第6話 神の御加護は悪戯好き

 ムハメドは焦っていた。厳戒態勢が、空路や海路に及ぶようになれば、輸送手段が失われる。今の状況が続けば、遅かれ早かれ、隠蔽は効力を失い、最悪の状況が訪れるだろう。そう思うと、焦りの色を隠せないでいた。


 アルコールの効きが悪くなり、自然と摂取量が増えた。その夜も酒場を求めて徘徊していた。中酷人の集まる店は避けたかった。ムハメドが苦悩していた頃はまだ、街中の厳戒は然程、目立つものではなかった。皆は知らないが、私は知っている、そこが如何に危険な場所かを。中酷人の集まる店は避けて行き付いたのが、外国人たちが集まる酒場だった。今は、SNSで情報交換し、旅行者が集う場所も簡単に探し出せる。ムハメドは物陰に隠れて、酒場の入口を注視していた。その中で白人が多く出入りする店を見つけた。

 肌の色を気にする方ではなかったが、相手が気にしては新たな疲労感が生まれる。それでも今は選択肢がなかった。幸いなことに店内は薄暗く、スタンディングバーである一角が空いていた。バーボンを注文し受け取り、円卓に肘を付き、一口分、喉に流し込むと頭を抱え込むようにして、これからのことを思案していた。


 「ハーイ、ひとり?悩み事?」

 

 一瞬、空耳かと思ったが人の気配を感じ、声のする方を見ると白人の美しい女性が対面にいた。


 「ああ、ひとりだが」

 「私もひとり。じゃ、一緒に楽しんでいいかなぁ」

 「ああ」


 ムハメドは憔悴のせいもあり、酔の周りが速かった。元気であれば、あわよくばと思うが今はそんな気分ではなかった。白人女性は、一方的に自分は、世界を一人旅しているとか、初めての出会いを謳歌しているとか、それをyoutubeに上げて生活しているとかを羨ましくなるほど、はつらつとまくし立てていた。

 陽気なその女性は、アメリカから来たアルティアと名乗っていた。ムハメドはアルティアの陽気さに感化され元気が漲るのを全身で確認できるまでになっていた。アルティアは、拒むムハメドに何かと理由をつけ、バーボンを競い合うように飲ませていた。すっかり、普段のムハメドに気分は戻っていた。


 「そんなに俺を酔わせて、どうするつもりだ」

 「それ、私の台詞よ。あんた、男だから私が酔ったら介抱してよね」

 「俺が怖くないのか」

 「なぜ?私はひとり旅が仕事みたいなものだから、人を見る目はあるのよ」

 「その目は曇ってるぜ。早めに眼科に行ったほうがいい」

 「へぇ~、ラッキーと思わないんだ、変わってるね」

 「それこそ、俺の台詞だ」

 「仕事は何を…、まぁ、いいか、そんなのどうでも。それより、そんなに飲んで大丈夫」

 「ようく言うぜ。生憎、明日は休みだ、お気遣いなく」


 他愛のないやりとりの間にバーボンが喉に流し込まれる。ムハメドは、中酷に来て始めて開放感を味わっていた。ムハメドに笑顔が増え、羽目を外しても神は戒めを与えないだろう、いや、寧ろ、苦労している自分に神がくださったご褒美ではないかと思うようになっていた。そんな心の変化を見透かしたようにアルティアが驚きの提案をしてきた。


 「…そうなの。私たち気が合うみたいね。私の部屋に来ない、飲み直そうよ」

 「初めて会った俺を誘うのか?」

 「見た目に似合わず、野暮な事を言うのね。あら、見た目通りか」

 「五月蝿い」

 「初めて会ったって言ったよねぇ。私、一人旅が日課よ、毎日、初めて会った人ばかりよ。あなたが特別なわけじゃないわ。なに、モテたとでも思った。それなら、残念。私は一人旅の醍醐味を満喫しているだけよ」

 「いつも、こんな感じで男を誘うのか?」

 「そうよ、悪い。そうそう、日本の諺に、旅の恥はかき捨て、って言うのがあるの。私にぴったりよ。本当の意味は知らないけどね。そうそう、一期一会ってなものもあったわねぇ」

 「俺も日本に一年程いたよ、大阪にな」

 「へぇ、お仕事?」

 「まぁな」

 「大阪弁、私、好きよ。何か言ってみて」

 「そうだな…武漢はもう、あかん。これからの事を思うと悪寒がするわ、ってね」

 「おかん?って、お母さんのこと?」

 「いや、怖い目に合いそうな予感がした時、鳥肌が立つ感覚かな」

 「日本語の難しい表現ね」

 「まぁな」

 「ねぇ、もっと聞きたいわ。じゃ、続きは、後で。ここは、私が払うわ。気にしなくてもいいわよ。これからたんまり肉体労働をしてもらうんだから」


 そう言うとアルティアは、半ば強引にムハメドを店から連れ出した。当初は、警戒していたがアルティアの開放的な性格に萎えていたムハメドの心は、癒されていた。

 幾度か足元をふらつかせるアルティアがムハメドに寄りかかる。その際の肌の温もりがムハメドの胸を高鳴らせていた。

 そうだ、これは真面目に働く私への神の思し召し、ご褒美だ。なら、有り難く頂くのが神への感謝になる。そう、ムハメドは自分に言い聞かせていた。


 部屋に着くといきなりアルティアはムハメドを抱擁し、


 「シャワーを浴びてきて、私、汗臭いのは苦手なの。これからかく汗は好きだけどね。私、待たされるのは嫌いだから早く出てくるのよ」


と、ムハメドの耳元に囁いた。シャワールームに向かうムハメドの背中に向けてアルティアは


 「ガウンは私のだから。あなたはバスタオルでも巻いて。でも、すぐに剥がしちゃうけどね」


と、おどけて見せた。ムハメドは職業柄、うまい話には裏があると常々思っていた。警戒心が薄れる中、最低限の注意だけは払っていた。シャワーを浴びて出ると入れ替わるようにアルティアが入った。

 ムハメドは、テーブルや部屋の様子を視線で探った。シャワーを浴びる前と後での変化を。行動に移さなかったのは、アルティアが直ぐに出てくると悟ったからだ。

 それは的中する。一本煙草を吸う間もなく、ガウンを着たアルティアはシャワールームから出てきて、冷蔵庫から赤ワインを取り出した。振り向くとアルティアの左手にはワイングラスがふたつあった。そのグラスにワインを注ぎながら、ムハメドに近づき、横に並んで座った。


 「じゃ、乾杯しましょ。素敵な夜に」


 そう言うとアルティアは一気にワインを飲み干し、口元をガウンの袖で拭り、空になったグラスをテーブルの上に置いた。ムハメドはアルティアが何か細工をしないか見張っていたが、余りの手際の良さと大胆さに気を取られていた。


 「何?飲まないの?疑っている?そんな悪い女に見える私。じゃ、いいわ、私の飲んだグラスに入れてあげるわ」

 「いいよ」

 「いいから」

 

 アルティアは、空になったグラスにワインを注ぎ入れた。


 「疑ったバツよ、一気に飲み干して。じゃ、改めて、チェーアズ」


 アルティアのペースに飲まれムハメドもワインを一気に飲み干した。アルティアは中酷の食文化で驚いた話をし始めた。勢いよく話し続けるアルティアにムハメドは、「何しに来たんだ、ここに」と思いつつも、彼女の機嫌を損ねないように注意を払っていた。しばらくして、アルティアの声が遠のいていった。目覚めた時、アルティアは椅子の背もたれを胸に当て、椅子にまたがった状態でこちらを覗き込んでいた。


 「やっと、お目覚め。この薬、思った以上に効くのね」


と、アルティアはムハメドに割られたカプセルを摘んで振って見せた。


 「薬、だと、いつ、入れた」

 「わからなかった。飲み干した時よ。口の中に仕込んだカプセルを歯で割って薬をグラスに注ぎ込んだのよ。口に残った薬は、直ぐにガウンで拭ったわ」

 「何が目的だ」

 「あなたモサドの諜報員でしょ、隠さなくてもいいわよ。ここ数週間、あなたを調べていたんだから」

 「お前は」

 「私、CIAよ」

 「そのCIAが俺に何の用だ」

 「目的は同じはずよ。それに困っている内容もね。そうそう、先に言っておくわね。この薬、48時間以内に解毒剤を飲まないと、あなたのご自慢の水鉄砲も心臓も使えなくなるわよ。寝てる間にご挨拶したけど、水鉄砲までも眠っちゃうなんてがっかりだったわ」


 ムハメドはその時初めて、腰に巻いたはずのタオルがないのに気づいた。同時に両手は椅子の後ろ手に縛られ、両足は、椅子の両足に縛られ、手と足の括り目を繋がれており、身動きできないことにも気づいた。


 「時間がないの、わかるでしょ。私たち、協力して任務を遂行しない」

 「こんな真似をしておいてか」

 「言ったわね、私、待つのが嫌いなの。押し問答している時間はないの。まもなく、空路も海路も街も封鎖されてしまうわ。それまでにウイルスを手に入れないと厄介なことになるわ」

 「わかっている。それで俺に何をさせようと言うんだ」

 「スーパー・スプレッダーを探せ何て無理よ、そうでしょ。だったら、研究所にあるウイルスを頂くしかないじゃない。でも、侵入するのは無理。でも、あなたは潜入してるわ。あなたなら出来るでしょ」

 「出来るなら、もう、やってるさ」

 「そうよね、でも、出来ない。だからお互い力を合わせようってこと。私はあなたが盗み出せるように薬と逃走を手助けする。あなたは、作戦通りに実行する、ただそれだけよ」

 「分かった議論の余地はないようだ。話してみろ、その作戦とやらを」

 「飲み込みが早いのね、あっちの方も早いのかしら、うふふ」

 「無駄口を叩くな、時間がないんだろ」

 「そうね。あなたは所内に詳しいでしょ」

 「ある程度わな。しかし、研究室には入ったことがない」

 「ええ、知ってるわ。ほら、ここに見取り図があるの」


 アルティアは、フランスから入手した研究所の設計図を広げて見せた。


 「地下のこの部分にウイルスはあるはずよ。以前、研究者が謎の死を遂げた場所よ。その死は私たちが求めているウイルスが原因。あなたはその部屋に出入りできるターゲットを絞り込み、薬を与えるの。ターゲットが研究室に入ってから薬は効き始め、倒れる。救護班が向かう。医師と助手のふたりでね。その助手と入れ替わるの、除菌室を通るタイムラグを使ってね。防護服を着ているから分からないわ、顔を合わせなければ。冷静ではいられない緊迫な状態だし。救護に向かって研究室に入れる状態で医師を眠らせて、ウイルスを奪うの」

 「監視カメラがあるだろ」

 「警備室の者は、ただ見守っているだけよ。救護のタイミングで私が事前に吹き込んだあなたの声で警備担当者に連絡を入れる。気をそらしている間に除菌室に入れば、担当者は気がつかないわ。あとは、いつもの清掃員の服に着替えて堂々と正面から出ればいい。後は私が車で拾うわ」

 「そんなことなら俺、ひとりでもできるよ」

 「じゃ、なぜ、やらなかった?」

 「手に入れたウイルスを持ち運び、母国に安全に輸送なんて出来ないでしょう。でも、私たちは出来る。ウイルスの解析もね。勿論、ウイルスはあなたにもプレゼントするわよ、安全な形でね。それが嫌なら、二つ盗み出すのね。その後、あなたの望む場所まで送り届けるわ」

 「俺が裏切るとは思わないのか」

 「思ってるわよ、だから、薬をプレゼントしたのよ。解毒剤は、ウイルスの真偽がなされたら担当の者が渡してくれる手はずよ。あっ、そのウイルスの真偽に6時間ほど掛かるって言ってたわね」

 「有難う、6時間も短くしてくれて」

 「決行は明日よって言っても、現実には今日か」

 「分かった。遅かれ早かれ、パンディミックが起こる。俺も感染しているかも知れない。選択肢はないってことか」

 「私も同じよ。あなたと過ごして濃厚接触もしている、粘膜接触はしていないけどね」

 「同じ貉ってやつか」

 「よく知っているわね、私たち同期の桜よ。咲くのも同じ、散るのもね」

 「分かった、やるか」

 「そう、成功したら、性交してあげるわ、ご褒美にね」

 「お前は、馬鹿か」


 同意を得たアルティアは、ムハメドの緊縛を解いた。ムハメドは服を着て冷蔵庫から缶ビールを取り出し、一気に飲み、アルミ缶を握りつぶし、テーブルに置いた。


 「ターゲットは決まっている。飲ませる薬を渡せ」

 「これよ。強力な睡眠薬よ。あなた自身が経験したから分かるわね。摂取してから一時間程で効き始めるわ」

 「じゃ、私は防犯カメラの死角のこの場所で待っているわ」


 そう言って、地図を指さした。アルティアは車でムハメドを宿舎に送り届け、後は、実行を待つのみとなった。


 「やぁ、浩然(ハオラン)さん、おはよう。何か顔色が悪いんじゃないか、これでも飲みなよ、栄養ドリンクだ」


 ムハメドは、2本の栄養でリンクの栓を目の前で開け、一本を浩然に渡し、自分の分を一気に飲み干して見せた。それで安心した浩然も一気に飲むとその空き瓶を「捨てておくよ」と言って回収した。

 

 ムハメドは、浩然と歳も近く、事前に友好を深めてあった。勿論、それだけではない。浩然は、ムハメドが一番最初に出会った研究員の犠牲者、陳孫明の後継者だったからだ。陳孫明は、原因不明の突然死として隠蔽されたのは言うまでもなかった。

 中酷科学学院武漢病毒研究所の管理体制はずさんだった。実験で使用した動物は時として一般ゴミに紛れて外部に出る。

 ある時、陳孫明がゴミだしに行った際、そこに野犬がいた。威嚇され、思わず手にしていたゴミ袋を振り回した。中に入っていたゴミは散乱。何かに滑って転び、実験動物ゴミに触れる。その手で口についたゴミを取った。この出来事の後、研究所内は殺菌処理され、清掃員には注意喚起のビデオとして見せられていた。そのビデオは、今は廃棄されている。


 陳孫明は麻雀店に出入りし、趙軍事に感染させた。趙軍事は医師、看護師に感染させた。麻雀店に出入りしていた客は、華南海鮮市場にウイルスを拡散させた。ウイルスは疾病持ち、高齢者を媒介し、その家族、生活区域に感染を広げた。

 華南海鮮市場には、野味に興味を持った欧米人や香港人などが観光に訪れていた。その内の香港人の高齢者が豪華客船内に感染させた。初めて世界が確認したスーパー・スプレッダーの存在だった。その検体は、その国の医療機関研究所に送られたが、レベル4の研究所はなく、担当者たちは、細心の注意を図り行動はしていたが、

病気の原因に全く目処が立たず、スタートラインにも立てない状況だった。


 ウイルス感染は、武漢を中心に近隣各省に広がっていた。その事実を公にしない中酷は、隠蔽に躍起になっていた。しかし、人民の不安は中央政府の不安へと変化し、「微信(ウィーチャット)」やダイレクトボイスの流出で、世間が怪しげな病気として明るみに出始めた。

 隠蔽に限界を感じた中央政府は感染者数を発表するが、感染力からは推察できる被害数値を大きく下回っていた。中央政府は、新型コロナウイルスの死者数を病院で亡くなった者に限定。その中には、疑わしいもの、自宅で亡くなった者は含まれていなかった。

 アルティアもムハメドも知っていた。患者の受け入れ態勢が軟弱な現状で、疑わしき者は出来るだけ対処するが、感染者には自宅治療を促すしかなかった。

 医師や看護師は中央政府への対応の遅れと不満を進言し始めた。その多くが偽の情報を流し、人民を困惑させた罪で拘束、勧告を受け、投稿は削除され、真実は徹底した情報管理の中で闇に葬られていく。

 手を結ぶはずのない諜報員が手を結ぶには、パンディミックの恐怖が現実味を帯びていたからだけでなく、サンプルの提出要求に中共は応えることなく、渋々提出されたサンプルも実際のものではなく、専門家が見ればすぐに分かるような、過去のサンプルに手を加えたようなものだったからだ。


 警備室は、研究室の異変に気づいた。研究員の浩然(ハオラン)が倒れたからだ。直様、医師を派遣した。医師は、助手と共に研究室に向かった。一人づつ除菌室を抜け、防護服を装着。医師と助手には除菌室を通過する関係で生まれるタイムラグがあった。「先に行く」と除菌を終えた医師は、助手を残し、研究室に向かった。その後、助手も除菌室に入り、防護服に着替えよとしたその時、背後から何者かに掴まれ、くるっと体を回転させられるとみぞおちに強い衝撃を受け、悶絶し、気を失い倒れた。


 ムハメドは、俯き加減で医師に近づいた。医師は助手が来る前に生存を確認しており、直様、助手に運び出すように命じた。医師は「まだ、息がある、隔離室に移すから準備を頼む」と警備室に連絡を入れた。

 警備員は、浩然の息があることに安堵し、隔離室の待機要員に連絡をいれ、監視室内の監視カメラに目を移した。そこには助手が、浩然との接触を限りなく避けるため引きずる姿が映し出されていた。その時、警備員の林の携帯が鳴った。出るとムハメドからだった。送信主は、ムハメドの声を再現できる音声装置を使ったアルティアだった。


 「どうした、ムハメド?」

 「済まない、大事な鍵をそこに置き忘れた、探してくれないか」

 「今、それどころじゃない」

 「どうした?」

 「今、話している時間はない、切るぞ」

 「待って、待って、隔離室を使うか?」

 「ああ、それがどうした?」

 「その鍵を所定の場所に置き忘れたんだ」

 「なんだって!それでどこだ、どこにある鍵は?」

 「昨日、清掃した時に警告音がなって動転して、ああ、どうしよう、返そうと思って警備室に立ち寄った時に置いたのを忘れたのを思い出して。私、今日は休日で家なんだ。そちらに行けないよ。ああああ、ばれたら首だよ、頼む探してくれ」

 「落ち着け!仕方ない、探してやるどこだ?

 「確か、モニターの後ろの棚だ」

 「待っていろ、直ぐに探す、その鍵は今必要だからな…ないぞ、どこだ」

 「ほら、そこに確か青いファイルがあるだろ、その当たりだ」

 「ないぞ」

 「あるはずだ、早く頼むよ、医師が着くと怒られるよ、早く、早く」

 「分かった、落ち着け、どこだ、どこだ、本当にファイルの近くか」

 「えーとえーとえーと、あっ、そうだ、そうだ、こんな所に置いちゃダメだと思って、そうだ、そうだドアの近くの冷蔵庫の上だ、そうだ、間違いない」

 「冷蔵庫だな、よし、待ってろ。あったぞ。私が届けてやる安心しろ」

 「有難う」


 警備室は、二人体制。一人は医師の元へ。残っていた林も鍵を届けに向かい無人になった。その様子をムハメドが情報収集にと仕掛けておいた隠しカメラで確認したアルティアは、助手に扮したムハメドに携帯無線で伝えた。それを受けムハメドは、テーブルの上にあった実験用のウイルスの入った試験管とパレットを衝撃に強く、密閉度の高い特殊な素材でできた袋に入れ、盗み取ることに成功した。ムハメドには用意できない高性能な品だった。

 ムハメドは、眠らせた浩然と一緒に除菌室に入り、出ると医師が「遅い」と怒り狂っていた。防護服を着たムハメドに変わり、鍵を届けに来た林が防護服に着替え「鍵はここにある」と言って、浩然を隔離室へ車椅子に乗せ、運び込んだ。

 その隙にムハメドはトイレに入り、私服に着替え、何も知らない門衛にいつものように陽気に挨拶し、研究所を抜け出した。この日はムハメドの休日。ムハメドがいないことは他の清掃員には当たり前のことだった。これが勤務日なら厄介な事が増えただろうと、ムハメドは安堵感に包まれていた。ムハメドがこの日、研究所を訪れた事が明らかになる頃には、捜索不明となっている。


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