挿話①

 むくり。


 新堂仁歩は暗闇の中に身を起こした。いつの間にか寝ていたらしい。身体にかかっていたブランケットをどかし、背中を大きく伸ばす。寝相のせいか、腰が痛い。尻も痛い。よく見れば寝ていたのはベッドではなくソファ。生あくびとともに下半身をさすってふと見つめた壁に、


 違和感を覚えた。


 そのまま首を一巡り。ぼやけた視界がふらふらと揺れている。


 ここはどこだ?


 室内であることは確かだ。マンションか何かの一室であることもほとんど間違いないと思う。


 しかし自分の部屋ではない。


 間取りは何となく既視感があるのだが、置いてある家具が自分のものではない。暗闇の中にいるのではっきりとは見えないが、テレビ、PC、本棚、机、そして自分が座っているこのソファのいずれにも見覚えがない。配置にも、そのもの自体にも。どれも自分が持っているものとは違う。目をこらすと部屋の隅には何かもっさりとした膨らみがある。暗闇に慣れた目が見たのは、土嚢のように積み上がったゴミ袋だ。そんなものは間違いなく我が家にはなかった。


 どこだここは。


 お酒を飲み過ぎたせいでまだ夢の中にいるのだろうか。セオリー通りにほっぺたをつねってみると見事に痛い。ということはこれは多分現実。


 その内に頭が覚醒してきて、事態の異常性を飲み込み始めた。酔い潰れ、知らぬ間に寝落ちし、目が醒めたら知らない部屋にいる。


 今がいつなのかを確認しようと思ってスマホを取り出そうとするが、手はポケットの中で糸くずを掴むばかり。身体の下に手を入れて探ってみても見つからない。仕方なく諦めて部屋の壁に掛かった時計を見る。蛍光色の文字盤が指す時刻は二時を少し過ぎたころ。この暗さからして確実に夜。


 知らない部屋にいて、スマホがなくて、午前二時過ぎで、おまけに、


「………………うそ」


 着ている服が違う。サイズが大きめの、無地の、男物の、シャツ。


 こんな服、持っていない。絶対に、持っていない。


「え? え? え? え?」


 はねのけたブランケットを引き寄せて、混乱した頭をその中に潜り込ませる。嗅いだことのない匂いが鼻を通り抜けて脳に刺さった。それは悪い薬のようにもっと頭を混乱させていく。


 何が起きている? 私は誰? 新堂仁歩、私は新堂仁歩。間違いない。


 ここはどこ?


 ブランケットの中で深く深呼吸。一度では足らず、二度、三度と繰り返し、そして怪物が潜む部屋の中を覗き込むような覚悟を持ってもう一度ブランケットをはねのけた。


 風景に一瞬だけデジャビュのようなものを感じた。しかしすぐに知らない部屋だと認識する。


「……えっ、怖ッ」


 自分にも聞こえないような小さい声で呟いた


 何が起きたのかを思い出そうと、まだぼやけている頭で記憶を辿ってみる。


 サークルの先輩である藤野琢也と新宿でサシ飲みし、予定通りに酔っ払った。フラフラになった琢也を引っ張って同じ電車に乗った。琢也と仁歩が乗る路線は違うが、乗り換え次第では途中まで一緒だ、と説得した気がする。電車の中では顔を見合わせてただ笑ったり、寄りかかったり、さり気なく手とかお腹とかを突いてみたり、琢也のことを独占出来るのがすごく幸せだった。そしていつの間にか寝落ちした。最寄り駅に到着すると帰巣本能が働いて目を覚まし、仁歩は何事もなかったかのように電車を降りた。琢也がどうだったのかは覚えていない。一緒にいないということは琢也が先に降りたか、あるいは電車は琢也を乗せたまま次の駅に行ったか。後者でないことを祈るばかりだ。


「ってか何で一人で降りたの、私」


 頭を抱えてソファの上に丸くなり、この不可解な状況を一瞬忘れて後悔した。自分だけ降りるはずではなかった。自分だけで降りてはいけなかった。そんな判断ができなくなるまで酔っ払ってしまったのは、計算外だった。


 ひとしきり呻いてから、回想に戻る。


 最寄り駅で降りて、その後、自分はどうなったのだろう。思い出せそうで思い出せない。誰かに電話をしたような気がするが、誰だったのかも何を話したのかも覚えていない。


 そして気がついたときにはこうして他人のソファの上に寝ていた。


 記憶をなくすまで酔っ払ったのは初めてのことだった。自分の記憶が連続していない、という状況にゾッとした。驚くというよりも恐ろしかった。自分がここ数時間の間に何をしたのかまるで分からない。犯罪めいたことだけはしていませんように、と自分自身に祈った。


「……なんなの……もう」


 呻いてみても答えは返ってこない。見知らぬ誰かの一室は他人の自分を拒むように静かだ。


 わけがわからなかったがとにかく何か行動を起こさなくてはと感じて立ち上がる。


 裸足の足の裏がむにっと人の腹のようなものを踏んだ。


 電流のような恐怖が全身を縦に貫いて、反射的に足が腰より高い位置まで跳ね上がる。踏みつけたのはぬいぐるみだった。ウサギっぽい形をしたぬいぐるみ。本当に人の腹でなかったことに安堵する。ばくばくばくと不穏な心臓の鼓動の音が聞こえてくる。胸に手を当てて「落ち着け落ち着け。吸って、吐いて。吸って、吐いて」と頭の中で念じてみるが、正しい呼吸の仕方が思い出せない。


 一分ほど待ってようやく落ち着いたところで、自分に向かって言う。


「大丈夫だ、大丈夫だぞ仁歩。お姉ちゃんが、知らぬ間に、模様替えをした可能性だってあるんだから」


  姉は、仁歩が大学に受かって高校生活の残りを大いに楽しんでいるときに二年付き合っていた彼氏と修羅場の果てに決別した。同棲までしてそれとなく将来まで誓い合った相手だったが、彼氏の方が家に別の女を連れ込んでいたらしい。姉が急な体調不良で職場から帰ってきたときに、まさに彼氏と女はお楽しみの真っ最中。発熱と目眩で朦朧としていた意識が嘘のように鮮明になって、気がついたときには二人を素っ裸のまま部屋の外に蹴り出していたそうだ。そんなこんなで一人分空いた部屋に、都合よく上京した仁歩が転がり込んだ。だから仁歩は姉と二人暮らし。しかしそんな姉は最近、新しい彼氏の家に入り浸りでほとんど帰ってこない。


「不意に気まぐれで帰ってきて、ノリで模様替えをしたかもしれないしなぁ……」


 絶対にありえない状況を想像して、この不可解な状況に無理やり答えを出そうと試みても、やはり厳しいものがある。姉は掃除や整理整頓というものは夜寝ているときに妖精さんが勝手にやってくれるものだと思い込んでいるのだ。


 この状況の詳細を教えてくれる何かがないかと部屋を見渡してみると、ソファの前に置かれたローテーブルの下に黒々としたものが落ちているのを見つけた。床に這いつくばって引っ張り出したそれを窓から入ってくる月明かりに晒してみる。見覚えのあるボディバッグ。


「あれ? これ、先輩のだ」


 藤野琢也の持ち物ならめざとくチェックしている。服も、靴も、ペンケースも、鞄もだ。いつもと違っていたらすかさず褒めることにしている。だから断定できる。このバッグは琢也のものだ。


「ここは、先輩の、家?」


 不安が希望に替わっていくのを感じながら、身につけている男物っぽいTシャツの襟を引っぱる。


「これも、先輩の服──」


 左右に目をやって誰もいないことを確認し、すんすんとTシャツの匂いを嗅ぐ。


「……ではない」


 違った。


 シャツから漂ってくるのは、いつも嗅いでいる琢也の匂いではない。


 琢也のバッグを持ったまま再び部屋を確認。先ほどから自然に受け止めていたが、改めて家具や小物のセンスは女だと感じる。しかし着ているものは男物の服。手には琢也のバッグ。


「あ、違う」


 一つ思い出した。


 電車に乗っているとき、バッグは自分が預かっていたのだ。だからここが琢也の家でなくても、琢也のバッグがあることは不自然ではない。むしろ途中で別れた自分が彼の家にいる可能性の方が低い。


「つまり私は今、知らない女の人の家で知らない男の人の服を着ている、ということ?」


 名探偵のような鋭い観察眼で状況を整理し、真実に一歩近付いたと悦に入ったところで気がつく。謎はさらに深まった。


「せめて家主さえいれば……いや、いない方がいいのか?」


 いれば状況が分かるのか、あるいはいないからこうして無事でいられるのか。どちらの状況なのかは不明だ。家主は何の目的で自分を部屋に連れ込んだのだろう。本当に知らない人なのか。あるいは家に来たことがないだけで、本当は知っている人間の仕業か。家主が本当に知らない人間だったら、帰ってきたときが不安でしかない。


 あーだこーだと考えていないでとにかく一度部屋を出てみよう、と思った。部屋の外に出れば何かが分かるかもしれない。


 琢也のバッグを持ったまま、まずはリビングらしきこの部屋から廊下に出る。その途端、足が何かを蹴飛ばした。ひっと驚いて見てみると、ゴミ袋だった。さっきの部屋にもゴミ袋が積み重なっていたが、廊下も同じだった。右の壁沿いに大きなゴミ袋やダンボールがみっちり置かれている。その隙間に親しみのある形のリュックを見つける。


 自分のリュックだ。


 動転していてすっかり忘れていたが、そういえば所持品が一つも見当たらない。こんな所にあったのか。駆け寄って愛しい我が子のように抱きとめたとき、仁歩はゴミの山の反対にガラス戸があることに気がついた。


 ガラス戸は細く開いている。一番不安になる開き方だった。


 自分と琢也のバッグを片腕で抱き、ごくりと生温かい唾を飲む。吸い寄せられるようにガラス戸に近付いていき、早まる鼓動を殺しながら、不穏な想像を無限に掻き立てる隙間の向こうを覗いた。


「ひっ………!」


 その瞬間、飛び退いて背中からゴミ袋の山に突っ込んだ。ビニールが擦れ合う派手な音と、自分の後頭部が壁に激突する音。抱えていたリュックを放り出して慌ただしく口を押さえ、声だけでなく息も止める。


 扉の向こうに、何かが蠢いていた。それは手首を縛られて床に転がされた人の形に見えた。


 恐怖が爆発する。


 縛られている誰かは誰だ。家主か、それとも自分と同じ境遇の人? 


 いずれにしても正常な事態ではない。きっとあれは家主で緊縛趣味だからああやって寝ているんだよと自分でも意味不明な思考が頭に流れ込んでくるが、そんな妄想は冷や汗になってたちまち体外に出ていってしまう。


 溜め込んだ息を吐き、ここは安全じゃない、と呟く。


 正直、部屋を覗き込むまで楽天的に考えていた。見知らぬ部屋で状況も分からないけど、たぶん危なくはないだろう、と。今思えばそれが一番恐ろしい。


 気がつくと見知らぬ部屋にいた。記憶はおぼろげ。状況はまるで分からない。そんな状況が危なくないわけがない。


 心臓の鼓動を鎮めるように胸を押さえつつ、仁歩は部屋の中をもう一度覗き込む。確かにそこに誰かがいる。手足を縛られたまま転がされている。ただ、呼吸はあるようだ。


 一刻も早くここを出なければ。転げそうになりながら立ち上がった瞬間。


 がちゃり、とドアが開く音がした。


 廊下の向こうの暗闇が裂け、玄関灯の光が扉の隙間から差し込んでくる。がさがさとビニールが擦れ合う音。硬直したまま見つめる先には人影。こちらには気がついていない様子で、靴を脱いでいる。


 これが家主? それとも誘拐犯? あるいは、両方?


 息を殺し、仁歩は考える。後ろにはリビング。逃げ道はない。いや、窓がある。しかしここが何階かわからないから、無闇に窓を開けて飛び出すことはできない。高層階だったら死ぬ。隣には何かが、誰かが蠢いている部屋。確実に行き止まり。


 震える手を握りしめ、怯える膝に力を込め、靴を脱ぎ終わったらしい男を見据える。隠れるという選択肢はない。音でばれる。見つかったら終わり。残された選択肢は突撃、オア、ダイ。小柄でスプリント力も足りないが、不意打ちならいける。不意打ちなら目の前の誰かを突き飛ばして部屋から飛び出すことができる。できるはずだ。行くか、大人しく降参するか。


 ぱちん、と。目の前の誰かは廊下の電気を付けた。暖色のライトが灯り、果たして見知らぬ男が玄関に出現する。


「あ」


 黒いTシャツを着た、細身の男。真ん中分けの黒髪に、主張の薄い顔パーツ。


 二人は制止。仁歩は思っていたよりも普通の相手に驚き、男も男で廊下に立っていた仁歩に驚きの表情を浮かべていた。


 仁歩の頭の中でコンセントのようなものが繋がり、身体にバリッと電気が走る。琢也先輩、どうか私を助けて。声には出さずに呟いて、裸足のまま廊下を蹴って男に突進。


「まっ」


 男が言う。


「ちょっ」


 男は慌てて進路を塞ごうとするが遅い。文字通り体当たりの精神で向かってきた仁歩の勢いには勝てず、撥ね飛ばされて玄関脇の靴箱に倒れ込む。


 その隙に仁歩は閉まりかけていた扉を蹴破るようにして開け、夜の中に逃げ出した。

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