婚約者の王子が浮気をしていたので、浮気相手ごと愛することにした

黒うさぎ

婚約者が浮気をしていたので、浮気相手ごと愛することにした

 その日、ニースは見てしまった。

 この国の第一王子であり、公爵令嬢ニースの婚約者でもあるロットが、他の令嬢と二人で楽しそうに談笑している姿を。


 相手は同じクラスの、伯爵令嬢であるテレーズだ。

 艶やかな黄金色の髪を縦に巻き上げており、肉感的でありながら、すらっとした肢体をしている。

 エメラルドの瞳はややつり目がちだが、そこが彼女の気の強さをよく表していると思う。


 場所は学園内にあるサロンの一室。

 なぜか半開きになっていた扉からロットの声が聞こえてきた。

 淑女としては、はしたないかもしれないが、気になったニースは中を覗き見たのだ。

 するとそこには、テーブルを囲んで楽しそうに談笑する、ロットとテレーズの姿があった。


 婚約者のいる男性が、人気のない場所で、別の異性と二人きりでいる。

 それは、浮気を疑われても仕方のない状況だった。


 王子ともなれば、側室を囲うこともあるだろう。

 実際、現王は王妃の他に、三人の側室を囲っている。

 したがって、ロットがニース以外の女性と親しくすること自体はかまわない。


 問題なのは、その事実を正当な婚約者、つまり未来の王妃であるニースに黙っているということだ。

 これまでニースは、ロットとテレーズが親しい関係にあるということを知らなかった。

 だが、目の前で微笑みあっている二人の空気は、とても初対面の者同士が醸し出すことのできるものとは思えない。


 側室として囲うつもりであれば、テレーズとの関係をニースに隠す必要はない。

 ロットとニースの付き合いは長い。

 ロットだって、ニースなら側室くらい認めるだろうということは、わかっているはずだからだ。


 だが、そうしないということは、ロットにテレーズを側室として迎え入れるつもりがないということである。

 ただの火遊びか。

 あるいは、王妃として迎えるつもりなのか。

 後者の場合、流石に看過できることではない。


 そのとき、サロンで談笑しているテレーズの視線がこちらを向いた。


「っ!」


 しまった。

 覗いていたのが、ばれた。


 だが、どういうわけか、テレーズはニースに気がついたであろうにも関わらず、そのことに触れる様子はなかった。

 それどころか、先程よりも積極的にロットとの会話を弾ませているようにもみえた。


(ああ、なるほど……。

 わざと私に、殿下との仲を見せつけているのね。

 わざわざ、サロンの扉を少しだけ開けておくなんてことまでして)


 あからさまな当てつけ。

 ロットを取られて悔しがるニースの姿でも見たかったのだろうか。


(まったく、馬鹿な子)


 王子との婚約。

 これは単なる色恋の話ではないのだ。

 貴族同士の権力をかけた戦いといっても過言ではないだろう。

 いくら王子といえども、ロットの一存で王家が定めた婚約者が変更になることはない。


 テレーズにしたって、たかが伯爵家が公爵家に喧嘩を売ったのだ。

 無事ですむはずもない。


 そんなことにすら思い至らずに、ニースを笑うためだけに身を滅ぼす。


(プライドの高い彼女からすれば、同世代で家格が上である私の存在は見過ごせなかったのでしょうね。

 他の令嬢たちのように、媚びへつらうのではなく、対立をする道を選ぶなんて。

 本当に馬鹿で、愚かで、――そしてとっても可愛い子)


 その艶やかな髪も、柔らかそうな身体も、気の強そうな瞳も、プライドの高さも。

 そのどれもが、ニースにとっては愛おしくてたまらなかった。


(これまでは、未来の王妃として相応しい振る舞いをするために、テレーズに手を出したりはしなかったけれど、向こうから近づいてきたのなら、もういいわよね……)


 ニースはチロリと唇を舐めた。


 ◇


「あら、ニース様じゃありませんか!」


 ロットの浮気現場を目撃した翌日、学園の廊下を歩いていると、縦巻きの金髪をゆらゆらさせながら、テレーズが近づいてきた。


「ごきげんよう、テレーズさん」


 ニースは柔らかく微笑み返す。


 これまではこんな風に、テレーズから挨拶をしてくるようなことはなかった。

 ということはつまり、タイミング的に考えて、用件は昨日のサロンでのことだろう。


「ニース様は本日もお美しいですわね。

 美姫という名声に偽りはないようですわ」


「ありがとうございます。

 テレーズさんも、とってもお美しいですよ」


「まあ、ありがとうございます!

 ニース様にお褒めいただけるなんて、光栄ですわ。

 実は、ロット殿下もよく褒めてくださいますのよ。

 テレーズは美しい、と」


 テレーズがニヤリと笑う。


(なるほど、そういう……)


 ロットに愛されているのは自分だと、ニースに見せびらかすことで、マウントをとろうというつもりなのだろう。


 そんなことで優越感に浸ろうなんて、本当に可愛い子だ。


「あら、そういえば、ニース様はロット殿下の婚約者でしたわね。

 ニース様も殿下からお褒めいただいたりするのかしら?」


 あからさまな挑発だ。

 そんなことを聞くということは、テレーズは知っているのだろう。

 ロットがニースに対して、そんな甘い言葉を囁かないということを。


 徹頭徹尾、政略結婚によって築かれただけの関係。

 婚約後に愛を育むこともできるのだろうが、ロットから愛を語られることはなかった。

 王妃となるために教育されてきたニースにとって、ロットと結ばれることは国のためであり、たとえそこに愛がなくても、それはそれで仕方ないと思っていた。

 そして、それはロットも理解していると思っていたのだが。


「殿下も私も、国の発展に身を捧げる立場です。

 そのための婚約であり、そこに私情を挟むことはありません」


「まあまあ、なんて素晴らしい姿勢なのでしょう!

 流石はニース様ですわ。

 ですが、己の婚約者とすら愛し合えない者が、果たして民を愛することができるのかしら?」


「それは殿下のことですか?

 今回は目をつむりますが、他の方の前では、そういったことは言わないほうがいいですよ」


「あなたに言っているのよ!!」


 どうやら、ロットのことは棚に上げるつもりらしい。

 それに、ニースはロットを愛している。

 それを表に出すようなまねをしないだけで。


「私のことでしたか。

 ちなみに、参考までに伺いたいのですが、テレーズさんはどなたなら王妃に相応しいと思いますか?」


「そうですわねぇ……。

 例えば、殿下から愛を囁いていただける私ならば、ニース様よりは王妃に向いていると思いますわ」


 嫌らしい笑みを隠そうともしないテレーズ。

 まったく、どうしてそんな表情をするのだろうか。

 本人はニースのことを嘲笑っているつもりなのかもしれないが、そんな魅力的な表情をされたら、我慢できなくなってしまうではないか。


 ニースはテレーズに近づくと、右手を上げた。


「あ、あら。

 ニース様ともあろうお方が、暴力を振るうのですか。

 いいですよ、好きになさってください。

 で、ですがこのことは、殿下にお伝えしますからね!」


 頬を叩かれると思ったのだろう。

 震えながらも、その状況を利用しようと懸命に虚勢を張るテレーズ。

 本当は小心者なのに、張りぼての心だけで公爵令嬢に噛みついてくるのだ。

 その姿はまるで、甘噛みをしてくる子犬のようで。

 こんなにも愛らしい存在が、果たして他にいるのだろうか。


 ニースは、くるはずもない衝撃に備えてぎゅっと目を閉じたテレーズの頬に、そっと手を添えた。

 そして、親指で瑞々しい口唇を優しく撫でた。


「えっ……」


 ニースの思わぬ行動に、目を丸くするテレーズ。

 そんなにいろいろな表情を見せてくれるなんて。

 もっと他の顔も見てみたくなってしまう。


「よくしゃべるのは、このお口かしら?

 あまりうるさいと、私が塞いじゃいますよ」


 ニースはチロリと自身の唇を舐めた。

 その艶やかな表情を見て、テレーズはニースの言葉の意味を察したのだろう。

 顔を真っ赤に染めると、ニースから距離をとり、そのまま背を向けて駆け出していった。


「あらまあ、恥ずかしがっちゃって。

 お可愛いこと」


 小さくなっていくテレーズの背中を、ニースは微笑みながら見守った。


 ◇


 翌日。

 またもやテレーズが、ニースに突っかかってきた。


「昨日はよくも私をからかってくれましたね」


 昨日のニースとの最後のやり取りを、どうやらテレーズはからかわれたと判断したらしい。

 ニースとしては、本気だったのだが。


「ごきげんよう」


 ニースは昨日と同じ、柔らかな笑みで迎える。


「突然のことで驚いてしまいましたが、二度と同じ手が通用するとは思わないことね」


 ビシッ、ときめるテレーズ。

 果たして、本当に通用しないのか試したいところではあるが、それでは芸がないかもしれない。


「そういえば、テレーズさんにはお姉さんがいらっしゃいましたよね。

 確か、先日侯爵家に嫁がれたとか」


「ええ、そうよ。

 お姉様は立派な方だもの。

 家格が上の侯爵家に嫁がれたのだって、当然だわ。

 まあ私なら、王家に嫁ぐことだってできるでしょうけど」


 フフンと胸を張ってテレーズが答えた。

 相変わらず、ロットとの関係を隠すつもりはないらしい。


「おめでたい話ですね。

 ですが、実は私、見てしまったんです。

 あなたのお姉さんが、侯爵家以外の男性と二人で親しそうに逢瀬している姿を」


「なっ!

 そんなことあるわけないでしょう!

 お姉様はそんな売女のようなことはしないわ!」


「そうですか、それはすみません。

 きっと、私の見間違いですね。

 お相手が伯爵家傘下の男爵家の方でしたから。

 テレーズさんのお姉さんとは同級生で、家格は違えども、仲がよろしかったようでしたので、てっきり」


「……そんな、まさかお姉様があの男と?

 いや、でももしかしたら……」


 先程までふんぞり返っていたテレーズが一転、その顔を青くさせた。


 おそらく、ニースの話が事実だと察したのだろう。

 実際、この話に嘘はほとんどない。

 唯一、ニースが見たという部分のみが偽りであり、あとは公爵家の諜報部がつかんだ確かな情報だ。


「もし、侯爵家に嫁いだばかりのお姉さんが浮気をしていたなんて知られたら、きっと両家の関係にヒビが入ってしまうかもしれませんね」


「まさか、この私を脅す気ですの?」


「いえ、そんなつもりはありませんよ。

 ですが、噂によると愛のない者同士の結婚では、民を幸せにできないようですし。

 民のためを思うのならば、テレーズさんのお姉さんには男爵家に嫁いでいただいた方が良いのではないかな、と。

 まあ、侯爵家との結婚をめちゃくちゃにした者が、他家に嫁げるかはわかりませんが」


「やっぱり、脅してるじゃないのよ!!」


 テレーズは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 本当によく表情の変わる人だ。

 怒っている顔も愛おしい。


「言いたければ、言えばいいじゃない!

 侯爵家との関係が悪くなったって、伯爵家がそう簡単に潰れたりはしないわ」


「確かにそうですね。

 そういえば、もう一つ思い出したことが。

 伯爵夫人のことなのですが」


「お、お母様のことですって?

 ふん、まさかお母様も浮気をしているとでもいうの?

 そんなことありえないわ。

 お母様は今でもお父様と仲睦まじいもの」


「そのことはもちろん存じております。

 伯爵夫妻の仲の良さは有名ですものね」


「ええ、そうでしょう」


「ですが、先日見てしまったんです」


「な、何を見たって言うのよ?」


 テレーズは既に腰が引けていた。

 口では強がっていても、内心ではすっかりニースから発せられる言葉に怯えているらしい。


「夜中に伯爵家の屋敷の裏にある森の中で、裸体の伯爵夫人と、それを縛って吊り上げている伯爵の姿を」


「っ!

 やめて!

 両親のプレイの話なんて聞かせないで!」


「凄かったですよ。

 縄を体に食い込ませて、恍惚の表情を浮かべている夫人の姿は。

 同性ですが、思わずドキリとしてしまいました」


「イヤーーッ!!」


 羞恥に耐えきれなくなったのか、テレーズは叫び声を上げながら走り去ってしまった。


「テレーズさんも縛ったら、あんな表情を見せてくれるのかしら」


 ニースは愛しい人のあられもない姿を想像して、身をよじらせた。


 ◇


 また翌日。

 懲りずに愛しい人がニースの前に立ち塞がった。


「あなた!

 昨日はよくも、両親のゴニョゴニョなんて聞かせてくれたわね!」


「ごきげんよう、テレーズさん。

 ところで、ゴニョゴニョとはなんでしょうか?」


「それくらい察しなさいよ!」


 頬を染めながら怒っているテレーズも可愛い。


「確かに、ニース様は伯爵家を貶めるだけの情報を持っているようね。

 でも、そんなの関係ないわ。

 私が王妃になってしまえば、そんなもの握りつぶせるだけの力が手に入るもの」


 とうとう、王妃になると言い張ってきた。

 周囲に人影はないが、あまりに不用心な発言だ。


 愚かなテレーズを見ているのは楽しいが、あまり無茶なことをされると、ニースの手を離れて、勝手に自滅されてしまう。

 それは良くない。


「テレーズさんはロット殿下と結婚なさるおつもりなのですか?」


「何?

 殿下に愛されない女の嫉妬かしら?

 いいわ、教えて上げる。

 近いうちに殿下から正式な発表があるの。

 あなたとの婚約を破棄して、私と婚約を結ぶという、ね。

 婚約者の座に胡座をかいて、殿下を蔑ろにしていた罰よ」


 むしろ、浮気されているニースのほうが、蔑ろにされている気がしないでもないが、まあ、いいだろう。


「テレーズさん。

 あなたはロット殿下と結婚すれば、本当に王妃になれると思っているのかしら?」


「何を馬鹿なことを。

 当たり前じゃない。

 ロット殿下はこの国の第一王子よ。

 その殿下と結婚するのだから、王妃になるのは当然のことよ」


「あのですね、テレーズさん。

 どうして公爵令嬢である私が、ロット殿下の婚約者として据えられているかわかっていますか?

 それは第一王子に権力を集中することで、余計な争いを抑えるためです。

 仮に、テレーズさんがロット殿下と結婚したとして、その場合、確実に第二王子派が表に出てくるでしょうね。

 王家を除き、最高位の公爵家と違い、たかが伯爵家ですもの。

 そんな家が次期国王の身内になるのですから、他の伯爵家や、格上の侯爵家からしたら面白い話ではないわ。

 第二王子を担いで国王にしようとする勢力が、確実に現れる。

 話し合いで決着すればいいけど、そう上手くいかないでしょうしね。

 間違いなく、次期国王の座をかけた内乱になります。

 そうなった場合、婚約者の座を奪われた公爵家はもちろん、他の上位貴族は第二王子の味方をするはず。

 戦力の差は見るまでもないでしょう。

 破れた第一王子派は処刑。

 もちろん、あなたもね。

 テレーズさん」


 まあ、そんな上手くいくわけはないのだが。

 だが、それでも問題ない。

 今この場で、テレーズを揺さぶることさえできればいいのだから。

 こんな幼稚なストーリーでも、この愚かで可愛いテレーズは想像せざるをえない。


 なにせ、ありえない未来ではないのだから。


「テレーズさんは第一王子派の中心人物ですし、確実に死罪でしょうね。

 それもただ首をはねられるだけではないわ。

 広場の中心に設けられた晒し台の上で、餓死するまで磔にされるの」


「ひぃっ……」


 己が磔にされている姿を想像したのだろう。

 先程まで顔を赤くしていたというのに、今では真っ青だ。


(そんなに震えちゃって……。

 ああもう、どうしてそんなに可愛いの)


 ニースはテレーズに近づくと、その顔を両手で包み込んだ。


 手の中で、テレーズがビクッと震えたのがわかる。


「人はそう簡単には死なないわ。

 何日も、何日も風雨や日の光に晒されながら、ゆっくりと死にゆく姿を民に見せるの。

 トイレにも行けないし、水浴びもできない。

 汚物を垂れ流し、悪臭に包まれた姿を見られるのよ」


「嫌……、そんなの嫌よ……」


 テレーズは既に半泣き状態だ。

 これ程単純な子だからこそ、ロットの甘言一つで、簡単に愚かなことをしてしまうのだろう。


 親指でテレーズの目元を拭ってやりながら、それでも言葉は止めない。


「争いに巻き込まれた民の怒りは、相当のものでしょうね。

 きっと毎日、毎日テレーズさんに罵声を投げ掛けるわ。

 全部お前のせいだ、ってね。

 かわいそうなテレーズさん。

 でも、そんなあなたを誰も助けてくれないの。

 だって、あなた以外みんな殺されてしまったあとだもの。

 あなたが愚かなことをしたせいで、みんな死んでしまうの。

 殿下も、伯爵も、夫人も、お姉さんもみんな。

 みんな死んでしまう。

 あなたのせいで」


「ち、違うの……!

 私、そんなつもりはなかったのっ……!

 私はただ、王妃になって、それで……」


「今更、もう遅いわ。

 だって、もうすぐ殿下があなたとの婚約を発表するのでしょう?」


「あ、ああ、あああっ……!!

 と、止めないと。

 殿下を、早く……!」


 走り出そうとするテレーズだが、ニースはそんな彼女をしっかりと抱き締める。


「離して!

 早くしないと殿下が!」


「落ち着いて、テレーズさん。

 あなたと殿下の関係は、周りには秘密なのでしょう?

 いくら殿下のお気に入りでも、いきなり王城に押しかけたところで、取り次いでもらえるとは思えないわ。

 でも、大丈夫よ。

 私があなたを助けてあげる」


「……えっ?」


 もがいていたテレーズがその動きを止め、見開いた目をニースに向けた。


「私、テレーズさんとは仲良くしたいと思っていたの。

 あなたのためだったら、多少無茶をしてでも、この状況をどうにかしてあげるわ。

 心配しないで、これでも私は公爵令嬢で、殿下の婚約者ですもの。

 王城にだって出入りできますし、私の口添えがあれば、あなたを守ることくらいできるわ。

 ……ああ、でもテレーズさんは私のことなんて嫌いよね。

 私から婚約者を奪うくらいですし。

 そんな嫌いな相手に助けられるなんて、テレーズさんのプライドが許さないでしょうね。

 引き留めてごめんなさい」


 それだけ言うと、悲しい笑みを浮かべたニースは、抱き締めていたテレーズを解放した。

 その瞬間、テレーズの顔に絶望が広がるのを確かに見た。


「き、嫌いなんかじゃありませんわ!

 お慕いしております!

 だからどうか私をお助けください!」


 ニースの手を必死につかみ、涙ながらに懇願してくるテレーズ。

 震える手から伝わってくる温度が心地よい。


(ああ、もっとよ、テレーズ!

 もっと私にあなたを見せて!)


「私だってあなたを助けてあげたいわ。

 でも、あなたの言葉を信じることができないの。

 だってそうでしょう?

 ここ数日であなたから向けられた言葉を思えば」


「あ、ああ……!

 私はなんてことを……。

 ニース様、数々のご無礼、伏してお詫び申し上げます」


 崩れ落ちるようにその場に跪くと、テレーズはそのまま頭を垂れた。


 なんて矮小な存在なのだろう。

 我が身可愛さに、先程まで嘲笑っていた相手に跪いてしまうのだから。

 だが、だからこそ愛しいと思ってしまう。


 ニースは膝をつくと、そっとテレーズを抱き寄せた。


「もう顔をあげて。

 あなたの気持ちはしっかり伝わりました。

 絶対に守ってあげる。

 私は、私だけはずっと何があってもあなたの味方よ。

 愛しのテレーズ」


「グスッ、ありがとうございます……。

 ありがとうございます、ニースお姉様……」


 頬を染め、潤んだ瞳をするテレーズを抱き締めながら、ニースはその柔らかな感触を堪能するのだった。


 ◇


「ロット殿下。

 ニース様がお見えになっております」


「ニースが?

 わかった、通せ」


「失礼いたします」


 ニースは礼をすると、穏やかな表情でロットを見つめた。

 そんなニースから何かを感じたのだろう。

 ロットが眉をひそめる。


「公務以外で、お前から私の元を訪れるなんて珍しいな。

 いったい何のようだ」


「殿下、一つお話があります」


「言ってみろ」


「テレーズさんのことについてです」


 その名を聞いた瞬間、ロットの目が見開かれた。

 すぐに表情を取り繕ったが、ニースにはロットの動揺が手に取るようにわかった。


「テレーズがどうかしたのか?」


「殿下が私との婚約を破棄して、テレーズさんとの婚約をお考えだとか」


「っ!?

 なぜお前がそのことを知っている!

 まさか、テレーズが話したのか?」


「ええ。

 テレーズさんは殿下のことをとてもお慕いしているようでしたよ」


「……まあいい。

 そうだ、私はテレーズを王妃として迎え入れようと考えている。

 お前との婚約と違い、私とテレーズの間には愛があるからな」


 愛、ね。

 例え他者に定められた婚約であったとしても、あとから愛を育むことは可能だと思うのだが、どうなのだろう。


「……そうですか。

 ですが、テレーズさんは殿下との婚約を喜ぶと同時に、二人の将来について憂いておいででしたよ」


「何を憂いているというのだ?」


「テレーズさんはとても思慮深い方です。

 彼女は伯爵令嬢であり、王妃となるには自身の身分が弱いということをわかっています。

 王妃となること自体が争いの火種となり、民が傷つくかもしれないことを嘆いていらっしゃいました」


 実際に憂いていたのは、自身の身の安全だが。


「ああ、そんなにも民のことを思っていたのか。

 さすがはテレーズだ。

 だが、テレーズの思いを尊重するとなると、私はいったいどうすれば……」


「テレーズさんを側室として迎え入れるのはどうでしょう?」


「駄目だ。

 テレーズには王妃が相応しい」


「では、王妃ではない、側室のテレーズさんでは愛することができないのですか」


「そんなことはない!

 私はテレーズの身分ではなく、人柄に惚れたのだ」


「ならば、側室でも構わないでしょう。

 私が王妃となれば、テレーズさんの心配する争いも起きません。

 殿下は側室のテレーズさんを愛することができる。

 ほら、どこにも問題はないでしょう」


「いや、しかしだな……」


「殿下、テレーズさんにとって王妃になるということは、まさしく茨の道となるでしょう。

 そんな過酷な未来を彼女に背負わせてはなりません」


「……そう、だな」


 ちょろい。

 この愚かなところが、テレーズと似ているのだろう。

 だからこそ、たとえ愛を注がれなくとも、こんなにも愛しく思えるのだ。


 ◇


「ニース!

 貴様、テレーズに何をした!?」


「まあ、殿下。

 いったい、なんのことでしょう?」


「とぼけるな!

 誰がどう見たっておかしいだろう!」


 ロットの指差す先には、ニースにしなだれかかるテレーズの姿があった。


「ニースお姉様!

 今日は私のお屋敷に来ていただけるのですわよね?

 私、お姉様のために、美味しいお菓子をたくさんお取り寄せいたしましたの。

 ああっ、放課後が楽しみですわ!」


「ありがとう、テレーズ。

 でも、お菓子もいいけれど、私はあなたを食べたいわ」


「まあ、お姉様ったら!

 こんなところでそんな……。

 恥ずかしいですわ」


 テレーズは頬を染めながら、満更でもない顔をニースに向けていた。


「ほら、おかしいだろう!」


「はて、いつものかわいらしいテレーズさんだと思いますが」


「テレーズが可愛いのは認める。

 だが、そもそもお前たちはそんなに仲が良くなかっただろう。

 ついこの前まで、テレーズの様子に不審な点はなかった。

 つまり、今のテレーズになってしまった原因はお前にあるというわけだ。

 そうだろう!」


「殿下、落ち着いてください。

 心配しなくても、殿下のことを仲間外れにしたりしませんから。

 一緒にお菓子をいただきましょう。

 ……いずれはテレーズさんも」


 ごくりとロットの喉が鳴った。

 わかりやすい人だ。


 テレーズとロット。

 この愚かで浅ましい二人を、こんなにも愛してしまっている。

 そんな自分に、思わず苦笑した。

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婚約者の王子が浮気をしていたので、浮気相手ごと愛することにした 黒うさぎ @KuroUsagi4455

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