僕の私の幸害学習

 昨日の明日、要するに今日。

 その早朝。


 自分の分と、珍しく起きていたクロハの分を合わせた二人分の食器を洗っている僕と、ソファでゆったりと雑誌を読んでいるクロハなんて光景が、我が家にはあった。


「……おかしくないか? なぁ、おかしくないかこの絵面?」

「自業自得よ」


 こっちも向かずにサラッと受け流すクロハ。その端的な返答に僕は反論出来ず押し黙る。

 自業自得、というのは昨日僕がゲームを買い忘れたことに起因する。


 一日くらいいいじゃないか、という反論は「ならあなたは自分の注文した武器が一日遅れたらどう思うかしら?」なんてよく分からない言い分で掻き消された。

 ゲームって一日遅れたら命に関わるようなものだっけ。マジでそうならお父さんお前の将来がちょっと心配……。


「というかゲームならこの前一つ買ったばかりじゃないか……」

「私の手と目は二つずつあるわ」

「当たり前だボケ」


 蛇口を捻り、水を止める。学院に行く準備は済ませてあるため、いつでも出れる状態だ。

 僕はさっさと家を出ようと玄関に向かおうとして、あることを思い出した。


「っとそうだ。日曜に頼んでたヤツ、出来てる?」

「日曜? ……あぁ、あの資料ね。出力まで全て終わっているわ。少し待ってて」


 クロハが視界から消え、しばらくして一枚の紙を携えて戻ってくる。


「はい、これ。私でも調べられる程度のものだから信憑性はハルカが判断して頂戴」

「ん、了解。じゃあ行ってくる。いつも通り、留守番頼んだよ」

「ええ、任されたわ。いってらっしゃい、ハルカ」


 可憐な、可愛らしい仕草で手を振るクロハに僕も手を振り、家を出る。

 うーん。どうにか咲良崎と会わせられないかな。割と本気で。



 幾ら品行方正な生徒が多いクサナギ学院といえど、朝は相応に騒がしい。

 喧騒を突っ切って自席に鞄を置くと、見知った顔が寄って来た。


「ああ、ハルカ。今日もいい天気だな」

「おはよう、遥」

「おはよ、藤城、梶浦。確かにドス黒い曇り空だね。むしろ雨でも降りそうだけど」

「いや、雨ってテンション上がんねぇ?」

「上がんねぇ〜」


 今日日、小学生でも上がらないと思う。

 と、そこで僕らに向けられている無数の視線に気がついた。正しくは、藤城と梶浦に向けられている視線に。

 藤城は、大仰に肩を竦めた。


「アイツら昨日から鬱陶しいんだよ。ったく、たった一日で手が早いというか……」

「ああ、部隊編成の」


 座学こそ低いものの、戦闘能力に限れば学院最強の一人だからな。純粋な体術だったら梶浦やお嬢さま、汐霧にすら勝っているかもしれないくらいだ。

 そんな有能な奴が引き抜きされない方がおかしいか。


「ってことは梶浦も?」

「ああ。最も、全て断らせて貰ってはいるが」

「凄いなぁ。僕なんて避けられてるくらいなのに」

「そのおかげで今は誘われないからな。助かってるよ、アリガトウ」


 清々しい笑顔で親指を立てられた。ので、僕も笑顔で親指を真下に立てる。

 視線の主たちはつまるところ、今梶浦たちを誘えば僕という足手まといまで付いてくると思っているらしい。


 現に今、梶浦たちと一緒にいる僕に敵意を放っている輩すらいる。まぁ、直接手も出せないようなチキン共なんてどうでもいいんだけどね。


「なあ、さっきの避けられてる云々で誘うわけじゃないけどよ、いっそこの三人で組まねえ? 部隊の最低人数って二人だし、気心も知れてる。悪くないと思うんだが」

「……そうだな。それなら俺も構わない」


 これぞ妙案という顔の藤城に、頷く梶浦。

 二人は友達で、そして優秀だ。思わず飛びつきたくなるほどの良案だが……


「ごめん、僕はパスで」


 その件には、生憎と先約がある。

 首を振った僕に、藤城は呆れた顔をした。


「パス……ってお前、それじゃ部隊はどうするつもりだ? どこにも誘われてないんだろうが」

「誘われてないとは言ってないよ。避けられてるとは言ったけど」

「……お前を誘う部隊があったのか?」

「はは、時々真顔でド失礼なこと言うよね、お前」


 コイツ皮肉屋だから、多分わざとだろう。


「へぇ、その物好きは誰だ?」

「それは……」


 ある疑問により、言葉に詰まる。

 即ちコイツらに言ってもいいのだろうか、と。


 汐霧は、少なくとも一週間前までは誰かに聞かれるのを避けていたように思う。

 それを本人のいないところで勝手に言っていいものか。


 ……いや。


 頭を振って思い直す。この二人は好意から僕のような奴を誘ってくれたのだ。

 それならどんな事情があれ、相応の誠意をもって応えなきゃ駄目だろう。


「……汐霧だよ。お前らも確か知ってただろ?」

「汐霧……汐霧憂姫か? 今入院中の」

「そ。その汐霧。本人隠したがってたから極力秘密にして貰えると助かるかな」

「あぁ……なるほど、だからか。この頃よく絡んでたの」

「そゆこと。だからまぁ、ゴメンね」

「気にするな。むしろ悪かったな、気ぃ遣わせて。しかしユウヒちゃんねぇ……」


 そう言って考え込む素振りをする藤城。隣を見ると、梶浦も同調するように頷いている。


「……ダーメだ、全く繋がりが分からん。梶浦、お前分かるか」

「いや、思い当たらないな」


 どうやら僕と汐霧の繋がりを考えているようだった。そりゃ分かんないか。そもそも僕自身どういう繋がりだかよく分かっていないくらいだし。

 成り行き? 偶然が重なって? 運命――は違うか。そんなロマンチックなものでは断じてないだろう。


「しっかしそれなら部隊どうするか……オレ達二人で組んでも意味もねえし」

「適当にあの辺のストーカー組に声掛けたら?」

「嫌だよ。ただの雑魚なんぞに興味はねえ」


 つまり僕は面白い雑魚と? この野郎が。

 抗議しようとしたところで、視界の端にとある人が映った。


「あ、それならさ」


 思いつきに従い、僕は席を立つ。

 疑問符を浮かべる二人を置いて、教室に今ちょうど入ってきた金髪の女子生徒目指して歩き、片手を上げる。


「や、おはようお嬢さ――」

「―――」


 スタスタ、と。

 僕に一瞥もなく脇を抜けていく、お嬢さまこと那月ユズリハ。

 無視られた。それも惚れ惚れするほど滑らかに、見とれる暇もないくらいに――って感心してる場合じゃない!


「ちょ、待って待って。無視は流石に酷くない?」


 歩き去ろうとするお嬢さまを引き留めようと、僕は彼女の肩に手を伸ばす。


 お嬢さまの肩に手が触れる、と。


「触らないで」


 端的な拒絶と、嫌悪の言葉。

 彼女の右腕が霞み、次の瞬間、肉を打つ破裂音が教室中に響いた。


「あ痛……」

「……」

 

 口から出ようとした言葉は、向けられた苛烈な視線の前に崩れ去った。

 周りの生徒たちが何事かと注目する中、僕は不覚にも動くことが出来ずに立ち尽くす。


「……はぁ」


 そんな僕に構わず、お嬢さまは失望ように溜息を吐き、自分の席へと歩き去る。

 ややあって戻ってくる朝の喧騒。


 それを表すかのように、お嬢さまと入れ違いに梶浦と藤城の二人がこっちへと寄ってきた。

 お嬢さまに聞こえないよう気を遣った声量で、藤城が僕に尋ねてくる。


「おいハルカ、お前何やらかしたんだ?」

「……何だろうねぇ」


 口で誤魔化しながらも本当は分かっていた。十中八九先週の一件が原因だろう。

 退学するつもりだった僕が、幸か不幸かお嬢さまに勝ててしまった一件。


 それ以降お嬢さまは学院を休んでおり、会う機会がなかった。

 彼女は理由もなしに人を嫌うような人間じゃない。よって、あの件以外に原因があるとは思えなかった。


「……遥は那月を誘うつもりだったのか?」

「あー、うん。お嬢さまなら強いし面白いし、ちょうどいいかなって」

「おいおい、勘弁してくれ。オレがアイツ嫌いなの知ってるだろうが」


 勿論知っている。ただ、友達同士仲良くして貰いたいと思ってしまうのは許して欲しい。

 まぁ、それ以前に今は僕が嫌われまくっているわけだが。どうしたもんかね。


 予鈴が鳴った。雑談に興じていた生徒たちが散らばり、各々の席へと着いていく。


「じゃ、また後でな」

「うん」

「ああ」


 これは厄日継続中かな、なんて思いながら僕も自席へと戻り、着席した。



 何かに集中していると飛ぶように時間が過ぎていく。

 クロハから受け取った資料を読み込んでいると、あっという間に午前の授業は終わっていた。


 梶浦たちの昼の誘いに断りを入れ、教務課へ。あらかじめ書いておいた早退票を提出し、いつもの説教を受ける前に学院の外へと出る。

 金持ちの子どもが集まる学校ということで、学院周りの交通は充実している。すぐにタクシーを拾うことが出来た。


 そうして時計の針が一周と少し回る頃には、僕は待ち合わせの場所――E区画の最奥、結界内縁部へと辿り着いていた。


「咲良崎は……まだ来てないか」


 積み上げられた鉄骨に座り込みながら呟く。

 辺りを見回しても、目に入るのはボロボロの廃屋にもはや道として機能していない道路。そして投げ捨てられた死体とそれに集る蛆や蝿のみ。


 咲良崎はおろかE区画の住人すら見当たらない。というか、マトモな神経の人間がこんな場所にいるはずがない。

 なにせただでさえ東京コロニーで一番パンドラの被侵入数が多いE区画、その最奥である結界内縁部。


 ここはパンドラと人の世界を分ける線。

 例えどんな凶悪犯であろうとここに住み着こうとはしないだろう――


「お待たせしました、儚廻様」

「うわっ」


 考え込んでいると、いつの間にか咲良崎が目の前でお辞儀していた。コイツ本当に気配消すの上手いな。

 思わずビビってしまった恥ずかしさを誤魔化すためにも、僕は口を開く。


「……遅いよ。待つの嫌だから折角遅れてきたのに意味なかったじゃないか」

「それがどこかおかしいことは自覚されていますか?」


 してなかったらただの頭ヤバイ奴だろ、僕。

 正論相手に口で敵うはずもなく、僕は話題をすり替える。


「よく迷わずここまで来れたね。呼んだ僕でさえ割と迷いかけたのに」

「今日は運が良かったのでしょう」

「はは、羨ましいね。さて、それじゃそろそろ行くよ」

「……行く、とは?」


 腰掛けていた鉄骨から立ち上がった僕と、首を傾げる咲良崎。


「ここで長話なんてしたら嫌になっちゃうだろ? お前は大丈夫かもしれないけど、僕は嫌だよ」

「でしたら、何でここを集合場所にしたんですか……」

「もちろんこれから行くところに近いからさ」


 何度でも言うが、そうでもなければこんな場所に来るはずがない。

 今も現在進行形で精神がガリガリと逝っている感覚があるくらいだ。


「割といいところだよ。緑がたくさんですごくスッキリしてる。何よりあそこなら誰にも話を聞かれる心配がない」

「そんな場所がこの近辺にあるのですか?」

「あはは、何言ってるのさ。もう見えてるじゃない」


 ピッと僕から見て左側を指す。

 そこには一見、何もない。咲良崎は顔を顰めて――そして、気付いた。


「まさか……結界の外に……?」

「はいアタリ。内緒話するならこれ以上の場所はないよ」


 盗み聞きをする絶対に人間はいない。

 なんたって外に出た人間はことごとく死滅してるからな。軍の前線や哨戒部隊にさえ気をつければいいだけだ。


「……正気ですか?」

「さーね。あぁ、もしかしてビビった? それなら仕方ない。無理して外に出る必要はないよ。疑問に蓋して、今まで通り過ごせばいい……その場合、お前は我が身可愛さに汐霧から目を逸らしたってことになるけどね」

「…………」


 凄い目付きで睨まれる。おーおー、怖い怖い。

 まぁ、だからと言って変えるつもりはないのだが。


「別に僕だって意地悪でこんなことを言ってるわけじゃないさ。ちゃんとアウターじゃないと駄目なワケがある」

「…………それは、どんな?」

「ここじゃどこで会話をしようと盗聴される可能性が消せない。もちろん杞憂の割合が高いけど、潰せる手があるなら出来る限り打っておきたいだろ?*」


 これから僕らが話す内容はお互いにとってそういうものなのだし。

 言外のその言葉は、果たして彼女に届いたのか。


「……はぁ、分かりました。でしたらせめて私のことをちゃんと守ってくださいね」

「はは、自分の命は自分で守れって」

「私は魔法を使えませんので」

「あっはっは…………え、マジ?」

「マジです」


 それは……意外だな。何となく何でもできそうなイメージがあったのだが。

 まぁ、こればかりは才能が全てだから仕方ないか。


「結界系って疲れるから使いたくないんだけどねぇ」

「それもホストの役目でしょう」

「……ごもっとも」


 溜息を吐き、指をくるくると宙に舞わせる。

 アウター……結界外部は大気中に禍力が混在しているため、魔導師でない人間は生きられない環境となっている。

 生身で歩けば肌が腐り、呼吸をすれば肺が爛れる。結構苦しい死に方で、死体の処理の必要がないから、お手軽な死刑や私刑の手法としてよく使われるくらいだ。


 その対抗策として創り出されたのが『結界』と呼ばれる類の魔法で、効果は禍力を弾く結界を張るというもの。

 簡単に言って、コロニーを包む結界を個人用に簡略化したものだ。


 この結界系統にもいろいろとあり、習熟した魔導師ならオリジナルの結界と殆ど同じ強度のものや、浄化や回復の特性の付いたものを張ったりすることが出来る。

 ちなみに僕は一番簡単な、大気中の禍力を弾くヤツしか張れない。当たり前だろ?


「【フィールド】、と。よし、それじゃ行くよ」

「…………」


 魔法名を呟くと同時、僕らの周りにシャボン玉のような、薄い魔力の膜が現れる。よし、上出来だ。

 後半の言葉に対する咲良崎の返事はなかったが、ちゃんと付いて来てはいるので気にすることもないだろう。


 こうして、僕らは……パンドラの世界へと足を踏み入れた。

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