振り出しに戻った。


 バイクが一台止まっただけのコンビニの駐車場。琢也は暖かく明るい店舗に背を向けて、空っぽの国道を呆然と見つめていた。


 電話を貸してもらえないばかりか、危うく警察沙汰になるところだった。


 ようやく脱することができた夜の中に再び戻らなくてはならないと考えるとたまらなく不安だった。まだもう少し、文明の光に浸っていたい。もう電話を貸してくれなどと言わないから、無言で雑誌の立ち読みでもしているから、しばらく店の中にいさせて欲しい。


 粒ほどの期待を込めて店を振り返る。レジの所に立っていた店員と目が合う。


 明確な拒絶の目だった。


 当然だろう。


 琢也はわざわざ火の中に飛び込んで燃えた虫のような気分になる。これでもう本当にこのコンビニにすがることはできなくなってしまったわけだ。


 だが、コンビニがダメになってもまだ帰るための方法がすべて消えたことにはならない。


 一つはもちろんタクシーを拾うこと。だがこれまでに一台のタクシーとも擦れ違わなかったことから考えて、この方法はかなり見込みが低い。


 二つ目は現時点で一番楽かつ早い方法。すなわち新宿方面に行くコンビニ客の車なりバイクなりに乗せてもらい、途中まで送ってもらうのだ。


 が。


 駐車場に停まっているバイクを見つめ、琢也はため息を吐いた。


 バイクは一台。店の中いる客はあの半グレの男一人。彼に向かってバイクに乗せてくれと頼む勇気はないし、仮に乗せてもらえたとしてもあとでどんな見返りを求められるか分からない。運び屋をやれとか、同級生の女子を風俗に紹介しろとか言われることを想像し、琢也は身震いした。


 三つ目は始発の時間まで歩き通し、できるだけ新宿に近い駅から電車に乗ること。


 途中でヒッチハイクが出来る可能性が残されているものの、また夜道に戻らなければならないのだった。


 しかし四の五の言ってはいられない。何としてでも明日の朝、一〇時に、新宿駅に間に合っていなければならないのだから。


 コンビニの明かりを視界の端に振り切り、琢也は国道を歩き出した。


 一〇分ほど歩くと、再び闇が深まり始める。


 家や街灯の数が少なくなり、自分の輪郭が消えていく。まるで夜に呑み込まれるみたいに。


 せめて気持ちだけは明るく保とうと、明日のデートを妄想する。


 映画は一〇時半から、十二時二十分まで。席はネットで三日前に確保済み。正面が通路になっていて出入りが楽、かつスクリーンど真ん中というベストポジション。映画のあとのランチは、彼女が行きたがっているフレンチだ。予約は済ませてある。その後は、池袋に移動してサンシャインシティの水族館へ。この日のために魚のうんちくを幾つか仕入れてある。魚はひげやヒレでも食べ物の味を感じること。チンアナゴの体長は三○センチくらいで、水流に乗ったプランクトンを食べるのでみんな同じ方向を向いていること。相手が不快にならない程度にうんちくを話し、彼女を楽しませる。それから──。


 琢也は足を止めた。


 疲労が溜まってきている。愛咲駅を出たときよりも、歩くペースは確実に落ちている。


「くっそ……あの頑固店員っ……あいつのせいで」


 夜道を歩かされているのは自分のせいだった。それは分かっている。しかし誰かのせいにしてやらなければ、とてもじゃないがこんな闇の中を歩き続けることはできない。


 降りかかる状況すべてに恨み言を吐きながら、それでも頑張って前に進もうとしたとき。


「……!」


 琢也の耳は遠くにエンジンらしき音を捕らえた。


 背後。振り返る。一台のバイクが、ヘッドライトで闇をくり抜きながら走ってくる。真昼のような眩しさに顔を背けつつ、琢也は千載一遇のこのチャンスを決して逃してはならないと手を挙げた。


「すいませ──」


 必死に張った声は、しかしエンジン音の哮りに食われて消える。バイクはテールランプを嘲笑のように細く煌めかせ、いたいけな男子大学生を無残にも置き去りにしていった。


 膨れあがった苛立ちが爆発する。


「ざっけんなあ──────!」


 怒鳴ってみてもバイクは止まらない。


 エンジン音とテールランプの赤い光がカーブに吸い込まれるように消えていくのを、ただ呆然と見ているしかなかった。


 周囲は再び闇に戻った。


 またとないチャンスを失ったことに舌打ちを放つと、琢也の怒りの対象はコンビニ店員からバイクに変わった。地面を蹴りつけ、悪態を吐きながら夜道を歩き出す。もしもこの先で事故にあって死んだらあのライダーを呪ってやると思った。


 すると前方からエンジン音とライトの明かりが近付いて来た。目を懲らすとそれは先ほど自分を追い抜いていったあのバイクだった。


 渾身の叫び声に気付いてくれたのだろうが。


 一秒前の怒りをなかったことにして、琢也は目を輝かせた。


 スクータタイプのそのバイクは目の前でエンジンをかけたまま止まった。スタンドがおり、ライダーがヘルメットに手を掛ける。ヘッドライトの強烈な光を顔の前に作った庇で防ぎながら、琢也はヒッチハイクの交渉をしようとして、


「あ、あの──」


 間近で見たライダーの顔。ヘッドライトに下から照らし出される、濡れた質感の黒髪オールバック。見開かれた目は危うい光をたたえながら、刃の切っ先のような迫力でこちらを凝視する。口元はいかにも不機嫌そうなへの字に曲がり、その向こうにはどんな惨い言葉を蓄えているのか想像もできない。


 バイクに乗っていたのはコンビニにいた、あの半グレの男だった。


 琢也は「あの」と言ったきり言葉を失う。頭はすでに、助けてもらうことよりこの場から逃げ出す方法を考え始めている。


「……」 


 男は何も言わない。品定めにするように、こちらをじっと見つめているだけだった。


「……えっと」


 琢也は足音小さく後退り、


「そろそろ帰ろうかなあ」


 と呟く。そろそろも何もずっと前から帰ろうとしているのに。帰れないから困っているのに。さも帰る場所が近くにあって、自分は何も困っていないという風に、冷や汗を流しながら男の目を逃れてそっぽを向く。視線の先には初めて見る雑木林が広がっているばかり。


「……おい」


 男は低い声でそう言うと、ブーツの底でアスファルトの上の砂利を潰しながら、一歩、琢也の方に近付いて来た。


 呪ってやるなんて嘘です、と心のなかで呟いた。




「青年、名前は?」


 琢也はスクーターを運転する男の腰にしがみつきながら、風とエンジンに負けじと声を張る。


「藤野です! 藤野琢也です!」

「琢也、いい名前だ。学生か?」

「はい! 二年です、大学の」

「大学二年生、か。儚くも眩い若き愛の香りがある。素晴らしい」

「……儚くも眩い?」

「ああ、それもまた美しい愛の形だ」

「……」


 異次元の角度から放たれる言葉を愛想笑いで受け流し、カーブの遠心力に負けないよう男の腰に力強くしがみついた。


 男は見た目に反して心優しかった。


 震える声で事情を説明すると、二言目には「乗れ」と言って予備の半帽ヘルメットを渡してくれたのだった。見た目で人を判断しないようにしよう、と琢也は浅い教訓を胸に刻み込んだ。


 こうして琢也は思わぬ形でヒッチハイクに成功し、二十キロほど離れた『羽生』という街まで男のバイクで運ばれることになった。羽生駅からはJR線を使えば新宿まで三十分ほどで行けるらしい。


 人もいないのに動いている信号で律儀に停車し、男は琢也の方を振り返った。


「そういえば、名乗るのを忘れていたな。俺は司。衣笠司だ。司、あるいは伝道師と呼べ」

「伝道師?」

「愛の伝道師」

「司さん。ありがとうございます、乗せてくれて」

「気にすることはない。誰かの愛に役立つのなら、俺は喜んで力を貸そう」

「あ、あははは」


 司は確かにいい人だった。だがどこか会話のネジが足りない、あるいは多すぎるのだった。


「ふふ、そうか。デートか、琢也」

「え?」

「女のために夜通しで歩く覚悟を決めた男。二人を結びつけるのは強く、固い、愛。美しい。美しすぎる。俺はお前のその覚悟に惚れた」

「あ、あ、ありがとうございます!」

「しかしまあ災難だったな。愛咲なんて何もないだろう」

「ええ。本当に。人が住んでるのかも怪しいくらいの雰囲気で。実は本当にゴーストタウンだったんじゃないかって思います」

「たしかにゴーストタウンみたいなもんだ。都会に比べたら愛の影は薄い。愛を忘れた亡霊が棲まう、愛のゴーストタウンだ。愛のゴーストタウンだ」


 わけがわからない。しかも繰り返した。


 琢也は司の宣託めいた言葉が聞こえなかったフリをして話題を変えた。


「というか司さん、なんで助けてくれたんですか?」

「俺はあのコンビニで、お前と店員のやり取りをぜんぶ訊いていた。お前の言い分も分かるし、店員の言い分も分かる。どっちも悪くない。だが、まあ、お前が取り乱してしまった分、店員の方が若干有利な気がしたがな」

「でも電話くらい貸してくれてもいいと思いませんか? 思いますよね?」

「お前の言いたいことは分かる。だが、店員だって店を任されている身だ。それで怪しげな電話をかけられて変な詐欺やトラブルに巻き込まれたら、店が責任を負うことになる。酷ければ会社全体の信用に関わることだってありえるからな。だから貸せないんだろうさ」

「あ……そ、そうか」


 自分本位に考えすぎていた。自分は安全だ、無害だ、何もしない。だから電話を貸してくれ。いくら主張したって、琢也と店員は初対面。琢也が店員の素顔を知らないように、店員もまた琢也の素顔を知らない。信用して電話を貸せ、という話が通じるわけがなかった。


「まあ、話を戻すとだな。俺はお前の言い分が分からなくもなかったからこそ、夜道でお前に気がついたとき、助けてやろうと思った。通り過ぎたのは、咄嗟に気がつかなかったからだ」


 それならばコンビニの駐車場にいるときに拾ってくれればいいのに、と思うが、恩人に文句を付けることなどできないので琢也は黙っている。すると司はそれを見透かしたように、


「コンビニで助け船を出さなかったのは、コーラを飲んでたからだ」

「コーラ?」

「ああ。飲んだら声をかけるつもりだったが、飲み終わる前にお前は立ち去ってしまった。かといって慌てて飲み干して追いかけるのもなんか違う気がしてな」


 信号が青になり、司はスクーターのアクセルペダルを踏んだ。二人を乗せたバイクは邪魔者のいない山道を軽快なスピードで下っていく。エンジン音が山間の静けさを裂き、次第に景色の中には木よりも民家が多くなってくる。


 車通りが増え、車線が増え、周囲の明るさが増し、民家がビルになり、まるで人類の進歩をリアルタイムで追っているかのような錯覚を抱き始めたころ。バイクは市街地に入った。


 人が歩いている。コンビニがある。ネカフェがある。カラオケがある。街灯が数え切れない。つい数時間前まで当たり前だったはずのその光景に、琢也は思わず感涙しかける。


「っすぅ───────────────────!」


 文明の空気を胸一杯に吸い込むと、身体が軽くなった気がした。


「いやあ、いいですね、文明。照明は人類最大の発明! 実感しました」

「よかったな、琢也。俺からお前に言葉を贈ろう。失って初めてその大切さに気がつく、明かりもまた愛と同じ」

「まったくです!」


 とりあえず共感しておく。


 進行方向の数十メートル先に、『羽生駅』と暗闇に白く浮き上がる文字が見えた。終電後の静けさの中に佇んでいるのは、思っていたよりも大きな複合施設型の駅ビル。バイクは速度を落としながら、タクシー一台止まっていない駅前のロータリーに向かっていく。てっきりそこで自分を降ろしてくれるのだろうと思っていたが、なぜか司は華麗に素通りした。


「あれ……?」


 ロータリーを抜け、線路のガード下のトンネルへと進入する。橙色の光に照らされて心なしか不気味な気配のするその中には、ダンボールハウスが数軒。壁のそこかしこには奇抜なスプレーアートが描かれ、何気なく目をやった歩道の一角には、吐き捨てられた誰かの夜ご飯が飛び散らかっていた。


 短いトンネルを抜けた先、目の前に広がったのは駅の裏側。妖しい光りに染められた危険な匂いのする歓楽街だった。


 バイクは客引きや酔客で騒がしい街の中をゆったりと進み、雑居ビルの前で停車した。


 ビルの前には黒いスーツを着た男が一人、タバコを吸いながら立っている。琢也はリアシートの上に間抜け面を晒し、黒スーツを見つめた。


「なに見てんだ」


 ドスの利いた声が返ってきて、慌てて視線をビルの方に向ける。


『にこやかローン』『さわやかファイナンス』と闇の金の匂いが漂う看板があれば、『美乳海賊OHパイレーツ』『裸・裸ランド!』『せくしーあべんじゃー♡』といかがわしい看板も。


 なんでこんなところに連れてこられた。


「おい、降りろ」


 司に言わるがまま、琢也は恐る恐るリアシートから降りた。ヘルメットを外して持ち主に返しながら、なんだか雲行きが危なくなってきたような気がしてくる。


 シートを開けてヘルメットをしまう司の横顔を盗み見た。


「……なんだ?」


 こちらを見返してきたのは、冷めた三白眼。鋭く研がれた刃のような目力は、琢也を軽く射竦めた。


 この人は本当に善良な人なのか? 


 疑問が沸く。人は見かけによらないというが、性格は顔に出るとも言う。


 司は本当に困っていた自分を助けてくれたのか?


 もう一度ビルを見る。


 『にこやかローン』『さわやかファイナンス』。悪徳金融業者の匂い。まさか自分はここに連れ込まれ、無理やりに金を借りさせられ、借金地獄に突き落とされるのか。そうして最終的には。『美乳海賊OHパイレーツ』『裸・裸ランド!』『せくしーあべんじゃー♡』。風営法違反の気配。ここで体を売るようになるのか。際どい衣装で人前にしずしず歩み出る己の姿を想像し、その凄絶な気色悪さに鳥肌が立つ。


「あ? どうしたんだ?」


 司の低い声が、子ウサギのように震える琢也の小さな心臓を突き刺した。禍々しいくらいの視線。逃げようかと思うが、司はスクーター。確実に追いつかれる。


「い、いえ、なんでも、ないです」


 絞り出すように言った。泣く泣く逃走を諦め、せめて乱暴なことはされないようにと従順な態度をみせる。


「そうか。ああ、そっちの階段だ。地下二階な」

「か、かいだん?」


 機械的に顔の向きを変えた。黒服の横、雑居ビルの入り口。地下に潜る階段が、障気のような緑の光を放って伸びている。どこに続いているのだろう。その先に待ち受けている光景を想像し、体が冷たくなっていく。視界の端で黒服が、地面に捨てたタバコの吸い殻を革靴の底ですり潰した。

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