③
愛咲駅の頼りない防犯灯の下でしばらく途方に暮れ、琢也はようやく駅を離れる決心をした。
始発まで待っていてはデートに遅刻する。苦節一年の片思いが実るか実らないかという大一番に、遅刻することなどありえない。告白すらできずに振られてしまう。それは決して起きてはいけない結末だった。
だから琢也は何としてでも今夜中に家に帰ろうと思った。たとえ家に帰れなくても、少しでも都心に近づいておきたかった。そうすればどこかの駅でデートに遅刻せずにすむ時間に電車に乗ることができるかもしれない。
名残惜しさを感じつつも防犯灯の下を離れ、琢也は誰もいない改札に向かって歩き出した。一緒に過ごした時間はわずかだったけれど、あの防犯灯には妙に愛着が湧いていた。四方を闇に囲まれていても、防犯灯がいれば心は安らいだ。それと別れなければならないというのは思っていた以上に辛いことだった。もしもここが本当に世界の果てなら、琢也は防犯灯と添い遂げることも辞さないくらいの気持ちがあった。
防犯灯を視界の端に振り払い、琢也は誰もいない改札に設えられた、柱状の機械にICカードを通した。こんな秘境駅でも一応ICカードが使えることに驚く。聞き慣れているはずの『ぴっ』という電子音に違和感しか覚えなかった。新種の妖怪の鳴き声を思わせる音だった。
駅舎の外に広がっていたのは、果たして呆れるくらいの闇だった。
遠ざかってしまった防犯灯のお零れのような明かりのおかげで、正面がなだらかな下り坂になっているのは分かった。しかしどれほど下るのか、どこに辿り着くのかはまるで分からない。ひょっとすると地獄の底に着いて知らない間に骸骨とか腐肉とかに囲まれているかも知れない。
スマホのライトを起動し、真っ暗闇に足を踏み出す。
正面右手には防犯灯の淡い光を受けてうっすらと光るカーブミラー。左手にはギロチン台のように聳え立つ踏み切り。カーブミラーにあの世にお住まいの方が横切られるかも知れないし、とっくに終電が終わっているのに踏み切りが突然『カンカンカンカンカン』と狂ったように叫び出すかも知れない。
琢也は背筋を伸ばし、左右どちらからも目線を外し、正面だけを見つめた。
しかしひょっとすると。正面の坂の下から、ボロ布を纏った老婆が包丁を片手に猛スピードで駆け上がってくる可能性もある。
暗闇は妄想を逞しくする。
止めどない恐怖に無理矢理蓋をし、琢也はスマホのライトを正面の闇に向けた。
明日は丸森さんとデート。明日は丸森さんとデート。明日は丸森さんとデート。
念仏のように明日の予定を唱えながら、坂道を下り始める。できる限り景色は見ないようにして、視線は手元のスマホに落とす。
地図アプリによれば、このまま坂道を下っていくと国道に出るらしい。といっても何か店があるわけではない。ただの国道だ。ただの国道だが、車は通るに違いない。ヒッチハイクをする度胸はないが、タクシーを掴まえることはできる。金は家に着いてから両親に頼んで払ってもらうことにする。もちろんそれまでに財布が見つかれば自分で払うつもりだ。いくらになるのかは恐ろしくて計算したくないが、払えないような額にはならないはずだ。
坂道も終わりに差し掛かってきたところで闇の中に浮かび上がる街灯を見つけ、琢也は小走りになった。地図アプリが教えてくれたとおり、二車線の国道に出た。道路脇に立った標識にライトを向ける。通学路を示す青い標識。それに人の気配を感じ、恐怖心が少しだけ薄れた。
琢也は耳を澄ませた。右の方から音が聞こえてくる。車の走行音だ。音は次第に大きくなってきて、やがて闇を車のヘッドライトが白く裂いた。カーブを曲がってきた一台の乗用車が、エンジン音を響かせて琢也の視界を右から左に通り過ぎていく。赤いテールランプが闇に消えていくまで、ずっと車の尻を追っていた。
車通りはある。タクシーが走ってくる可能性もある。沸々と湧いた希望を拳に握りしめた。
国道は右が山梨方面、左が都心方面だ。左へ歩いて行けば間違いなく自宅へ近付く。数キロ先には駅があり、駅の近くには二四時間営業のコンビニもあるようだ。
タクシーを探しつつコンビニに向かうのが最善だろう。
たとえタクシーがつかまらなくても、せめてコンビニにさえ辿り着くことができれば、不穏な妄想が頭から離れ、心持ちはずっと穏やかになるはずだ。
琢也は意を決し都心方面に向かって歩き出した。国道とは言え、山道とあって街灯の数は少ない。視界は距離感が行方不明になるような濃密な暗闇。スマホのライトはあまりにも心もとないが、それだけが頼りだった。
例によって地図アプリに意識を集中させ、琢也はひたすら歩いた。車の音がする度に背後を振り返った。何台かの車やバイクに追い越された。残念ながら、タクシーは一台もなかった。
一人ぼっちで歩き続けつつ考えたのは、後輩の新堂仁歩のことだった。
自分が最後に会っていたのは仁歩だ。歌舞伎町から新宿駅までは一緒だった。しかし新宿駅からどうしたのかは覚えていない。気がついたら愛咲駅にいて、隣に仁歩はいなかった。
彼女はちゃんと家に帰れたのだろうか、と心配になる。
自分と同じように見知らぬ駅に一人ぼっちで取り残されていないだろうか。この状況はなかなかに悲惨で、絶望的だ。野郎ならまだしも、女子が一人で取り残されると身動きが取れなくなってしまうのではないだろうか。山道で変な輩に出くわせば、逃げ場などどこにもない。やかましいけれども大切な後輩の無事を願いながら、琢也は黙々と歩き続けた。
相変わらず闇からは抜け出せず、タクシーは通りかからない。おまけに、事態は悪い方へ転がり落ちようとしていた。
スマホのバッテリーが消えかかっているのだ。
地図アプリとライトを起動させ続けていたせいだろう。画面右上に表示された電池マークの残量表示はかなり細くなっている。
琢也は泣く泣く地図アプリを閉じ、ライトだけを使う事にした。妄想の養分となり得るこの闇と直に向き合わなければならないのは恐ろしいが、背に腹は替えられない。スマホが死んでライトが使えなくなったら一巻の終わりだ。その瞬間、琢也は闇と恐怖に呑まれて灰になる。
早くタクシーを捕まえたい。そう思うせいか、自ずと背後を振り返る回数が増えた。だがタクシーは一向に現れない。それどころか単純な車通りさえ減ってきた気がする。おまけに振り返る瞬間、もしかして闇の中に誰かが立っているのではないかと嫌な想像をしてしまう。
振り向きたくないが振り向いてタクシーが来るかどうか確かめたい。
そんなジレンマに悩み始めたときだった。
電話が鳴った。
突如として静寂を破った着信音に、琢也は思わずスマホを取り落としそうになった。すんでのところで持ちこたえ、冷や汗を拭いながら画面を見る。
新堂仁歩、と表示されていた。
「新堂……?」
深く考えず、琢也は着信ボタンを押した。
「もしも──」
『うっへへ────い! しぇーんぱーい? しぇーんぱいですか──?』
闇夜に奇声が踊り出す。
「……」
『あり? しぇんぱい? たくやしぇんぱい? どうしらんすか? へいへい旦那ぁ! 寂しい夜をお過ごしですかい! ええ!?』
「……何だよ」
『おうおう連れないれすねえ────! あーしが誰だか分かってますか? ねえねえ! 分かってますう──?』
「新堂だろ……ところでおま──」
『ピンポーン! せいかーい! ねえねえせんぱーい? せいかいのごほうびにー? プレゼントあげましょーかー?』
囁くような甘い声に、心拍数が少し乱れる。
『プレゼントはー、あ、た、し』
「……っ」
と思わず息を詰まらせ、
『ぬえっへっへへへへへ』
と遅れて聞こえてきた妖怪の笑い声に頭が理性を抱き寄せる。
琢也は車どころか獣の一匹さえ通らない山道に立ち尽くしながら、電波の向こうでスマホを握る仁歩の姿を想像した。恐らく湯がかれたタコのように顔を赤くし、ぐでんぐでんに一人ロデオに興じていることだろう。
「今どこにいんだ? ちゃんと家帰れたのか?」
『んへ? あ、ここ? どこだ?』
「おい」
声に少し焦りが滲む。会話から察する限り、仁歩は救いようがないくらいに酔っている。夜道で前後不覚になっているぷりぷりの女子大生を、街の狼たちが放っておくはずがない。仮に変な男に捕まらずとも、ふらっと車道に出てしまう可能性だってある。琢也は頭を掻きむしり、なかば怒鳴りつけるように、
「大丈夫なのか? 誰か迎えに来てくれる人とかいないのか?」
『……』
少しの沈黙があり、げぼぉ、とあまり可愛らしくない音が聞こえた
『………うぷ』
「おい、新堂?」
『えへへへへ。吐いちゃった』
「大丈夫か?」
『らいじょーぶれす! あらし、いま、家の最寄り駅にいます。ちょっと、寝てました』
「寝てた?」
『植え込みで』
「……大丈夫、なんだよな?」
『へーきれす。体には異常なし! なんも変なことはされてません! きっと』
能天気な声が返ってくる。危機感の一滴も感じられない能天気ぶり。心配するのが馬鹿らしく思えてきた。
「最寄り駅ならちゃんと帰れよ」
『うす』
「帰ってしっかり寝ろよ」
『うす』
「じゃあ」
切ろうとしたところで仁歩が言う。
『先輩、』
それは今までのように呂律が回らない口調ではなかった。
「なんだ」
『私のこと迎えに来てくれます?』
はっきりとした口調で彼女は言った。言葉の背後にはまだ酔っている気配がある。それでも、ただ、その言葉だけは正しく伝えたいという仁歩の強い意思のようなものが感じられた。
「──無理」
琢也は答えた。
「終電ないし。それに、俺も俺でいろいろめんどくさい状況なんだよ」
『酔ってるんれすか?』
「ちげーよ。今度説明すっから、今日はお前はとりあえず帰って寝ろ」
『えーお持ち帰りしてくらさいよー』
「もういいな? 切るぞ。あと何度も言ってるけど、明日デートなんだから、俺は」
『……ばーか』
「はいはい」
拗ねた声の後輩との通話を切りかけて、
『あ』
「なんだよ」
『ゲロどうしよ』
「見なかったことにしろ」
『服に付いちゃった』
「家帰って洗え」
『えーめんどっち。脱いで帰ろっか──』
ゲロまみれの服を躊躇なく脱ぎ捨てる後輩の姿を、琢也は一瞬だけ想像してしまう。ボーイッシュな見た目に反して彼女はたわわだ。シャツを脱いだら、それはそれは見応えのある光景だろう。田舎の夜道の自販機がごとく、悪い虫という悪い虫が狂ったように近寄ってくるに違いない。
「脱ぐんじゃねえよ」
とワンテンポ遅れて突っ込んだものの、返事はなかった。通話が切れたようだ。
さすがにどれだけ酔っていたとしても、花に楯突く二十の乙女が上半身を夜風に晒しながら練り歩くなんてことはしないだろう。琢也はそう思いつつ、何で通話が途中で切れたのかなと首を傾げた。酔った勢いで仁歩がボタンを押し間違えてしまったのだろうか。
違った。
真っ暗闇の中にその長方形の冷たさだけを感じながら、恐ろしい事実に気がついた。
スマホが死んでいた。
この底なしの闇における唯一の支えだったスマホが死んでいた。一ミリも画面を灯さず、一ミリも振動せず、ただの四角い金属の塊として手のひらに転がっていた。行く先を明るく照らしてくれたライトも、明日に希望を持たせてくれた地図アプリも、みんないなくなってしまった。
琢也は己の軽率さに愕然とした。
バッテリーは切れかかっていたのだ。そんな状況で電話をすれば切れるのは必然だった。何も不思議なことではない。何も不思議なことではないからこそ、もう少し深く考えれば回避出来た現実だからこそ、瀑布のような冷や汗が絶望の滝壺に消えるのである。
視界を覆い隠すのは、これまでの人生で味わったことのない完全な闇だった。明かりはない。一ミリ先も見えない。黒以外の色がない。前後に延々道が続いているはずなのに、密室の中に閉じ込められてしまったかのような閉塞感があった。
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