事件編第四章 殺戮
室内は重苦しい空気に支配されていた。矢守と小里が部屋に帰ってきて二階の状況を報告する中、全員が青白い表情でただうつむいていた。
「おい、間違いなく時田琴音の遺体だったのか?」
藤沼が重くるしい口調で尋ねる。
「残念だが、間違いないと思う」
小里が答える。この男としても認めたくはないのだろう。
「だが、話を聞く限り直接的に確認はできていないはずだが」
あの後、二人はこみ上げてくる吐き気をこらえながら、改めて転がっていた頭部を確認してみたのだが、その顔はズタズタに切り裂かれていて、女性であること以外は何もわからなかったのだ。
「だがな、この場にいない女性は二人。そのうち宮島さんの頭部はすでに離れで確認済みだ。それは藤沼さん、あんたも確認したはずだ」
「……ああ」
藤沼は短く答える。
「それとは別の女性の頭部が出てきた。いなくなっている琴音ちゃん以外に該当者がいるか?」
「本当に女性の頭部だったのか?」
「ショートカットとはいえ髪はそれなりの長さがあった。あれは間違いなく女性の頭部だ。それに目測による簡単な確認だが、転がっていた首とセーラー服姿の女性の胴体のそれぞれの切断面が一致しているように見えた。ありゃ、転がっていた首があそこにあった胴体から切断されたと見て間違いないだろう」
「しかし、どうしてあんなところで殺されていたんだ? わざわざ犯人が二階まで持ち上げたって言うのか?」
藤沼が苛立たしそうに言う。
「確かに、離れで殺した遺体を誰にも気づかれずに二階まで持ち上げること自体はできると思います。我々がいるこの部屋と離れの渡り廊下は離れていますから、叫び声でもない限りは気づかれないでしょう」
「だが、誰かが来るリスクがゼロだったわけじゃない。そんな危険を冒してまで二階に上げた理由は何だ? それに、いくらなんでも切断した遺体を運んだら、血痕なんかの痕跡が残る。そんなものは渡り廊下にはなかったぞ」
藤沼の言葉に全員が押し黙るが、不意に杏里が発言した。
「犯人ではなく、琴音ちゃんが二階に逃げ込んだという事はないでしょうか?」
「というと?」
「離れで襲われた琴音ちゃんは咄嗟に離れを出て母屋に逃げ込んだ。で、そのまま離れの近くにあった階段を上って上に逃げたとすれば、遺体が二階にあった理由もわかります」
「だが、いくら離れていたとしても一声叫べば……」
そこまで言って、藤沼は押し黙った。
「彼女は運動性失語症。叫びたくても叫べなかったんです。となると、逃げるしかありませんよね」
「で、逃げる途中に捕まって殺された、と。なるほど、それなら遺体が二階にあった理由や、渡り廊下や階段に痕跡がなかった理由にも説明がつく」
小里がゆっくり言う。
「現場には頭部と胴体しかなかったのか?」
「ええ。手足はいくら探しても見当たりませんでした」
これには矢守が答えた。
「……何はともあれ、これで一つ可能性が消えたな。時田琴音は犯人じゃなかった。彼女も哀れな犠牲者の一人に過ぎない。そして、彼女を含めた三人の人間が殺害されているのも疑いのない事実だ」
「じゃあ……」
「可能性は二つだ」
藤沼が断定的に言った。
「時田琴音が犯人でなかった以上、一つ目の可能性は生き残っているこの七人の中に犯人がいるという可能性だ。できれば考えたくはないが……現状ではこの可能性が一番高い」
その言葉に、再びその場が疑心暗鬼に包まれる。
「もう一つは?」
「『イキノコリ』かどうかはともかく、我々以外の第三者がこの村に紛れ込んでいて、そいつが殺戮を繰り返しているってパターンだ。少なくとも、二階の一件で我々の探索にも限界があった事が露呈してしまったからな。可能性がある以上、考えないわけにもいかない。ただ、『イキノコリ』などという荒唐無稽な噂話は今でも論外だと思っているし、この可能性はあまりにも都合がよすぎるような気もするが……」
藤沼はそう言いながら、厳しい表情をする。これでも最大限の譲歩をしたつもりなのだろう。
「ね、ねぇ……それって要するに、この中に殺人鬼がいる可能性が高いって事よね」
麻美が怯えた表情を浮かべる。
「どうする? この状況では、互いを信用しろと言っても無理があるが」
「だからといってバラけるのは犯人の思う壺だ。互いに互いを監視するしかねぇな」
小里の意見に、麻美が立ち上がる。
「じょ、冗談じゃないわ! 殺人犯と一緒にいるなんて、私は絶対に嫌よ!」
「一応言っておいてやるが」
小里が釘を刺すようにいう。
「こういう状況下で、そう言って単独行動を取るやつっていうのは、推理小説なんかだと犯人の絶好の鴨だぜ」
「……何よ、それ」
「自分から次の犠牲者に立候補しているようなもんだって言ってるんだ。死亡フラグとも言うらしいが」
そう言いながら、小里は麻美を睨む。
「それとも、一緒にいると困る事でもあるのか?」
「そ、そんなことは……」
「だったら、おとなしく座ってろ」
その言葉に、麻美は肩を震わせていたが、やがてその場に座り込んで泣き出した。杏里が慰めるように肩を叩く。
「いずれにせよ、このままじゃ動きようがない」
「どうするんですか? さっきみたいに誰が犯人なのかを話し合いますか?」
矢守の言葉に小里が意見を言う。
「下手な推理ごっこは逆に疑心暗鬼を増幅させるだけだ。よほどの根拠がない限り変な疑いを立てるべきではない」
「だが、しないわけにもいかないだろう」
藤沼がそう言った。
「するな、とは言っていない。ただ、やるならそれなりの根拠や厳然たる事実に基づいた発言だけをすべきだ。安易に疑うことだけは避けないと、取り返しがつかなくなる。それができるのかと言っているんだ」
「確かに難しいが、やらねばならないだろう。どの道、できなければ我々に待つのは死だからな」
それでいいなと言わんばかりに藤沼が全員を見回す。全員、頷くしかなかった。
「状況から見て土方、宮島、時田の三名は確実に殺害されており、残ったのはこの場にいる七人。第三者の介入がない限り、容疑者はこの七人に絞られるわけだ。ここまではいいな?」
誰も反対意見はないようである。
「より厳密に言うと、考えうる可能性は、この七人の誰かが犯人であるという七通りの可能性に、私たち以外の第三者が犯人であるという可能性を含めた合計八通りに絞られます。つまりこの八通りの可能性についてそれぞれ検証し、ありえないものを削除していくことが主の作業になると思います」
杏里が発言する。
「じゃあ聞こうか。この中で最も犯人の可能性が低いのは誰だ?」
その言葉に、全員が気まずそうな顔をするが、やがて矢守がおずおずと言った。
「先程も話しましたが、須賀井だと思います」
「だろうな。足を骨折して厳重に拘束されていたこいつにだけは、この犯行は不可能に近い。極めて遺憾だがな」
「うるせぇ」
須賀井が吐き捨てる。本来なら真っ先に疑われるべき人間が、皮肉なことに最も容疑から遠い立場にいるのである。こんな皮肉な事はない。
「でもさぁ、逆に怪しくない? 一番怪しい人間が、一人だけ犯行不可能な状況にいるっているのは」
麻美が疑わしそうに須賀井を見る。
「どういう意味だよ?」
「自分が真っ先に疑われるのが目に見えていたから、あえて自分にはできそうもない事をしたんじゃないの?」
「何だと!」
須賀井が血相を変えるが、足の痛みのせいで顔をしかめ、その場で悔しそうに麻美を睨む。
「それが本当だとして、どうやって?」
と、不意に憲子が単調な口調で尋ねた。
「どうやってって……」
「少なくとも、自分であの拘束を解く方法がなければ、疑うだけ無意味。あなたの考えは?」
「そ、それは……」
思わぬ方向からの反撃に、麻美は押し黙ってしまう。
「よそう。感情だけで討論したらかえって逆効果だ。さっきも言ったように、客観的事実だけで考えるべきだ」
「……わかってるわよ」
小里に言葉に、麻美は不満そうな顔で頷いた。
「ここまでは先程の議論でも話した。本題はここからだな。残りの面子で犯行が不可能と考えられるのは?」
「さっきの討論では、アリバイも何もないという事で絞りきれませんでしたね」
「犯行時間が深夜だからな。だが、何とかしてもう少し絞り込めないだろうか?」
藤沼の言葉に全員考え込む。
「……そもそも、どうしてあの三人が被害者になったんでしょうか?」
矢守が素朴な疑問を口に出した。
「と言うと?」
「いや、あの三人が犠牲者になったのには何か必然があるのかと思って」
矢守の言葉に何人かが虚を突かれたような表情をした。
「状況から考えて、犯人の襲撃目標は離れだ。土方は便所に行ったところで犯行を目撃して巻き沿いで殺されたと考えられる。逆に言えば、どうして犯人は離れを狙ったんだろうか」
藤沼が矢守の問いを整理した。
「どう思う?」
「犯人の目的によって変わってくるな。無差別殺人が目的なら、単純に人数が少なくて襲いやすい場所を襲っただけだろう。けど、意図的に離れを狙ったとすれば、狙いは宮島さんか琴音ちゃんだったことになる」
「ていうか、この事件って意図的な殺人なの?」
麻美が不安そうに言う。
「そこが問題だな。少なくとも我々はバスジャックが起こるまでは全員が初対面だったわけだ。何かミッシング・リンクでもあれば別だが……」
「ミッシング・リンク?」
聞き慣れない言葉に矢守が尋ね返す。
「ミステリー用語の一つで容疑者の間の隠されたつながりの事だ。一見すると何の関係もないはずの容疑者の中に実は何か関係があった、というような感じだ」
小里が簡単に解説する。
「でも、そもそも離れの二人を意図的に狙ったと考えるにしても、中学生の琴音さんが主たる目的だったとは思えないんですが」
杏里が遠慮がちに言う。
「確かに、中学生に対してあそこまで残虐な方法で殺せるような動機が生まれるとはとても思えないが……」
藤沼が歯切れ悪く言う。
「となると、仮に意図的な殺人だった場合、その標的は宮島さんだったという事になる。だが言っておいてなんだが、私にはとてもそう思えない。これはそんな個人的な恨みの類の犯罪には見えない」
この仮説には、小里も否定的なようだった。
「そもそも、これが意図的な殺人だったとすれば、犯人もすでに目的を果たしたというわけで、これ以上の殺人も起こらない事になるが……状況がそこまで楽観できないものである事は皆もよくわかっているように思う。さすがにこの場にいる全員にミッシング・リンクがあるわけでもなかろうし」
「となると、無差別殺人を念頭に置くべきですか」
矢守が尋ね返す。
「無差別殺人となると、動機の詮索など不要な作業なのかも知れないな」
「純粋に犯行可能か否かで推理を進めるという事でいいと思う」
藤沼はそう結論付けると、続けてこう発言した。
「この際聞いておくが、他に気になることはないか。遠慮せずにどんどん言ってくれて構わない。何か突破口になるかもしれない」
その言葉に、全員が考え込んでいたが、再び矢守が発言した。
「あの、根本的な話なんですが、犯人はどうして遺体をわざわざ切り取ったりしているんでしょうか」
その言葉に、全員が虚を突かれたような表情をした。
「そんなの、殺人鬼の勝手な都合でしょ? ホラー映画に出てくる殺人鬼みたいに意味もなく死体を切り刻んだり……」
「でも、実際にその作業をしようとするとかなりの労力がかかります。やるからには意味があるはずでしょう」
「あんな狂った殺人をやるやつの考える事なんかわからないわよ」
麻美が膨れっ面をしながら言う。
「……何かメッセージとか」
憲子がボソリと言う。
「メッセージ?」
「遺体を切り刻む事で私たちに何かメッセージを送っている。そういう事」
憲子は端的に言う。
「持ち去られた部位に何か意味があるっているのはどうだ?」
小里がそんな推理を披露する。
「ええっと、土方さんが頭部、宮島さんが逆に頭部以外、琴音ちゃんが両手足でしたよね」
「何か意味があるとでも?」
藤沼が不審そうな表情で尋ねる。
「まさか、遺体をつなげて一人の人間の体にしようとしているのでは?」
「それこそどこぞの怪奇小説じゃあるまいし、イキノコリ以上にありえない話だ。第一それなら最初の二人を殺した時点で体は完成しているはずだ。時田琴音まで殺された事につじつまが合わない」
矢守の言葉を、藤沼は冷ややかに否定した。
「ね、ねぇ。遺体を運びやすくするために切り刻んだって事はないの?」
麻美が意見を言う。
「にしては遺体の一部を遠慮なく残しているし、持ち運ぶ意味がわからん。隠すにしても中途半端だ」
「じゃあ、何で遺体をバラバラにしてるのよ!」
麻美はヒステリックに叫んだ。が、誰も答える事ができず、不気味な沈黙がその場を支配する。
「……これからどうするよ。結局、何も目ぼしいことはわからない。状況的には最悪だぞ」
不意に小里が藤沼に尋ねた。
「全員でこの場に固まって救助を待つしかない。下手な行動はかえって危険だ。犯人がこの中の誰かだろうが外部犯だろうが、これだけ固まっていればおいそれとは殺人を実行できないはず」
「だろうな。誰か殺した時点で残り全員に袋叩きに合うのは目に見えている。犯人もそれは望んじゃいないはずだ」
「そんな……いつまでそうすればいいのよ?」
「わかりきっているだろう。救助が来るまでだ。この状況ではバスの場所に戻るのさえ危険すぎる。誰かがこの村を見つけてくれるまで待つしかない」
麻美の言葉を、藤沼がピシャリと抑えた。
「持久戦、ですね。私たちの気力が持つか、犯人が勝つかの」
杏里の言葉に、もはや誰も答える元気はないようだった。
そのまま時間は過ぎていき、全員何もできないまま再び夜を迎えようとしていた。互いに互いを監視し、前日に採取した山菜などを焼いて食べ、誰も何も喋らないまま無意味に時間は過ぎていく。
「毒殺の心配がないことだけは唯一の救いかな」
小里が皮肉めいた口調で竹の子を食べる。が、誰も答える人間はいなかった。
単独行動は厳禁とされ、トイレですら近くの小部屋に二人以上で行くのが原則となっていた。
本格的に外が暗くなる前に、再び全員が集まって今後の方針を決めた。
「全員が寝るのは危険すぎる。見張りを一人……いや、二人決めて、交代で寝る事にしよう。個人の感覚でかまわない。おおよそ一時間経ったと思ったら、次の人に交代するんだ」
藤沼の言葉に異論を挟む人間はいなかった。ペアはジャンケンで決められ、矢守と小里、藤沼と憲子、杏里と麻美がペアになった。
「こいつはどうする?」
小里が須賀井の方を見ながら聞く。
「昨日と同じく、柱に結び付けておこう。異論はないな?」
須賀井は軽く舌打ちして、顔を背けた。
「フン、犯罪者のこいつだけが見張りもしないでゆっくり寝られるってわけか」
「でも野放しにはできません」
「わかってるさ」
小里は矢守の言葉に頷いた。最初の見張りはこの二人である。
「無事に朝が迎えられるといいんですけどね」
矢守の言葉に、答える者はいなかった。本来結束すべきこの場において、自分以外は誰も信じられない。口には出さなかったが、誰もがそう思っているのは間違いなかった。
そのまま、誰も何も言わないまま就寝となった。矢守と小里は部屋の前の縁側に座ってそのまま無言で見張りを開始する。
響き渡るは相変わらず降り続ける豪雨の音と、時々鳴り響く雷鳴だけである。その雷鳴とともに起こる稲光が、薄汚れたガラス越しに縁側に座る二人の姿を映し出す。会話はない。危うい均衡がその場を支配するだけだ。
「……おい。起きてるか」
と、見張り開始からどれほど経っただろうか。不意に小里が矢守に問いかけた。
「何ですか?」
「いや……黙ってるだけじゃ息が詰まって仕方がないからな。話でもしないか?」
「はぁ」
矢守がそう答えると、小里は勝手に話を始めた。
「正直、今でも信じられないな。たった三日前まで普通の生活をしていたはずなのに、いきなりこんな修羅場に投げ込まれるなんて。出来の悪い推理小説じゃあるまいし」
「小里さんは推理小説に詳しいんですか?」
「ま、仕事柄、作家連中にインタビューすることもあるからな。それなりの知識はある。……もちろん、実際に経験したことはないが」
小里は大きくため息をついた。
「これからどうなるんでしょうか?」
「……何とも言えないな。少なくとも『そして誰もいなくなった』みたいな事にはなってほしくもないが」
「何ですか、それ?」
「アガサ・クリスティの名作だよ。孤島に集まった十人の人間が次々殺されて、犯人は間違いなくその十人の中にいるにもかかわらず、最終的には十人全員が死んでしまう。そういう話だ」
「似てますね。今回の事件と」
「くそっ、せめて何で俺たちが狙われるか、その理由さえはっきりすれば対策が立てられるものを」
小里は吐き捨てた。
「……ねぇ、小里さん。もし、仮に……あくまで仮にですよ、このまま全員殺されるような事があったら、事件が解明される可能性はなくなってしまうんですよね。つまり、犯人の完全犯罪が成立してしまう」
「まぁ、状況も何も外部の人間からはわからないからな。そもそも、事件が発覚するかさえも怪しいものだ」
「でも、もしそうなったときに解決されないままというのは……あまりにも悔しいですね」
「……だったら、記録でも残しておけばどうだ?」
思いもよらない小里の提案に、矢守は思わず小里の方を振り返った。
「記録、ですか?」
「ああ。自分が見た事や感じた事、体験した事を全部記録しておくんだ。そうしておけば、全員死んだとしても、後で記録を見たやつが何かをつかんでくれるかもしれない。俺はいつも残してるんだが、あいにく事故のときに筆記具をなくしてな」
そう言いながら、小里は懐をまさぐると、何かを矢守の方へ投げて寄こした。矢守は慌ててそれを受け取る。それは古びた手帳と一本の鉛筆だった。
「これは?」
「さっき二階の部屋……あの死体があった部屋の入り口の傍の机の上で見つけた。中は何も書かれていない。どうやら、事件当時の年の手帳らしいがな」
見てみると、手帳の表面には薄汚れた「一九九四」という文字が書かれている。
「ないよりましだろ。せっかくだから今までの事を書いてみたらどうだ?」
「小里さんは書かないんですか?」
「俺が書くより、あんたが書いた方が信憑性あるだろ」
答えになっているようで答えになっていない回答だったが、とにかく矢守は素直に頭を下げると、それを懐にしまった。
「……それをもう少し早く見つけられていれば、あの子ともコミュニケーションができていたかもしれないな」
その言葉が、結局何も対話できないままに終わってしまった時田琴音の事を示しているのは明白だった。矢守は黙って頷く。
「ところで、手帳といえば一つ思いついた事がある」
と、唐突に小里がそんな話をし始めた。
「状況から考えると、意図的な犯行として見た場合、さっきも検証したように狙われる可能性があるのは宮島さんだ。だが、そうだとするとなぜ宮島さんが狙われたのか動機がわからない。だが、その手帳を見て思いついたんだ。宮島さんだけが、事故に関して我々と違った行動をとっていた」
「違った行動って……あっ!」
矢守はそれに気がついた。
「手帳ですね。死んだ柴井という客が持っていた。あれを拾ったのは宮島さんのはずです」
「あぁ。柴井本人が死んでいることは間違いないが、問題がその手帳にあったとすればどうだ? 手帳の内容に何かまずいことが書かれていて、犯人はそれを取り返すために手帳を狙ったとすれば?」
「あの手帳、どこにあるんでしたっけ?」
「藤沼さんが宮島さんから預かったはずだ。逆に言えば、その場にいた俺とあんた、受け取った藤沼さん本人は、宮島さんが手帳を持っていないのを知っていたわけだ。つまり、目的が柴井の手帳だった場合は、俺たちが宮島さんを狙う理由はなくなる」
「犯人は宮島さんが手帳を持っていたと思い込んでいた人物……」
「だからこそ、あんたにこうして話しているわけだがな」
その仮説が正しいなら、条件に当てはまるのは須賀井と女性三人に絞られる。
「でも、だったら次に狙われるのは……」
「安心しろ。このことは藤沼さんにもすでに話してある」
小里の言葉に、矢守は驚いた表情を浮かべた。
「いつの間に……」
「見張りに入る少し前だ。本人も警戒しているし、おそらく大丈夫だろう。明日、問題の手帳を検証してみたいとの事だ」
そう言うと、小里は顔を上げた。
「……そろそろ交代の頃合か。俺は雨宮を起こしてくる。あんたは藤沼さんを起こしてくれ」
「わかりました」
それを合図に、二人は同時に立ち上がるとそれぞれ暗い部屋の中に入った。男子部屋に異常はなく、須賀井も柱に縛り付けられたままうつむいて寝ているようだ。矢守は藤沼に近づくと軽く肩をゆすった。
「う……む……」
少し呻いた後、藤沼はゆっくりと体を起こす。
「交代です」
「あぁ」
交わした言葉はそれだけだった。藤沼は部屋を出て行き、入れ違いに憲子を起こした小里が部屋に入ってくる。
「さぁ、今のうちに寝てしまおう。明日も長い。休めるときに休んでおくべきだ」
そう言うと、小里は畳に寝転んで布団に包まる。矢守もそれに習って布団に包まった。こんな状況だけに眠れるかどうか不安もあったのだが、意外にもすぐに眠気が矢守を襲い、いつしかその意識は暗い闇の中へと沈んでいった。
「……きろ……おき……おきろ……」
闇の向こうから声が聞こえてくる。その声はだんだん大きく、かつはっきりしてくるようだった。
「起きろ!」
その言葉に、矢守は目を覚ました。目の前に、深刻そうな表情の小里がいた。
「見張りの時間ですか?」
「それどころじゃなくなった」
その言葉に、矢守も何かが起こった事を直感した。
「何かあったんですか?」
小里は黙って矢守の後ろを指差す。振り返ると、そこにあるべきもの……いや、いるべき者がいなくなっていた。
須賀井を縛っていた紐が解け、肝心の須賀井もいなくなっているのだ。
「須賀井は?」
「わからん。起きたらこうなっていた」
外から明かりが差し込んでいる。ということは、すでに朝を迎えているのだろう。見ると、縁側のところで藤沼が難しい表情をしていた。矢守もすぐ立ち上がって縁側に向かう。すると、藤沼の前に憔悴しきった表情の杏里が立っていた。他の二人の姿は見えない。
「起きたか」
「どうなっているんですか? というより、どうして朝に……」
そう、見張りが三交代制である以上、見張り終了後から二時間後に、再び矢守たちのペアが見張りをしていなければならないはずなのだ。にもかかわらず朝になっているという事は、矢守たちの寝た後で何かが起きて、矢守たちが起こされなかったという事に他ならない。
「それがな……」
「私のせいなんです」
そう言ったのは杏里だった。その顔色が心なしか青い。それを引き継ぐように、藤沼がこう言った。
「彼女の話によると、見張りの途中で誰かに襲われて気を失ったらしい」
「襲われた? もしかして、犯人に?」
その言葉に矢守は緊張する。が、意外なことに杏里は首を振った。
「それが、一緒に見張っていた麻美が急に近づいてきて、外に何か見えると言ったんです。それで、言われた場所に目を凝らしていたら、急に首筋に衝撃があって、そのまま……」
「話を聞く限り、彼女を気絶させたのは瀬原麻美だろうな。実際、彼女もこの場から姿を消している」
藤沼が結論付け、矢守は麻美がこの場にいない理由を悟った。
「じゃ、じゃあ……犯人は彼女だったと?」
「どうかな。彼女は昨日からずっと怯えていて、隙あらばこの場から逃げ出そうとしていた。この極限状況に耐えられなくなって、自分だけ逃げ出した可能性もある。けど、須賀井まで姿を消しているとなると、状況はそう楽観的ではないな」
小里が口を挟んだ。藤沼は軽く頷くと、推論を続ける。
「須賀井は足を骨折していた。したがって自力でこの場から動くことはできない。その須賀井が姿を消したとなると考えられる可能性は、須賀井の怪我そのものが嘘だったか、あるいは誰かが須賀井を連れて行ったか、だな」
「でも、須賀井の怪我が嘘だったとはとても思えません」
矢守が反論する。あの変な方向に曲がった足を見れば、素人目にも須賀井が骨折していたのは明白だろう。それに、骨折していなかったとすれば、おとなしく従っているような相手でもない。何しろ、相手は自分たち相手にバスジャックを敢行した男なのだ。
「となると、藤沼さんが言うところの後者の説が正解か。でも、誰が?」
「順当に考えれば同じく姿を消した瀬原麻美だろう。だが、これはこれで問題だな。あれだけ毛嫌いしていたんだ。当の須賀井が抵抗しないはずがない。抵抗しなかったとすれば、それは須賀井がすでに殺されていた場合。つまり、瀬原麻美がこの事件の犯人だった場合だ」
「じゃあ、彼女が犯人じゃなかった場合は?」
「当然、連れ去ったのは犯人という事になるだろう。いずれにせよ、須賀井はもう死んでいる可能性が極めて高いと言わざるを得ない」
その言葉に、その場に重苦しい空気が充満した。
「あの、雨宮さんは?」
矢守は、この場にいないもう一人の人物について言及した。藤沼が苦々しい表情をする。
「二人がいないと聞いた瞬間、そのままフラフラと部屋に戻った。あいつだけは本当によくわからない」
とりあえず、生きてはいるようだ。
「二人を探さなくてもいいんですか?」
「当てがない上に、下手に動くのは危険すぎる。もし瀬原麻美が逃げたのだとすれば、逃げ込んだのは山の中だ。そもそもが自殺行為の上に、最悪の場合は我々まで二次遭難してしまうぞ」
そう言われては、矢守も黙らざるを得なかった。
「あっという間に半分か……。ずいぶんせっかちな犯人さんだな」
小里の言葉に対し、答える者はいない。たった一日で、すでに半数が犠牲になったかもしれない……その事実が彼らに重くのしかかっているのは明白だった。
「……とりあえず、二人のことは現段階では保留しよう。現状、我々にできることはない。それよりも、だ」
不意に藤沼はそう言うと、懐から何かを取り出した。
「それは……」
「宮島真佐代から預かった柴井達弘の手帳だ。小里さん、あんたの推理だと、こいつに何かあるということだが?」
「昨日まではそう思っていたさ。だが、須賀井と瀬原麻美が消えた今、正直どうなっているのか曖昧になりつつあるな」
「何にしても、見てみる価値はある」
四人はそのまま真ん中の集合部屋に入り、手帳を取り囲んだ。代表して藤沼が手帳を開ける。
「柴井達郎……職業は自営業のようだな。ええっと……」
そう言いながらページをめくっていくと、まもなく何かが書かれているページが見えてきた。
「どうやらこの手帳、日記のような使われ方をしていたらしい」
ざっと読んでみるが、見る限りは他愛もないことばかり書かれているだけで、特に何か目立つことが書かれている様子はない。
気になる言葉が出てきたのは、ちょうど一ヶ月ほど前……五月中頃の記述からだった。
『コンピューターのチャットで知り合ったやつとオフで会う事になった。そいつは「孔明」というハンドルネームで、「仲達」というハンドルネームの俺と最初に話したときから妙に馬が合った。せっかく知り合ったのだから今度の日曜日にでも実際に会わないかという話になって、迷った末に俺はそれを了承した』
矢守は思わず顔を上げた。
「チャットのオフ会ですか」
「相手は『孔明』とか言う人物らしい。『孔明』と『仲達』が仲良くなるなんて、皮肉もいいところだがな」
一人キョトンとした表情をしているのは杏里だ。
「あの、何なんですか? 孔明とか仲達とか?」
「今の子は三国志を読まないのか?」
「私は歴史がそれほど好きじゃありませんから」
「やれやれ、時代は変わったってことか」
そう言いながらも、小里が解説する。
「三国志は知ってるか?」
「古代中国の魏呉蜀の戦いを描いた物語だってことくらいは」
「その物語の中に宿命のライバル関係となった二人の天才軍師が登場する。蜀の諸葛亮と、魏の司馬懿。彼らは幾度も互いの智謀をぶつけ合い、二人の名勝負は五丈原の戦いで諸葛亮が病死するまで続いた。諸葛亮亡き後、司馬懿らの司馬一族は魏の実権を握り、最後にはその司馬一族によって魏呉蜀すべてが滅ぼされ、司馬懿の孫である司馬炎によって晋王朝に統一されることとなる」
「その諸葛亮の字(あざな)が『孔明』、司馬懿の字が『仲達』というんだ。柴井のハンドルネームも、自分の『柴井』という名字が『司馬懿』と読めるところからきているんだろう」
藤沼が最後を締めくくった。
「で、問題はこの『孔明』だな。この後、同じ名前が何度も出てくるぞ」
小里にそう言われ、矢守は慌てて続きを読んでみる。
『「孔明」と喫茶店で会った。思った以上に気さくなやつで、すっかり意気投合した。互いに本名を名乗るのも何なので、今後もハンドルネームを名乗る事で一致した』
『再び「孔明」に会う。最近俺の商売がうまくいっていない事を相談したら、向こうも色々苦労をしている事を明かした。世の中、誰もが苦しんでいるという事か』
『「孔明」も好きだというので将棋で勝負をした。俺もそれなりに自信はある方だが、「孔明」の腕はもはや反則レベルだった。俺なんか足元にも及ばない。聞けば、昔一時期だけ「奨励会」にいたらしい。そりゃ強くて当然だ』
と、ここまで読んで矢守は首をひねった。
「『奨励会』って何ですか?」
「正式名称は『新進棋士奨励会』。プロの棋士を目指す連中が集まる協会だ。実績さえあれば小学生からでも入れるが、一定の年齢までに定められた段を取れないと脱落という厳しい年齢制限があって、それこそ小さい頃から通っていてもプロになれない連中がゴロゴロいる。『孔明』もそんな脱落組の一人かもしれないな」
「奨励会か……棋士はそもそも頭のいい連中でないと務まらない職業だと聞く。一時期でもそこにいたという事は、あながち簡単な気持ちで『孔明』というハンドルネームをつけたわけでもないのかもしれない」
藤沼は小声で心理分析をするが、小さく首を振って再び内容に没頭した。すると、五月末頃からだんだん内容が不穏なものになっていく。
『もう駄目かもしれない。正直、この業績では店を続けていける可能性はほぼゼロだ。不況とはいえ世知辛い世の中だが、このままでは俺は飢え死にだ』
『「孔明」に再び会う。向こうもそれなりに切羽詰っているようで、俺の話を真剣に聞いていた。考えがあるという事なので、後日また会うつもりだ』
その記述を最後に記録は一時途絶えてしまった。そして三日前、つまりバスジャック前日の欄には、本当に久しぶりにこう書かれていた。
『例の件に関して、明日「孔明」と落ち合うことになった。うまくいけばいいのだが……』
そこで手帳の内容は終わっていた。その場の全員が無言で顔を上げる。
「なんとも不可解な内容でしたね」
「結局、柴井は『孔明』に会いに行く途中であの事故に遭遇して命を落としたという事でいいのか? だったら、『孔明』がこの事件に関与しようもないが」
小里の言葉に対し、藤沼は重苦しい表情でこう言った。
「いや、可能性がもう一つある」
「何だ?」
「その待ち合わせ場所が、あのバスの中だった場合だ」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「藤沼さん、あんたまさか、その『孔明』が乗客の中にいるとでも言うつもりか?」
「事故で唯一の死者である柴井は『仲達』であって『孔明』では絶対にありえない。なら、生き残った他のメンバーの中にいる可能性はある。そして……」
藤沼は言いにくそうにしながらもズバリ告げた。
「その場合、その乗客は死んだ柴井と自分の関係を、他のメンバーに隠している事になる。つまり……」
「『孔明』が問題の殺人鬼、つまり似非『イキノコリ』だってことか?」
「少なくとも、本物の『イキノコリ』が我々を殺害して回っているという空想じみた推理よりは現実味があるとは思うが」
藤沼の言葉に、誰もが何も言えないでいた。
「……それは、つまり犯人は俺たちの中にいるっていう昨日の推理に逆戻りする事になるぞ」
「覚悟の上だ」
「待ってください。その『孔明』は奨励会を出た人なんですよね。だったら男性で、しかもそれなりの年齢の人のはず。私は関係ありません」
杏里が弁明するが、藤沼は首を振った。
「言っただろう。奨励会は小学生からでも入学できて、最初の難関となるのは十五歳までに三段を取るという条件だ。これが満たされなければ退会になる。十五歳までに三段になれずに退会して、そのまま普通の高校生になっている可能性はある。しかも、最近は女流棋士の育成も叫ばれているんだとか」
「要するに、私も容疑者圏外にならないって事ですね」
杏里は自嘲気味に笑い、藤沼はすまなさそうに顔を背けた。そこに、矢守が言葉をかぶせる。
「でも、『孔明』がこの中にいない可能性もあるはずです。バスの中で待ち合わせていたとしても、『孔明』がバスに乗る前に須賀井のバスジャックが起こった可能性もあるわけですし」
「わかっている。だから、これはあくまで可能性の一つだ。だが、だからといって議論しないわけにはいかない」
重い言葉だった。
「いずれにせよ、生き残っているのはこの場にいる五人だけ。本当に噂の『イキノコリ』が犯人でもない限り、犯人がこの中にいるのは疑いようもなく事実だ。もはや、目をそらしている段階ではないぞ」
「くそっ、何か手がかりでもあれば……」
そう言うと、小里は持っていた柴井の手帳を畳に叩きつけた。どうにもならない焦りと、次は自分かもしれないという不安。それらが混ざり合った不快な空気が部屋の中に漂っている。
「……ん?」
と、そのときだった。矢守は手帳の端から何かがはみ出しているのに気がついた。思わず手帳を手に取り、それを取り出そうとする。どうやらそれは手帳のカバーの裏側に貼り付けてあるようだった。
「何だ、それは?」
「これは……」
矢守はカバーを取り外し、裏を確認する。そこには一枚の写真が貼り付けられていた。カジュアルな服装をした若い女性の写真で、どこかの家の前で撮ったようだった。
「写真か。なら、俺が専門だな」
そう言って、小里も写真を覗き込む。と、その視線が急に厳しくなった。
「どうしました?」
「見ろ。家の表札だ」
言われてみると、奥の塀に表札らしいものがかかっている。目を凝らしてみると、「柴井」の名前が見えた。
「これ、柴井の家ですか」
「なら写っているのは家族ということか?」
「多分な。そう古い写真じゃないからおそらく娘と見るのが妥当だろう。もっとも、柴井が常識外れの若妻をもらっていたなら話は別だが」
軽く冗談を言って、小里は写真をカバーから剥がす。すると、その奥にさらに別の何かが貼られているのが見えた。
「今度は新聞記事だな。社会面か?」
小さな記事だった。だが、そのタイトルを読んだ瞬間、その場の全員の表情が緊張した。
『オカルト研大学生の運転するワゴン車、川底から発見~奥多摩』
「これって……雨宮さんが言っていた『イキノコリ』の……」
「この村に入ろうとしたどこかのオカルト研の連中が乗ったワゴン車が川底から見つかったっていうあれか!」
ということは、そのオカルト研の事件そのものは、『イキノコリ』の仕業かどうかは別として間違いのない事実だったというわけだ。なぜこんなものが写真の裏に貼り付けられているのかはまったくわからないが、この状況では村の事情を知る数少ない資料である事は代わりがない。全員が額をつき合わせるように記事の内容を読む。
『先日、失踪届けが出されていた早応大学オカルト研究会のメンバー四人を乗せたライトバンが、奥多摩の多摩川支流の多摩川合流地点付近の川底に沈んでいるのを釣り人が発見した。駆けつけた警察が捜索したところ、中から複数の遺体が見つかり、警察は大学生らが誤って車ごと川に転落したものとして捜査している』
その次の行を読んで、矢守たちはなぜ柴井がこの記事を大切に持っていたのかを嫌でも知ることになる。
『遺体の身元については、現在失踪した四人のうち柴井美春さんのものが本人のものであると確認されており、残りの遺体についても慎重に確認作業が続けられているが、失踪していた残る大学生のものと見てほぼ間違いないと警察はコメントしている』
「柴井美春……」
その名に、全員が絶句する。
「推測するまでもない。この写真の女の名前だろう。つまり、柴井は自分の娘を問題の事故で亡くしている」
初めて今回の事件の関係者の名前が白神村と結びついた瞬間だった。
「じゃ、じゃあ……柴井が娘の敵討ちか何かしているって言うんですか!」
杏里が青ざめて言うが、藤沼は大きく首を振った。
「馬鹿な! 柴井がバスの事故で死んでいたのは間違いのない事実だ。下半身をあそこまでつぶされて生きていられる人間なんかいるはずがない。第一、死亡確認は看護師の宮島さんがやったんだ。間違いがあるはずがない!」
「……まさか、復讐のために生き返った?」
思わず矢守はそう呟いてしまっていた。突飛な想像なのはわかるし、間違ってもそんなわけはないだろう。が、そう思わせるだけの説得力がこの新事実にはあった。得体の知れない冷たいものが背筋を走り、矢守たちは背筋を大きく振るわせる。耐え難い沈黙が一瞬だけその場を支配した。
その時だった。
「おい!」
引き続き記事を読んでいた小里が怯えたような声で叫んだ。残る三人はハッとした様子で小里の方を見つめる。
「こいつは……どういうことだ!」
何かただならぬ事が書かれていたらしい。残る三人は慌てて視線を記事に戻す。そして、そこに書かれていた内容を見て今日一番の衝撃を受けることとなった。
『なお、発見された遺体は三体のみで、同じく失踪届けが出されている同乗者の雨宮憲子さんについては引き続き行方はわからないままであり、警察は遺体が流されたものとして捜索を続けている』
「あ、雨宮憲子だと!」
全員が、思わず『雨宮憲子』のいる女子部屋の方を見つめた。部屋からは音一つしない。
「雨宮憲子は……この事故の被害者の一人だった?」
「嘘……だって、今そこに本人が……」
杏里が絶句したように言うが、記事の内容は絶対である。
「だが、この記事が本当なら、『雨宮憲子』は何年も前に死んでいる事になるぞ!」
もはや、藤沼の唇はわなわなと震えていた。さすがに今まで冷静だった藤沼も思考が追いついていないようである。そして、それは矢守も同様だった。
「じゃあ……そこにいる『雨宮憲子』は誰なんですか?」
一瞬の沈黙。直後、小里は立ち上がると躊躇することなく襖を開け放った。
「畜生!」
そこに『雨宮憲子』……否、そう名乗る女の姿はなかった。
「逃げられた!」
「いったい、彼女は誰なんですか」
「わからんが、記事が本当ならあいつは『雨宮憲子』ではない事になる」
「でも、名刺が……」
「そんなもの、いくらでも偽造できる!」
藤沼は苛立った様子で叫んだ。一方、逆に冷静なのが小里だった。
「とにかく落ち着け。ここで騒いだらやつの思う壺だ」
「だが……」
「さっきの話だが、例の『孔明』が彼女である可能性はないのか?」
その言葉に、残る三人はハッとした表情をする。
「名刺を用意していた以上、やつは事故以前から『雨宮憲子』を名乗っていた可能性が高い。もしかしたら出版社勤務というのは本当で、『雨宮憲子』はペンネームである可能性もある。いずれにせよ、どんな事情かは知らないが、やつは本物の雨宮憲子の関係者かもしれないって事だ。なら、本物の雨宮憲子と同じ事故で娘を亡くしている柴井との接点ができる」
「そうか……」
「確かに柴井は死んでいる。それは間違いない。だが、同じ体験をしていた『雨宮憲子』を名乗るあの女なら、柴井と同じ動機で我々を狙う可能性はあるぞ」
「くそっ! あいつ、それでいながら抜け抜けと『イキノコリ』の話をしていたのか!」
元々『雨宮憲子』と相性が悪かった藤沼は怒り心頭だ。
「思えば、それもあの女の策略かもしれない。『イキノコリ』の話をして、犯人が外部犯かもしれない、言い換えれば自分たちの中に犯人がいない可能性を作るための」
すべての状況はあの『雨宮憲子』を名乗る女へと向いていた。
「どうしますか。このまま放置しますか?」
「いずれにせよ、彼女の話は聞かなくてはいけないな。このまま逃げられると厄介な事になるぞ」
「探すぞ。それ以外我々が助かる方法はない」
藤沼が決断した。ここまでわかった以上、他の三人も異論はなかった。
「なら急いだ方がいい。あの女が消えてからそう時間は経っていない。これならそう遠くには行っていないはずだ。それに、日が暮れるまでに何とかしないと、今度はこちらが危ないぞ」
小里の言葉をきっかけに、四人は玄関へと殺到した。ここに残っても、狙われるだけである。全員傘を差し、そのまま豪雨が降りしきる外へと躍り出る。
「どこから探す?」
「山の中に逃げ込まれたらさすがにどうしようもない。まずは屋内を重点的に……」
と、その時だった。突然目の前に何かがドサリと落ちてきた。
「ひっ!」
杏里が小さな悲鳴を上げる。残る三人も突然の出来事に思わず動きを止める。
それは、今まさに出てきた玄関の屋根の上から落ちてきたようだった。そして、それが何なのかは、すぐにはっきりとわかった。もっとも、誰もそんな事をわかりたくはなかったのだが……。
「須賀井……っ!」
藤沼がその名を告げる。それは、失踪していたバスジャック犯……須賀井睦也の変わり果てた姿だった。顔は目を大きくひん剥いた恐ろしげな表情で固まっており、その首にパックリと大きな傷跡がついている。それ以前に何度も殴打されたようで、両腕がへし折れてあらぬ方向に曲がりきっていた。
だが、何よりも注目を引いたのはそんな事ではなかった。そして、矢守たちは犯人の冷酷さを改めて再確認することとなる。
須賀井の腰から下……本来なくてはならない部分が、まるで引きちぎられるようになくなっていたのである。
「ひ、ひぃ……」
杏里が壁にもたれかかって放心状態になる。他の三人も、呆然としてその有様を見つめていた。
「……自業自得、といえばそれまでだが、これはあまりにもむごい死に様だな」
「鋸か何かで無理やり引きちぎられたのか? 死んでいるのは予想できたが、今度は下半身とはな」
かろうじて言葉を発した二人に対し、矢守はただ口をパクパクさせるだけである。
何だ、これは。これが現実なのか。だとするなら、もはや自分の現実は狂ってしまっている。自分はこんな目には遭いたくない。もはや、矢守の頭はその事しか考えられなくなっていた。
「……行こう」
不意に、藤沼が決然とした声でそう告げ、その声で矢守は我に帰った。
「これ以上、こんな犠牲を出すわけにはいかない。あの女を捕まえるぞ」
その言葉に、他の面子も正気を取り戻したようだ。これ以上の犠牲を出さないためには、あの女を捕まえるしかない。誰もが、あの『雨宮憲子』を名乗る女が犯人であることを疑わなくなっていた。
「まず、さっき言ったように屋内を探して、それからこの周辺の山を捜索する。この方針でどうだ?」
「いや……捜索は山からだ」
小里の言葉に対し、突然、藤沼が断言するように言った。
「何か根拠が?」
「あの女が消えたという事は、少なくともやつは自分が犯人だとばれた事に気づいているはず。となれば、隠れるより逃走の道を選ぶはずだ」
「なるほど、だからこその山か」
「この大雨だ。やつもそう簡単に逃げられまい。問題はどっちへ向かったかだが……」
「そう考えるなら、おそらく東の崖崩れでふさがっている方向だろうな。少なくとも、崖崩れの起こっている場所までは道伝いに安全に進めるし、何より街の方向だ。わざわざ西の山梨側には逃げないだろう。そもそも、その崖崩れの話もあの女がした事だ。話そのものが嘘の可能性も捨てきれない」
「よし」
方針は決まった。四人は雨に濡れながらも道を東進する。『雨宮憲子』を名乗る女の話はすべて嘘かもしれない……それが、四人の中に一筋の希望を生み出していた。もしかしたら、このまま脱出が可能かもしれない。道路にさえ出てしまえば、後はどうにでもなる。よくよく考えてみればこれも危険な話なのだが、極限状態に置かれ続けて、知らぬうちに彼らは少しでも希望のある方向に流されていた。
だが、現実はそんな彼らの希望を、容赦なく打ち砕く。
「これは……」
歩き始めて五分もしなかった。突然、目の前の山がスッポリと消え、道路が寸断されたのだ。巨大な崖崩れの痕……それは道をふさぐといった類のものではなく、道路ごと山肌そのものを抉り取ったという方がよかった。道路は百メートル前後の長さが切断され、ポッカリ空いた空洞の下からは激流の轟音が響いてくる。
「どうやら、土砂崩れの話は本当だったようだな」
小里が苦々しい口調で言う。そこまで甘い話はないとわかっていながらも、現実を目の前にして心中穏やかではないのだろう。
「これじゃ脱出なんて夢のまた夢ですね。山中を通ろうにも、山そのものが抉られていますから」
「となると、やつがこっちへ来た可能性も低くなるぞ。戻った方が……」
その時だった。呆然としていた藤沼が急に目を見開き、その場で背後を振り返った。
「誰だ!」
その視線は背後の道の横にある山地の方を見ている。昼間ではあるが、森の中は薄暗く、誰がいるのかもよくわからない。
が、藤沼が呼びかけた瞬間、その辺りの草が揺れたのを矢守も見て取っていた。誰かがいる……少なくとも、矢守にはそう思えた。
「逃がさん!」
そう言うや否や、藤沼は傘を放り出すや否や先頭を切って走り出し、森の中へと飛び込んだ。
「藤沼さん、一人で行っちゃ駄目だ……くそっ!」
小里も舌打ちながら傘を捨てて後に続き、残る二人も慌てて走り出す。この森では傘を差して歩く事などとてもできない。たちまち雨で全身がずぶ濡れになるが、誰もそんなことを気にする様子はない。とにかく、全員が目の前のことに必死だった。
森の中は薄暗く、矢守は前を走る小里の背中を追いかけるのがやっとだ。ここではぐれたら文字通り命の保障はない。他の人間のことを気にかけている暇などない。矢守は死に物狂いで走り続けた。
何分くらい走っただろうか。すっかり狂っている体内時計は当てにならないので正確なところはわからないが、不意に矢守は森の中で立ち止まっている小里の背中を見つけた。すぐさま小里の傍に駆け寄る。
そして、そんな小里のすぐ目の前に、別の人物が立っていた。
「雨宮……」
それは、四人が必死に探していた『雨宮憲子』その人だった。彼女は薄暗い山中で雨に打たれながら棒のように立っており、駆けつけた小里たちに対しても緩慢そうな動作で振り返っただけだった。
「何?」
それが『雨宮憲子』の第一声だった。それに対し、小里は警戒を崩さないまま慎重に尋ねる。
「それはこっちのセリフだな。こんな場所で何をしているんだ?」
その問いに対し、『雨宮憲子』は黙って目で地面を示す。小里たちは『雨宮憲子』を警戒しながらも、彼女が示した方を見た。
その瞬間、小里たちの動きが止まった。
「え……」
そこには、見覚えのある何かが転がっていた。地面に無造作に倒れているそれには、白と黒の布のようなものが所々にこびりついている。それが女子高生のセーラー服の切れ端である事、そして、その物体の正体に矢守が気づくのに、そう時間はかからなかった。
「せ、瀬原……麻美……」
それは、今朝になって突然失踪した瀬原麻美の変わり果てた姿だった。その有様は無残の一言につき、よほど抵抗したのか体中に切り傷が散見され、頭部は右半分が腐ったトマトのように醜くつぶれている。左半分でかろうじてその遺体の主が麻美であることはわかるが、あまりにむごたらしい殺人現場である。そして何より、その遺体にはあるはずの右腕が存在していなかった。
「逃げ切れなかったか」
小里が苦虫をつぶしたような表情で呟く。推理小説においては、こうした『閉ざされた空間』から逃げ出そうとした人間は真っ先に殺される。皮肉なことに、小里が生前の麻美に言っていた事が、そのまま現実世界で実現してしまった形だ。
と、不意に『雨宮憲子』がこちらへ歩いてこようとした。
「動くな!」
咄嗟に小里が鋭く叫ぶ。その言葉に、『雨宮憲子』は一瞬体を震わせると、素直に従った。
「お前がやったのか?」
小里が単刀直入に聞く。『雨宮憲子』はしばらく眼鏡の奥から死んだ魚のような虚ろな視線を小里に向けていたが、やがて小さく頭を振った。
「私は、たまたま見つけただけ」
「とんでもない偶然もあったもんだな」
小里は皮肉めいた口調で言うと、相手が何か言う前に間髪入れずに言葉を続けた。
「で、お前は一体誰なんだ?」
その言葉に、『雨宮憲子』は一瞬動きを止めると、小さく小首をかしげた。
「何の話?」
「とぼけるな! 『雨宮憲子』はすでに死んでいる! お前が『雨宮憲子』であるはずがない!」
小里の糾弾に対し、『雨宮憲子』は表情を変えない。豪雨の中、緊迫した空気がその場を支配していた。一つでも選択を間違えた瞬間、この場には豪雨ではなく血の雨が降る。それがわかっているだけに、両者ともうかつな行動はできない様子だった。
「……私が死んだというのは?」
「しらばくれるな。ご丁寧にもお前が話してくれたオカルト研の大学生のライトバンの事故。『雨宮憲子』は、その事故で死んでいるんだ。知らないとは言わせないぞ」
小里の厳しい追求に対し、『雨宮憲子』はしばらく無表情のまま突っ立っていたが、不意にポケットに手を突っ込んだ。矢守は思わず身構える。
「何もしない」
そう言うと、『雨宮憲子』はポケットから財布を取り出し、おもむろにそれを開けると、中から無造作に何かを取り出した。そのまま、それを小里たちの方へ放り投げる。小里は地面に落ちたそれを最大限に警戒しながら拾い上げた。
「それで、あなたの言葉に対する答えになると思う」
『雨宮憲子』はけだるそうに言う。何がなんだかわからない矢守であったが、ふと小里の方を見ると、小里は完全に体を硬直させてしまっていた。
「そんな……そんな、馬鹿な……」
矢守は小里が見つめているものに視線を移す。
「……え?」
それを見た瞬間、矢守も体をこわばらせた。それは、今までの考えが正しいなら、この世に絶対に存在してはならないもの……『雨宮憲子』の運転免許証だったのである。
「いや、だが……しかし……」
小里は混乱状態にあるらしく、まともに言葉も発せられない状況だ。その免許証には『雨宮憲子』の名前とともに、目の前にいる女性の顔写真がしっかり写っていたのである。すなわち、少なくともこの女性の本名が『雨宮憲子』であること、そして小里たちの考えが根本的に間違っていた事が、たった一枚の運転免許証で証明されてしまったのである。
「まさか、同姓同名?」
矢守は咄嗟に思いついたことを呟くが、すぐに自分で否定する。そんな偶然が起こりうるはずがないし、何より彼女は白神村のことについて詳しかった。本人と見た方が、矛盾がない。
「だが、『雨宮憲子』は死んだはず。間違いなくあの新聞記事には……」
その小里の一言で、『雨宮憲子』は事情を察したようだった。
「どの記事を読んだのかは知らない。けど、どこにも私が『死んだ』という記事はなかったはず」
そう言われて、小里は慌てて懐から柴井の手帳を取り出し、問題の記事を確認する。確かに、記事には「行方不明」と書かれてはいるが、明確に「死亡した」とはどこにも書かれていない。
「確かに、私は早応大学オカルト研究会に所属していて、この白神村であのライトバン事故に遭った。でも、死んだ他の三人と違って、私は事故直後に川に投げ出されて、そのまま近くの崖に引っかかって事なきを得た」
「でも、確か最初にライトバン事故の事を話したとき全員死んだようなことを……」
「私は『遺体入りのライトバンが見つかった』と言った。『四人全員が死亡した』なんて一言も言った覚えはない」
そう断言されては、小里たちも口を閉ざすしかない。
「じゃあ、どうしてそのことを俺たちに言わなかった?」
「必要ないと思ったから。私にだって知られたくない過去くらいある。それより……」
『雨宮憲子』と名乗る女……否、雨宮憲子本人はジッと小里を見つめた。
「その手帳は何?」
「……バスで死んでいた乗客の持ち物だ。柴井達弘。娘の名前は柴井美春。覚えがないはずがないだろう」
「美春……あぁ、あのバスに挟まれていた人、あの子の父親だったの。偶然ね」
憲子はさらっと感想を漏らす。あまりに淡白すぎて、矢守は背中に冷たいものを感じた。
「知らなかったのか?」
「知るわけがない。私は発見されたとき相当衰弱していて、残り三人の葬儀にも出ていない」
「……信用できないな」
「ご自由に。それより、他の二人は?」
その言葉に、小里と矢守はハッとなって周囲を見渡す。妙に静かだと思ったら、一緒に森に入ったはずの藤沼と杏里の姿がない。
「あの二人、どこへ行った?」
「さぁ。最初からあなたたち二人だったから、もう死んだのかと思ったのだけど」
憲子は不気味な表情を浮かべながら言う。が、そんな彼女に付き合っている暇はない。
「まずいな、この状況ではぐれるというのは……」
その直後だった。
甲高い女性の絶叫が森の中に響き渡った。
悲鳴が響いた瞬間、小里と矢守は一瞬互いの顔を見合わせた。憲子がここにいて、麻美が惨殺死体となって転がっている以上、残る女性陣は一人しかいない。今ここにいない杏里だ。
「くそっ!」
小里はすぐに駆け出そうとするが、そこで不意に足を止める。このまま疑惑の人物である憲子を一人置いていくわけにもいかない。
「……一緒に来てもらうぞ」
「お好きに」
そして、矢守、小里、憲子の三人は、まるでゴミのように雨に打たれたままの麻美の遺体をその場に残して、杏里の叫び声が聞こえた方向に向かった。この状況では、麻美の遺体を回収する事もできない。矢守は唇を噛み締めたが、心を鬼にして先を進む。
「月村さん! どこだ!」
「返事をしてください!」
豪雨の音で声が消えそうになりながらも、小里と矢守は叫ぶ。だが、元々人が歩く事などない森の中である。さっきは無我夢中で気がつかなかったが、改めて見るととても人が歩けるような環境ではない。冷静に考えると自分がどうやってこの森の中を走っていたのかわからなくなるほどだ。
何より、一向にやむ気配を見せないこの豪雨だ。足元は最悪で、おまけにその冷たさは徐々に矢守たちの体力を奪っていく。この雨の中での強行突破が自殺行為であると言っていた誰かの言葉が、今更になって矢守の脳裏に深く刻み込まれていた。
「小里さん、帰り道はわかっているんですか? このままじゃこっちも二次遭難ですよ」
「安心しろ。この山の東側は土砂崩れで完全になくなっているんだ。下手に遠くに行く心配はない。おまけに、この辺の森はもう十年以上人が入っていないから、人が入れる領域には限界がある。現実問題として、我々の体力でそこまで奥へ踏み込むことはできないから、少なくともさっきの道路からそう遠くは離れていないはずだ」
と、そんなことを言っていた小里の足が急に止まった。矢守と後に続く憲子も必然的に足を止め、小里の視線の先を見る。
そこには、木にもたれかかるようにしてへたり込んでいる杏里の姿があった。
「おい、大丈夫か!」
小里が呼びかけると、杏里は緩慢な動きでゆっくりとこちらを見やった。どうやら、無事ではあるようだ。だが、その動きから彼女も限界に近いことがうかがい知れる。
「今、そっちに行く!」
小里はそう叫ぶと、慎重に彼女の方に近づいた。だが、そこには更なる地獄が広がっていた。
「うっ!」
彼女の傍に来た小里が発した第一声がそれだった。その視線は、杏里がもたれかかっている木から数メートル先の岩肌の上に向けられていた。
「こ、これは……」
矢守もそれを見て絶句した。いや、絶句する事しかできなかった。すでに感覚が麻痺しているようだった。本来なら腰を抜かしてもおかしくないはずなのに、そういった感情が一切出てこなかったのだ。
本当ならば、予想できて当たり前のはずだった。だが、もはや彼らには、そういった事を考える余裕などどこにも残されていなかった。
端的に事実だけ記そう。岩肌の上には、ここにいなくてはならない「五人目」が、喉から血を噴出しながら、何も言わずに静かに横たわっていたのである。
「藤……沼……さん……」
それが、今までグループの中心的役割を担い、その冷静さと的確な判断でグループをまとめ上げてきた、裁判所事務官・藤沼明秀の、あまりにも唐突で、そして呆気ない最後であった。
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