泣くなよ、ヒーロー

夢見遼

泣くなよ、ヒーロー

薄緑のカーテンを開けると暖かな日が差し込んだ。嵐も過ぎ去り、雲一つ無く晴れた空は、底抜けの青色だ。一つ伸びをして、裸足のまま台所に向かう。そろそろ春も半ばくらいで、朝も寒さを感じなくなった。これなら大丈夫か。ケトルでお湯を沸かし、食パンを二枚用意して、戻して一枚だけトースターにつっこむ。その間にマグカップとインスタントコーヒーの粉を用意し、食パンに何をつけようかと冷蔵庫を開いたらジャムもバターも切れていた。昨日一昨日と豪勢に使った分、冷蔵庫の中は空いていて、今日の帰りはスーパーに寄ることを決める。

壁にかかった時計を見る限り、あまり余裕も無いので、焼き加減も見ずに食パンを皿に出し、リモコンに手を伸ばす。流石にただのトーストだと味気ない。卵かソーセージでもあったかなともう一度冷蔵庫を開けると、玄関の方でピンポーンと間延びしたチャイムが聞こえた。朝も早くから何だろうか、まさか帰ってきたかとスリッパを引っかけドアを開ける。

「藤咲正人さんご本人でよろしいですか?」

「はぁ」

目の前には特定の職業の男。頭が回らなくて、パジャマで出ちゃったなぁと見当違いな後悔をしてしまったが、たぶんそれどころではない。

「警察です。事情聴取のため、署までご同行願います」

沸騰したケトルがピーと甲高い声で鳴いた。





都会の夜、飲み屋通りはガチャガチャと目にも耳にも騒がしい。安い照明、ジョッキのぶつかる音、加速した陽気でいつもの三倍ボリュームを上げて喋る人。特に華の金曜日はどこも騒がしく賑やかだ。その喧騒の端で、俺は昔ながらの大衆居酒屋で塩辛い肉をつまんでいた。

「本当に二次会抜け出して良かったのか?主役だろ?」

同じく塩辛い肉を貪り食っている男に話しかける。

「いいよいいよ。お前も分かってるだろ。あれは俺の昇進にかこつけて、飲んでるだけだ。主役がいようがいまいが飲めりゃいいんだよ。なぁ、この肉さすがに胡椒が効きすぎじゃねぇか?」

磯谷は箸をぱちぱちと行儀悪く鳴らしながら、もやしのナムルにも手をつける。この店は種類こそ少ないものの、酒もつまみも安い。新卒で金が無い時期から今まで、贔屓にしている馴染みの居酒屋だ。

「いや、それにしても昇進おめでとう。磯谷もついに役職かぁ」

「役職っつってもなぁ。大したことねぇよ。名だけだ。給料もそう増えねぇし」

片手を挙げて店員を呼びながらも、その顔からは言葉に反して満足感が読み取れる。同期が役職に着いた。30代後半。そろそろ、という時期だ。

「生中と、砂肝。お前は?」

「ウイスキーのロック」

同期の昇進は純粋に嬉しく、めでたいことである。一番隣で愚痴を聞いて努力を見ていた分、憎思うことはないが、焦りはある。良くも悪くも同期は真っ先に目に入る比較対象だ。

「そういえば、矢田んとこ、産まれたんだって?間嶋んとこも二人目っつってたし、事務の女の子、多田ちゃんだっけ?あの子最近体調悪いって休んでたろ。ありゃおめでただな」

磯谷の言葉が鋭利な刃物のように刺さり、口に入れた砂肝が不味くなる。

「ああ、そうだな」

磯谷も俺も独身だ。磯谷に関しては、顔が悪いわけでも無いし、めでたく役職だ。女はすぐに寄ってくるだろう。対して自分は。

「せめて業績上がれば、仕事熱心で未婚の言い訳にもなるのにな」

溜息につられるよう漏れ出した本音は、ここ最近の悩みだった。

「藤咲も真面目だからすぐ認められるって。結婚はお前が興味無いだけじゃねぇの?」

「お前に言われたくない」

磯谷は煙草を咥えながら、俺は募集中だけどな、と笑う。嘘つけ。「磯谷さん」って言い寄る女を適当に躱しているくせに。

「もう30代後半だぜ?仕事もダメなら結婚もしてない。どうすりゃいいんだよ」

「まぁ仕事と結婚がすべてじゃねぇって」

煙草の煙は心情の代弁かのように揺れ、匂いだけを残して消える。

「お前に言われたくねぇ」

手元のウイスキーを勢いで煽った。「おいおい飲み過ぎだって」と揶揄するような声は無視。磯谷から逃げるように視線を逸らした先は小型のテレビで、物騒なニュースが流れている。通り魔だとか、子が親を殺したとか、金のための殺人だとか、芸能人の不倫だとか、行方不明だとか。

「暗いニュースばかりだな。世間も俺も」

「なんだよお前。だいぶまわってんじゃねーの?」

ビールをちびちび飲みながらうははと笑う男を睨んでみる。

「ほら、結婚しても幸せとは限らないぜ?こどもが親を殺すこともあるらしいし。怖ぇよな。家出して行方不明も嫌だなぁ~。かといって未婚で出世して金持ってても殺されるかもしれねぇし」

「特例だろ?そんなん。おっちゃん、焼酎、芋!」

「おう、お兄さん大丈夫かぁ~?」

おっちゃんにも心配されたが、こんなの飲まなきゃやってられるか。同期の昇進、結婚、間近に迫る30代後半。働き盛りと言われても、業績は上がらないし、将来のビジョンは曇ったままだ。

「このままは嫌だ。世間は暗いしヒーローにでもなりてぇよ」

「おいおいどうした。大丈夫か?」

耐えきれないように噴き出す同期の声が腹立たしい。本気では無いが冗談でも無い。どうすれないいか分からない。お前はいいよ、昇進して一段高いところに上がれば、見える景色もだいぶ違うだろう。こっちは何も見えない。仕事は評価されない。いまさら転職なんか出来ない。結婚も宛てがない。考えれば考えるほど手も足も出ない蟻地獄に沈んでしまう。

「どうしようもねぇ」

「諦めるなよ~。そんなこと言わずにさぁ」

「だからお前に言われたくねぇよ」

居酒屋の騒がしさに紛れて一人泣きそうになった。



その先はあまり覚えていない。酒を大量に飲んだ記憶はあるし、目覚めたのは自宅のベッドだから、どうにか帰ったようだ。がんがんと揺さぶられて痛む頭に、窓を打ちつける激しい雨の音が響き、久々の二日酔いに参って目を覚ますと、部屋に男がいた。





黒のパーカーでフードを被った男が部屋の座椅子に胡座をかいている。人間、驚くと悲鳴も上げられないらしく、部屋に見知らぬ男がいようが何も反応できない。ただ顔から血が引き、手足が硬直するだけだ。一度瞬きしてみたが、部屋の様子は変わらず、男が胡座をかいている。男はぼんやりと天井を眺めており、考えごとをするように、時折頭を動かす。こちらに気づく素振りは見せないので、目を閉じて寝たフリをしてみる。なぜ、見知らぬ男がいるのか。身動き一つせずに昨日の記憶を探るが、二日酔いの頭では再現映像にノイズが邪魔をして使いものにならない。 男が動いている気配は無いので、このまま様子を覗う。

男が入り込めた理由は大方泥酔時の鍵のかけ忘れだろう。現に昨夜の記憶がさっぱり無い。もし男が強盗であれば寝ている間に、全てを終わらせ出て行くはずだ。殺人強盗であり口封じのために殺すとしても、デメリットの方が多い。ではなぜ、まだ部屋の中に残っているのか。キャッシュカードの暗証番号でも吐かされるのだろうか。それとも快楽殺人鬼か。そしたら完全に死だ。生き残れない。

いくつかのパターンを想像してみて、どのみち窃盗被害か傷害、最悪の場合は死に至る可能性がある、という結論に辿り着く。昨夜鍵をかけなかった自分が悪いのだが、独身平社員の家を狙うのはあまりに理不尽だなぁと心の中でぼやいてみた。

男が動く気配は無い。部屋には勢いが収まらない雨の音と五分遅れの時計の秒針がやけに響く。このまま息を止めるように寝たフリを続けるのも限界が近い。一度目が覚めると、布団の暑さや身体のむず痒さが気になって仕方が無くなり、意識を逸らせたいのに、上手くいかない。昨日雨が降っていたというのに、風呂に入らずワイシャツのまま寝たせいで、肌触りが悪い。

30分くらい耐えただろうか、堪らなくなり、ごそりと動くと、衣擦れの音で男が気づいた。

「あ?起きたかおっさん。声出すなよ。スマホ、俺持ってっから。変なことしたら壊す」

男はこちらと目を合わせると、無地の黒カバーのスマートフォンを掲げ、投げる真似をした。俺はベッドの中から動けない。

「ご、強盗か?言っておくが家には金目のものは無い」

起きたての腑抜けた声と十分に回らない呂律で、なんとか説得を試みる。何故スマホを人質に取られたのか理解できないが、俺は昨日の自分を悔いた。もう一生酒は飲みすぎない。帰ってきたら絶対鍵をかける。そしてお金が貯まったらオートロックのマンションに引っ越す。

「はぁ?強盗じゃねぇし。昨日お前言ってたろ。匿ってくれるって」

男は呆れたように返す。その声はやや上擦っていて、思春期特有の声変わりを思い起こさせた。

「え?何の話、ですか?」

強盗では無いことと、相手がこどもであることが分かり、忙しなく焦っていた鼓動が落ち着き、余裕が生まれる。手元の布団を捲って上半身を起こし、青年と対峙するが、フードの影から覗く痛々しいピアスに、先程までの威勢がすっかり萎えた。

「くそ酔っ払い。昨日の夜、家出したから泊めてやるって」

男はがしがしと頭を掻きながら、苛立たしそうに舌打ちをする。あ、思い出した。そうだ、した。約束。

頭の奥の方でうっすらと記憶が蘇る。昨晩、酒を浴びるように飲んだ後、磯谷と別れ、駅からの帰り道で一人の青年を見つけた。小雨を避けるように、下を向きながら宛てもなく歩く姿を見て、思わず声をかけたのだった。しかもあの時はしっかり酔っ払っていて、将来の不安でボヤいたばかりだ。迷子のような青年を放っておけず、「どうした?青年。家に来るか?」なんて言った気が、しないでもない。いや言った。捨て犬を拾った気分で言った覚えがある。

本日二度目の後悔。酒を飲み過ぎない。しばらく断酒。

「分かった。思い出した。そうか。俺が自分で家に入れた」

自分で言って自分で頭を抱える。そうだ、言った。思い出した。昨晩の自分を殴りたい。

「はぁ~。おっさんバカかよ。普通家入れないだろ」

青年は再度大きな溜息をつき、ずんずんとベッドに近づいてきた。

「雨、すげーから。あがるまで居させろ。昨日お前が居て良いっつったんだからいーよな。お前は外出るなよ。スマホも返さねぇ。絶対変なことすんじゃねぇ」

早口で捲し上げると、青年は座椅子に戻り勝手に充電器のコードを青年のだと思われるスマートフォンに差し込んでいた。何だよ一体。

改めて青年を観察してみる。身体よりも一回りほど大きい黒のパーカーと、目元が見えないように被ったフード。端から覗く金髪に耳元の厳つい数個のピアス。黒のズボンと細い手足。怪我の跡も多少あり、口の端は切れて血が固まっている。全体的に薄汚れていて典型的な不良だ。

相手の姿を視認し、刺激しなければこちらに害が無いことが分かると、腹が立ってきた。そも自分は家主であり、青年は泊めてもらっている状況だ。自分が遠慮する必要は無い。正直、その気になればスマホも奪い返せるだろうし、追い出せる。下手に出る理由も無ければむしろ、高圧的に攻めても良いぐらいだ。が、自分から家に招き入れた以上、今すぐ追い払うことはできない。

しかしいつまでもベッドの上で膠着状態を続けているわけにもいかない。まずはシャワーを浴びて着替えたいし、腹も減った。現段階の証拠だけだと青年は信用ならないが、口ぶりからして本当に家出なのだろう。手を伸ばしてカーテンを払ってみたが、雨足は弱まることなく、窓を叩き続けている。俺が目を離した隙に携帯なり財布なりを持ち出して逃げるより、雨が上がるまでは家で待機する方が利口だろう。

「シャワー浴びてくる」

そもこの部屋の主は自分なのだから、自由に振舞ってもいいはずだが、一応報告はしてみる。青年は首を回して、こちらを見たが、興味無さそうに視線をスマホに落とした。

熱いシャワーを浴び、着替え終わる頃には二日酔いも幾分かマシになり、冷静に思考できるようになった。泥酔状態での無責任な行動とはいえ、未成年?を家に上げたのだ。今後の行動には責任がある。せめて雨がおさまるまで、追い出すことはしないが、相手の素性は確かめる必要がある。まず親と連絡はしているのか。もし連絡をしていないなら、探していることだろう。家出、行方不明と昨晩のニュースが頭の中を過る。やはり青年の状況確認は必須。犯罪には巻き込まれたくない。あと携帯は返して欲しい。

リビングに戻ると青年は変わらず胡座をかいて、スマホをいじつまている。普段未成年と接する機会が無いから、対処の仕方が分からない。考えあぐねて壁時計に視線を向けると短針は11時を指していた。

「とりあえず飯を食おう」

青年の肩が反応した。

「米は、冷凍保存のがある。腐りかけの玉ねぎと、キャベツ、卵があるな」

わざと口に出して材料を確認し、レンジで米を解凍しながら、玉ねぎとキャベツをきざむ。フライパンに油をたらし、炒り卵。米と玉ねぎとキャベツをいれ醤油と塩胡椒で完成。何の捻りも無いが安定した美味しさの即席炒飯。青年が首を伸ばしてこちらを覗うのに合わせ、フライパンを揺らす。

男一人飯らしい見た目の炒飯を、テーブルへ運ぶと、皿を追って青年の目が動いた。ついで水を注いだコップとスプーンも用意する。

「食べたいならスマホを返せ。問答無用で110番する気は無いから。まずは事情を聞かせてほしい」

青年はうぐっ、と喉が詰まったような音を出し、逡巡する。目の前には醤油の香ばしい匂いと湯気を立てるチャーハン。これを前に我慢が続くはずない。

「ざけんなよ」

青年は端末を雑に投げ渡し、手からスプーンを奪うと、チャーハンを掻き込み始めた。歳頃の青年、食欲に勝てず。ぽろぽろとこぼしながら無我夢中で食べる。行儀が悪いと注意しかけたが、切れた唇の端に固まった血で、食べづらいのだと分かりやめた。口を開くたびに傷が引っ張られて痛々しい。他にもスプーンを握る指は傷だらけで血がついている。見た目通り喧嘩っ早いのだろうか。扱いには気をつけることと、心に留めておく。

「足りない。肉食いてぇ」

あっという間に食べ終えた青年は空の皿をスプーンで叩いた。

「あー、青年、まず名前は」

青年と呼び続けるのも煩わしく、本題に切り込むのも怖い。ここは妥当なところから進めていこう、と簡単な質問にしてみたが、返事はすぐに返ってこなかった。青年は首を動かし助けを求めるように部屋を見回して、窓で視線を止めた。相変わらず天気は荒れているらしく、起きたときよりも風が強まり、雨は止みそうにない。台風でも来たかのようだ。

「嵐」

「嘘つけ」

向き直り、誇らしそうに答えた青年に、思わずつっこむ。もっとマシな嘘つけよ。

「嵐だ、嵐。マジで」

さすがに青年も失敗だと分かっただろうが撤回もできず、ごり押しすることに決めたらしい。

「分かった。嵐で良いよ。いくつ?」

「17」

「どこから家出してきた?」

「トーキョー」

「もっと狭く」

「いいだろ別に。トーキョーで」

これ以上、出処については言わないつもりらしい。こちらも本気で探る気は無いので追及はやめる。むしろ知りすぎるのもいざとなったとき面倒なことになる、気がするので遠回りをやめ本題に切り込む。

「親とは連絡ついているのか?もしお前が行方不明で親御さんが捜索願いを出しているなら、俺はいますぐ追い出したい。家出少年を一瞬匿ってやるぐらいはまぁ、自分が言い出したことだから仕方ないけど犯罪を疑われるのは困る」

「親が探してることはねぇ!」

嵐は反射のようにそれだけ答えると、完全に口を噤み、フードを被り直して下を向いた。どのように答えようか考えているのだろう、もごもごと口を動かしている。この不自然な間こそが、考え抜いた回答をより疑わしく演出するのだが。

「家に帰んなくても何も言わねぇよ」

歯切れが悪い。

「そんで、あー、普段はアイツらのとことか、女のとことか行くから、行こうとしたら、行けなくて、あっお前が引き止めたんじゃねぇか!そう!おまえが話しかけてきたから、しょうがねぇって着いてってやったんだよ!」

一言ずつ区切りながら喋るさまは、自分の言葉を確認しながら話しているようで、最後には辻褄が合ったというように、早口になった。嘘のつき方が分かりやすくて助かる。

「じゃあ、昨晩引き止めたのは悪かったなぁ。そのアイツらのところへ行けよ」

嘘をついているのは明白なので、カマをかけてみる。すると分かりやすく動揺し、コップに手を伸ばした。昨晩のことをはっきり覚えているわけではないが、目的地の途中のようには見えなかった。言い訳に無理がある。

「無理」

偽装を断念したようだ、簡潔に答える。

「理由は?」

「言えねぇ」

そのまま言及を遮るように水を飲みほし、音を立ててテーブルの上にコップを叩きつける。

「とにかく、お前が呼んだんだから諦めろ!雨上がったら出て行く!それでいいだろ!?」

声を大きくして強引に話を終わらせようとする。消化不良ではあるが、いいだろう。警察が家に来るようなことが無ければ良し。これ以上刺激して怒らせるの嫌だし。あとは降り止む気配の無い雨の行方を待つだけだ。

「分かった。もういいよ」

質問をやめ、皿を運ぶついでにリモコンに手を伸ばす。さすがに真昼間に天気予報はやってないと思うが、念のため。

「いっ」

テレビの画面がパッと明るくなったと同時に、真横から手の中のリモコンが叩き落とされた。衝撃でプツンと画面が暗くなる。

「おま、何す」

「スマホで、天気分かる!テレビはつけるな」

嵐が怒鳴る。お前、やっぱり行方不明で捜索願出されてるのでは?

「もう一度聞くけど、親が捜索願を出しているわけじゃないんだよな」

「ちげーって。うぜーな」

「じゃあニュース見ても良いよな」

「……ぅぐっ。テレビは!苦手なんだよ!」

そう怒鳴られると話が繋がらなくなる。全く嘘が下手なんだよ。

「お前が!変なことしなきゃ何もなんねぇから。分かったか!?」

「いや、そう言われても」

「なあ!」

凄んで押し通すつもりらしい。ヤンキーの見た目だけあって、20ほど歳下のはずだが、正直恐いし、暴力を振るわれたら絶対勝てない。追求を諦め、降参、というように手を上げると、嵐はフンと鼻を鳴らしてスマホをいじりだした。もちろん疑惑は拭えないが、彼の見た目と性格を考慮すると、巧妙な嘘はまずつけないだろう。本気でこちらが犯罪に巻き込まれる可能性は低い。どうせ雨が止むまでだ。やり過ごそう。

「おっさん、雨、明後日まで上がらない」

「そうか」

胃が痛いなぁ。




「おっさんさぁ、頭悪ぃんじゃねぇの」

「お前に言われたかねぇ」

夜の21時現在、今朝の反省も虚しく俺は再び酔っ払っていた。

昼に一悶着あった後、夕飯をどうするかで揉め、買い物に行くかで揉めた。結局俺が買い物に行っている間、スマホの録音アプリを起動させておき、帰ったら確認することになった。交換条件として、俺がいない間に嵐は風呂に入ると約束した。買い物に行くと言って、警察と一緒に戻ってきたら何も意味無いだろうに、納得してしまうところが甘い。

食は焼いたバラ肉(嵐はもっと高い肉にしろと抗議した)と米と味噌汁に野菜ジュース。嵐は野菜ジュースを渋りながら飲み干した後、予備のために貯蔵しておいたカップラーメンを2つ空けた。さすが育ち盛り。見ているだけで腹が膨れるし、胃もたれしそうだ。

カップラーメンをぺろりと平らげると、嵐は冷蔵庫を勝手に漁り、缶ビールを持ち出してきた。

「おい」

「おっさんも若い頃飲んでたろ。何言ってんだよ」

「残念だったな。おっさんはお前と違って真面目だったから17のときは飲んでねぇの」

ひょいと缶を取り上げる。

「てめぇ、ざけんな」

缶を取り返そうと伸ばされた手を無視して、一気に飲み干す。丁度切れていたところで、冷蔵庫に残ったビールはあと二缶。嵐はが気づく前にこれらも飲み干してしまう。盛大な舌打ちが聞こえたが、未成年飲酒の現場に立ち会うリスクは犯したくない。

「お前、昨日べろんべろんに酔ってたろ。今日も繰り返すのか」

嵐は馬鹿だな〜という顔をした。

「さすがに、3缶じゃ酔わない」

鍛えられてるからな、と返して風呂に入ろうと立ち上がると、体が制御しきれずにふらついた。

「ほら」

それみろと、嵐は顎を突き出した。三缶といえど、一気飲みは良くないらしい。さらに朝からの多大なストレスにアルコールは染み渡り過ぎてしまったらしい。

「お前のせいだからな」

「はぁ~?いみわかんね。ざけんなよ」

風呂に入るのは諦めて、テーブルの前に座り直した。

「だいたい、まぁ、昨日の夜の俺が悪いけどよ、なんでガキが家にいるんだよ」

「え、お前まだ言うの。諦めろよ。そういえば煙草ねぇ?」

「吸わせねぇよ」

「使えねぇなおっさん」

「おっさんってなぁ。まだ、そんな歳じゃ、あ~おっさんか。やっぱり。傷つくから藤咲さんって呼んで」

「藤咲?」

「さんをつけろ」

口寂しくなってスルメの袋を開ける。横から手が伸びるが、お前はさっきまで呆れるほど食べてただろ。

「あ~もう嫌になってきた。気ぃ使うのやめよ」

脳がふわふわとしてくる。気づかないうちに緊張していたみたいで、一度張り詰めた糸が緩めば腑抜けてしまい、何も考えられなくなる。

「気使ってたか?」

「一応な。嵐、お前さ、未成年だろ。気ぃ使うよ。馬鹿だしヤンキーだけど」

「うっせ」

嵐はスルメを噛みちぎって睨んだ。事実だろ。

「怪我してるしさ。ガキは守られてるうちは、家にいればいいんだよ。窮屈になったりするかもしれないけど、大人になったら一人なんだからさ。親だって心配してるぞ。たぶん」

嵐の動きが停止した。言葉が響いてしまってホームシックにでもなったのだろうか。なんて油断してたら唐突に距離を詰められ、胸ぐらを掴まれる。

「ばっなん、離せっ!」

「てめぇはよぉっ!」

服が首元に引っ掛かって苦しい。嵐は朝の凄んだ顔などと比較できないくらい青筋を立て、怒りをあらわにする。フードが外れ、対面近距離にある見下した顔に、ばくばくと心臓が騒がしくなる。背丈がそう変わらず、喧嘩慣れしてそうな男に持ち上げられると、歴然とした力の差に命の危機を感じてしまう。目の端に嵐の拳が映り、殴られると覚悟する。ひうっと思わず喉を鳴らしながらも目を瞑って、せめて反撃はしようと拳を固めて掲げてみせると、急に離された。支えの無くなった体は床に落ちる。

嵐は打って変わって、表情を無くしていた。光が消え、ゾッとするような、無機質な顔。少なくとも未来ある青年の表情では無い。

「嵐?」

あまりの変わり身の速さに心配になり、声をかける。

「てめぇは、違ったんだな、知らないんだろうな。知らないから分からないのか」

それきり黙ってしまった。恐ろしく低くて無感情な声だった。俺は問い質すこともできず、触るのも怖くなってしまって、適当な話を薄ら笑いで続けてみた。だが聞いてるのか聞いていないのか無反応な嵐と、会社と将来の愚痴ぐらいしか話のレパートリーが無い俺では無理があった。風呂に入った後、嵐に来客用の布団を出してやり、自分も早々にベッドに潜り込んだ。早く雨上がれよ。





息苦しさと衣擦れの音で目が覚めた。

「ひっ」

誰かが俺の上に馬乗りになって、首に手をかけている。落ち着けよ、と声をかけたいが、声が出ない。誰かと言ったが、この男を知っている。名前は思い出せない。やめろと言いたいのに、引き剥がしたいのに動けない。苦しい。痛い。死ぬ。

「し、ぬ」

声を絞り出すと相手はぱっと手を離した。その手は躊躇無く力を入れていたくせに、今は妙に狼狽えている。それがなんだか可哀想になって、首を絞められたのも忘れて、頭を引き寄せた。手は交差して身を守るように動いたが、やんわりと外して、そのままゆっくり頭を撫でた。大人しくなったので存分に撫で続けてやると、何かを思い出す。気がつくと幼い頃飼っていたコーギーを撫でていた。

「お利口だな、ジャッキーは」

あいつもこれくらいお利口なら良いのにな、と呟いて、あいつって誰だっけなぁと自分の言葉に首を捻った。






「変な夢みたな」

名残惜しいぬくもりを放し、大きく伸びをするとつられて欠伸がでた。細かく思い出そうとするほど霞んでしまいそうな変な夢で、久々に愛犬と会えて嬉しかったことはうっすら覚えていた。部屋の中は寒くもなく、暖かくもなく、適温。夢の切れ端と別れて、立ち上がる。

「よく寝てたな、おっさ……、藤咲」

「……あ!?ああ、居たな、お前。おはよう」

そうだ、嵐がいたんだ。昨夜の出来事を思い出して顔を歪めてしまった。

「先に言っとくが、今日は曇り後雨だ」

「おう。……良かったな。帰れるな」

とろとろと身体を引きずってカーテンを開ける。外は灰色の雲に覆われていたが、彼の言う通り雨は降っていなかった。

「が、藤咲は馬鹿だから、俺と昨日約束した」

嵐はスマホをこちらに向け、レコーダーのアプリを起動させる。

「東京住みって言ってたな。海行ったことねぇだろ。わーった、明日連れてってやるよ。海ね。車で連れてってやるよ。明日な」

「他にも全く興味無い苦労話とか、くさい教訓とか意味分からない説教とか死ぬほど聞かされたぜ?ともかく約束は守ってもらわないとなぁ」

嵐はにやにやとスマホを掲げる。

泣きたいぐらい自分の声だった。禁酒しよ。



今にも雨が降りそうな雲を横目に高速道路を走る。目的地は実家のある新潟だ。昨晩の自分の無責任な発言は考えたくないが、実家の海を思い浮かべたはずだ。新潟の実家は海の近くに建っており、自転車で30分漕ぐと海に辿り着いた。夏場はよく遊んだものだ。今は春だけど。

「新潟ってどこ?九州の方?遠くね?」

「いや、4時間ぐらいはかかるが、そこまで遠くない」

大丈夫か?高校生。真面目に授業を受けている姿は想像できないが、そこまでとは。

「ふーん」

嵐は助手席でどうやら日本地図を検索しているらしい。どうして自分は約束を律儀に守っているのか。答えは逆ギレされたら敵わないから。どうして嵐はこの下らない約束をわざわざレコーダーに残しておいたのか。答えは不明。雨が止んだなら、どこへでもいけばいいのに。やはり行くところが無いのか。なら大人しく家に帰れ。

自分の中で思考を巡らせてないで、本人に聞きたいところではあるが、昨晩の対応を思い出してやめる。春先、日本海、心中。嫌な連想ゲームが繋がり、振り払うようにハンドルを握り直した。

「お前、なんか喋れよ」

突然ぶっきらぼうにこえをかけられ、ブレーキを踏み込みそうになった。

「なんだよ、急に」

慌てて前に向き直り、速度を調整する。

「なんか朝から、静かじゃん。うぜーんだよ、昨日はうぜぇほど話してたくせに」

嵐は要領を得ない返事をする。俺は不機嫌な理由が分からず、運転に集中するしかない。

「あー、違くって、嫌なんだよ!ムカつく!」

頭を掻きながら、車のシートを揺らす。言葉を必死に探しているようだ。

「がぁー!クソッ!分かんねぇ!話せよ!」

シートベルトを極限まで伸ばして、身体を前に倒す。なんなんだよ急に。車体が揺れるからやめろ。

このまま暴れられるのは困るので、代わりに答えを考えやる。言いたいことは推測してやれるが、どうしてこう、言語化が苦手なんだろな。

「あれだろ、腫れ物を扱うようにするなって言いたいんだろ」

「ハレモノ?」

「変に気にかけるなってこと。わざと避けられているように感じるのが嫌なんだろ」

嵐は座席を揺らすのを止め、あー、と声をだしながら、なんか分かると呟いた。

「でもな、いきなり胸ぐら掴まれるようなことがあると、会話に躊躇する。お前が先に暴力で示したから避けるんだ。分かるか?」

「んなこと言ってもあんときはお前が!」

「ほら、そうやってすぐ行動にでる。身を乗り出すなよ危ないから」

嵐は短気で馬鹿だが、教育が足りてないだけだと感じる。自分が高校生の頃、窓を割っていた分かりやすいヤンキーというより、ただ流れに乗ってやさぐれて授業をさぼっていたような、いわゆる番長になるタイプでは無かったのだろう。今も俺の説明を苦い顔で必死に噛み砕こうと努力してる。

「不良だと遠巻きに眺められるのも苛立ったり、可哀想と同情されるのも嫌なんだろ。でもそれは、お前が先に外見や態度で示しちゃってるんだよ」

嵐は黙って遠くを見ている。

「だめだ。分かんねぇ。分かんねぇよ。俺が悪いのかも、誰が悪いのかも」

もどかしそうに、顔を顰めて答えを出した。考えるのを諦めたというよりは、考えたけど分からなかったらしい。善悪の判断が入り込んでいるあたり、話の本質を理解しきれてない。

「家に帰ったら、短気は直してみなよ。お前さ、自分が思っているより馬鹿じゃないから。周りの人の態度もきっと変わる」

優しく声をかけると、か細い声で、

「もう遅い。悪いことした」

と、返ってきた。大方、家出の原因はこれだろう。

「ちゃんと反省して謝ればいいよ。取り返しつかないこと以外はな。そしたら変われる」

嵐は複雑な顔をして窓の外を見た。目的地はもうすぐだ。





「なんかぱっとしねぇなぁ」

「観光用のビーチとかじゃないからな」

白くて綺麗な砂浜があるわけでもなく、大小様々な岩や苔むしたテトラポットが並んでいる光景を見て、期待外れというように興味を無くしている。もともとこの場所は崖に囲まれた穴場で、地元のこどもたちの遊び場だった。よじ登れる岩場の多く、川と混じっていることで、小魚がよく釣れるため海で遊ぶとしたらいつもここだった。

それにしても嵐の感想を否定する気は無い。空は曇っているし、大雨の後だからか海は濁り、風のせいで波は高い。晴れが続いている日はもっと綺麗で透き通っているんだがな、と言い訳してみるも現状は悲惨だ。海の水はたぶん冷たいし、気温も上がらず若干肌寒い。

「思ってたんと違う。帰る」

嵐は車の方に歩き出す。思わず待てよ、と手を取り、崖の一角を指した。

「あの5mくらいの崖がさ、思い出なんだよ」

今見返せば、大して高くない。しかし、あの頃はこの崖から飛び降りることができたらヒーローになれた。結局自分は飛び降りることができずに東京に引っ越し、心残りであったことが懐かしく思い出される。

「今なら飛べそうだけどさ、大人になったら服が濡れるとか帰りどうするかとか考えて、飛べないんだよな」

しみじみと懐かしんでいると、嵐が上着を脱いで走り出した。

「あっ!?おま、な、」

一心不乱に崖に向かって突っ走り、

「待てって!」

飛んだ。



「うわ、しょっぱ。海水飲んだ」

べー、と舌を出しながら、ズボンの裾を絞る。考え無しに飛び込んだ嵐は、ずぶ濡れになり、藻掻きながら戻ってきた。

「お前さぁ、準備体操無しに飛び込むなって。春の海は冷たいからすぐ足つるんだよ」

頭を振って髪から水滴を飛ばす嵐から距離をとり、近くにあるはずの店を探す。街並みはがらりと変わり、様々な建物が無くなっていたが、海上がりにみんなでアイスを買った小さな木造のお店はそのままだった。福福屋と書かれた看板は寂れてほとんど文字が読めなくなり、店内は相変わらず雑多で一昔前のお菓子や玩具が並んでいる。

「すみません、タオル売ってませんか?」

店内に声をかけると、昔馴染みの福おばちゃん、もとい福おばあちゃんがでてきた。

「あらぁ~、まさちゃんでしょ。大きくなって」

懐かしい顔に自然と笑顔になる。

「よく覚えてましたね。タオル貸して頂けませんか?」

「まぁまぁ。また海で遊んだの。ちゃんと体拭いてからアイスキャンデー食べるんだよ」

福おばあちゃんは増えた皺を重ねてにっこり笑う。この福顔が名物で、お店の名前と重ねて福ばあちゃんとみんな呼んでいた。おばあちゃんになって腰が曲がっても笑顔は変わらない。

「いや、海に入ったのは俺じゃないんですけど」

後ろから嵐が「おい、勝手に行くなよ」と声を上げる。

「ああ、この子ね。海で遊んだのね。今タオル持ってきてあげるからね。待ってなねぇ」

おばあちゃんは嵐を見つけ、にこにこしながらお店の奥に引っ込んだ。

「あのババア誰?」

「ババアって言うな。福福屋の福おばちゃんだ。今は福おばあちゃんになっちゃったけど。海から上がったらいつもここでタオルを借りたんだ。よくお世話になったんだよ」

福おばあちゃんはバスタオルを持ってきて、嵐の頭を容赦無く拭いた。

「いいって!自分でやるから!」

「だめだめ。そう言っていつも生乾きのままにするんだから。明日風邪ひくのよ」

さすがにおばあちゃんに強く抵抗するのは躊躇われたのか、騒がしくしながらも大人しく拭かれている。こう見ると、嵐もただのこどもだ。口が悪くて乱暴なだけのこども。

「アイスはまだだね。仕入れてないんだよ。ラムネ買ってくかい?」

「じゃあもらおうかな。2本で200円?」

「そーだね。まいどさん」

福おばあちゃんはうんうんと頷いて、2本のラムネを持ってきてくれた。それを丁寧に受け取り、1本を嵐に渡す。

「え、これどうすんの。飲めねぇじゃん」

嵐は散々体を拭かれてげんなりした顔で、ラムネのフィルムを剥がし、ピンクの蓋を弄ってる。

「ラムネ飲んだことないの?こうやってピンクの当てて押すんだよ」

プシュッとビー玉を下げてみせると、嵐も見様見真似で思い切り押す。

「うっわ」

シュワーと泡がこぼれ、ぼたぼたと足元に落ちている。

「振っただろ、ばーか」

「先に言えよ、お前!」

慌てている嵐が面白くて笑ってしまう。福おばあちゃんは様子を眺めてにこにこしながら近づいてきた。

「この子は、まさちゃんの子どもかい?」

「えっ、いやぁ」

即刻否定し、親戚の子とかなんかのそれで~と付け足す。

「そう。まさちゃんに似てないものね~。なんか、どっかで見たことあるようなきがしたんだけどねぇ」

おばあちゃんはぶつぶつ言いながら嵐に近づき、顔を手で包む。

「まさちゃんがお父さんだったら叱るところだったよ。坊や、今の顔の方が良い。さっきの顔はだめだ。幸せにおなり」

それだけ言って、手を離した。そのときの福おばあちゃんは、険しく悲しそうな顔をしていた。



福おばあちゃんに別れを告げ、車に乗り込む。嵐は満足してないだろうが、とりあえず海に連れて行く約束は果たした。後は嵐を帰らせるだけだ。

「あっ」

そう思った途端に雨が降ってきた。雨足は徐々に強まり、東京は降っていないことを願うが、カーナビが東京は大荒れになりそうだと教えてくれる。さすがに今夜には帰したかったのに。

嵐は福おばあちゃんからもらったタオルを敷いて、後部座席に座らせている。助手席だと狭いらしい。

「やっぱりヒーローにはなれないな」

見通しの悪い高速を慎重に運転しながら独り言ちる。

「飛べなかったな、結局。嵐はすごいよ。勇気はある。勇気があればだいたい大丈夫」

「えっ、あ、勇希、ね。俺勇気はあるからね、藤咲と違って。まぁ藤咲は分かりやすく弱虫じゃん。お前、こどものときも絶対弱虫だったろ」

「そんなことない」

「そーいや、まさちゃんって呼ばれてたけど、下の名前まさと?おい、まさと」

「やめろ」

嵐は面白がってにやけながらまさと、まさとと呼んだ。久々に下の名前を呼ばれた気がする。まさか20も歳下のガキに呼ばれると思わなかったけど。

「まさとは、ヒーローなんなくていいよ」

「だから、小6で引っ越したんだって。中学入ったら絶対飛べるようになってたから」

「そうじゃねぇって」

硬い声が聞こえて、思わず口を閉ざす。ルームミラー越しの嵐は真剣な目をしていた。

「ヒーローはさ、良い子の味方だろ。ヒーローなんなくていい。ならないでよ。ヒーロー」

ワイパーがきゅっと音を立て、フロントガラスを撫でる。

「ヒーローはこどもの味方なんだよ。悪い子だって守ってやるよ。その子が将来良い子になる可能性があるかぎり」

問われた意図は分からないが間違えてはいけない質問だったと思う。恐る恐る後ろを振り返ると嵐は目を閉じていた。寝たな。



冷えた体に暖かい車内と緩やかな振動。昨日一昨日と、人の家でよく眠れてないだろう青年が寝てしまうのも仕方無い。安らかな寝顔は一番こどもらしくて、穏やかな気持ちになる。こどもがいたらこんな感じなのかな。

「ん……」

声を聞いて振り返ると、起きかけているのか、目を擦っている。

「まだかかるから、寝てていい」

開きかけの瞳はぼんやりと俺の顔を捉えると、うとうとと瞬きを繰り返しやがて閉じた。

「まさと、」

小さな声で名前を呼ばれて、もう一度振り返ると、嵐は閉じた目から涙をこぼしていた。嵐でも泣くのかと眺めていたが、所詮は17のこどもなのだ。泣くときもあるだろう。ホームシックだろうか。カーナビにこれからの天気を聞くと、明日は晴天と答えた。やはり今夜が最後。明日には帰そう。




「おはよう」

昨夜、嵐は車から降りると、電源が切れたように寝続けた。

「もう朝だ。月曜日だから会社なんだよ。お前も帰れって、ほら」

嵐の布団をがばっと剥ぎ取ると、そこに青年の姿は無く、くしゃくしゃに皺がついた紙が残っていた。

「帰ったのか」

あまりに唐突ではあったが、今朝にはもういないだろうな、という予感があった。

「そうか、いってらっしゃいぐらい、言ってやっても良かったのに。ありがとうございますぐらい言ってからでも良かったのにな」

くしゃくしゃになった紙を拾って、丁寧に伸ばす。それは下手な字で書き殴られた手紙だった。

何度も何度も読み返して、畳み直す。薄緑のカーテンを開けると暖かな日が差し込んだ。嵐も過ぎ去り、雲一つ無く晴れた空は、泣きたくなるほど底抜けの青色だった。



ふじさきまさとさんへ

お世話になりました。嘘ついてごめんなさい。まず本名は嵐じゃなくて、粟原勇希。家出じゃなくて、逃げていました。犯罪に巻き込みました。ごめんなさい。

親は変でした。妹が事故で死んでから、親父は会社を辞めて、オレを殴ったし、母さんは毎日泣いて叫んで家のものを壊します。妹が死んだのはオレもすげー悲しかったけど、親は本当におかしくて、殴られて、叫ばれて、オレも頭が狂いそうでした。学校も行かなくなりました。学校で先生に聞かれるのも嫌でした。友達もいなくて、家に帰らないと、母さんが包丁を持って泣くので、家に帰るしかありませんでした。


お金が無いから、働いてみたけど足りなかった。

帰ったら親父は酒を飲んで殴って、母さんは泣き叫んで包丁を振り回して、死ぬんだなって思いました。

良い親がいて、幸せに暮らしてるやつらがずるくて、泣きたくなりました。なんでオレだけ。妹は死んじゃうし、オレも死にそうだし、親はおかしいし。

怖くて、怖くて、嫌で、分からなくて、終わってくれと思いました。

親父も母さんも死んでました。オレは血だらけで包丁を持っていました。ころしました。オレが悪いんですか。分からないです。人って死ぬ前も怖かったけど、死んでも怖い。


もう分からなくて、手だけ洗って、服着替えて、家を出ました。怖くてどこにも行けなくて泣いてたら、酔ったおっさんが「おれはヒーローになるから、こどもを助けないと」ってバカこと言うからバカなんだろうなと思ってついてきました。ごめんなさい。


最初は財布奪って逃げようと思ってました。雨だからやめました。そしたら、優しくされて嬉しかったです。まさとはたぶん幸せな人だから、絶対に気持ち分かんないと思うしうざかったけど、親切でした。首を絞めたのは悪かったと思ってます。でも憎くてずるいとは思ってました。頭撫でられて嬉しかったです。まさとは良い人です。


ありがとうございました。


ごめんなさい。


さよなら、ヒーロー。




「粟原容疑者は、藤咲さんのことを脅したと証言し、事件に関わりが無いと答えました。あなたの身辺も調べさせて頂きましたが、粟原容疑者との関連性は低いと判断しています」

「そうですか」

初めて乗ったパトカーは雰囲気だけで物々しく、自分が本当に犯罪者になってしまったような思わせる。

「粟原容疑者は頑固に口を閉ざすくせに嘘が下手ですね」

運転席に座る年配の警官の言葉に、そうでしょうと笑いそうになる。

「しかし、粟原容疑者が両親を殺害したとしても、粟原容疑者に、虐待された跡があり、父親はアルコール中毒、母親は精神病と酷い状況です。正当防衛という見解も考慮されるでしょう」

メディアでは、子が親を殺したことを大幅に取り上げ、非行少年として煽るように報道するんですけど、と若い警官は呟いた。

「殺人は決して許されないことですが、事件の裏には必ず理由があります。このような事件だってあります。

彼の家族は親戚から縁切りされており、粟原容疑者が社会生活に復帰しても、非行少年のレッテルは剥がれず、立ち直りを支える保護者がいないのは大問題です。そういう青年はまた薬などに手を出して、ここに戻ってくる。悲惨なことです」

警官はやるせないですよね、と苦い顔をした。

「そんなこと、させません」

止まらない思いがかろうじて作った言葉は、空気に溶ける。涙がこぼれないように手を強く握った。


ヒーローになりたい。

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泣くなよ、ヒーロー 夢見遼 @yumemi_ryo

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