第3話

第三章


 22時半。光谷が肌寒さを覚え、ふと気が付く。燃料を失った灯油ストーブが機能を停止し続けていたため、室温が下がってきているのだ。

「あれ…鯨井はまだ戻ってこないのか」

「ん、本当だな」

 花崎も気が付いたようだ。しかしかれこれ10杯以上飲んでいるであろう花崎はぴんぴんしているのに対して、福士は1杯飲んだだけで机に突っ伏して、何やら意味不明な呪文を唱えていた。

「いつの間にか御霊さんもいませんね。保険会社からの連絡があったのかもしれませんけど」

 須能宵が、はっとした様子で呟いた。光谷も御霊がリビングにいないことに気が付く。すっかり歓談に夢中になっていたため、皆御霊が出ていったことにすら気付いていなかったらしい。一体いつからだろう。

「ちょっと自分が様子を見てくる。みんなは中で待ってて」

 光谷が名乗りを上げ、立ち上がる。

「悪いな、頼んだ。俺は福士さんをちょっと介抱しておくよ」

 花崎はしゃんっと立ち上がり、キッチンに水を取りに行った。卒業式で自分の名前が呼ばれた学生が如く、姿勢の正しい起立だった。

 

光谷はリビングを出て、玄関に向かう。靴を履き、そのまま外に出た。途端に冷気が光谷の剝き出しの肌…主に顔と手の部分を襲う。光谷は顔をしかめながら倉庫に向かった。

 倉庫は別荘から出て15歩ほど歩いた敷地内にある。植え込みが邪魔をしていて、別荘側から倉庫の様子は見えない。光谷が植え込みを避けるように歩くと、木製の倉庫が見えてきた。そして、倉庫の傍らに誰かがいることに気が付く。

「御霊さん?」

 御霊が倉庫の窓から中を、神妙な顔つきで見つめていた。そこには彼女一人しかおらず、鯨井の姿はない。

「何かあったんですか」

 光谷が近寄ると、御霊はこちらをちらりとも見ずに言った。

「鯨井が中で倒れている」

「えっ?」

 光谷は耳を疑った。それは当然鯨井が倒れているという事実についてだが、心の隅で、御霊が唐突に鯨井を呼び捨てで呼んだことも気にかかっていた。しかし、今はそれどころではない。

 光谷が小さくかぶりを振りつつ慌てて中を覗き込むと、鯨井が仰向けになった状態で倒れていた。瞼も口も、薄く開いている様子がわかる。窓を叩き声をかけても、身動き一つする様子もない。

「それならすぐに助けないと」

「鍵がかかっている。扉にも、窓にも」

 光谷が訝しみながら窓に手をかけると、ぴくりとも横に動かなかった。中でクレセント錠がしっかり回り、窓をロックしているのが、外から見てなんとか判断できた。

 光谷が今度は倉庫の扉に走り、ドアノブに手をかける。彼女の言葉通り、扉もびくともしなかった。光谷の背中に冷や汗が滲んだ。

「ど…どうしましょう。みんなを呼んできた方がいいでしょうか」

「蘇生の可能性を少しでも残すなら、先に扉を蹴破った方がいい」

 御霊の冷静沈着な発言に、光谷は少し苛ついた。彼女が第一発見者なら、なんでさっきから一歩も動かないんだ?真っ先に別荘に走り、助けを呼んでくるべきじゃないか?

「ちょっと体を支えて貰えますか」

 光谷がそう言うと、御霊が背後に回って光谷の肩を支えた。冷たいが、確かに人のぬくもりを感じる手だった。本来ならば喜ぶシチュエーションだが、光谷にその余裕は全くなかった。

 蹴りを5発入れ、ようやく破壊音と共に扉が内側に開いた。光谷と御霊が中に立ち入り、倉庫内の全貌が明らかになった。


 鯨井は仰向けになった状態で、木の床に倒れていた。口は中途半端に開いているが、その口から言葉を発する気配はもはやない。ブロンドのショートヘアは乱れ、彼女の見る影もなくなった快活な素顔を半分ほど覆い隠していた。倒れている彼女の傍には、金槌が落ちている。

「鯨井……」

 光谷が駆け寄ろうとするのを、御霊が左手で制した。光谷が身動きできないでいると、御霊は静かに鯨井に歩み寄り、屈んで鯨井の胸に手を当てた。

「死んでいる」

 御霊が冷たく告げた。

 鯨井紗智が死んだ。光谷は足元がぐらつく感覚を、初めて経験した。ずっと何年も、彼女の顔を見てきた。これからもそうだと思っていた。それが、突然終わりを告げた。彼女の未来はもはや存在しない。眩暈めまいがした。思わず、壁に手を突いた。

「あそこに鍵が落ちている」

 御霊が指をさした方向…倉庫の右奥の床に銀色の物体が落ちているのを、光谷は視界の端になんとか捉える事が出来た。

「え?あぁ…そうですね」

「あれは倉庫の鍵か?」

「見ただけじゃ俺には分かりません。実際に試してみないと」

「須能なら分かるか?」

「恐らく」

「呼んでくれ。そうだな、スマホで直接電話した方が早い」

「110番と119番通報が先では」

「もう呼んでいる」

 まるで人間味を感じない御霊との問答に歯がゆさを感じつつも、光谷は言われるがまま花崎に連絡し、鯨井が倉庫で倒れ恐らく死んでいることと、全員を招集するように伝えた。花崎は「嘘だろ」を4回ぐらい繰り返しつつも、光谷の要請にはすぐに応じた。


 ほどなくして、花崎が皆を引き連れて倉庫に走ってきた。福士だけおぼつかない足取りだったが、なんとか最後尾についてきている。

 倉庫に入った面々は、一様に驚愕の表情を見せた。花崎は顔面が蒼白になり、須能深夜は一言も発せずにおり、須能宵は見た瞬間口を覆い、小手川は呆気にとられ立ち尽くしており、福士はすぐに倉庫の外に出て吐瀉音を響かせた。最も、彼の吐き気はここに来るまでに既に限界に近づいていたのかもしれないが。

 花崎らが到着したのを確認した御霊は、部屋の隅に近付き、布で銀色の物体を拾った。そのまま須能宵に歩み寄る。どこにでもありそうな鍵が、御霊の手に握られていた。

「この鍵は、この倉庫の鍵で間違いないか?」

「は、はい…間違いないです」

「スペアキーは?」

「なかった筈です、多分…」

 口を覆っていた手を少しどけて、須能宵が確認した。

「これは元の場所に戻しておく。警察と消防は1時間半程度で到着するとのことだ」

 光谷は腕時計を確認した。時計の針は22時45分を指している。光谷はこの別荘が山の中に建っていることを、初めて怨みがましく思ったが、吹雪の山荘に閉じ込められる状況よりはよっぽどましだろうな、とも思った。窓から外を覗くと、綺麗な冬の星空が見えた。雪が降りそうな気配はまるでない。

「なんで、なんで鯨井が。一体誰が」

 花崎が独り言のように呟く。当然、その問いに応える者は誰もいない。

「ここで待っている訳にもいかないですし、別荘の中に戻りませんか」

 小手川が肩を震わせながら言った。光谷も同感だった。

 一人、一人と倉庫から外に出る。御霊は鍵を元の場所に置き直した後、じっと鯨井の死体を見つめていた。

「御霊さん、行きましょう」

「あぁ」

 光谷が声をかけると、彼女は名残惜しそうに外に歩み出た。まるでもっと死体発見現場を見ていたかった、といった様子だ。光谷の眉間にますますしわが寄った。



 リビングに4人の男女が集まっている。花崎は青白い顔のまま押し黙り、小手川は落ち着かない様子でテーブルを指で叩き、光谷はじっと御霊を見つめていた。その御霊は壁に寄りかかったまま目を伏せ、何かを静かに考えている様子だった。

「須能たちは?」

 目を伏せたまま御霊が問う。

「部屋に戻ってます。福士さんも、具合が悪いからって」

「そうか」

 御霊が黙ると、リビングに再び静寂が宿る。沈痛な空気にいたたまれず、光谷が口を開いた。

「どうして、鯨井は死んでしまったんだろう」

 花崎と小手川が、ちらとこちらに視線をやった。その問いかけに対する返答を持ち合わせていない二人は、その質問を黙殺する。

「彼女の頭部にはあざがあった。それに首筋には索条痕が。恐らく頭部を死体の傍にあった金槌で殴られ怯んだところを、ロープの様なもので首を絞めたんだろう。これは明確な殺人事件だ」

「そんなことを聞いているんじゃない」

 御霊がいつの間にか彼女を検めていることにも腹を立てつつ、光谷が声を荒らげた。

「なんで彼女が死ななきゃならないんだ。誰が彼女を殺したんだ。この中に犯人がいるのか」

 光谷がそう言って全員を睨む。当然の如く、はい私が犯人です、などと答える輩がいる筈もなかった。

「動機なんてどうでもいい」

 御霊が意外なことを口にした。

「どうでもいいって、どういうこと?」

 小手川が怪訝けげんな顔をする。

「問題は、どうやってあの密室を成し遂げたのか、だ」

「どうでもいいは言い過ぎでしょ」

 小手川がいきり立つのを無視し、御霊が再び黙る。光谷も、あの時の状況を必死に頭の中で蘇らせた。鯨井紗智は倉庫の中で死んでいた。御霊の言う通り、首を絞められて死んでいたのなら、首を吊った状態で見つかったわけではないため自殺の線は消える。しかし倉庫の扉と窓の両方に鍵が掛かっていたのは間違いない。自分も実際に確かめている。扉を一瞬だけ内側から見たが、何か細工をしてあったような様子はなかった。あの扉と窓以外に、出入りできるような場所はない筈だ。つまり、あの倉庫は密室だったのだ。

 光谷は再び眩暈が襲ってくるのを感じた。密室殺人だなんて、なんの冗談だ。現実に人が殺されるのは、ニュースでもよくある話だ。しかし密室で人が殺された、なんて話は推理小説にしか存在しない、机上の空論に過ぎないと思っていた。しかし、実際に密室で鯨井が殺された。その事実は動かしようがない。一体どうやって?

 その次に、誰が鯨井を殺したのか、光谷は考えを巡らせた。鯨井は昔から要領がよく、顔が広かった。誰かに恨みを買うようなタイプではない。ましてや、ここにいる人間たちが鯨井を殺したいほど憎んでいたなんてあり得ない。かと言って、こんな冬の北海道の僻地に外部犯が現れたとは考えづらい。とすると、御霊が犯人なのだろうか。なんとなくだが、光谷は御霊が犯人ではないような気がしていた。そして再び最初の疑問に戻り、堂々巡りが始まる。

 いくら考えてもそれらの謎が解ける筈もなく、光谷はやっと、そんなことは警察に任せておけばいいことに気が付いた。



 沈黙が十数分続いたのち、いたたまれなくなった様子の花崎が「少し休む」と言ってリビングから出ていった。小手川も「警察が来るまで、二人も休んでた方がいいんじゃない」と言って立ち上がった。確かに、これから警察が到着すれば、長きに渡る事情聴取が始まるに違いない。睡眠も満足に取れないかもしれない。光谷も個室に戻るために立ち上がろうとして、再び御霊を見つめた。彼女はまだ顎に手を当てたまま考え事をしている様子だった。

「そういえば、御霊さんはどうしてすぐにリビングに助けを呼びにいかなかったんですか」

 光谷がずっと疑問に思っていたことを述べる。彼女の顔は平静そのものだった。

「もう手遅れだと分かっていたから、その時間を殺人現場の観察に充てていた」

「手遅れだと分かっていたってどういうことですか。実際に中に入ってもいないのに」

 倉庫の窓から、鯨井が倒れて動かない様子は見て分かっただろうが、外から脈を取れる訳がない。外にいた御霊が、鯨井の死を確信できた筈がない。

「まさか、鯨井さんを殺したのが御霊さんだから」

「違う」

 御霊はすぐさま否定すると、軽くため息をついて目を見開いた。澄んだその瞳も、今となっては吸血鬼の赤い目のような印象に変わっていた。

「信じるか信じないかはお前の自由だが」

 そのまま彼女は、言葉を続ける。

「私は人の死の臭いが分かる」


「死の臭い?」

 突然飛び出したワードに、光谷は思わずオウム返しに聞き直した。

「そうだ」

「それって、どういうことですか。彼女の死臭が、倉庫の外まで感じ取れたと?」

「違う。私は人の死の運命が、事前に嗅覚によって感じ取ることができるんだ。それこそ、数百キロという遠方からでもな。ただし、ただ病死や事故死で死ぬ奴らの臭いは分からない。私が感じられるのは、他殺によって死ぬ運命にある者の死臭だけだ。しかし事前に死ぬ者の個人特定を行うことは不可能だ。死臭は現場となる建物・敷地内全体から漂うのみで、個人から発生している訳ではない。どうせ言うと思うから先に断っておくが、事件を未然に防ぐことはできない。死の運命を変えることはできないからだ。無理に変えようとすると、かえって悲惨な状況に発展した例もある。鯨井紗智が死ぬという事実は、私に捻じ曲げようがなかった。よって、倉庫の中で倒れている彼女を見たときには、既に手遅れであることが自明の理だった訳だ」

 御霊はここまで言って、視線を窓の外に映した。外は木々が深い闇に飲まれている景色しか見えない。

「じゃあ、車が故障したという話も、浮気調査やペット探しの探偵というのも、嘘だったんですね」

「あぁ。私の車は別荘から少し離れたところに駐車している」

 外の木々が風に揺れた。

「それと、私は殺人事件専門の探偵だ」

 光谷はここまでの話を、反論せずに聞いていた。馬鹿げた空想としか思えない。推理小説の読みすぎで、頭がおかしくなった女だ。そう言い切るのは簡単だった。けれども、今の光谷は、そんな彼女に縋りたい気持ちの方が強くなっていた。

「それでも」

 光谷を御霊を見つめる。彼女は此方を見ようともせずに、外を眺め続けていた。

「それでも、事件が起きる前に、本当のことを俺に言ってほしかったです」

 そう言うのがやっとだった。

「事が起きる前に言っても信じないくせに」

 御霊はそう冷たく言い放った。彼女の人格は、事件前と事件後で別人のようになってしまった。まるで、彼女の人間味をすべて排除し、探偵としての機能を全うすることのみを考えているような…そんな印象をもった。『人間』としての彼女と、『探偵』としての彼女。どっちが本当の御霊鏡子なんだろう。

 光谷は、結局個室に戻らず、そのまま御霊鏡子を見守り続けていた。



 暗い室内に、二人の影が映る。雲の切れ間から顔を覗かせた月が、二人の影をより鮮明に部屋に投影させていた。

「宵、大丈夫?」

 須能深夜が、もう一人の影に声をかける。そう言う彼も、顔面はいつにも増して蒼白だった。

「わたし、怖い」

 須能宵は、ひたすら足元を見続けながら、震えている。

「わたし、殺される、殺されるんだ」

「心配しないで。誰も君を殺せやしない。僕が殺させやしない。僕が君を守る」

 須能深夜が、震える須能宵の手を握った。彼女が顔を上げると、二人の視線が交錯する。

「本当に、宵は怖がりなんだから。君がそう言って怯える度に、僕が守るって言い続けてきたじゃないか」

 その台詞を現実にするだけの意志力を、彼は瞳に宿していた。

「そう、だね…そうだったね」

 須能宵が目に溜まった涙を拭いながら、少し微笑む。須能深夜の意識は既に、見えざる敵へと向けられていた。



 時刻が23時30分を指した時、ようやく風の音に混じってパトカーのサイレン音がこちらに向かってくることに光谷は気づいた。やおら立ち上がり玄関に向かおうとすると、御霊が先導するように先にリビングから出ていく。まもなくインターフォンの音が鳴った。

「北海道警察の冴木です」

 玄関に警察官を引き連れ現れたのが女性の刑事だったため、光谷は少し驚嘆した。インテリそうな眼鏡を掛けた、知性を感じる長髪の女性だった。

「通報した御霊です。現場はあそこの倉庫です。死体はそのままにしてあります」

 扉を開けた御霊が、植え込みの向こう側にある倉庫を指さした。

「一緒に来ていただけますか」

 冴木の最速に従い、御霊が靴を履いて外に出る。光谷もそれに追従した。

「暫らくぶりだな、死神探偵」

 二人の会話が聞こえる。どうやら二人は知り合いらしい。死神探偵とは、嫌な響きだが彼女らしい異名に思える。御霊のことを知っている人からすれば、殺人事件の前兆として現れる彼女は、死神以外の何者でもないのかもしれない。

 倉庫の前に到着し、冴木がドアノブに手をかける。

「現場の状況が、発見時と相違点がないか確認をお願いします」

 御霊が頷き、光谷も後ろからその様子を見守った。蝶つがいの外れかかった扉がゆっくり開けられる。中の光景を見て、光谷は思わず、あっと声をあげた。


 鯨井の死体は、鮮やかな真紅に彩られ、まるでラフレシアの様な毒々しい花を咲かせていた。

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