②
「────さん」
遠くの方から声が聞こえてくる。
「すみ────さん────よ」
声は頭の内側で何度もハウリングし、響く。何を言っているのか分からない。頭痛がする。頭はその声を認識しているのに、身体が反応しない。冷たい水底に沈んでしまったみたいだ。
「お客さん!」
一際大きい声に呼ばれ、琢也は目を覚まし、身体を起こした。
辺りを見渡す。白く眩しい照明、ぶら下がった公告。ずらりと並ぶつり革に、丸い手摺り。空っぽのシート。数秒の間があってようやく、ここが電車の中であることを認識した。
「え?」
と発した疑問に答えたのは目の前に立つ制服姿の駅員。
「お客さん、終点です。降りてください」
「はい?」
「終点です。電車、終わりです」
言葉に尻を叩かれるようにして、まだ状況把握もままならないというのに琢也は電車の中から吐き出される。人気のないホームに降り立ち、涼しい夜風が半袖の腕を撫でたところで背後にぷしゅうと空気が抜ける音を聞いた。
銀色の扉が静かに閉まり、車体上部の行き先表示が『回送』に変わる。誰も彼もを降ろした空っぽの電車が、炯々と明かりを灯したままゆっくりと動き出す。闇の中に浮かんだ白い無数の四角がだんだん小さくなっていくのを、琢也は頭痛とともに見送った。
「は?」
疑問符をもう一度。今度は答える声がない。無人のホームに、酒に飲まれた大学生の困惑の声だけが小さく消える。
ここがどこなのかを知ろうと、駅名が書かれた看板を探す。
ホームの真ん中ほどに、防犯灯の明かりをスポットライトのように浴びて、白い看板が立っている。琢也はそこに走り寄り、駅名を読み上げた。
「あいさき、えき」
知らない名前の駅だった。
冷たい焦りが背中を這う。体内に残っていたアルコールがすべて、冷や汗となって流れ落ちていくようだった。琢也は機械めいた動きで首を巡らせ、ホームの景色を確かめた。
何もなかった。
自販機もなければベンチもない。あるものと言えば、廃屋のような小さな建物に、ホームの反対側に設けられた鉄柵。点々と灯る、頼りがいのない防犯灯の明かり。
それ以外は全部、音すらも潰されるような真っ暗闇。
見上げた夜空には、都会では滅多に見られない量の星が輝いている。しかし星々への感動はなかった。心を埋めていたのは、世界の果てに取り残されてしまったような寂寥感だった。耳に響く静寂はまるで現実味を伴っていない。死んだのだろうかとすら思った。
おそるおそる足を踏み出す。ただのアスファルト。固く、ざらついた、何の変哲もない地面。
ホームを歩き、廃屋めいた建物に近付いてみた。どうやら待合室のようだ。しかし中には明かりさえついておらず、人の姿もない。薄っぺらい座布団が並ぶパイプ椅子が置かれているだけだ。
ため息をつきつつ窓を覗くのをやめると、待合室の横に時刻表が貼り出されているのを見つけた。資源の無駄にしか思えないようなスカスカの時刻表だった。
琢也はポケットからスマホを取り出し、今の時間と次の電車が来る時間とを照らし合わせようとした。次は何時に電車が来るのか知りたかった。こんな寂しい駅で長い時間待っていたら、闇と同化してしまいそうだ。できるだけ早く次の電車に乗りたい。
スマホ片手に時刻表を辿った指は、一度も止まることなく時刻表と待合室の壁との
境目を超えた。スマホの時刻表示を正確に見ながらもう一度繰り返してみても、結果は同じだった。
現在時刻は午前〇時一五分。愛咲駅発の電車は、午前〇時一〇分で終わっていた。
電車がない。
次の電車が来るのは翌朝の五時二〇分。気が遠くなるくらい先だった。
絶望が、指先から心臓までしみ込んで来る。思わずその場に崩れ落ちそうになるのを、琢也はどうにかして堪えた。
「まじかよ」
掠れた声が愛咲駅のホームに落ちる。人差し指の腹を時刻表に押し当てたまま、琢也は動けないでいた。見知らぬ駅で終電を逃したという事実を、頭が正しく理解できなかった。
しばらくして、琢也は思い出したように自分の身体に手を当てた。肩や背中に手を当てて見て、外出時に必ず携帯しているはずのボディバッグがないことに気がついた。悲劇の追い討ちだった。先ほど降りた電車の中に忘れてきたか。しかし思い返してみれば、駅員に起こされた瞬間からバッグを持っていなかったような気がする。
バッグの中には財布や文庫本、ハンカチ、ティッシュ、家の鍵、そして告白するときに丸森に渡そうと思っているプレゼントが入っている。文庫本やハンカチなどは最悪なくてもいい。しかし鍵と財布、プレゼントがないのは非常に困る。
琢也はその場をぐるぐると歩き回りながら、酒に浸ってしまった記憶を探った。
サークルの一次会の後、後輩の新堂仁歩と歌舞伎町の居酒屋で飲んでいた。
おそらく十一時半をちょっと過ぎる辺りまで。あまり飲んだつもりはないのだが結構酔った。居酒屋で支払いをした記憶があるので、そのときまでは間違いなくバッグを持っていたはず。その後は仁歩と互いを支え合うようにしながらふらふらと新宿駅まで歩き、電車に乗った。そして愛咲駅で目覚めた。どの電車に乗ったのかを覚えていないのが問題だ。
電車に乗るとき自分はバッグを持っていただろうか。琢也は自信がなかった。新宿駅はいつもの如く酔っぱらいと酔っぱらいと酔っぱらいで埋め尽くされていた。そのゴタゴタの中でバッグを落としてしまったのか。可能性はゼロではない。
見知らぬ駅に取り残され、財布が入ったバッグをなくした。一年分の不幸が降りかかってきたような状況に、琢也は深いため息を吐いた。
「最悪だ……」
これまでの人生で類を見ないほど虚しい一言がこぼれ落ちる。
そもそも愛咲駅とはどこなのだろうか。新宿からどれくらいだ。都内なのか、都外なのか。
琢也はスマホを取り出し、ウェブブラウザに「愛咲駅」と打ち込む。幸いにもインターネットには繋がるようで、画面越しに垣間見えた文明の気配にほっと一息安堵した。
愛咲駅は東京の外れも外れ、ほとんど山梨県と言っていい山間にある小さな無人駅だった。地元民と鉄道ファンくらいしかその名を知らない、秘境同然の駅である。
駅名からたどって周辺地図を呼び出してみる。そして絶句した。
バグっているのかと思った。
だがそうではなかった。
駅周辺がクリーム色と灰色で塗り潰されているのは、バグのせいではなかった。
ただただ何もないのだ。
カラオケもネットカフェも、コンビニさえない。何もない。民家が数軒建っているだけだ。
いよいよ琢也は愛咲駅の秘境具合を深刻に受け止め始めた。
始発までの六時間ほどを、この陸の孤島のような駅で過ごさなければならないのだ。何もない闇の中に一人きりで。何が出るか分からない。野生動物や夜遊びに更ける不良、あるいは白装束を纏った女の霊。この先に自分を待ち受ける恐怖を勝手に想像すると、心臓は握り潰されるみたいに小さくなっていく。
できる限り明かりの側にいようと思って防犯灯の下に立ち、見えない恐怖を振り払おうとして数時間後のことを考えた。
大丈夫。明けない夜はない。朝は絶対に来る。この夜を耐えれば待っているのは丸森鳴乃とのデートだ。映画を観て、ご飯を食べ、水族館に行き、夜景の綺麗なレストランで夜ご飯を食べ、告白。告白は成功し、自分と丸森鳴乃は恋人同士になる。実際のところ、告白が成功するかは分からない。しかし今は成功する前提に立つ。なぜならその方が幸せだからだ。幸せであれば頭の中から恐怖は去っていってくれるだろうと思ったからだ。
「……」
明日のことを考え始めて間もなくして、琢也は嫌な予感を覚えた。
「……まてよ」
再びスマホを取り出し、始発に乗って愛咲駅を出た場合の経路を調べた。
ややあって画面に表示されたのは、自宅の最寄り駅に朝八時に到着するという経路。しかもこれが最短経路だった。
丸森とは新宿駅で一〇時に待ち合わせている。自宅から最寄り駅までは徒歩二十分。最寄り駅から新宿までは一時間弱。着替えやシャワーを最速で片付けたとしても、待ち合わせにはほぼ確実に遅刻する。しかも一〇時半には映画が始まる。待ち合わせ時間を三〇分以上引き延ばすことはできない。
最短で帰るには始発を待たねばならず、始発を待てばデートに遅刻する可能性が高い。
愛咲駅と同じように、琢也の明日が四方を闇に閉ざされていく。細いため息とともに見上げた防犯灯が不規則に明滅する。街灯の光に浮かび上がった自分の影がノイズのように乱れる。
琢也は目の前に巨大な壁のように聳え立った山肌に向かって言う。
「嘘だろ」
返事はない。大自然はむっつりと沈黙を貫いている。
***
酔って自宅アパートの部屋に帰ってきた猫田珠紀は、適当に靴を脱ぎ散らかし、廊下の電気を付け、靴下脱ぎかけの千鳥足でフローリングの上を滑った。廊下に散らかるゴミ袋を見て見ぬ振りをしながらすいすいすいと通り抜け、通販のダンボール箱が積み上がったリビングへ。前人未踏ウサギのぬいぐるみが転がる絨毯の上にハンドバッグを投げ捨て、テレビの電源を入れる。お笑い芸人が際どいラインを攻める類のドッキリバラエティがやっている。洗濯物山脈をソファの上から蹴り落とし、脱ぐものも脱がず取るものも取らずその上にダイブした。
しばし、頭を空にしてソファの柔らかさに身も心も委ねる。足の筋肉が解けていく。溜まった疲労が身体の外に溶け出していく。ような気がした。視界の外でお笑い芸人が叫んでいる。
大学の授業は休みなのに朝から夕方までみっちりレストランのバイトをこなし、金曜日だからとバイト仲間の飲み会に駆り出され、いい歳こいてバイト暮らしをしている自称夢追い人の三十歳のどの口から出るのか分からない人生に関するスカスカの高説に延々と愛想笑いを振りまく数時間を余儀なくされ、ようやく帰宅。
このまま溶けて消えてしまいたい。ソファの肘置きを枕に半ば本気でそう思う。
テレビから流れてくるのが芸人たちの悲鳴からソシャゲのCMに替わったところで寝返りを打ち、珠紀は絨毯の上に転がしたハンドバッグの中からスマホを取り出す。ソファに横になりながらTwitterをチェックする。
「……減ってる」
自分のアカウントのトップページに表示されているフォロワーの数を見て虚しく呟いた。今日の昼までは三〇〇人いたフォロワーが、今、二九五人に減っていた。たかが五人か、されど五人か。珠紀にとってはされど五人だ。消えた五人の分だけ心が欠けてしまったようだ。
そのまま続けてYouTubeの、自分が開設しているチャンネルのページに移動する。Twitterのフォロワーが減ったのだからわざわざ確認しなくても結果は見えているようなものなのに、それでも指は勝手に画面をタップしていく。期待と不安で喉が鳴る。
チャンネルの登録者数も減っていた。しかもこっちはごっそり一〇人。なぜだろう。私は何か悪いことをしただろうか。珠紀はスマホを両手で握りしめ、登録者数に向かって目を細める。
「なんでよ」
一人ぼっちの部屋に溢れた声を、拾ってくれる人は誰もいない。目の奥が熱くなって涙が溜まっていくが、決して漏らすまいと顔に力を込める。けれどもそのせいでかえって泣ける。
涙の粒を拭い、YouTubeのホーム画面に戻る。数多のクリエイターたちの最新作が、リロードするたびに増えていく。再生数が秒刻みに更新され、容赦なく視聴者に評価されていく。その流れを見る度に珠紀は息が詰まるような思いにとらわれる。こんなクリエイターの荒波の中にあっては、誰も自分の動画になんか興味を抱かない。
私たちには十分満足のいくコンテンツがあるからお前はいらない。無駄な努力だ。つまらない動画上げやがって。どうせYouTubeでは食べていけない。現実を見ろよ。そんな視聴者たちの声が聞こえてくるようだ。
自分の動画は無価値だ。自分は無価値だ。そんな思いが鬱々と溜まっていく。YouTubeで食べていけるようになる。こんな夢捨ててやる。堅実に大学を卒業して堅実に就職して堅実な大人になってやる。もう動画投稿なんてしない。やめる。
毎日毎日そう思う。けれども結局はやめることができない。
持ち続けるにも捨てるにも、夢というものは重すぎる。
また溢れ出てきた涙を拭い、珠紀は自分のチャンネルの画面に戻った。夢を捨てることができないから、今日も胸が張り裂けそうな気持ちで、自分の動画を自分で貶しながら投稿する。
今まさに電波の大海に流れ出ようとしているのは、自宅のバスタブでタバスコの湯を炊き、それに浸かってリアクションをとる動画だった。自分でもバカげた内容だと思う。けれども過激なことをしてるし、服だって脱いでる。何もかもを曝け出してる。だから今回こそは動画再生数一万を越えて欲しい。強く祈りながら投稿ボタンを押し、『アップロード中』という文字が画面に表示されたときだった。
インターホンが鳴った。
珠紀はスマホから顔を上げ、ソファの上に身を起こした。思わず部屋の時計に目をやる。時刻は午前〇時二〇分。こんな真夜中に一体誰が訊ねてくるのだろう。不審に思いながらも、もしかしたら友人かも知れないと思ってソファから立ち上がった。あるいは宅配便。しかし頼んだ覚えはない。
「はい、どちら様でしょうか?」
呼び出しに応じてインターホンの向こうへ訊ねる。
『夜分にすみません。隣の部屋のものですが』
気弱そうな男の声だった。そういえば私は隣の部屋に誰が住んでいるのか知らないな、と珠紀はこのとき初めて気がついた。
「はあ」
とりあえず出てみることにした。大学生の女がこんな夜分の来訪者に応じるのは冷静になって考えてみればとても危険なことのはずだが、あまり意識していなかった。飲み会帰りでまだ酔いが抜けていなかったせいもあっただろう。
ゴミだらけの廊下を抜けて玄関扉を開けると、そこに立っていたのは当然のように初めて見る男だった。黒髪を真ん中で分け、色白で、顔のパーツは全体的に薄い。五秒目を離したら忘れてしまいそうな減塩された塩顔。無地のグレーのシャツからは洗剤の柔らかい香りと清潔感が漂ってくる。
「えっと、何の用でしょうか」
先ほどまで泣いてたことを気取られないように目元を拭いつつ、珠紀は訊いた。
男はこちらをじっと見つめた。それから珠紀の背後に物寂しげな眼差しを向け、何
事かを口にした。何と言ったのかは分からなかった。
「はい?」
訊き返した直後、男は扉をこじ開けるみたいにして引き、部屋の中に身を滑り込ませてきた。
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