夜の山道を舐めていた。


 暗闇がこんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。自分の手足の形さえ分からない闇など経験したことがなかった。


 それでも明日のためには前に進まなければならない。琢也は一歩一歩慎重に、探るように足を運んでいった。つま先がアスファルトに触れるたび、ほっと安心する。こんなこと初めてだ。


 夜の山道に明かりはない。都会の夜の明るさは、すべて作られていたものだと改めて気がつかされる。本物の夜が持つ恐ろしさを初めて知った。


 幽霊とかお化けとかそういうオカルト的な怖さはとっくに通り越していた。今の琢也の心身を冷たくしていくのは、心霊現象に生あくびをかましたくなるような、もっと根源的な恐怖。


 ごくり、と唾を飲み込んだ。生ぬるい塊が喉を伝い落ちていく。


 仁歩との通話が懐かしい思い出になりつつある。彼女のやかましい酔いっぷりを、琢也の縮こまった心臓が欲している。いつも鬱陶しく思うあの感じが、今は何よりも必要だった。


 三百六十度の暗闇に対する最大限の警戒と妄想が、頭の中を堂々めぐりする。一歩踏み出した先には足場がないのではないか。唐突に崖になっているのではないか。闇に潜んだクマやら猿やらが闇に爛々と目を輝かせながら躍り出てきて、アルコールまみれの大学生の肉を引き千切っていくのではないか。そんな考えばかりがぐるぐる、ぐるぐると。


 どれくらい歩いただろうか。


 音も微かな暗闇は時間の感覚を狂わせるのか、もう数時間近く経ったような気さえした。


 このまま一生朝を迎えることができず、夜をさまよい続け、頭の先から足の先まで黒く塗り潰されて朽ち果てていくのかとネガティブな思考が極まりかけたとき。


 星明かりにぼんやりと浮かび上がったカーブらしき道の向こうに、建物が連なる影が見えた。町とも住宅街とも言い難い、集落のような形。


 琢也は足を早め、そこへ突入する。


 ぼんやり灯る信号機。眠りに就いた民家。シャッターを下ろした商店。点々と地面に光を投げかける街灯たち。場違いに輝く自動販売機、とそれに集う虫。石ころ一つない空っぽの道路。


 都会に比べればゴーストタウンも同然の静けさだが、それでも山道の暗さとは天と

地ほども違う。自分の手足どころか、進むべき道までもはっきりと見える。


 国道のど真ん中に突っ立って、琢也は束の間、ここら辺一体を掌握したようなちっぽけな優越感に浸る。スマホさえあればテンション高めに自撮りを決め、サークルのグループトークに投下してやるのだが、あいにく大事な相棒はご臨終。


 優越感を脇に置き、頭上にぶら下がる青い案内標識を見上げた。街頭の明かりを借り、夜闇にうっすら浮き上がる白い文字を読む。


 新宿 65km


「……oh」


 意図せずアメリカンな落胆が漏れる。六十五キロ。時速六十五キロで走れば一時間で着くなあ、とショートした思考回路が小学生ですら鼻で笑う計算結果を弾き出した。


 なんでこんな遠くまで来てしまったのだ。日常までの途方もない距離に、琢也はやるせない気分になる。本当ならば今ごろ自室の柔らかいベットに横になって、明日着ていく服のことなんかを考えながらまどろんでいるはずだったのに。なぜか自分は誰もいない夜道に立ち尽くしている。国道の真ん中という小さな城に立ち、しょぼい優越感で気を紛らわそうとしている。


 酒に溺れた結果がこれだ。二日酔いよりよっぽど酷い。数時間前の自分に苛立つ。酒に弱いという自覚がありながら、どれくらい飲んだかも覚えていないくらいに飲みまくった自分に。


「あーくっそ!」


 自分自身に向けた苛立ちを大声で叫び、琢也はアスファルトを蹴飛ばした。


 頭上を睨みつける。『新宿 65km』ふざけた数字だ。フルマラソンより長いじゃねえか。


 道ばたに転がっていた石でもぶつけてやろうかと看板に狙いを定めたところで目の前を黒猫が過ぎる。みゃーお、と自業自得のなれの果てを嘲笑うような細い鳴き声。琢也は右手に握った石を地面に落とした。かつん、と寂しく石が鳴った。


「……六十五キロ、ね」


 随分と遠くまで来てしまったものだ、といっそ感慨深い思いさえ湧き出してきて、琢也はその場に座り込んだ。


 小休止して、冷静に考え直す。


 まさか六十五キロも歩き通せるはずがない。軍隊すら滅多にやらないような強行軍を、お遊びのスポーツしかしない大学生がやるべきではない。仮に歩き通せたとしても、デートのときには息をする屍に成り果てている。それは避けなければならない。琢也にとって最も大事なのは丸森鳴乃とのデートであり、明日から幕開けるであろう彼女との未来なのだ。


 そもそも歩き通す必要はない。歩けるところまで歩き、出来るだけ都心に近い場所で電車なりタクシーなりをつかまえればいいのだ。


 丸森鳴乃の清楚な微笑みを思い浮かべ、琢也は一人孤独にアホ面を暗い田舎道に晒す。

「……うっし」


 丸森のことを考えたら元気が出て来た。彼女との明日を思うと無限の気力が湧いて

くる心地がした。絶対にデートに間に合ってみせる、と固く拳を握る。束の間せしめた無人の国道を新宿方面へと歩いていく。明かりもない。スマホもない。しかし道は続いている。投げやりになるのはまだ早い。




 遠くに見慣れた「7」の看板を見つけたとき、琢也はそこが闇の中であることも忘れて飛び跳ねた。着地点が見えずに前につんのめったが、そんなことは気にしない。


 コンビニがあったのだ。


 ついに、辿り着いたのだ。


 今は亡きスマホが示していた愛咲駅から最寄りのコンビニまでの距離はざっと三キロ。自分はそれを歩ききったのだ。大半の行程をライトもスマホも使わず、自分の身一つで。


 無音の中を歩いてきたせいでトーンがおかしくなってしまった快哉を叫びながら、琢也は足を早める。見慣れたはずのコンビニのロゴに、何故だか鼻の奥がつんとなる。喜びで目頭が熱くなり、気がつけば目に映る蛍光灯の光が水に沈めたように揺らいでいる。


 フライドチキン、肉まん、コーラ、ポテチ、雑誌。目と鼻の先に見えるコンビニの中で自分を待っている品々を想像し、足はこれまでの疲労をはね除けて歩調を早めていく。金がないから買えはしない。けれどもそれらがあると考えただけで、元の世界に戻ったのだと実感できる。


 長い旅路の果てに失われた故郷を見つけた流浪の民はこういう感情になるのだろうか。そんな壮大な想像さえできてしまう。


 琢也はコンビニの駐車場に足を踏み入れた。店舗よりも大きい田舎のコンビニの駐車場。隅の方にはバイクが一台止まっている。小ぢんまりとしたスクーターだ。確かな人の気配。周囲の闇から赤々と浮かび上がる店舗の中に、人影がちらりと動く。無意識のうちにガッツポーズを振り下ろす。


 駐車場を突っ切り、自動ドアをくぐって店内に足を踏み入れた瞬間、暗闇に慣れた目には眩しすぎる蛍光灯の光が視界を埋め尽くす。文明の衝撃にくらくらしつつ、スピーカーから流れてくる深夜ラジオの優しげな声に耳を傾ける。遅れて店の奥の方から聞こえてくる店員の「らっしゃいっせー」という声の気怠げな感じも、沈黙が詰まっていた耳には心地よかった。


 できることならいつまでだってここにいたい。コンビニ相手に本気でそう思う。だがそれが許される状況ではないことも分かっている。


 レジの上にかかっていた時計を見上げる。午前一時半。愛咲駅で放り出されてから一時間ほど経っていた。それでもまだ夜明けには遠い。


 少しだけ休憩し、これからの方針を決めよう。そう思って入り口の左手にあるイートインスペースに目をやる。


 男が一人、窓の方を向いて座っていた。久しぶりの人間だ、と山猿のような感想を抱いた直後。その男と目があい、琢也は凍りついた。


 長めの黒髪を後ろへ流し、四角い額を前面に晒したヘアスタイル。刃のように研ぎ澄まされた目つきに、鋭い眉。椅子の背もたれに体重を預けるように腰を下ろし、太く節くれだった指でコーラ缶を暇そうに突きながら、男はこちらを見ていた。


 否、睨みつけていた。


 それは、軟弱な男子大学生一人を震え上がらせるには十分すぎるほど物騒な視線だった。


 はっきりと目線がかち合っておきながら、琢也は相手を見なかったことにして、店の奥に向かってしょぼしょぼと逃げた。幸い、絡まれることはなかった。


 イートインスペースの主の様子を見る限り、このコンビニにはあまり長居はできない。山道をさまよった挙げ句、半グレにボコボコにされて捨てられるなんて目も当てられない結末だ。


 できるだけ早く状況を前進させよう。


 オリコンや納品ケースの積み重なった通路を適当に練り歩き、店員の姿を探す。そ

の間に一つ方針を思いついた。店の電話を貸してもらい、友だちか家族に連絡をするのだ。そして迎えに来てもらうのだ。明日は土曜で休みだから、拝み倒せば一人くらいはつかまえられるだろう。むしろなぜ真っ先にそれが思い浮かばなかったのか不思議なくらいだ。


 総菜コーナーに差し掛かったところで店員を見つけ、琢也は小走りに近寄って声をかけた。


「ちょっといいですか?」

「いらっしゃいませ。どうされました?」


 ひょろりと細長い男の店員は品出しの手を止め、とってつけたような笑顔で答えた。


「電話って貸してもらえます?」

「電話?」

「はい。ちょっといろいろとトラブってまして、電話をかけたいんです」

「お店の外に公衆電話がありますが」

「お金がないんです」


 琢也のその言葉に、店員の目に警戒の色が浮かび上がる。頭の先から頭の先まで、視線が一往復する。ややあって店員は復唱した。


「お金がない」

「はい、本当にないんです。一円も。それに携帯のバッテリーも死んでて、どうしようもないんです」


 必死に懇願した。心の中ではコンビニの床で土下座していた。しかし店員は首を横に振った。

「申し訳ありませんが、うちでは電話はお貸しできないんです」

「お願いします」

「すいませんが、防犯上の関係で」

「迷惑はかけません。必要な電話が終わったら速やかにお返しします」

「申し訳ありません」


 店員は淡々と品出しを終え、慣れた手つきでオリコンを畳み、無情に言い放つ。


「規則なものですから」

「そこをなんとか!」


 食い下がる。


「一分……いや三〇秒! 三〇秒だけでいいので!」

「申し訳ありません」


 店員は平たくなったオリコンを小脇に抱え、琢也の脇をすり抜けてレジの方へ行ってしまう。


 琢也はすがるようにその背中を追いかけ、「お願いします」と連呼する。レジの脇にオリコンのケースを重ねた店員は、営業スマイルをこちらに向け、小さな声で「申し訳ありません」と言った。最後通牒のようだった。その証拠に、店員の表情は今にも瓦解しそうだった。これ以上言ってくるな。諦めろ。笑顔の向こう側から本音が聞こえてくる。


 店員の不遜な態度からして自分が面倒な客にカテゴライズされつつあることを琢也は自覚する。当然だ。しかしこちらにだって事情がある。


 右も左も分からない、東京なのか山梨なのかも分からない山奥に放り出されて途方に暮れているのだ。困っているのだ。確かにこの状況は自業自得かも知れない。けれども罪を犯しているわけではない。そして罪を犯すつもりだってない。たかが電話、貸してくれたっていいじゃないか。ここで自分に電話を貸さないことが、いったい防犯上の何の役に立つというのか。規則規則と思考停止していないで、人情というものを見せてくれてもいいだろう。


「頼みますよ! 三〇秒っすよ! 三〇秒! なんなら一五秒でいいよ! どう!?」

「お客様、」

「電話一本だけなんだって! 金がないから買い物はできないのは申し訳ないと思う。けど!困ってるんだよ! 本当に! お願いしますよ」


 店員への苛立ちなのか、こんなことで店員に苛立ってしまう自分への苛立ちなのか、この状況そのものへの苛立ちなのか。琢也は奥歯を強く噛みしめ、レジ台の上に拳を握りしめる。


「いいじゃねえかよ」

「無理です。申し訳ありませんが、お客様」


 店員も琢也に負けじと語気を強める。


「お引き取り願えますか?」

「おひ……」


 琢也は思いがけない強硬ぶりに二の句を失った。


「何度も申し上げますが、うちでは電話をお貸しすることはできません。ですのでほかを当たった方がいいかと思います」

「ほかに店なんかないんだよ」

「それはこちらの責任ではございません」


 機械的な返答に苛立ちが募る。


「あんたが電話を貸してくれたら」


 唇を噛みしめ、高い位置にある店員の顔を睨みつけた。眠ったように目を閉じて、面倒な客の言うことなす事をすべてシャットアウトした顔。


 店員は悪くない。悪くないが、店員がほんの少し融通を利かせてくれれば琢也の問題は解決するのだ。店のマニュアルだかなんだか知らないけれども、数十秒だけでも目を瞑ってくれれば、状況は丸く収まるはずなのだ。


 店員は目を瞑ったまま、琢也は唇を噛みしめたまま、沈黙の数分が過ぎる。


 痺れを切らして琢也は言った。

「分かった。個人情報を渡す。電話番号も、住所も、名前も、通ってる大学も。何かトラブルを起こしたときのために。だから電話を一本、」


 そこまで言ったところで、店員は目の前の客がそれ以上踏み込んでこないよう、いよいよ伝家の宝刀を抜いた。

「警察呼びますよ。これ以上騒ぐようなら」


 店員もまた苛立っていたのだろうと思う。なにせ今は深夜だ。普通なら眠っている時間だ。それなのに働かされて、おまけに「金がないから電話を貸せ」という面倒な客も相手にしなければならない。相当に苛立っていたのだろう。だから「警察を呼ぶ」なんて少し強気に出たのだ。


 本当に呼ぶわけがない。そこまで悪いことはしていない。


 琢也は自分に向かって言い聞かせた。


 けれども「警察」という言葉は店員の前に無色透明の防御壁を築き上げた。牽制として十分に機能した。琢也の口は縫い止められたように動かなくなり、何故か足が震えた。背筋が国家権力を敵に回すかも知れない恐怖に凍った。


 言葉を返す代わりに頭を掻きむしり、琢也はカウンターに背を向けてコンビニの出口に向かう。出がけになんとなく横目に入れたイートインコーナーでは、オールバックの半グレがマイペースに缶のコーラをすすっていた。

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