アイスパレスの王女さま

あかいかわ

アイスパレスの王女さま






 〈アイスパレスの王女さま〉は僕を見つめる。

 その目はどことなく〈ねこの目〉に似ている。見つめられると心の奥底まで見透かされているような気がして、ひどく落ち着かない気分になる、そういう種類の目。突き通すようなそのつめたい目で僕を見つめ、白い息を吐きながら、〈アイスパレスの王女さま〉はささやくように僕に向けてつぶやいた、どうして? どうしてまたここまで来たの? どうせなにもできないくせに、なにをする気もないくせに、あなたはいったいどうして、飽きもせずにまたこんなところまでやって来たんだろう? 僕は



 ドアのベルが鳴ったのと、書き上げたばかりのそのテキストを削除するのとは、コンマ一秒ほどの誤差もなかった。



 その時点で、昼までにはまだ時間があった。量感のある風が、僕の部屋の窓ガラスを絶えずガタガタと揺らしていた。

 この地方には台風の直撃が予報されていた。日の出ごろすでに空は動きの速い鈍色の雲に一面を覆われ、一帯は不吉な薄暗さに閉ざされていた。見えない日が昇るにつれ、徐々に風も強くなった。嵐の予感は着実に色濃くなっていった。それでも雨はまだ一滴も降ってはいないようだった。開いたドアの前に立つ、〈ねこの目の女の子〉はすこしも濡れてはいなかったから。

 やあ、おはよう。

 おずおずとした僕の呼びかけにはかけらほどにも反応せず、不機嫌そうな表情を維持したまま〈ねこの目の女の子〉は乾いたレインコートを脱ぎ捨てる。玄関にそれを放り出し、僕を通り抜け勝手に部屋へと上がり込んでいく。僕はなにもいわずレインコートを拾い上げ、ハンガーにかけておき、そして彼女のあとを追って声を掛ける。朝食はもう食べた? なにか作ろうか? 〈ねこの目の女の子〉はなにも答えず、窓ガラスにおでこをくっつけてじっとそとの様子を眺めていた。僕は彼女に聞き取られないようちいさく息をつき、そしてコンロで湯を沸かした。ふたり分の紅茶をいれる。その間もずっと〈ねこの目の女の子〉は窓の向こうを見つめたままで、身じろぎひとつしなかった。ひと言も口を利かなかった。

 だいたいいつもこんな感じだった。

 だいたいいつも、予告もなく僕の部屋にやって来て、特になにをするでもなく、なにを要求するでもなく、退屈そうに時間を過ごす。話をするでもなく、というか話しかけてもほとんど反応もせず、棚から取り出した本を興味もなさそうにめくったり、ベッドに寝転がったり、冷蔵庫の中身を確かめたり、たまになにかつまみ食いしたり、ベランダに出てみたり、爪切りを使ったり、あくびをしたり、眠ったり。そしてまた唐突に帰っていく。さようならもありがとうもなく、無言で玄関のドアを開け、静かに部屋を出ていく。

 だいたいいつも、そんな感じだった。

 出来上がった紅茶を持っていくと、〈ねこの目の女の子〉は振り返って僕を見つめた。透明感のある、こちらの心の奥底を見透かすようなひやりとした目。紅茶、いる? ぎこちなく尋ねる僕の問いは無視して、〈ねこの目の女の子〉の視線は部屋を飛び交い、そしてあるものに目をとめる。ワークデスクに置かれたノートパソコン。近づいて、ためらいもなくそれを開き、そして向かい合うデスクチェアに腰をおろす。かたわらに紅茶のカップを置く僕へ、この日はじめての声を掛ける。パスワードは?

 抵抗しても無駄だとわかっていたから、僕は素直に登録されたアルファベットの羅列を彼女に伝える。全部小文字ね。〈ねこの目の女の子〉はいわれた通りにキーボードを鳴らしてログインを済ませる。そしてあらわれた画面を操作し始める。感謝の言葉ひとつつぶやくでもなく、ただじっと、パソコンの画面に集中する。僕はベッドに腰を下ろし、ベッドサイドテーブルに自分の紅茶カップを置く。そして読みさしていた文庫本を手に取って、そのページをめくる。彼女がパソコンの画面になにを見ているのか、気にならないわけじゃない。でも、ともかく、僕は自分の読書に意識を向けるように努める。目の前の文字列が表す幻想に、意識を集中させるよう努力する。いまは彼女に干渉しないこと。妨げないこと。それが一番ふさわしい行為だと、僕は思った。

 窓ガラスはときおり思い出したようにガタガタガタと音を立てて揺れ、風の存在を僕に思い出させる。台風が順調に近づいていることが、意識の向こう側にぼんやりと実感される。それ以外に、部屋の静寂を乱すものはなにもない。

 そんなふうにして、午前中の時間は滞りなく過ぎていった。



 正午近くになり、そろそろ昼食の準備をしなければと思い立つ。

 〈ねこの目の女の子〉はいつの間にかテーブルからノートパソコンを降ろし、床に寝そべった姿勢で画面を見つめていた。なにかお昼に食べたいものはないかと聞いてみたけれど、予想通り返事はなかった。僕は立ち上がり冷蔵庫の中身を調べてみた。なにかをつくるには、あまり材料がそろっていなかった。窓の向こうに目をやった。風はいちだんと勢いを増していたけれど、意外にもまだ雨は降っていない。なにか食べに行こうかと僕は提案してみた。車を出すよ。〈ねこの目の女の子〉はやはりなにも答えなかった。でも、どうやら無言のままにパソコンの電源を落としたらしかった。パソコンを閉じ、ゆっくりとした動作で立ち上がると、ハンガーに掛けたレインコートを手にとって、さっさとひとりで玄関を出ていってしまう。僕は慌てて財布と車のキーを取り、彼女のあとに続いた。

 駐車場で待つ〈ねこの目の女の子〉のほそく長い髪は湿り気をふくんだ風に遊ばれて暴れまわっていた。叫び声のような強風。駆け足で近づく僕を、〈ねこの目の女の子〉はどこか値踏みするような目で見つめている。

 ふたり車に乗り込んでドアを閉めると、荒れ狂うような風の音はきゅうに別世界の出来事のように音量を一段階小さくする。実際の世界とは関係のない出来事のように、ふいによそよそしいものになる。イグニッションキーを回してエンジンがかかり、車内に空調がかかると、その分断された気分はよりいっそう強いものになる。ラジオの音声が流れ、馴れ馴れしい口調のディスクジョッキーが電話越しにリスナーとクイズをしているのが、もうひとつの別世界のことのように、聞こえる。

 それいらない。

 〈ねこの目の女の子〉が断定的にそうつぶやく。

 ほとんど抑揚のない声ではあったけれど、丹念に研がれた刃のような冷たい光をそこに感じた。僕は黙ってオーディオを操作し、ラジオを消す。ディスクジョッキーの押し付けがましい笑い声が消え、無愛想な風の音がすこしだけ勢力を取り戻す。助手席に座った〈ねこの目の女の子〉は頬杖をついて窓の向こうを見つめた。風にもてあそばれたあとの髪はまだかすかに乱れたままだった。代わりになにか音楽でもかけようかと僕は尋ねた。無言だった。ギアを切り替え、ハンドブレーキを解除し、僕はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 駐車場を出て、ひとまず大きな幹線道路を目指して車を走らせる。なにを食べようかと僕はつぶやく。なにか食べたいものはある? 

 なんでも、とだけ〈ねこの目の女の子〉は答えた。

 なんでも、と僕は繰り返す。そして頭のなかですこしだけ候補を巡らす。じゃあ、イタリアンはどうだろう、と僕は提案する。運動公園の近くに美味しいお店がある。ランチはパスタしかやってないけど、それでもいいかな?

 〈ねこの目の女の子〉は答えなかったけれど、その息遣いに同意の雰囲気のようなものは感じられたので、僕はそのままその店を目指すことにする。交差点を曲がって幹線道路に入り、僕はアクセルを踏んでスピードを上げる。

 しばらくは単調な道のりを走り続けるだけだった。信号で足止めされることもあまりなかった。〈ねこの目の女の子〉は押し黙ったまま、飽きもせずに窓の向こうの風景をただ眺め続けていた。ときどき風の塊が獰猛な声を上げながら車に襲いかかり、軽くハンドルを奪われそうになる。通り過ぎていった風は、なおも残響を宿し自分勝手な道を突き進んでいく。街はさまざまなものが揺れていた。街路樹、電線、丈の高い雑草、案内標識、旗、信号機、アルミ製の看板。新聞紙やビニール袋が煽られ、はるか上空まで舞い上がっていき豆粒のようにちいさくなる。空は相変わらず分厚い雲に埋め尽くされ、正午近くと思えないほどに暗い。ライトを点けている車もある。

 でも雨はまだ、一滴も降り出してはいない。

 風が強いな、と僕はほとんど無意識につぶやいた。

 意外なことにその言葉を〈ねこの目の女の子〉が拾った。台風が近づいているからね、と彼女はいった。そして声量をちいさくして、秘密をささやくようにぽつりと付け加える。『クリスタルパレス発』みたいに。

 読んだんだ。『クリスタルパレス』という意外なそのひと言にこわばる気持ちを抑えながら、僕はいった。ええと、さっき?

 ネットにアップしてるでしょ。〈ねこの目の女の子〉はどこか呆れたような声でいった。眠たげな声で彼女は続ける。趣味で小説を書いてるって、前にいってたよね。それで、探したんだよ。『クリスタルパレス』を読んだのは、けっこう前だよ。

 そうなんだ。僕はあいまいにちいさく笑う。そして軽く咳払いをする。続く彼女の言葉を待ったけれど、それきりいっこうに口を開かない。次第に沈黙が重くのしかかり、仕方なく僕が会話を引き継ぐ。なにはともかく、読んでくれて、ありがとう。でも、不出来な作品に付き合わせてしまって、申し訳なく思うよ。そんな謙遜の態度にはいっさい取り合わないで、〈ねこの目の女の子〉はふたたび口を開く。きょう読んだのは、ほかの作品。未完成の、ほかの作品。フォルダはすぐに見つかった。それで、フォルダを漁って、びっくりした。キシは人知れずあんなにたくさんの物語を書いていたんだね。そしてあんなにたくさん、未完成なんだ。あんなにたくさんの物語を閉じることが出来ていないんだ。キシは小説を書く才能があまりないみたいだね。

 僕は乾いた笑いだけを返した。というか、それしか出来なかった。

 キシの作品ってさ。先ほどの会話がもう終わったと思えるほどの長い間をおいて、〈ねこの目の女の子〉は唐突にまたしゃべり始めた。下手に書き終えちゃった作品よりも、完成できなくて放ったらかしにされてる中途半端な作品のほうが、読んでて面白いね。

 さあ、どうかな。僕は演技でない苦笑を交えながら自分の意見をいう。ううん、どうだろう。たぶん、単なる錯覚じゃないかな。欠けているものは自分の想像で補ってしまうものだから。幻想だよ。ほら、マスクしているひとは、みんな美人に見えるのと同じで。

 マスクもせずに失礼しましたと、〈ねこの目の女の子〉はつめたくいった。その横顔はとても美しいものに見えた。とても完成されたものに見えた。でも、けっきょく、僕はそれについてはなにもいわずに視線を戻した。喩えがまずかったね、とだけちいさくつぶやく。居心地の悪い沈黙が車内を満たした。

 幻想か。〈ねこの目の女の子〉がふいにつぶやき、僕は反射的にまた視線を向けた。彼女はまっすぐに前を見つめたままで静かにいった、信号、青になったよ。

 慌ててアクセルを踏み込む僕に、〈ねこの目の女の子〉はささやくような声で続ける。キシの小説にはどれも核となるひとつの幻想がある。それを骨組みにして、肉付けをする形で作品に仕上げようとする。だいたいそういうパターンじゃない? 『クリスタルパレス発』でいえば、深夜の地方都市上空を飛行するという幻想がまずあって、それを実現するためにキャラクターやら情景やらが用意される。それを表現するためにプロットがつくられる。すべては幻想ありきなんだ。それが作品の核なんだ。だからそのはじめの幻想が大きすぎたり複雑過ぎたりして、キシの手に負えないとき、キシはそれを作品として完成させることができなくなる。未完成になる。そういうテキストが、フォルダにいっぱいたまっていく。

 〈ねこの目の女の子〉はふいにこちらを見る。なにもかもを見通すような、心の奥底までを見透かすような、つめたい視線。どう? それなりに当たってる?

 ねえ、普段いつもそんなこと考えてるの? 僕は思わずそう尋ねた。

 考えることは好きだよ、と彼女は視線をそらせていった。やや低い、ささやくような声で付け加える。ほかにすることもないからね。その声音にはどこか自虐的な響きさえあって、そのことが意外でもあり、また自分の言葉のまずさに気づかせるものでもあった。ちいさく咳払いをし、そして取り繕うように口を開く。でも、そうだね。幻想が出発点というのは、確かにその通りなんだと思う。思い当たることはいくつもあるよ。『クリスタルパレス発』の出来方も、だいたいそんな感じだったしね。小説において僕が幻想を大事にしているというのは、間違いないと思うよ。

 幻想至上主義者? と〈ねこの目の女の子〉は尋ねた。

 いや、そこまでは、と僕はちいさく笑う。現実だって大事だよ、もちろん。

 フロントガラスに大粒の雨滴がひとつ、音を立ててぶつかった。

 現実だって大事。ひどく抑揚のない声で〈ねこの目の女の子〉はそう繰り返した。目を細め、じっとフロントガラスを見つめているようだった。程なくして、ひとつ、またひとつとフロントガラスに粒の大きい雨粒が叩きつけられ、そしてあっという間にその数は数え切れないほどになった。雨はみるみるうちに烈しさを増し、ざわめきとなり、すぐに視界を白く遮るほどの大雨になった。遠くで雷鳴さえ聞こえた。慌ててワイパーを起動させ、ライトも点けた。風の音よりもエンジンの音よりも、天井を叩く雨の音のほうがずっと強いものになった。

 確かにね。そんななかでつぶやかれた〈ねこの目の女の子〉のひと言は、ひどく孤立して車内に響いた。え? 僕は思わず聞き返した。彼女はこちらを向き、そしてゆっくりと口を開く。『クリスタルパレス発』でも、そうだったなって。

 『クリスタルパレス発』でも? 僕は、まだ意図がつかめなかった。

 『クリスタルパレス発』は、深夜の上空を飛行するというひとつの幻想をモチーフにした話だったけど。どこかまどろむような印象の声で彼女は続ける。まさに空を飛んでいる、幻想のただ中にあるときにも、主人公の目は空ではなく地上に向けられている。というかむしろ、釘付けになって目が離せないでいる。キシは〈地上=現実〉と〈上空=幻想〉という凡庸な構図を導入していたけど、そして地上からの脱却をわざとらしく匂わせていたけれど、最終的に主人公はむしろ前半で経験した地上の光を求めている。そこになにかを読み取ろうとする。現実を未練たらしく眺めている。だから、そう、現実もまた大事だっていうのは、あの作品でも主張されていたんだなって。そう思った。

 なるほど、とだけ僕はつぶやいた。加えてなにかいおうと思ったけれど、いうべき言葉を僕は見つけられなかった。

 キシはビルから飛び降りようと思ったことはある? 〈ねこの目の女の子〉の不意打ちのようなそのひと言は、不思議と拡張されて狭い車内に響いた。彼女の視線はまっすぐ前を見つめたままだった。その姿勢のまま、〈ねこの目の女の子〉はもう一度だけ繰り返す。ねえキシ、キシはビルから飛び降りようと思ったことは、ある?

 肌を刺すような沈黙がふたりの間に分かち合われた。逃げ出すことは出来そうもない。

 ビルから飛び降りようと思ったことはないよ。

 薄氷を踏む思いで、僕はそう答えた。

 〈ねこの目の女の子〉はそれを聞いてあいまいにちいさくうなずき、窓の向こうを見つめ、しばらく沈黙を守ってから、ぽつりとつぶやく。わたしも。わたしもないよ。そのひと言にほっと安堵するのもつかの間、どこか意地悪な印象の声で彼女は続けた。でも、こごえるような寒さの部屋に閉じ込められたことなら、ある。

 え。僕は困惑して、あるいは困惑を装ってそうつぶやく。

 『アイスパレスの王女さま』。すっと差し込むような声で〈ねこの目の女の子〉はいった。探るように僕の目を見つめ、ゆっくりと口を開く。キシの書きかけの作品のなかにあったのを読んだよ。あの氷漬けの宮殿に閉じ込められた王女のような状況なら、わたしも体験したことがある。比喩的な意味じゃなくてね。だから彼女の辛さはよくわかる。ねえ、あの王女は最終的にはどうなるの? 閉じ込められたまま? それともなにかしらの解決が与えられる? まだ書いている途中なんでしょ。あの王女の幻想は、いったいどこへ向かうの?

 じっと見つめる〈ねこの目の女の子〉の視線には、それまでにない奇妙な熱感が宿っていた。かすかに、ではあるけれど。

 僕は口を開け、そして口を閉じ、ちいさく首を振ってから、押し出すような低い声でためらいがちに答える。あの作品は、もう諦めたんだ。書き切れない。さっきの言葉を使うなら、あの幻想は僕の手に負えなかったんだ。それがよくわかった。だから王女がどうなるかは僕にはわからない。救われるかもしれないし、救われないかもしれない。どっちに転ぶかは、わからない。

 〈ねこの目の女の子〉は、静かにその言葉を聞いていた。僕は自嘲気味に笑い、最後に付け加えた。でも、それはいいことなのかもしれない。下手に書き終えた作品よりも、放ったらかしの中途半端な作品のほうが、たぶん面白いんだから。その通りだよ。だからきっと、これでいいんだ。

 深い沈黙がやって来た。見かけよりもそれは重く、取り払えず、僕たちふたりを息苦しく包み込んだ。

 雨は烈しさを増していた。

 〈ねこの目の女の子〉はそれきりひと言も口を開かず、頭ごと視線を窓の向こうへと向けてしまった。その沈黙に、僕もあえてなにかをいおうとはしなかった。それはずっと維持された。僕たちはけっきょく目的地のイタリアンレストランにたどり着くまで黙り込んでいた。黙り込んだまま、この居心地の悪い沈黙をただ、受け入れるしかなかった。



 ひどく寒いの。眠りに落ちる間際のような茫漠とした低声で、〈アイスパレスの王女さま〉はそうつぶやいた。ねえ、知ってる? この場所は、ひどくひどく寒いんだよ。

 おびただしい数の大小のつららが等しくその先端を彼女に向けていた。空気に溶け込むことも水滴になることもできないキラキラとした微小の氷の粒が周囲を漂い、かすかな空気の流れを示している。〈アイスパレスの王女さま〉は膝を抱えて座り込み、ぐったりとその顔を伏せていた。まるで本当に眠りに落ちかけているみたいに。

 だからここから出ればいいんだ、と僕はいう。簡単なことだ。この場所が寒いのなら、この場所から離れればいいんだ。

 〈アイスパレスの王女さま〉は口の端に皮肉げな笑みを浮かべ、ゆっくりとした動作で顔を上げて僕を見つめる。その目はどことなく〈ねこの目〉に似ている。見つめられると心の奥底まで見透かされているような気がして、ひどく落ち着かない気分になる、そういう種類の目。知っているくせに。突き刺すような視線を向けながら彼女はいう。わたしがどこへ逃げたって、けっきょくなにも変わらない。わたしは逃げ込んだ場所にまた閉じ込められるだけ。誰にも受け入れられずに、そっと、がちゃんと扉を閉められる。頑丈でびくともしない、重い扉。そしてわたしは氷を吐き出す。わたしは冷気を呼び寄せる。おなじこと。でもそれは、わたしにはどうすることもできないこと。わたしは〈アイスパレスの王女〉。わたしがいる場所が、そのまま〈アイスパレス〉になる。場所なんて関係ない。どこにいたってけっきょく、わたしはひとりぼっちになる。それはおなじことなんだよ。それは仕方のないことなんだよ。

 でも。

 でもいったい、どうしてこんなことになったんだろう?



 暴風雨は衰える気配も見せない。

 たどり着いたイタリアンレストランで席に着き、注文を済ませ、ランチセットのサラダが運ばれてくるまでの間、バケツを引っくり返したようなという比喩が実感されるほどの強さの雨が休みなく降り続いていた。客の姿もまばらだった。そしてみな、雨の音に気圧されるように話し声もいくぶんちいさかった。僕たちの間にも相変わらず会話はなかった。話しかけてみても、特に返事は返ってこなかった。〈ねこの目の女の子〉はサラダを突っつきながらもずっと窓の向こうの嵐の様子を見つめていた。ぼんやりと眺めるというよりは、意識的になにかを見据えているような感じだった。なにを見据えているのかまでは、わからなかったけれど。

 パスタの皿が運ばれてきても、状況はだいたいおなじだった。〈ねこの目の女の子〉はサーモンとホワイトソースのリングイネを、僕はアラビアータのペンネを食べた。ふたりともシェアもせず自分の皿に向かってただ黙々と平らげるだけだった。僕に遅れて〈ねこの目の女の子〉が食べ終わると、給仕係は空いた皿を片付けてふたり分のコーヒーを運んできた。それに口をつけていると、ようやく〈ねこの目の女の子〉が口を開いた。台風と〈アイスパレスの王女〉って、なんだか似ているね。

 どういうこと? 話題の唐突さについていけず僕は尋ねる。

 どちらも中心にひとを寄せ付けないこと。〈ねこの目の女の子〉は自分のコーヒーにもうひと粒だけ角砂糖を加え、スプーンで砕きながら説明を続けた。そしてその中心は、とても静かで孤独なところ。台風の目にしても、〈アイスパレスの王女〉にしても。

 なるほど。コーヒーをすすりながら、僕はあいまいにうなずいた。

 台風の擬人化として〈アイスパレスの王女〉を捉えるのはどうだろう? 〈ねこの目の女の子〉は、やや見開いた目を僕に向けて提案する。ねえ、そうすればもっと王女のことを理解できる気がする。彼女の孤独をもっとちゃんと理解することができるような気がする。どう? そう捉え直してみれば、『アイスパレスの王女さま』は完成させることができるんじゃないかな?

 興味深いアイディアだと思うよ。僕は内心に留保を付けてそう答えた。〈ねこの目の女の子〉はすぐにそれを察し、不満げな光をたたえた目でじっと僕を見つめた。僕はグラスの水を口に含み、その視線に押され、気乗りしないままに口を開く。でもそれじゃ、〈アイスパレスの王女さま〉が、なんだか哀れすぎるように思える。台風という非人格的な災害と結びつけられてしまったら、彼女はもう永遠に誰とも和解できなくなるんじゃないかな。台風とその被害者との和解なんて、うまく想像もつかない。ありえないと思う。でもそれじゃ、あんまりだ。

 和解? その言葉をひどく意外なもののように、〈ねこの目の女の子〉は口のなかで転がした。それから半ば挑むような、半ば哀願するような目で僕を見ながら尋ねた。それじゃあ逆に、〈アイスパレスの王女〉とその外部の人間との間に、和解なんて成立しうるの?

 でも、もし和解がありえないとしたら。僕はたぶんすこし感情的になっていた。かすかに嘲笑的なニュアンスさえ含む言葉遣いで僕はいった。〈アイスパレスの王女さま〉はひとりぼっちで破壊を重ねて、誰からも疎まれ続けて、そして台風みたいにゆっくりと力を失って、いつか孤独に寂しく死んでいくことになるね。そんな身も蓋もない展開に、じゃあ、賛成するの?

 賛成なんて言葉使わないでよ!

 ほかの客がいぶかしむ視線を送るほどの大きさの声量で、〈ねこの目の女の子〉は声を上げる。

 いつもの眠たげで不明瞭な声ではなく、口をはっきりと開いて形作る明確な嫌悪感を込めたその声を、僕は新鮮な驚きとともに聞いた。彼女は目をそらさずに続けた。確かにわたしは、王女と外部の人間との和解なんてありえないと思っている。台風とすこしも違わない。それはすこしも疑わないよ。でもね、別にそれが、いいことだって思っているわけじゃない。それは歓迎すべきことでも喜ばしいことでもない、でも、仕方ないんだ、ただそうなるのが自然の成り行きだって諦めているだけ。キシのいう通り、王女は孤独に寂しく死んでいくことになるけど、それは仕方のないことでしょ? だって、誰も助けてくれないんだから。わたしはその状況をただ受け入れているだけ。わたしだって苦しいんだよ、それなのに、どうしてキシは賛成なんて言葉を使うの? どうしてわたしが、それに加担しているみたいにいうの? どうして、どうして?

 謝るよ。勢い込む彼女に対し、僕は素早くそう口にする。そんなつもりじゃなかった。でも、完全に僕が悪い。賛成なんて言葉を使ったのは間違いだった。ごめん。

 〈ねこの目の女の子〉は息をつき、手もとのコーヒーをひと口飲んだ。顔をしかめ、すぐにカップを皿に戻す。その険しい表情を維持したまま、唇を噛み締め、じっとコーヒーの液面をにらみつけていた。のたうつ感情を、なんとかコントロールしようと試みているかのように。そして僕は、その暗闘をただ見守ることしかできなかった。それ以外、どうすることもできなかった。やがてゆっくりと視線を上げた〈ねこの目の女の子〉はまっすぐに僕を見据え、ささやくような声で尋ねた。〈体重のない少女〉は、どうして名前を失ったの?

 え?

 『クリスタルパレス』の話だよ。〈ねこの目の女の子〉は表情を変えず、ニュートラルな視線のままに僕を見つめた。キシのパソコンのフォルダに残っていた『クリスタルパレス発』の初稿では、あの少女には名前があった。でも、完成版でその固有名詞は捨てられて、〈体重のない少女〉という抽象的な名前に変えられてしまった。ねえ、なんで? どうしてあの子は、自分の名前を失うことになってしまったの? そこになにか、理由はあるの?

 挑むようなその問いかけに、追い込まれたように僕はそっと目を伏せる。精一杯に自問し、あつらえむきの答えを記憶のどこかに探し求めてみる。でも、そんなものがどこにもないことは考える前からわかり切っていた。逃げられる場所なんてない。カラカラに乾いた喉を意識しながら、僕はゆっくりと口を開く。たぶんそれが、あの物語にとってふさわしいと、そう思ったからだよ。

 〈アイスパレスの王女〉にも名前がない。〈ねこの目の女の子〉は抑揚のない声でそうつぶやく。〈アイスパレスの王女〉も〈アイスパレスの王女〉というあいまいな呼称しか与えられてはいない。明確な固有名詞を与えられていない。彼女には名前がない。でも、もしかしたら違うの? 実は作品に明示していないだけで、〈アイスパレスの王女〉には、ちゃんとした固有名詞としての名前があるのかな? ねえ、それについてキシは、どう思う?

 あると思う。重い沈黙のあと、僕は低い声でゆっくりと絞り出すようにそう答える。彼女の名前は、あるはずだと、思う。

 それはなに? 彼女はすぐに質問を重ねる。

 わからない。

 わからない?

 検討もつかない。

 じゃあ、考えてみたことはある?

 考えてみたこと?

 彼女の名前を、探してみようとしたことは、ある?

 ないと思う。たぶん。

 一度も?

 一度も。

 ふうん。

 そしてうつむいた彼女の表情に、瞬間的に場違いな笑みが浮かんだような気がして、僕はひどくうろたえた。でも、たぶん見間違いだったのだろう。感情のかけらもうかがわせない先ほどまでの顔を僕に向けて、彼女はいった。キシが大事にしている幻想って、いったいなんなのかな。わたしにはよく、わからない。

 僕は言葉を探したがそれはひとつも見つからなかった。

 キシは幻想をただもてあそんでいるだけなんだ。視線を窓のそとへ向け、隙間の多い駐車場に間断なく叩きつける何百万もの弾丸のような雨を見つめながら彼女はいった。キシは幻想を大事になんかしていない。真剣に向き合おうとなんてしていない。それがどうなろうと、キシにはそんなこと、実際はどうだっていいんだ。それにキシだって、本当は王女と外部の人間との間に、和解なんてありえないって思っている。そもそも王女が救われようが救われまいが、キシはそんなことどうでもいいんだ。だから名前だって考えてもみないんだ。そしてそのことさえ認めようとしない。だからだよ、キシ。キシがあの作品を形に出来ないのは、幻想が大きかったり、複雑過ぎたりするからじゃない。王女が和解にたどり着けないという事実を、認めることも、変えようと努力することもしない。だからあの作品は書き切れないんだ。もうどうにも、先へ進むことが出来なくなっちゃったんだ。そうでしょう?

 彼女のいいたいことはよくわかっていた。言葉の裏に込めているもののことは、十分すぎるほどに伝わった。そして僕は相変わらず、言葉を見つけることが出来ないでいた。伝えられるような自分の考えを、ひとつも持ち合わせていないことをひとり確認した。

 なにもかも彼女が正しい。

 僕はきっとただ、幻想をもてあそんでいるだけなんだ。

 すくなくとも、いまは。



 会計を済ませて店を出た。車までの短い距離を、僕たちは小走りで駆け抜けた。

 シートに滑り込んで、ほっと息をついた。ハンカチを差し出したけれど、彼女はそれを受け取らなかった。かすかに濡れた彼女の髪の房は植物的にうねり、その横顔をすこしだけ大人びたものに見せていた。受け取ってもらえなかったハンカチで、僕は自分の髪と肩を軽く拭った。

 このまま家まで送るよ。イグニッションキーを回し、エンジンをかけてから僕はいった。車内に電力が供給され、乾いた空調の音が車内に響く。お母さんは、いま家にいる?

 彼女は窓の向こうを見つめたままで、なにもいわなかった。

 ハンドルを握ったけれど、なぜか出発する気になれなかった。ワイパーを起動させる気力さえなかった。絶えず無数の雨粒が叩きつけられるフロントガラスは、そのせいで風景を非現実的に歪ませていた。駐車場の出入り口近くにある信号機の光が、奇妙にねじれて見える。そのライトが青色に変わったら発進しよう。そう思っていたのに、実際に切り替わってもからだはいうことを聞かなかった。僕は息を吸い込んだ。

 もうじき夏休みが終わるね。いうまいとしていたはずの言葉が、あっさりと口を出る。もうじき二学期が始まる。ちょうどいいタイミングだ。二学期から、また学校へ戻ってみない? きょうお母さんがいるなら、それについていっしょに相談してみよう。大丈夫。クラスのみんなも、君のことを待っているよ。

 みんな? 感情を殺した声で彼女はいった。

 君を待っている子もいる。僕は正直に訂正した。たしかに全員ってわけじゃない。でも、君を待っている子だってたくさんいるんだ。たぶん君が思っているよりも、ずっと多い。それはうそじゃない。それに僕だって、君が学校に戻ってきたらすごくうれしい。だから僕も待っている。君は君が思い込んでいるほど、ひとりぼっちじゃないんだ。孤独じゃないんだ。学校へ来れば、それがわかるよ。

 いまさら?

 ふたたび感情を滅した声で彼女はいった。こちらが身震いするほどにも、その声音は投げやりで、完璧に他人事のようだった。平板なその声で彼女は続ける。いまさらなにをいうの。本当に助けが欲しかったときには、誰もそばに居てくれなかったのに、そんなやつらが友だちみたいな顔をするの? いまさら? 笑わせないで。もう遅いんだよ。なにかをすべきタイミングは、もうとっくに過ぎちゃったんだ。なにもかもが遅いんだ。ねえキシ、キシは大人なのにそんなこともわからないの?

 間違えた、と僕は思う。タイミングを間違えた。それも致命的なほどに。取り返しがつかないほどに。僕は唇を噛み、からだの芯につめたいものを感じながら、ゆっくりとギアを入れた。ワイパーを起動させ、ハンドブレーキを解除した。この状況から逃げるようにゆっくりと、アクセルを踏む。のろのろと車は動き出し、駐車場を抜けて、道路に出る。彼女がなにかつぶやいたような気がしたけれど聞き取れなかった。すぐ先の交差点の歩行者用信号が点滅を始めていたので、アクセルを強めようと踏み込んだ。

 だから止めてったら!

 僕はハザードランプを点灯させ、歩道に寄せて停車した。叫び声を上げた彼女はぐったりとうつむいてしばらくは身じろぎひとつしなかった。でもふいに両足を宙に浮かせると、そのまま助手席のダッシュボードを、力の限りに蹴りつけ始めた。何度も、何度も。蹴りつける空虚な音が狭い車内に繰り返される。僕は迷いつつも手を伸ばし、彼女の肩にそっと置いた。振り払われることを覚悟していたけれど、意外にも彼女は抵抗もせずに足を降ろした。うつむいていた顔を上げ、まじまじと僕を見つめる。

 僕の予想に反して、彼女は全然泣いていなかった。ねこのような瞳は乾ききって僕を見つめていた。彼女はなにもしゃべらなかった。僕を見つめるその表情には、いつもの彼女に似ないあどけなささえ宿っていた。目をそらすこともできず、ずいぶんと長い間、僕たちは無言で見つめ合っていた。

 『アイスパレス』の続きを書いてよ。彼女はささやくように僕に向けてつぶやいた。もし本当に、キシが王女とあいつらとの和解がありえるんだって考えているのなら、それを小説のなかで実現して見せてよ。わたしをびっくりさせて見せてよ。あの空間にまたいられるようになるんだって、納得させて見せてよ。小説って、そういうものじゃないの? 言葉だけ教師ぶっていないで、行動で示してよ。わたしを助けてくれるって、ちゃんと証明して見せてよ。

 彼女の目は底知れない不安に揺れている。暗く、深く。僕は苦労して、引き剥がすように彼女から視線をはずし、台風のただなかにある暴風雨の風景を見つめる。なにもかもが激しく揺さぶられ、引き裂かれ、破壊の予感に打ち震えている。僕は肺のなかにあるどろりとしたものを吐き出すように、ゆっくりとその言葉を口にする。無理なんだよ。僕にはそれが書けないんだ。きっと幻想が、僕の手にあまるんだ。僕にはそれが、書けないんだよ。

 じゃあ、王女はひとりっきりで死ぬんだね!?

 急に甲高くなった彼女の声は感情的に震えていた。僕はすぐに視線を戻して、なにかをいおうとした。でもやはり、おなじことだった。暗闇のなかでいくら探ってみても、指先はなにに触れることもなく、むなしく宙をもがくだけだった。彼女は今度こそ泣いていた。ちいさな両手で顔を覆って、こみ上げる嗚咽と必死で戦っていた。でも泣き声は、どうしようもなく指の隙間からあふれていった。

 小説が書けないんだ、と僕はいった。僕はもう、小説なんて書けないんだよ。




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アイスパレスの王女さま あかいかわ @akaikawa

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