十三の瞳 その7(終)
* *
平沼達江は、ほとんど転がるようにして、坂を駆け下りていた。心臓は張り裂けそうなぐらい鼓動を早めているのに、まだ終点が見えない。
(もう……だめ……)
声の出ない彼女は、頭の中でも切れ切れにつぶやいた。耳鳴りに似て、その言葉は脳裏に続けて響き、絶望感を煽る。
そんな達江の後ろ、影――十三がついに姿を現した。その小脇には、西瓜大の丸い物を抱えている。
影は達江に追い付くと、十メートルほど先にうずくまる彼女の背中に、抱えていた物を投げつけた。
「が、うっ」
異様なうめき声を発して倒れた達江の背には、べったりと血が付着した。
達江は、痺れる腕に力を入れ、何とか立ち上がろうとする。その途中、投げつけられた物に目が行った。
「……ひ、ひひひいっ!」
自分の耳さえ痛くなりそうな絶叫。
達江が見たのは、沼井の頭部だった。右のこめかみを下に、生気がまるで感じられない二つの目で達江を見ている。切断面は、幼稚園児が色紙を切ったときみたいに、じぐざぐに乱れていた。斧のない影は、あの枝伐り鋏で首を切断したらしい。皮と肉を鋏で切り、最後に骨を腕の力でへし折ったのだろう。まだ切断したばかりのためか、その傷口からは血がぼたぼた、滴っている。出来た血溜まりは、徐々に土へと吸い込まれていく。
地面についた達江の両手が、余震でも起こったかのごとく、小刻みに震え出した。それはどんどん激しくなり、やがて彼女は『倒壊』した。それでもまだ、震えは止まらない。
彼女は土くれを噛みながら、肩越しに追手の姿を探す。
すぐそこに、殺人鬼の姿があった。
死ぬんだ。私も死ぬんだ。みんな死んで、首から上をちょんぎられて……。新聞で前の事件を知ったとき、文章から伝わってくるその凄惨さに寒気を覚えると共に、日本にジェイソンが現れたのかと思って、笑えた。関係のない世界の話だと思った。所詮、他人事。いつものようにこれですむはずだったのに……今、現実に目の前に立っているのは、紛れもない殺人鬼。
ぼんやりしていると、達江は衝撃を受けた。強い力で両肩を掴まれ、無理矢理、正面を向かされた。沼井の言っていたように、メタリックなサングラス状の物をかけた顔が、すぐそこにあった。
「いやあ!」
顔を背け、目を閉じる。手にした斧は、何の役にも立っていない。それだけ、恐ろしさが先に立っている。
閉じた目はすぐに開かざるを得なくなった。彼女の胸を襲った、強烈な痛み。骨に何かがぶつかっている。
「あ、あ、あ」
開いた目で彼女は見た。鳩尾の辺りに、何かを突き立てられたと分かる。枝伐り鋏だった。自分の身体に、信じられない物が突き刺さっている。その異様さが、彼女の感じる痛みを倍加させる。
影は、女の悲鳴をさらに聞きたいらしく、声なきリクエストをしてきた。そう、鋏を押す力に、さらに力が加わった。
「い、いやあっ! やめて!」
不意に息苦しくなった。口中に鉄の味と嫌な匂いが広がる。胸の傷が気管支か食道に達したか、流れ出た血が口を満たしつつある。
達江は激しくせき込み、血を吐き散らした。いくら吐き出しても、次々と血があふれてくる。
涙とよだれと血とでぬるぬるになって手で、彼女は鋏の柄を掴んだ。少しでもかかる力を弱めたい一心であった。
影の方は、それを待っていたらしかった。影は、達江が斧を手放したのを見届け、悠々とした態度で、それを拾った。
よく帰ってきたな。そんな挨拶のつもりか、影は斧の刃をひとなめした。
達江は、かかる力がなくなったのを幸いに、自分の鳩尾から鋏を引き抜こうと試みる。手が滑るが、渾身の力で挑み、どうにか抜くことができた。
「げっ! ほっ!」
抜いた瞬間、今まで以上の大量の血が、噴き出してきた。栓の役目を果たしていた鋏を抜いたせいだ。
焦った達江は、鋏の先をまた自分の傷へと差し込んだ。それが正常な判断に基づく動作かどうか、それは分からない。
その様子を面白く思ったか、影は手伝ってやるとばかり、鋏の柄を掴んだ。そして先ほどと同様、いやそれよりさらに強い力で押し込んでくる。
「あ、あ、あ、あ、あ、あ……」
鋏の見えている部分が短くなるに従って、達江は短い声を上げ続けた。そしてとうとう、刃先は彼女の背中に達した。
さなぎから成虫がかえる場面と錯覚しそうな光景が展開される。背中の、やや右よりの箇所が一点、盛り上がり、やがて衣服ごと裂けて血があふれ出す。血の染みは、沼井の首を投げられたときに付いた赤とすぐに混じり合い、区別つかなくなる。
達江は目を剥き、声もなく前屈みになった。
影は声がないことを不満としたのだろう。貫通させた鋏を、ぐるぐると回し始めた。すり鉢で山芋でもすっているかのように、一定のリズムでもって。
「い痛い、いた痛い」
と、達江の口からは同じ単語が重なって流れ出る。その口は真っ赤だった。
鋏の動きが止められた。
大きく口を開けたままの達江が顔を上げると、目の前の影は斧を手に、どこかに狙いを定めていた。次に、左足を引っ張られたかと思うと、その太股に強い衝撃を受けた。斧が標的としていたのは彼女の左太股だった。
(……なーんだ)
薄れる意識の中、それでも痛みを感じながら、達江は思い当たった。
(私がやったことを、やり返しているのね……。胸を突いたから、私の胸に穴を開けて……。左足の太股を斧で切りつけたから、こうして)
彼女が自分の太股を見ると、ちょうど、切断されるところだった。
(切断するのか……。お返しがきついわね……十倍返し……で利く、かしら。ホワイトデーならよかった、のに)
そこから先、達江はせいぜい、楽しかったことを思い浮かべた。走馬燈とはよく言ったもので、次々と思い出が映像となって現れる。
そのフィルムは、唐突に切れた。フィルムが切れ、空回りする映写機の音。脳裏の幕に映るのは、ただただ白。それが端から赤く染まり、一瞬の内に黒く、闇に覆われた。
影は、満足して笑みを浮かべていた。唇の端を歪め、声なき冷酷な笑い。
その右手の隙間からは、黒髪の束が覗く。長い髪を逆立てるようにして、平沼達江の頭部がぶら下がっていた。
影はその首を、近くに転がるもう一つの首――沼井友彦の首の横へ並べた。
最後まで手を焼かせた、忌々しい二人だったが、こうして終わってみると、何となく惜しくもある。せめて、こうやって並べてやろう。
それから影は、首に巻き付いたままのロープに手をやった。斧をあてがい、器用にロープを切った。
このぐらいの荒縄、引きちぎれるように腕力をつけないとだめだな。いい勉強になった。そんなことをまじめに考えながら、大事な斧を胸に抱くと、影は歩き出した。二つの死体を踏みつけながら、影は進む。巨体に似合わず、身軽な影は、すぐに目的地へ到着した。目指していたいのは坂の上のペンション。
玄関に入ろうとした寸前、一人の男の死体が目に入ってきた。眼帯をした男の死体だ。
こいつも面白かったな。影は思い出して、にやりと笑う。
地震発生直後、影は襲撃を開始した。まず、夜道で見つけた男と女を殺してから、ペンションの玄関に向かった。そこのノブを回し、ドアを開けた途端、切りかかって来た男がいた。
それがこいつだ……。影は足で、片目の男の頭を蹴飛ばした。勢いよく飛んだ頭部は、ぽちゃんという音を立て、沼かどこかに落ちた。
どうしてこいつが襲いかかってきたのか知らないが、いくら不意を突かれようとも、斧を使わせたら俺の方が上だ。手首の骨を砕いて斧を取り上げると、二刀流を気取って、いたぶってやった。よく分からん男だったが、普通でない反応に楽しめた。
影は自尊心を新たに、玄関をくぐった。目玉のない死体があった。
影は愉快に思った。――どうやらこの男、俺を誰かと勘違いしたまま死んだらしいな。恐らく、片目の男と間違えて。
次に、影は壁の異常に気が付いた。今まで見落としていたが、壁から覗く古そうな死体。正確なところは分からなかったが、影はおおよその察しを付けた。この死体が、片目の男にあんな行動を取らせたのだな……。
ペンション内を大方回った後、影は、少しがっかりしていた。獲物はもういないのか、たった七人では物足りない……。
影はふっと、ある物に注意を留めた。人が泊まっていた部屋としては一番奥、パンジーの絵が入口を飾る部屋でのことだ。
ファイルが開いて、その中身が見えていた。
こいつは……。影は久しぶりに、ある種の感傷にとらわれていた。
「俺の写真じゃないか……」
これも久しぶりに、影は声を出した。
影はファイルの最初のページを見た。「行動心理学 資料」と記してある。
影は、今よりずっと若い自分の写真が張ってあるページを、ざっと読んだ。そして。
――カメラを持っていた男、あいつは俺の顔を知っているよう見受けられた。これのことだったんだな。……とにかく、ここに残してはおけない。
影が出した結論は、実に明快だった。ファイルを丸ごと鷲掴みにすると、影は自分だけの住処を目指し、外に出た。
東の空は、まだ少しも明るんではいない。地震発生から、わずか三時間弱の出来事だった。
――第二部.終わり
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