摩天楼、という名前らしい。


 アメリカはニューヨーク、シカゴ。中国は上海、深圳。世界の大都市で天を突き刺すように聳え立つ超高層建築物のことではない。


 羽生駅前から徒歩一〇分の所にある雑居ビルの地下二階に入った小さなバーのことだった。


 海賊船の船室を彷彿させる丸窓付きの扉を入ると、おまけ程度の小さな階段がある。下って右手には一〇人ほどが座ることのできるバーカウンターが伸びていて、壁には間接照明を浴びて光る酒のボトルがずらりと並ぶ。足音を吸い込んでいく絨毯敷きの床を進み、部屋の左手奥、入り口から死角になった場所にはテーブル席が三つ。手前は椅子で、奧は柔らかそうなソファ。


「俺の行きつけの店兼元バイト先、ってところだな」


 とコーラの瓶を片手に司は言った。


 店に連れてこられ、カウンターに案内され、メニューを渡され、司に説明を受けるまで、琢也は生きた心地がしなかった。裏の世界に売られて親や友だちに会えなくなるのではないかと本気で思っていた。娑婆で飲む最後の飲み物と覚悟して頼んだオレンジジュースは途中まで何の味もしなかった。すべての誤解が解けたあとにすすった最初の一口は、心臓が溶けてしまうくらいに甘かった。


「確かに司、あんたの人相は懲役二〇年ものだからねえ」


 バーカウンターの中で苦笑したのは、恰幅のいい妙齢の女。赤く染め上げた髪は大海の荒波の如くウェーブがかかり、エメラルドグリーンのアイシャドウで縁取られた双眸の迫力は、相手の脳味噌の皺の間まで覗き込みそうなほど。口元にはまるで今さっき人を喰らってきたみたいに真っ赤なルージュ。琢也の二倍はある横幅も相俟って魔女めいて見えるその人は、バーの女店主、ミヤコ・ザ・ダブルシックス。ダブルシックスというのは年齢で、六十六歳ということらしい。それが正しい年齢なのかは誰も知らない。齢相応にも見えるし、それより遥かに若くも見えた。


「懲役二〇年って、おいおいミヤコさん。愛がねえな、その言葉には」

「あら? アタシなんて愛の塊じゃない。黙って街を歩いていたら即収監されかねない男を拾って世話してやって、しかも住む場所まで提供してあげたのは誰だったかしら?」 

「ふっ……それを言われちゃ勝てねえよ」


 司は寂しげなため息を吐いてコーラの瓶を傾ける。


「俺はあんたを愛してるぜ、ミヤコさん」

「あらどうも。でも本気でアタシを愛したいなら、あと三〇は歳を取ってからにしなさい。今のあんたじゃ釣り合わないからね、ンフ」


 カウンターの向こうの女店主は、赤い唇を妖艶に結んだ。


「で、この坊やは? あんたの隠し子?」


 強烈な眼光に見据えられ、琢也は慌ててオレンジジュースを置く。


「ふ、藤野琢也って言います。あの、いろいろあって夜道をさまよっていたところを司さんに拾ってもらいました」

「いろいろって……犯罪じゃないわよね?」

「違うよ、ミヤコさん。酔って終電逃して、愛咲に放り出されたんだって」


 琢也が夜道をさまよっていた理由を、司がかいつまんで説明する。

「はぁ、いいわねぇ。愛する女のために、夜を徹して山道を歩く。司、あんたの好きな純粋すぎるほどの『愛』じゃない。草食化だ何だの言われても、こんな真っすぐな男は探せば残っているものね。若いのも捨てたもんじゃないわね。あんた、気に入ったわ」


 ミヤコは甘やかなため息を吐き、艶めかしい視線を琢也の顔に這わせた。


「あ、ありがとうございます!」

「そのジュースはアタシの奢りよ。好きなだけ飲みなさい」

「いいんですか?」

「遠慮したってあんた、お金も持ってないんでしょう?」

「あ、はい……」

「若いうちは遠慮なんてしないことよ。もらえるものはなんでももらいなさい」


 ミヤコは新しいグラスにオレンジジュースを注ぐと、琢也が最初の一杯を飲み干すのに合わせてさりげなくグラスを交換した。


「ま、その分は上の風俗で働いて払ってもらうから」

「ありがとうご……え?」

「冗談よ、冗談」


 ミヤコは真っ赤な口角を釣り上げ、老獪に笑った。さっきまで似たような想像をしていただけあって、心臓は少し過剰に反応していた。一瞬で乾いてしまった口の中を潤すために、オレンジジュースを一口飲む。娑婆の甘さが身に染みる。


「それでミヤコさん、お願いがあるんだけど」


 司が言うと、ミヤコは二つ返事で答える。


「あんたのお願いはだいたい想像できるわ。奧、使っていいわよ」

「ありがとう、愛してるぜ」

「一兆年早いのよ」


 ミヤコは黒いワンピースドレスを翻し、カウンターの下で何かをゴソゴソと探し始める。その間に司は立ち上がり、「こっちこいよ」と琢也を呼び寄せた。


 二人の間で何の合意があったのかが分からないまま、琢也が連れて行かれたのはテーブル席。司は適当に座るよう言い、カーテンで仕切られたバックヤードに入って行く。ほどなくして戻ってくると、


「これ使え」


 渡されたのは高級そうな洗剤の香りがするブランケットだった。


「ソファで寝ていいってさ、朝まで」

「え?」

「たぶんもう客は来ないし、来ても常連だけだから平気だ。おおいびきをかいて寝てても誰も気にしない。デートの待ち合わせは?」

「へ?」

「待ち合わせ時間は何時だ?」

「じゅ、一○時です。一○時にJR新宿駅の東口です」

「なら余裕を持って八時にはここを出よう。時間が来たら起こしてやる」

「八時って、始発には遅すぎますよ」

「心配するな。俺がバイクで新宿まで送っていってやる。一時間かそこらで着くだろうから、ネカフェでシャワー浴びたりどっかで朝飯買って食ったりしても待ち合わせには間に合う」


 ブランケットの暖かさを腕の中に感じながら、琢也は慌てて言う。


「送っていってやるって、そんな」


 出会って一時間にも満たない見ず知らずの自分の為に、彼らは寝床まで用意してくれたうえにデートの待ち合わせ場所に送ってくれるというのか。慈善団体さながらの心遣いはありがたいと同時に恐れ多い。つい遠慮の言葉を発しようとして、


「おいおい。さっきミヤコさんに言われたばっかりだろうが。遠慮なんてすんな。もらえるもんはなんでももらっとけ」

「そうは言っても」

「……あ、そっか。金がねえのか。そしたら、ほれ」


 司は躊躇いなく自分のポケットから財布を取り出し、中から一万円札を二枚抜いて寄越した。


「いやいやいやいやっ」


 それは流石に受け取れない。というよりもお人好しが過ぎると思う。琢也がへたれ大学生のふりをした詐欺師だったらとうするつもりなのか。琢也は差し出された司の手を押し返し、


「お、お金はあてがありますから」


 と嘘をついた。司は「遠慮すんな」と何度か言ったが、琢也は頑として受け取らなかった。お金のことについては自分でどうにかしようと思った。どうにかなる未来は見えなかったが、これ以上司から恩を受けたら押し潰されてしまいそうだった。


 やがて司は金を渡すことを諦め、財布をポケットにしまった。


「じゃあとりあえず寝とけ。愛には体力も必要だ。寝不足でデートに言ったら実る愛も実らなくなる。分かるな?」

「は、はい。あの、ほんとにあり」

「そういやお前まだオレンジジュース飲みかけか。じゃあとりあえず飲んじまおう」

「え、あ、まあ、それもそうですけど」


 施しの集中砲火を浴びてしどろもどろの琢也は、ブランケットを抱えたままカウンターの方に戻っていく司を追いかけた。


「はい、これ」


 席に戻るとミヤコが何かを琢也の手元に差し出した。スマホの充電器だった。


「バッテリーないんでしょ。使いなさい」

「すいません、何から何まで……ありがたいっす」

「いいのよ。今までの分は全部、上の闇金に取り立ててもらうから」

「分かりまし……え?」

「冗談よ、冗談。可愛いわねえ、あんた」


 ミヤコは魔女のように微笑む。


 カウンター下の電源から順調に電力を吸い上げている自分のスマホを眺めながら、琢也は談笑するミヤコと司の顔を見た。


 裏社会に捨てられるかも知れないと少しでも思ったことを反省した。店の雰囲気と、司の人相だけですべてを決めつけて怯えていたのは、今考えてみれば間抜けのようだ。


 世の中には悪い人がいるのかも知れないが、思っているほど多くはないらしい。司やミヤコのような善意が当たり前とは思わない。しかし今日からは、性善説に基づいて行動してみようという気になった。知らない街の知らないバーで、琢也は少し大人になったみたいだった。


「──さて、琢也よ。眠くなるまで俺に聞かせてくれ、お前の愛の物語を」


 コーラの瓶を振りながら、隣の席に腰掛けた司が飢えた獣のような目をしていた。


「愛の物語って」

「そうだな。まずは、明日のデートの相手について。なんて名前の子なんだ?」

「えっと、丸森鳴乃さんって言います。大学の同級生で、サークルが一緒なんです。入会してすぐにほとんど一目惚れに近い感じで好きになって、で、去年の夏ごろからデートしてて」

「去年の夏? じゃあもう一年くらい経つのか」


 司の驚いたような声に少しだけ不安になる。


「ぺ、ペース遅いですかね?」

「いや、そんなことはない。一秒で燃え上がる愛もあれば、一〇年たってようやく火が点く愛もある。愛に遅いも早いもないさ。愛とは常に今そこにある。俺の言葉だ」


 司はしょぼくれかけた琢也の肩に、励ますようにそっと手を置いた。


「で、何回デートしたのよ」


 ミヤコが空のグラスに自分用のミネラルウォーターを注ぎながら聞いてきた。


「五、回くらいっすかね」

「へえ。五回、ね。あんた真っすぐな割に奥手なのね」

「なかなかお互い都合が合わなくて」

「都合、ね。ふうん。最近の学生は忙しいものね」

「僕はそうでもないんすけど、彼女は交友関係が広いので……」

「あら、そうなの。へえ。ねえ、あんたってどんなデートするの? 教科書通りに映画とか水族館とか行きそうなタイプね」


 長年磨き上げられた魔女の勘が、明日のプランの正中を射貫いてきたのでドキリと

する。


「映画、とか、あとは普通にご飯食べに行ったり、美術館行ったり」

「ふうん」


 含みのあるミヤコの相づちに、しかし琢也は鼻を高くして返す。


「ご飯は向こうから誘ってくれるんですよ!」

「へえ。向こうから」

「『今日空いてる? ご飯行こ』っていう感じで!」

「もちろん奢るのよね、あんたが」

「そりゃあもちろん」


 琢也は胸を張った。好きな女に財布は開かせない。種々雑多な恋愛コラムやハウツー本を読んだ結果抱くようになった、琢也のラブポリシーである。


「……若いっていいわ、ほんと」


 ミヤコが薄く微笑み、何かを続けようと口を開いたが、そこに司の声が重なった。


「なあ、どんな子なんだ? 鳴乃ちゃんは。可愛いのか?」

「そりゃもう可愛いっすよ! 黒髪をこう、肩くらいまで伸ばしてて、目が人形みたいにくりっとしてて、清楚な感じで。見た目通りに性格も真面目で穏やかで、誰とでも分け隔てなく接してくれる天使! ほんとうにもう、最高なんすよ。あと、身体中に目がついてるんじゃないかってくらい気配りができて、それから料理も上手で!」


 話ながら思い出すのは、去年のゴールデンウィークに開催されたサークルの交流合宿。


 くじ引きで夕食当番になった琢也は、しぶしぶカレーに使う野菜の下ごしらえをしていた。しぶしぶだったのは、本当は火起こし班になりたかったからだ。合宿所に併設された炊事場の竈で豪快に薪をくべたかったのだが、ジャンケンで負けた。まな板と包丁を相手に一〇数人分の野菜を延々と刻む虚しさ。分量以外に何の特別感もなく、むしろ分量の特別感などクソ食らえだと思った。しかも自分は女子の中に黒一点。炊事場の隅っこで同期から四年生まで全世代の女子に囲まれて、かといって会話に混じっていくこともできず一人で人参を処刑していた。


 遠くの方でぎゃーぎゃ騒ぎながら竹筒を吹いている同期男子たちの姿を羨ましく思っていたとき、天使が舞い降りた。「私も手伝うよー」と彼女は言った。ボウルの中で処刑の順番を待っていた人参を一つ掴むと、丸森鳴乃は「この大きいのもーらいっ」とイタズラっぽく笑った。お茶目なその表情から一転、人参を捌いていく手つきは見事で、琢也が一本片付けるときにはもう彼女は三本目に取りかかっていた。「遅いぞー、藤野くん」と名前を覚えていてくれたことに感動し、そこからぽつぽつ会話が生まれ、気がついたときには恋の海原に墜落。


 そんな一年前をうっとり回顧する琢也の前に、司が手を差し出した。


「写真は? 写真見せてくれよ。あるだろ?」

「たぶん、探せばサークルのみんなと撮ったヤツが」


 充電が半分ほど完了したスマホを手にとって、琢也は電池が切れている間に着信が溜まっていたことに気がついた。


「……誰だこんな時間に」

「電話来てたのか?」


 司が訊ねてくる。


「ええ、なんかめっちゃ来てました」

 まさか親からか、と思ったが違った。電話アイコンの右上にバッジ表示された十数件の発信元はすべて同じ人物。新堂仁歩だった。


「……何で新堂が」


 さきほど電話が突然切れたことに驚いて、あるいはムカついて電話をかけてきたのだろうか。後者だとしたら、なんという執念深さ。へべれけのままひたすら発信ボタンを連打する仁歩の姿を思い浮かべ、あいつならやりかねないと思った。


「もしかして丸森鳴乃か?」

「違いました。後輩です」

「女ね」


 離れたところでグラスを拭いていたミヤコが反応する。こっちを向いてすらいないのに。


「よく分かりましたね……」

「本能よ」

「野獣ですか」

「後輩も狙ってるのか」


 司が興味津々に画面を覗き込んでくる。


「気をつけろよ、琢也。愛と刃は紙一重という言葉があってな。俺の言葉だが。要するに、愛は扱い方を間違えると危険っつーことだ。丸森鳴乃と後輩。愛には決められた数などないが、注意は怠るなよ」

「ち、違いますって! 新堂は、愛とかじゃなくて、ただの後輩です。仲の良い後輩で。あ、そう! 終電を逃したときに一緒に飲んでた後輩です、こいつ!」

「可愛い後輩を終電ギリギリまで連れ回したってわけか」

「いや、むしろ俺が振り回されたんですよ! どうしても『一杯だけ! あと一杯だけ飲みましょ!』って強引に腕を引っぱるもんだから、なんか断るのも可哀想だったし」


「本命の女と会う前の日に別の女とサシで飲んだわけね、あんた」


 ミヤコが荒れ狂う赤髪を掻き上げる。


「間違っちゃない! 間違っちゃないんですけど、違うんですよ! ほんとに後輩とは何もなくて、ただ仲が良いだけで! サシで飲みに行くのだってしょっちゅうだし」

「ふうん」


 真っ赤なルージュの間に輝くほどの白い歯をちろりと覗かせ、ミヤコはやはりどこか意味深長な様子で笑う。


「やっぱりあんた可愛いわね。アタシが同年代だったら遠慮なく食べていたわ。四〇年遅く生まれたことを後悔しなさい」


 ミヤコの『食べる』には捕食の意味合いしか感じられない琢也だが、黙って残念がった。


 仁歩からの着信を下に向かってスクロールしてみた。最初に電話がかかってきたのは一時ごろで、おそらくはスマホのバッテリーが切れた直後。それから数分と間を空けず『新堂仁歩』『新堂仁歩』『新堂仁歩』と並んでおり、最後の着信は今から一時間ほど前。一時二〇分。


 さすがに今さらかけ直しても出ないだろうが、念のため一度くらいかけ直してみようと思う。電池が切れたとはいえ通話をぶつ切りにしてしまったのは申し訳なかったし、草むらで寝てたという言葉も少し心配だった。無事に家に帰れたのか。せめてそれだけは知りたかった。


 画面をタップし、『新堂仁歩』にリダイアル。


 何度か呼び倒し音が鳴ったものの、相手が電話に出る気配はない。やはりもう寝てしまっているのだろう。明日の朝にでもかけ直すかと思ったところで


『──』


 電話が繋がった。


「あ、もしもし? 新堂? ごめん、寝てたか?」

『……』


 返事はない。

「新堂?」

『……』

「聞こえてる? 新堂? おーい」


 ややあって、電話の向こうから聞こえてきたのは、


『……もしもし』


 知らない男の声だった。

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