お前こそ、上は任せたから」


 やがて転移装置が起動し、彼女の気配が消失した。

 665階に残された僕と咲良崎は互いを磁石のように弾き合い、距離を取る。

 ふと、咲良崎が抑揚なく呟く。


「二人きりです、儚廻様」

「……はは、凄いな。驚くほどピクリとも来ない」


 色気の代わりを血の気が務めるとこうも印象が変わるとは。覚えておこう。


「その体でよく動けますね」

「やった奴が何言ってるんだか……ああ、もしかして、嫌味?」

「まさか。純粋な賞賛です。お言葉ですが、鏡を見られては?」


 言われ、自分の体を省みる。

 グチャグチャに潰れた右腕。ヨーグルトみたくなった内臓に赤線だらけの全身。貫かれた左手は力が入らず、目は霞。膝はガクガクと笑っている。


 一言でまとめるならば、満身創痍。

 立っているのもやっと、という状態だった。


「……不細工が更に酷くなってた。責任取れこの野郎」

「いつもの作り笑いよりはずっと素敵かと」


 ……今より酷いって、普段の笑顔はどれだけ酷いんだろう。


「それで、いかがいたしますか?」

「あー……」


 その問いはつまり、まだ続けるのかということ。

 提示された選択肢は二つ。このまま戦って殺されるか、はたまた尻尾を巻いて逃げ去るかだ。

 彼女が後者を許してくれるかは、また別の話だが。


「……いくつか聞きたいことがあるから、それ聞いてから決める。それでもいい?」

「構いませんが……よろしいので? 随分と急がれていたようですが」

「汐霧が先に行ってくれたからね。アイツは強い、何とかしてくれるさ」

「親切心から言いますが、彼女はこのままだと死にますよ」

「あ、そ。ならさっさとあと追わなきゃね」

「それは無理です。あなたはここで殺しますので」

「はは……」


 へらへらと笑い、僕はボヤける思考をフォーカスする。

 思い付く質問はたくさんある。けど、今の僕じゃその全てを聞くことは出来ないだろう。吟味し、絞り込む必要がある。


 そして今、僕が一番知りたいことは……


「どうして……お前が汐霧を殺そうとするんだ? あんなに過保護だったのに」

「……ああ、そのことですか」


 咲良崎は特に驚いた様もなく、淡々と答えを口にする。


「私がユウヒを殺そうとしたのは、単純にあの娘が憎かったから。過保護だったのはあの娘を守るよう命令されていたから。それだけです」

「命令……汐霧父の?」

「はい。メイドが従うのは主人の命のみですから」


 咲良崎の主人は汐霧父だったか。

 彼女の過保護さ、接し方などを見ててっきり汐霧のことだと思っていたが、全くの見当違いだったらしい。

 全く、無能が推理の真似事なんてするもんじゃないね。


「……殺しちゃいけない理由が消えたから、殺す? それもお前のことを大切に思ってる人を? はは、笑える」

「知ったような口は慎んでいただけると。手が滑ってからでは遅いのですよ?」

「あは、怖いなぁ……で、僕が何を知らないって? 冥土の土産に教えておくれよ。このままじゃ寝付きが悪くなっちゃいそうだ」

「…………あの娘がどれだけ傲慢で、自分勝手で、酷薄な人間かということです」


 何かを堪えるように、震える声で咲良崎は語り出した。


「『あなたはまだ慣れてないから』『あなたは支援に向いてるから』『あなたは死んだら駄目だから』『あなたは優しいから』『あなたには生きてて欲しいから』『あなたは私の家族だから』『あなたのことが大事だから』……そう言ってあの娘はいつも私の前に立つんです。いつも――いつもいつも、いつも!」


 顔を俯けたまま、彼女はどんどん声を荒げていく。


「誰がそんなことを頼みました? 誰がそうしたいと言いました?! 私はずっと前に死ぬはずの人間でした。あの娘と違って他のみんなと違わない、すぐ死ぬはずの弱い人間でした。なのにあの娘の我儘で、私はずっと生かされてきた……!」


 他のみんな、と言うのはきっと【スケープゴート】の他の子どもたちのことなのだろう。

 あくまで普通だった咲良崎と、異常だった汐霧。そこにズレが生じるのは必然か、偶然か。


「旦那様と会ったときもそうでした。私たちは負けて、お父様が欲したのはユウヒだけ。自由な死がすぐそこにあって、幸せで……でも、あの娘は逃してくれなかった」

「……条件付きでお前を拾わせたって聞いたよ」

「ええ、そうです。死すらユウヒは奪って行った。私を自分の生きる理由にするために。あの娘は独りで生きられない、弱い人間だったから」


 そこまで言って、彼女はふっと体から力を抜いた。


「……けれど、旦那様は違いました。ユウヒに何もかもを奪われた私に、あの方は名前と生きる理由を与えてくれた。私をユウヒの付属品じゃない、『咲良崎咲』という汐霧のメイドとして生きさせてくれました」


 噛み締めるように言った咲良崎は、おもむろに顔を上げた。

 そんな彼女に、僕は最後の問いを掛ける。


「それが……お前がパンドラの血を使ってまで、死の危険まで背負って戦う理由?」

「……気付いていたのですか」

「はは……まぁね」


 むしろ、それ以外に考えつかなかったというのが正しい。

 魔法を使えないはずの彼女が、あれほどまでに凄まじい身体能力を得ることとなった原因。


 このご時世、ドラッグやドーピング剤は数え切れないほどに出回っているが……ここまでの効果を誇るものと言うと、『パンドラの血』以外に心当たりがなかった。


「……ええ、その通りです。それが私が命を懸ける訳。それだけが私の戦う理由です。否定したいなら、どうぞお好きに」

「…………」


 ……普通に考えれば、彼女は頭がおかしくなっている。もしくは洗脳されている。そうとしか思えない。

 彼女の話した理由は、命を張るのにとても釣り合っていない。汐霧父の与えたモノは、彼女の捧げるモノに何一つ準じていないのだ。


 汐霧父はきっと、自分に都合がいいからそうしただけ。

 あの男の性質と『咲良崎咲』なんていう適当感溢れる名前を合わせてしまえば、嫌でもそう思えてしまう。


 だから彼女の掲げる理由は、本当に『それだけ』なちっぽけな理由だった。

 ……だけど。


「……凄いと思うよ。誇っていい、尊敬する。否定なんてしないし、誰にもさせないさ」


 だって、僕は知っていたから。

 そんな理由すら触れたことのない、ちっぽけで、空っぽな人間にとっては……それだけでも命を捨ててしまうには、充分過ぎるということを。


「だから、僕は否定しない」

「……ありがとうございます、儚廻様。それではお答えいただけますか?」

「ああ……」


 思えば、今ここで引き返せば殺さないでくれたような気がする。

 もちろんこのままでは道中の混ざり者共に喰い散らかされるだろうが、少なくともこの場は見逃して貰えるだろう。

 咲良崎との少なくも密度の高い会話が、そう思わせてくれていた。


 でも、駄目だ。


 表があれば裏もあるのがこの世界の理。

 彼女との会話で殺さない選択肢が生じたのなら、殺す選択肢が生じるのもまた、彼女との会話からだった。


「お礼に……一つ教えてあげるよ。僕の生きる意義。意思。意地。意気。意味。そ……ごぼっ、ぇ……それを」

「そろそろ死にますよ」

「はは……まぁ聞けって。僕が生きてるのは……ある一人の女の子を救うため。“ぼくのかんがえたさいこうのしあわせ”を、その娘に叩きつけるためだ」


 だから、お前に屈するわけにはいかない。

 押し付けの善意を殺意に変換してしまう、お前だけには。


「……残念です。心からそう思います」

「僕も残念だよ。前も言ったけど、お前のことは殺したくなかった。好きだからね」

「そう言っていただけると嬉しく思います。私も、あなたのことは嫌いではありませんから」


 言って、咲良崎はしっとりと微笑んだ。

 いつかどこかで見た、最愛の妹とよく似ている――愛らしい笑顔で。


「――っ!」


 疾走。


 咲良崎の着物がはためき、僕との距離を一瞬で潰す。両の袖が翻り、漆黒の小太刀を振りかざす。

 僕はそれに、対応出来ない。


「さようなら、儚廻様」


 ――シャッ!


 交差する二つの刃が、暗闇を翔ける。

 それらは結局、何の番狂わせもなく僕の喉を掻き切った。


 命が漏れ出て行く感覚。

 痛みと寒気と恐怖、その他諸々。


 ……ああ、駄目だ。もう、限界だ。


 だから、僕は。

 へらへらと、笑って、呟いた。


「………………………………解、放」



◇◆◇◆◇



 新東京スカイツリー666階。


 雲海を遥か下に置き去り、頭上にあるのは太陽と月、名前も知らない星々のみ。

 高度を考えれば酸素は少なく、嵐のような風が吹き荒れ、気温も恐ろしく低いはず。


 果てなき蒼穹以外に見るものもないため、およそ生き物のいるべき領域ではない。

 存在するのはきっと、硬質の床と遥の言う『結界装置』のみ。


 ――というのが汐霧憂姫の勝手に抱いていた、塔の最上階の想像だった。


「……きれい……」


 状況も忘れて、思わず辺りの光景に見入ってしまう。

 そこは温度と色に満ち満ちていた。

 想像していたような息苦しさも寒さもない。風は暖かく、空気も美味しい。虫や鳥はいないがその代わり、鮮やかな花々が咲き誇っていた。


 そう、花。一面に広がる、広大な花畑。

 それが666階、塔の最上階の全てだった。


「存外に時間が掛かったじゃないか、憂姫」


 ふいに、声が聞こえた。

 低過ぎず高過ぎずの声質に、相手の心に溶け込むような声色。少し言葉のイントネーションが変に聞こえるが……それでも、その声を憂姫が聞き違えようはずがなかった。


「お父、様……」


 声の元へと目を向ける。

 花畑の中心、色彩の真ん中。一人立っているスーツ姿の男性。何かに向けて手を翳しており、憂姫には背を向けている。


 【草薙ノ剣】軍令部所属、汐霧泰河中佐。

 憂姫の義父にして、命の恩人である男が、そこに立っていた。


「まぁ、私もコレの解除にずっと手間取っていてね。あまり人のことを言えた義理じゃないんだが」


 コレ、というのは翳した手のひらの先にあるもののことだろう。よく見ると薄膜のような何かがあり、外の一切を阻んでいる。

 先ほど遥に受けた説明から、憂姫には思い当たるものがあった。


「結界の……制御装置……」

「正確にはその防護障壁だがね。コレが予想以上に硬い。苦心していたところだよ」


 義父の続く言葉は、もはや憂姫の耳に入ってはいなかった。

 今の受け答えを以ってして、憂姫の今まで抱いていた『もしかしたら』は否定されてしまった。遥の語った、最悪のシナリオが肯定されてしまった。


「……本当に……お父様が犯人なのですか……?」

「何についての犯人かで答えは変わるが……この一連の事態についてなら、まぁその通りだ。さてと」


 翳していた手を下ろし、汐霧泰河は振り返る。

 冷たく、無機質な眼を憂姫に向け――そこで驚いたような表情を浮かべた。


「おや、【死線】……儚廻君はどうした? 彼も一緒に来ていたはずだが」

「儚廻は……」


 彼は、自分を先に行かせるためにあの場所に残った。自分を庇った結果として、数多の致命傷をその身に刻みながら。

 あの傷では、もう長く――


「……儚廻は、来ません。退路の確保を任せてますから」

「ふむ、なるほど。その様子だと咲良崎は予想以上に頑張ったらしね。あの【死線】がそう簡単に散るとも思えないが……生きて会えたら褒美の一つも考えておくとしよう」

「……【死線】?」

「彼の異名のようなものだよ。まぁ、その辺りは今でなくてもいい。だろう?」


 その通りだった。

 今は東京コロニー存亡の瀬戸際。このような問答があること自体がおかしな話。


 今、大事なことはもっと他にある。

 そう思考を切り替えようとする憂姫の苦悩を愉しむように、彼女の義父は呟いた。


「残念、時間切れだ」


 硝子の割れたような儚げな音が、高らかに響く。

 その出所は泰河の傍ら、結界装置を覆う薄膜。


 強固な障壁であるはずのそれは、余すところなくヒビが入り、今にも壊れてしまいそうな様相となっていた。


「あ……!」

「これで障壁は終いだ。少し小突けばいつでも壊せる。さすればあとは中のモノを殺すのみ。東京は死の国、滅びの園と化す……その前にだ」


 言い、泰河は自身の義娘へと手のひらを差し伸べた。

 困惑する憂姫に、彼は更なる言葉を投げ掛ける。


「私と一緒に来なさい、憂姫。共にこの東京を終わらせるんだ。今よりずっと強くなる方法を教えよう。お前にはそうするだけの価値がある」

「何を、言って」

「――『受けた恩は忘れるな』。そう教育しただろう? お前は私に恩がある。命を救ってやった恩だ。さぁ、私の手を取れ」


 その言葉には、抗い難い力があった。


「……ぁ……」


 無意識のうちに、憂姫の足が前に進む。

 一歩、一歩と進むうちに思考が停まっていく。命令に身を委ねることの快楽に堕ちていく。


 全てが白へと消えていく。

 憂姫を構成するものが抜け落ちていく。


 その中で、微かに色づいているものがあった。

 赤と、黒。


『……努力はするよ。お前こそ、上は任せたから』


 赤を吹き出しながら、黒髪の青年は笑っていた。

 命を懸けて、庇われた。

 彼は確かに、命の恩人だった。


 私、は―――


「……私は、魔導師です」

「うん?」

「【コードアサルト】」


 ドローした拳銃が輝く。憂姫専用の拳銃に変化する。

 間髪入れずに、銃声が木霊した。


「……それがお前の答えか」


 銃撃を跳躍して難なく躱した泰河は、押し殺した声で呟いた。

 対する憂姫は、魔力の残滓がたなびく拳銃を片手に、抗戦の構えを取る。


「……彼には命を救われました。何度も、何度も。だったら、返さなきゃ駄目じゃないですか。お父様と違って……儚廻には、何一つ返せてないんだから。だから、戦います。お父様に教わったその通りに」

「そう、か……勿体無いことだ」


 泰河が嘆いた。本当の本当に、残念そうな声音で。

 それは普段決して本音を見せない男が見せた、娘への餞別だった。


 直後、泰河の体が紫紺に包まれた。

 紫紺と赤、黒の混じった身の毛もよだつ色。

 おぞましい、人間の対極にあるはずの――禍力の色。


 そして、それが消えた先には。


「……ああ、いい。この姿は、やはり心地がいい」


 歪む声で言った汐霧泰河は、完膚なきまでに変わり果てていた。


 肌は暗く深い濃紫に。

 髪は亡者を連想させる白髪に。

 白目は黒に。黒目は白に。

 正義は、悪に。

 災禍が、幸福に。


 カラーリングがまるごと反転したかのような汐霧泰河は、総身から暗色のオーラを漂わせている。

 その圧倒的な存在感に、憂姫は本能的な恐怖を感じた。


「その、姿は……」


 姿形は混ざり者に似ているが、違う。

 コレはそんなものより、ずっと恐ろしい。もっと取り返しのつかない、禍々しい何か。


 死と破壊の化身、そのものだ。


 慄く憂姫を他所に、汐霧泰河だったバケモノは全身から禍力を放ちながら、天へと吠える。


「――さァ、英雄の凱旋だ! 化物の降臨だ! 終末の到来だッ! 争い抗い、そして散るがいい――我が不肖の娘よ!!!」

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