十三と黄金郷 その11

(まるでハリケーンだ。あの力と来たら……)

 一撃を食らったら、と想像するだけで身震いする。

(倒そうなんて考えるな。逃げられりゃいいんだ)

 鰐淵は走りながら身を屈め、右手で泥を掴み取った。

(目を塞げば、どうにかなるかも……。だが)

 三度振り返り、敵の姿を確認する。

(あいつの目……何かグラサンみたいな物で覆われてやがる。最初の泥の一撃だけじゃあ、あのグラサンを外されたら終わり。直後に第二撃を放っても、命中するかどうか……)

 鰐淵は決心すると、着ているポロシャツのボタンを乱暴に引きちぎった。これが一番、手っ取り早い脱ぎ方。

 そして彼は立ち止まり、ジュウザが三メートルまで近付くのを待つ。

(今!)

 泥の塊を投げつける鰐淵。

 わずかな弧を宙に描き、泥はジュウザの顔面にヒット。

 そして予想通り、ジュウザは目を覆っていたメタリックなサングラス様の物を外しにかかる。

「おらよっと」

 なるべく気楽な調子――それが彼にとっての成功の秘訣――で、鰐淵は脱いだ上着をジュウザの顔へと投げた。

 濡れたシャツが顔面にまとわりつき、ジュウザは視界を奪われた。

(よしっ)

 鰐淵はすぐさまダッシュをかけ、ジュウザの横をすり抜けようとした。

「あ?」

 何かに躓いた。ジュウザの持っていた鉄の棒だ。用意周到にも、木々の間の低い位置に、水平に引っかけていたのである。

 焦りが生じる。

 後ろを見ずに、立ち上がろうとする鰐淵。

 が、彼の背中に何かが重くのしかかった。

「ぐ……」

 地面に対して突っ張っていた腕が、膝が、ぐしゃりとへしゃげてしまった。

 ジュウザに踏みつけられていた。片足で踏まれているだけなのに、鰐淵は身動きが取れない。

(何て……俊敏……)

 背中に痛みが走る。ジュウザの履く靴の裏にはスパイクが生えているのか、何かしらの尖った物が食い込んでくる感触があった。

「くそっ!」

 立ち上がらんと、腕に力を込める。だが、それは逆効果であった。

 ジュウザの踏みつけにさらに力がこもり、そして……。

 みしみし――めりめり――ぐ、き。

 骨のきしむ音から、折れ、砕け散る音。

 鰐淵は息を飲んだ。同時に、四肢の自由が利かなくなったことを思い知らされた。手足の感触が、ほとんどなくなっている。しびれが来た感じに似ているが、ずっと強烈だった。

(終わった)

 鰐淵は悟った。ぼろぼろ泣いていた。

(じきに確実な死が来る、か……。いたぶられて殺されるぐらいなら――へへ、こんな死に方をするなんて、思いもしなかったぜ)

 彼は苦労して首を捻り、ジュウザへ顔を向けた。笑ってやるつもりだったが、ジュウザの奴は、まだ目の泥を落としている最中だった。

(けっ。渾身の『ざまあ見やがれ、このくそったれが』笑いをくれてやろうと思ったのによ、見えねえんじゃ、しょうがない。もう限界だ、ぜ)

 彼は彼の舌を、思い切りよく噛み切った。

(――いて――)

 すぐには死ねなかったが、意識が遠くなってきた。

 あとは自分の肉体がどうなろうが、知ったことではない……。


             *           *


「待って、待ってください! 私も行きます!」

 背後から、猫田の叫び声が聞こえた。

 蝶野は内心、ほっとしていた。自分一人では最後まで歩き通せるか、心許なかったのだ。女でもいないよりはずっとましというもの。

「じゃあ、肩を貸してくれないか。実はもう、ふらふらなんだ」

 甘えるのは情けなかったが、足が痛くてたまらないのは事実だった。そもそも、そのようなことを気にしている状況にない。

 猫田は片手に黒猫を抱いたまま、もう片方の手で蝶野を支えてきた。日常の中でなら、そんな猫ほっとけ!と怒鳴りつけるところだが、現状では辛抱する。

「すまん。――道、分かるかい?」

「多分……このまま行けば」

 猫田の声は小さかった。ひょっとすると、自信がないのかもしれない。

 だが、進まない訳には行かない。進むしかないのだ。

 蝶野と猫田は、無言のまま、道を急いだ。途中、背後を振り返ろうとは、決してしなかった。

 やがて。

「見えた!」

 蝶野は思わず叫んでいた。覚えのある登山道に出くわしたのである。雨も上がり、雲間から月が顔を覗かせようとしていた。

「これで助かる」

 気が急いていた。蝶野は補助役の猫田よりも、先に足を踏み出してしまった。その結果、バランスが崩れ、地面のぬかるみという条件も重なり――。

「あっ」

 二人は足を滑らせた。

 転んだ先は、ちょうど斜面になっていた。

 蝶野と猫田はもつれ合ったまま、斜面を転がり落ちるしかなかった。


             *           *


 転がりきったところで、私は声を出した。

「痛い……。おおお、ミィク。大丈夫だった? 怪我はない? ……ないみたいね。よかった」

 私自身、怪我はなかった。少しだけ安心できた。

 ここはどこだろう? 横手を川が流れているから、二つの山の境目だろうか。

「蝶野さんは……」

 きょろきょろ首を巡らせる。

 人影を発見。

「蝶野さん?」

 返事がない。

「気を失っているのかしら。――!」

 違った。人影は……ジュウザ。

 あいつは悠然としながらも、素早い動作で、見る間に距離を狭めてきた。

 私は動くことができなかった。

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