第5話 ロックダウン、ゴーストタウン。
2019年12月末、中酷のメッセージアプリ「微信(ウィーチャット)」上で、李氏は同僚に「武漢の人々がSARSに似たウイルスに感染しており、自分の病院でも患者が隔離されている」と投稿し、懸念を顕にしていた。
投稿から数時間後、地元当局から「情報を入手した経路」と「情報を共有した理由」について尋ねられた。さらに数日後、李氏と同僚の医師らは「偽の情報をネットに流さない」という旨の誓約書にサインを強要された。
春節が、間近に迫っていた。
人民は、春節を前に安心を手に入れたかった。それに反して得体の知れない病の患者数は、一機に増加した。年が明けた。それでも患者数は収まるどころか、増加の一途を辿っていた。医師も看護師も謂れのない罵倒と受けながらも、懸命に患者と向き合っていた。病院への問い合わせの電話は、鳴り止むことがなかった。それは奇しくも春節を祝う爆竹さながらだった。心許ない問い合わせもあった。
「何をしてんだ、もうすぐ春節だ。家族に会うんだ、何とかしろ」
「こっちだって家に帰りたいわよ、でも、帰れないのよ」
不眠不休の対応に出た看護師は、忙しさと切迫で常軌を保つのも難しい状態だった。自分さへ良ければいい。他人は自分のためにある。そのような考えでは、混乱の終息など望める訳がなかった。
医師、看護師の人数が圧倒的に足りない。薬もない、適切な対応もない。四面楚歌に置かれた医師と看護師は、現状を世間に知らせ、政府を動かそうと微信(ウィーチャット)やダイレクトボイスで病院の現状を訴えた。当局を警戒して、あくまでも家族や友人への注意喚起として。
それは直様、武漢の住人やその情報を知った者からの当局批判となって返ってきた。流石に隠蔽していた武漢市の周先旺市長も何らかの行動を起こさなければ中央からの叱責は必至と言う状態に陥った。
周先旺市長は、同じ中央の役人である中酷科学学院武漢病毒研究所所長に相談を持ちかけた。生憎所長は留守だったがNo.2の劉(リィゥ)が対応に当たった。劉(リィゥ)もまた中央の役人だった。
「武漢で肺炎が流行っている。その原因を探れと世間が五月蠅くなってきてねぇ、何とかしたいが名案はないか?」
「それだったらSARSの時のように野生動物が原因だと答えれば、ガス抜きになるのでは?」
「野味か…。確かSARSの時は…」
「ハクビシンと何だったか…。まぁ、何でもいいさ。それが正しいなんてどうでもいい。原因はこれだ、と示せば、民は納得するから」
「そうだな、で、今回の野味は何にするかな」
「竹鼠でいいんじゃないか」
「あれ、旨いのにもう食えなくなるな」
「私は研究所でモルモットをよく見るよ。でも、食べたいとは思わない」
「食ってみればわかるさ、一度、試してみたらいい」
「遠慮するよ」
SARSの時、ハクビシンを始め疑われた野生動物は後日、無関係だと発表された。失態を顧みずまた、同じ手を使い、躓くことになる。
感染者らしき者が、街中で突然、倒れて救急搬送される事態が複数発生。亡くなる者も見過ごせる数ではなくなってきていた。隠蔽された情報が段々と明るみに出始めた。憶測、デマ、悪意の投稿も日増しに広がり混沌とし始めていた。
中央本部の発表は常に極端に低い値を記していた。現場から中央への救援要請が高まる、がしかし、反応がない。
病院スタッフたちの疲労困憊は限度を超え、個別の訴えが増加する。14人の医師がひとり一日に100人を診察している。それが毎日だ。そして、事態が浮き彫りになってから一ヶ月が経とうとしていた。
病院の至る所がラッシュアワーのように混みあっている。院内感染が懸念される。いや、最早、現実味を帯びていた。
武漢市閉鎖、ロックダウンだ。
その周辺地域の省(日本で言う県)も分断されていく。陸路も絶たれていく。人が集中する交通機関や飲食店、職場も人の動きはない。
ゴーストタウン。
そんな言葉が現実化している。それでも、中央の出す新型コロナウイルスの実態を表す数字は、被害状態に反して低いものだった。
モサドの調査員ムハメドも、中酷科学学院武漢病毒研究所に潜入したはいいが成果を上げられずにいた。いや、正しくは上げた。当初の任務は、新型ウイルスの特定だった。それは容易に手にれることが出来た。
病院で死者が出る。亡骸はビニール袋に包まれ、何体かが集まれば車でとある場所に運ばれていた。ムハメドはその車を追跡し、遺体安置所を突き止める。当初は、集められた遺体は直様、土を深く掘った穴に投げ込まれ、油を撒き焼き払われていた。しかし、次第に追いつかなくなり、放置されたまま日付を跨ぐこともあった。使えるものには興味はあるが使えなくなったゴミには興味がない。ぞんざいな扱いは、遺体の扱い方に顕著に顕れていた。そこからサンプルを採取する。本国に送る。任務終了のはずだった。しかし、本国の要望は単なるサンプル採取ではなかった。本国の欲するものは、通常考えられる以上の二次感染例を引き起こす者を指すスーパー・スプレッダーのサンプルだった。
諜報員にとってこんな厄介なものはない。どの遺体、感染者がスーパー・スプレッダーなのか?体の部位の変化、炎症などがあれば見つけられるかも知れない。現段階では、識別が出来ない。他国の諜報員も頭を抱えていた。
映画であれば、中酷科学学院武漢病毒研究所に奇襲をかけ、銃撃戦も止むなしで搾取するだろう。実際には、現実的ではない。絶対的な確証がない。下手に動けない。相手が否定しても否定しきれない状況を作る必要があった。
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