「それにしても驚きましたよね、あの人たちには」

「あー?」


 目の前に座った後輩の新堂仁歩の言葉が、藤野琢也の頭にはすぐに入ってこなかった。居酒屋の店内が騒々しいせいではない。今までの会話の内容をまるで無視した話題だったからだ。


 琢也は仁歩が被るキャップに書かれた『前人未踏』の文字を見つめ、そこからはみ出した金色の髪の毛を見つめ、彼女が小さな手で剥いて皿にまとめた枝豆の山を見つめ、そしてようやく一次会の話を持ち出されているのだと気がついた。


「あー、あの乱入してきたヤツらか」

「そうですそうです」


 仁歩は積もり積もった枝豆をちまちまと口に運びながら頷いた。


「喧嘩でも売られるのかと思いましたよ、ほんと。会長とか顔真っ青でしたもん」

「そりゃあの状況じゃあ誰でもそうなるだろ」


 ため息とともに同意しながら琢也は、つい一時間ほど前の出来事について思い返した。


 新宿にあるこのチェーンの居酒屋で二人だけの二次会を始める前、彼らは別の店で所属する大学サークルの飲み会に参加していた。


 二人が所属しているのはオールラウンドサークルと称したお遊びサークル。とはいえ一般的なオーランサークルとは違って、集まっているメンバーにはいわゆる陽キャやパリピ、ウェイといった明るめ強めの人種は少ない。日陰者も日陰者なりに青春を謳歌したいんだ、という強い思いによって成り立っているサークルである。


 今日は昼間に、二カ月に一度のサークル内スポーツ大会(競技の内容は毎回さまざま)が開催された。飲み会はその後に行われた打ち上げのことだ。しかし何か特別なことをするわけでもない。有志で居酒屋に押しかけて騒ぐだけの会だった。参加者は二〇人ちょっと。好きなように飲み食いし、座敷席ということもあって少しだけ暴れ、内輪でわいわいと盛り上がった。


 琢也は同期や先輩にお膳立てしてもらって片思い中の相手である丸森鳴乃の側に行き、酒の力を借りていろいろと話しかけた。酒に強い仁歩は座敷を徘徊して見つけた先輩を片っ端から酔い潰して回っていた。


 そんなときだった。


 何の前触れもなく座敷の襖が開き、数人の男たちが琢也たちの座敷に上がり込んできたのは。


 サークルの面々は警戒した。


 肉食動物の接近を感じ取った草食動物の群れのようだった。乱入してきた男たちは皆体格がよく、声が大きく、本物の肉食動物のような力強い雰囲気を全身から漂わせていた。お遊びサークルの子羊のような面々とは明らかに人種が、ともすれば流れている血の色も違っていた。


 男たちはジョッキを手に座敷の方々に散らばると、まるで始めからサークルの一員だったかのように自然にサークルのメンバーと乾杯を始めた。彼らのうちの一人は琢也の隣にも座った。赤い髪を逆立てたかなり威圧的な見た目をした男だった。身長は一八〇センチほどあり、何か運動でもしているのか、首から足までたくましく鍛え上げられていた。彼は「うーっす飲んでるー?」などと話しながらごく自然な動作で付近にいた全員と乾杯を済ませると、平然と琢也たちの話題に加わった。


 そうして彼らは、一次会が終わるまでずっと座敷に居続けた。


「──まあ、悪いヤツらじゃなかったし」


 琢也は丸裸にされた枝豆をつまみながら呟いた。


「ま、結局そこですよね」


 仁歩が頷く。

 男たちは確かに琢也たちとは相容れないタイプだった。しかし、悪い人間ではなかった。


 酒が入っていたせいもあるだろうが、彼らは話が面白く、気さくで、ノリもよかった。彼らが加わったことで、飲みの席はより一層賑やかになった。琢也は五分もすれば隣の席の赤髪とすっかり打ち解けていた。何年も付き合いのある友だちのようにバカ話を繰り広げ、肩を叩いて笑い合った。赤髪が丸森鳴乃と親しげに話していたのには少し嫉妬したが、分け隔てなく人とコミュニケーションを取る性格なのだろうと考えれば許せた。


「それにあの人たち、『割り込んで申し訳ない』って言って結構な額置いてったらしいですよ」

「そうなのか?」

「会長が言ってましたもん。だから一次会の会費、予定よりも安かったんですよ」

「へー。というか、結局誰だったの? あの人たち」

「YouTuberらしいです」


 仁歩は首を傾げながら、ジョッキの底に溜まったビールをぐいっと飲み干す。


「メロンパンズっていう有名なグループみたいですよ。登録者数も五十万人近くいるっぽいです。今日は他人の飲み会に勝手に乗り込んだらどうなるかを検証する企画だったんですって」

「YouTuberね。どこにでもいるんだな」

「ですよねー。私の隣の部屋の人もYouTubeっぽいですし」

「へえ」

「二十代前半くらいの女の人で、夜中にときどき『本日の動画は~』みたいな声が聞こえてくるんですよ。なので多分、そうじゃないかなあ、と」

「へえ。新堂もやれば?」

「え~やっちゃおっかな~」


 冗談めかして笑う後輩を尻目に、琢也は手元のジョッキを傾ける。中身がなくなっていた。


「あー、先輩。空になりましたねえ、ジョッキ」

「……だから何だよ」


 琢也はにんまりと笑みを浮かべた後輩を見つめる。仄赤くなった頬と、溶けたチーズのように開かれた口元。サークルきっての酒豪、新堂仁歩のその顔に、快くない予感を覚える。


「さ、次飲みましょう、次」

「一旦休憩だ、休憩。水を飲む」

「すみませーん! おねーさん! 一ノ蔵一合! おちょこ二つ!」

「おい。水だって」


 琢也の声は間に合わず、通りすがりの女性店員は「はいよろこんでー」と答えて去っていった。


「いやだなあ、せんぱい。日本酒は腐った米が入った水ですよー」

「酒蔵の人に殺されるぞ」

 琢也は呆れた声で言う。


「まあまあ」


 仁歩は微笑み、間もなくしてやってきた日本酒を流れるように自然な動作で猪口に注ぎ分けた。注がれてしまっては捨てることもできない。琢也は渋々猪口を自分の手元に引き寄せた。


「今日は金曜ですから。飲みましょ飲みましょ。はい、かんぱーい!」


 豪快に猪口を傾けた後輩とは異なり、琢也は啜るように酒を口にした。アルコールの匂いが鼻に抜けていく。その合間にもう仁歩は自分で二杯目を注ぎ始めている。電光石火のペースだ。


「潰れたら置いてくぞ」

「えー? ひどーい。さ、二杯目飲みましょ、二杯目。早く飲みほしてくださいよー」

「飲まねえよ」


 喜々として徳利を持つ後輩をあしらい、また一口啜った。琢也には琢也のペースがある。


「先輩のげこー」仁歩はぷりぷりと頬を膨らませる。「げこげこ。カエル男。ハエでも食ってろ」


「お前酔ってるだろ」

「えー、酔ってますう。酔ってるう。だからお持ち帰りしてえ~」


 三杯目を手酌しながら、仁歩はわざとらしい甘え声で言う。琢也はそれに冷めた目を返した。


「いらね」

「先輩のばーか」


 腹いせのようにキュウリの浅漬けを頬ばった後輩を見て、琢也は酔い始めた脳みそで思う。


 新堂仁歩は可愛い。


 ショートカットの金髪にくりっと大きい目、笑うと見える小さな八重歯、ほんのり丸みを帯びた輪郭。ボーイッシュな服装に反してメリハリのある体つきに、だいたいの男は心を奪われる。ルックスはサークルの中でもトップクラスで、仁歩が入会してきたときには男子会員はちょっとした祭りになった。丸森鳴乃に続いて二年連続の美女入会。ただでさえ男子の比率が多くむさ苦しいサークルのため、女子というだけで大興奮なのに、おまけに可愛いとあっては盛り上がらずにはいられないのが男の性だ。


 新堂仁歩は可愛い。可愛いのだが、今の琢也にとって彼女はただの後輩の女子でしかない。


 理由は、


「明日、丸森先輩とデートだからですか?」


 浅漬けを飲み込んだ仁歩が愚痴っぽく呟き、琢也の思考は後輩との飲みの席に戻ってくる。


「ん?」

「デートだから私をお持ち帰り出来ないんですか?」

「そうだよ」


 琢也は不意にデートの話題を持ち出されたことに気恥ずかしさを覚え、顔を背けながら猪口に口を付けた。


「じゃあデートじゃなければ私をお持ち帰りしてくれる?」


 身を乗り出し、顔を近づけてくる仁歩。赤らんだ丸い頬はりんごのように艶やかで、少し視線を下にずらせば緩んだTシャツの隙間から深い谷間が。


「……しねえよ」


 琢也は椅子を引き、体を横に向けた。早まった心臓の鼓動を抑えるように水をがぶ飲みする。


「なんで水飲んでるんですか」

「いいだろ」

「というかちょっと迷いましたね? 迷ったでしょ?」

「うるせえ」


 琢也はテーブルに向き直って徳利を持ち上げ、けらけら笑う後輩の猪口に残りの酒を全部注ぎ込んだ。


「飲め。飲んで潰れろ。会計はしておいてやる」

「じゃあついでにお持ち帰り」

「しない」

「ばーか」


 仁歩は四杯目を軽々飲み干し、そばを通りかかった店員に別の日本酒を頼んだ。


「で、明日告白するんですか?」

「まあな。もう五回目だし、デート」

「あーあ。てことはもう先輩とこうして二人で飲みに行けなくなるんですかねー」

「どうだろうな」


 残念そうにする後輩を尻目に琢也はまた一口酒をすする。


「まだ付き合うと決まったわけじゃねーし」


 言いながら口元が緩むのを自覚した。


 丸森鳴乃と付き合うかどうかなんて分からないフリをしながら、頭の中にはもう付き合ったらどうするかという考えが浮かび上がっている。付き合って最初のデートはどこに行くか。クリスマスはどう過ごすか。バレンタインにはどんなお菓子をもらうか。初めてのお泊りは山奥の隠れ家的な旅館にするか、海沿いの開放的なリゾートホテルにするか。胸が躍る。


「先輩の顔きもい」


 仁歩が目を細めた。


「悪いな、幸せで」

「ばーか」


 仁歩は口を尖らせ、新しい酒を新しい猪口に注いでヤケっぽく飲み始める。それを見ながら琢也もようやく一杯目を飲み干した。すかさず二杯目を渡される。


「……ちょっとトイレ」

「お、先輩のくせに逃げるのかー?」


 呂律のおぼつかない挑発を、琢也は華麗に無視した。



「おかえりなさーい」

「おう」


 トイレから戻ってきた琢也を、仁歩は徳利を揺らしながら迎えた。


 テーブルには新たなつまみが出現していた。唐揚げ、もつ煮、ポテトフライ、それから枝豆がもう一山。どれだけ食うつもりなのか。雑然としたテーブルを眺め、自分の猪口がどれだか分からなくなり、しかしどれでも構わないと思って適当につまみ上げると、


「あ」


 仁歩が言った。


「それ、私の」


 琢也はもうその猪口に口を付けて飲んでしまっていた。


「……悪い」

「あ、その」


 仁歩はらしくない上擦った声を出し、気まずそうにうつむいた。顔がほのかに赤くなっているのは、きっと酒のせいだろうと思う。


「今さら口づけで恥ずかしがるのかよ」

「ち、ちが!」

「意外にうぶなんだな、新堂」

「ばーか、ばーか!」


 うぶなわけあるかい!とでも言うように彼女は琢也が口を付けた猪口を奪って酒を飲む。猪口ごと口に入れて噛み砕きそうなほど豪快な飲みっぷりだった。


「てかお前のその帽子、なに? 『前人未踏』って」

「知らないんですか? 『前人未踏ウサギ』」


 仁歩はキャップを外し、『前人未踏』の文字のすぐ下に描かれた、片耳が折れたウサギのロゴを見せた。


「最近女子の間で流行ってる海外のファッションブランドですよ。デキる男なら知っとかないと。丸森先輩も今日、このロゴが入ったTシャツ着てましたよ」

「一次会のときに教えてくれよ」


 前人未踏ウサギ、前人未踏ウサギ、と琢也は頭に刻み込む。もしも明日以降、彼女がそのブランドの服を着ていたら間髪入れずに話題を振ろう。そう決めた。


「ほかに何かない? 丸森さん情報」


 続けて訊いてみると、仁歩はすぐには何も答えず、じっと目を細めた。琢也のことを訝るような、そんな目つきだった。彼女は先ほど琢也が口を付けた猪口の縁をなぞりながら言った。


「そうですねー、まあ、あとは歌舞伎町にあるカフェですかね。『もぐらの寝床』っていう」

「あ、それは聞いたことあるな。フレンチトーストが美味いとかなんとか」

「なんだ。知ってたんですか」

「いつだったかのデートのときに教えてもらった。丸森さんはよくそこでモーニングを食べるらしい」

「へー。でも確か、丸森先輩って埼玉の方ですよね? 住んでるの」

「あー、そうだな。それがどうかしたのか?」

「いえ、別に。なんでもないでーす」


 そう言いながら仁歩は徳利を持ち上げ、酒に溶けた顔に笑みを浮かべ、


「ま、細かいことはいいからじゃんじゃん飲みましょうせんぱい!」


 中身を琢也の猪口に遠慮なく注ぐ。


「だから俺は明日が」

「明日に備えて飲むんですよ。素面で告白なんかできるかー!」


 後輩のその勢いに圧され、琢也はしぶしぶ日本酒が並々と揺れる猪口を手に取る。彼の中ではいよいよ、一次会から溜め込んだアルコールが本領を発揮し始めていた。


 素面で告白なんかできるか。


 仁歩の言葉が頭をループする。酒の水面にうっすらと浮かぶ自分の顔は、明日のデートに怯えているようにも見えた。明日で終わる。結果はどうあれ、この片思いの日々に区切りが付く。  


 怖い。もし付き合うことができなかったら。今後のサークルの活動に影響するだろうか。


 不穏な思いを抱えた自分の顔を、琢也は一気に飲み干す。

「いい飲みっぷりですねえ、先輩!」


 仁歩は空になった琢也の猪口に新たな酒を注ぎ足し、自分は自分で負けじと徳利ごと飲み始め、さらにまた新しいものを追加する。


 藤野琢也の告白前夜は新宿歌舞伎町の飲み屋の一角で、こうして日本酒とともに更けていく。

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