今日私はこの家を出る。

葎屋敷

今日私はこの家を出る。



 明日、私はこの家を出る。


 安物のネクタイを駆使し、毎朝電車で会社へと出荷される父。そしてその父に彩色豊かなお弁当を毎日持たせる母。その二人がこの家をローンで購入したのは、私、そして妹が小学校へ上がるのとほぼ同時であった。真新しさは失われ、代わりに思い出が柱に刻まれた傷と同じように重なったこの家で、私は最後の晩餐をむさぼっていた。



「お姉ちゃん」



 妹が私を呼ぶ。私は返事をすぐにはしなかった。



* * * * * * * * * * *



 十八年と少し前。母は私と妹を同時に身ごもり、ほぼ同時に産んだ。いきなり男女比が一対三となったことで、父は肩身の狭い思いをした。母はそんな父を、胃袋を掴んでいることをいいことに、優しく尻に敷いたのだ。


 そんな両親に育てられ、私は不自由もほとんどなく育てられた。その恩は計り知れず、感謝の言葉以外を口に出すのは、はっきりと言ってセンスがない。

しかし、それでも私には両親にひとつ文句があった。それは「お姉ちゃん」をなにかと理由に使うことだった。


 例えば、妹とおもちゃの取り合いの際、「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」とか。


 例えば、妹と喧嘩したとき、怒る私に「お姉ちゃんなんだから、許してあげて」とか。



 私と妹の違いとはなんだろう。ほんの少し早く、私が足を母の股から出しただけだというのに。



 さらに、私はその妹にも言いたいことがあった。彼女は私と同じ日に生まれたにも関わらず、なにかにつけて「お姉ちゃん」「お姉ちゃん」と私を追いかけた。


 正直、背中から刺さるその視線は、声は、たまらなく私を不安にさせた。



* * * * * * * * * * *



「お姉ちゃん、ホントに明日出て行くの?」


「行くよ」



 妹は箸で摘んだ煮魚を口へと運びながら、食卓を挟んで向かいに座る私へと伺いを立てる。横に座る父がブロッコリーを皿に残ったドレッシングに擦りつけながら、私を後押しした。



「お姉ちゃんはずっと一人暮らしするって言ってたろ? なにを今更」


「そうよ。もう引越しもみんなで手伝ったじゃない」



 さらに追加された母の援護射撃に、私は内心ほくそ笑んだ。妹は両親の言葉に対する正当な反論など持ち合わせていない。眉を歪めながら魚の身を口の中で解す妹を、私はこっそりと覗くように眺め、そして視線を空になった皿へと戻した。



「でも、ここからでも大学通えるのに」


「遠いでしょ。あんたの行くところと違って」



 母の言うことはなにひとつ間違いではない。妹は眉間の皺を深めた。

確かに妹の言う通り、春から私が通う大学はここからでも通える場所に位置する。しかし片道一時間半かかる距離だ。一人暮らしを希望する理由としては十分使える。


 当たり前だ。



「お姉ちゃんが内緒で志望大学変えるから! 学部も全然違うところじゃん!」


「もう。あんたもお姉ちゃんの真似っこよしな! いいじゃない。お姉ちゃんも、あんたも、第一志望受かったんだから」



  妹は自分の第一志望を、私が事前に教えていた第一志望と同じものにしていた。小・中・高ときて、大学も私と通えると信じていたのだ。本当に、馬鹿な子。


 私は妹の文句には耳を貸さず、黙ってトマトに追加の塩を振りかけた。



* * * * * * * * * * *



 妹というのは厄介で。なにごとにおいても、私の方が秀でていると思っていた。


 しかし本当に厄介なのは、私が本当に妹よりなんでもできたことだった。



 勉強から運動まで。習い事のピアノから友達の数に至るまで。様々なことで姉である私は妹より勝っていた。それは自他ともに認めるところであり、当然、妹もそのことは重々承知だった。

 妹は私に勝とうと努力していた。しかし私も努力を怠っていたわけではない。互いに研鑽し、その結果私が勝っている。私はそのことに満足していた。



 小さい頃、妹は「お姉ちゃんばっかりずるい」とよく言った。だれかが私を贔屓していた、という話ではない。単純に私の方ができることが多かったから、私の方が大人から褒められる回数が多かったのだ。

 今思えば、可愛らしい子どもの嫉妬だ。彼女からすれば、私は目の上のたんこぶよりも鬱陶しい存在であったに違いない。幼い少女が一人で抱えきれる感情ではないだろう。しかし、当時にそのような同情に近い感情が芽生えるはずもなく。言いがかりをつけられた、と私は憤慨した。


 勃発した姉妹喧嘩。宙を滑空する人形。ぶつかり合う単調な罵倒の数々。


 今ならば、決して起こらない。そんな出来事だ。これを仲裁した母は、最終的に私に折れてもらおうと、上記の言葉だ。



「お姉ちゃんなんだから、我慢して」



 こういった出来事が重なる度、私はこの立ち位置を心底嫌ったものだ。生まれた年どころか、生まれた日すら同じだというのに。

 涙に暮れる妹に渋々謝りながら、私は妹との関係というものに、嫌気がさしていた。



 しかし今思えば、あの日々の中での私たちの関係は、大変健全だったのだろう。



* * * * * * * * * * *



 妹と私の喧嘩は、少しずつ、しかし確実に減っていた。それは私が妹の言葉一つひとつに腹を立てることが減っていたこともあるだろう。しかし、それ以上に妹が私に突っかかる回数を減らしたのだ。


 それは、妹が私との喧嘩に思うところがあり、意図的に減らした、といったものではない。ごくごく自然に、妹は私に対しあまり嫉妬の感情を向けなくなったのだ。私や両親だけでなく、妹自身すら気付かないほど、それは滑らかな変化だった。



 私がそのことに気付いたのはいつだったか。背中に刺さるその視線には、相も変わらず、妹の感情がふんだんに籠っていた。しかし、それが徐々に別のものをはらんでいったのだ。



 例えば、妹が私と文房具で買い物をしていたとき。妹は手に取っていた花柄のシャーペンを売り場に戻し、私が買おうと持っていた星柄のシャーペンを持ってレジへと並んだ。


 例えば、妹は家に帰った途端に、私の班の修学旅行の行き場を聞いたとき。そのあと、妹がなるべく私の行く予定の場所と同じ所に行けるよう、己の班に希望したと知った。


 例えば、私の志望校に合わせるために、猛勉強したと知ったとき。


 例えば、合格発表の際、己が合格したことに誰よりも驚いていたとき。



 少しずつ、私は妹の変化に気が付いた。当然のことだった。ずっと、彼女の視線を背中に受けてきた。そこに孕んでいるものが、嫉妬から諦観へ。羨望から依存へと変わっていたのだ。私は最初、その瞳から彼女の感情を上手く読み取れず、まるで死んでいるようだとすら思った。



 ある日、私は妹に聞いた。



「あんた、なにになりたいの?」



 妹は言う。



「うーん。お姉ちゃんみたいになりたい!」



 それを横で聞いていた母は、能天気にも微笑ましいものを見るかのように、上機嫌で窓を拭いている。

 母が拭く前に、窓枠から露が垂れる。冬の結露だ。私はそれに寒気を覚えた。


 妹は徐々に、私に勝つためではなく、私の背中にぴっとりと付いているために、努力をするようになったのだ。



 私は己の記憶を探った。昔、まだ、彼女の瞳が生きていた頃。あの子は、なにになりたいと言っていただろうか。少なくとも、それは職業の類であったはずだ。決して、私などではなかったはずだ。



 そこでようやく私は気付く。


 あの子が、己ではなく、私だけを見て育ったのだと。


 私が鏡の中の自分と向き合っている間、妹は常に私の背中に阻まれて、



 かがみと向き合うことなど、生まれてから一度もなかったのだ、と。



* * * * * * * * * * *



 高校二年生の終わり。私は体調不良に学校を早退し、帰宅した。心配をかけるから妹には言うなと、口を酸っぱくして先生たちに口止めをし、母にだけに早退の旨が伝えられた。

 私は母の車を断り、家路に着いた。そして具合が悪いことを理由に部屋に閉じこもり、タンスの中身を引っ掻き回した。


 妹の居ぬ間に、私は妹の卒業文集、またはそれに類するものをあらかたかき集め、そして読み漁ったのだ。



* * * * * * * * * * *



「私、大学ここに行きたい」



 私は大学の学部の紹介ページが映った携帯の画面を家族に見せながら、そう宣言した。両親は箸を止め、妹は箸に刺さっていたプチトマトを皿へ落とした。何度も転がし、諦めて箸を刺したにも関わらず、それでも取りこぼすとは。詰めの甘い妹だ。


 口をあんぐり開けた彼女の置き去りに、私は無言で携帯を食卓の上に置いた。そして食事を続行する。両親はいきなりのことに驚いたものの、なにか深く詮索するわけでもない。ただ、「頑張りなさい」と声をかけ、同じく食事を続けたのだ。



 数日後、案の定妹は私が志望すると宣言した大学の入試問題集を購入していた。私も半分代金を出し、それは二人の共有の参考書となった。


 本当に馬鹿な妹だ。部屋のタンスを眺めながらため息を吐いた。


 私が本来志望する学部は、決して妹の興味の範疇にはなく。そして確実に、今志望している学部は、妹の興味のあるものだ。昔、なりたがっていたものに関するものなんだから。

 万が一、すでに興味を失っていたとしても、それはそれで構わなかった。結局、私は切っ掛けがほしかっただけなのだ。



 そして、私は受験募集がとっくに閉め切られた入試直前になって、黙って志望先を変えていたことを家族に告げた。



* * * * * * * * * * *



「本当に駅まで送んなくていいの?」



 玄関先、立て掛けられている姿見で後ろ姿をチェックする私に、母が心配そうに声をかけた。その横で父が同意を主張するかのように、首を何度も縦に振っていた。



「いいよ。そんな荷物も重くないし」



 私は鞄を肩に掛け、靴を履く。つま先を整える私に、背後から妹が声をかけた。その声はわずかに震えている。



「お姉ちゃん、もう帰って来ないの?」



 妹の問いに、私ははっと息を呑んだ。振り返れば、眉尻を下げ、姿勢を前傾にしている妹の姿だ。私の強行に、きっと、彼女なりに感ずるものがあったのだろう。それが己を突き放すためだと、言わずとも伝わっているはずだ。


 当然のことだろう。彼女はずっと私を見てきた。それこそ、自分を見つめる時間を惜しんで。



「馬鹿ね。簡単に会える距離でしょうが」



 私は己がこれから一人暮らしする家と、この家との距離を指摘する。それは妹が真に望むのであれば、毎週、それ以上であってもそこまで苦にならない距離であるはずだ。


当たり前だ。



 私は苦笑し、妹の額を指で押した。



「あんたが本当に辛そうなときは、全部ほっぽり出して会いに来てあげる」



 軽く押された妹の身体は、一歩分だけ後ろへ下がった。



「お姉ちゃんなんだから」



 それだけ言うと、私は己の後ろ髪を引っ張った。その様を不思議そうに妹は眺める。しかし、すぐにその意図に気付くと、彼女は己の横に立て掛けてある姿見を見た。彼女の髪が少しだけ跳ねていたのだ。



「あ、本当だ」



 妹の視線が私から外れ、鏡へと向かう。妹が跳ねた髪を押さえつける間に、私は前を向いた。



 今日私は、妹と一緒に十八年と少しの間生きた、この家を出る。



「それじゃ、行ってきます」



 私はドアノブに手をかけ、扉を押し開く。振り返りはしなかったし、呼び止める声もかからなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

今日私はこの家を出る。 葎屋敷 @Muguraya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説