十三の瞳 その6
でも、その喜びは、すぐに消えてしまう。乏しい明かりに照らし出されたその物体は、私達がよく知っている顔を持っていた。
「……阿川じゃないか」
苦しげな声をこぼした沼井。
それに呼び出されたかのごとく、坂道の向こうには、巨大な影が仁王立ちしていた。阿川を身体ごと投げ捨てたのか……。
阿川はすでに、切り刻まれていた。服は最初から赤い布地だったのではと思えるほど、きれいなまでに血で染まっていた。腕や足、首はあり得ない方向へとねじ曲げられている。特に首は、あと一押し、子供の力でも取れそうなぐらいまでに、切り込みが入れてあるのが分かった。
そして、沼井が放った枝伐り鋏は、阿川の腹の辺りに命中していた。
見つけたぞと言いたげに、ゆっくりと金野は近付いてきた。その表情は見えない。
最後の武器を放り出してしまっていることに、私達は愕然とした。すぐさま、沼井が意を決して、目の前の植え込みを飛び越え、阿川に刺さったままの鋏に飛びつく。
確かに、彼は鋏の柄を掴んだ。しかし、それとほぼ同時に、金野も鋏の刃を掴んでいた。そう、刃を――。阿川の背中を喰い破るようにして手をねじ込み、腹に刺さっている鋏の刃を平気で握りしめている。
「あ、が……」
言葉をなくしている沼井に対し、金野は冷静そのものらしい。無造作に手に力を入れたかと見えたら、次には鋏を非常な勢いで奪おうとする。
必死に抵抗を見せる沼井。だが、それも短い間だけだった。こらえきれなくなったように沼井が柄から手を放した途端、あの長い鋏は、阿川の身体を貫通し、背中を抜けて、金野の手に渡った。
今や逃げるしかなくなった。私は再び、ペンションを目指していた。沼井も、意味不明の言葉をわめきながら、後ろを走ってきている。
裏口まで来てみると、どうしたことか、あの折り畳み式の梯子が、そこにあった。屋根の上にあったはずなのに……。多分、金野が屋根に登ったとき、足か何かが当たって、落ちたのだろう。
それは、私達にとって幸運に思えた。もう一度、屋根に逃げれば、わずかであるが時間が稼げるはず。
私は無言で梯子をかけ、屋根へ昇った。後から沼井も来た。そして二人で、梯子を屋根へと引き上げた。そこには、さっき置き忘れていたロープの束もあった。同じことを二度体験しているような、奇妙な感覚。だが、決して同じでない。確実に追い詰められている、そんな気さえする。
「……」
息を詰めて、あの巨大な影が姿を見せるのを待った。待ってどうするのか、何の答もないけれど、とにかく待った。
それなのに、金野は来ない。また、嫌な予感が起こる。
突然、後方でガラスの跳ねる音!
そうだ、金野がペンション内の構造に詳しいことを忘れていた。いや、仮に詳しくなくても、一度、飾り窓の通路を使ったからには、楽に思い付くのも当然かもしれない。
「ああ、あわわ」
腰が抜けてしまっていた。へたり込んだまま、後ずさりするしかできない。
金野は鋏を構えていた。その先端が、不意に伸びてきたかと思うと、沼井の足下を襲った。左右に開いた刃は、彼の右足を靴の上から締め付ける。
足をばたばたさせ、払おうとする沼井。だが、相当の力で押さえられているのか、鋏は一向に離れない。それどころか、どんどん食い込んできているよう。
「あぎゃ!」
悲鳴と共に、沼井の右の靴は、先がなくなっていた。切断された靴の先は、ころころと屋根を転がり、雨樋に引っかかった。中には、足の指らしき物が見えた。
激痛に顔を歪める沼井。しかし、恐怖によって生きる執念が呼び覚まされたかのように、彼は半身の体勢になった。
そこへ、再び鋏が襲ってくる。今度は、沼井の右足首を捉えた。
でも、足首を切断する力はないらしく、いくら金野が力を入れようとも、血をにじませるだけである。
「へ、へ」
沼井は鋏の刃先を取った。
意外にも、金野は簡単に鋏を手放した。そして、こんな役立たずの道具はいらない。自分にはこっちの方がふさわしいとばかり、背中から斧を取り出した。
「よくも指を」
声を震わせながら、沼井は鋏を持ち替えた。刃先が動くことを確認してすぐ、彼は鋏を突き出す。
きん!
金属音がした。刃先は斧に当たってしまった。跳ね返される沼井の鋏。だが、斧にはじかれた刃は、運よく、相手の手首に引っかかった。金野の、斧を持つ手の手首に。
「今だ!」
逃してなるものか、そんな執念が込められた反撃。枝伐り鋏の刃は、見事、金野の手首を切り裂いていく。
初めて、あの巨大な影がひるんだ。一歩後退すると、切られた手首をもう片方の手で押さえている。
「おまえの血でも、赤いんだな」
どうでもいいようなことを、沼井は言った。でも、言わずにおられない気持ちも分かった。
「達江! ロープを投げ縄の形にするんだ!」
私は何も聞き返さず、言われた通りにする。
「絶対にちぎれない、丈夫な輪っかを作れ、いいな!」
どうすればそんな投げ輪ができるのか、全く知らない。だけど、必死で作った。これなら、輪に何かが引っかかったとき、手元で思い切り引っ張れば、締め上げられるはず。
顔を上げてみると、金野が手を軽く振りながら、再度の襲撃を試みようと、足をまた踏み出したところだった。
「投げ縄、できたか?」
「ええ、ここに」
「よこせ。達江はこれを」
短いやり取りで、私と沼井は、ロープと鋏を交換した。
「いいか、奴の首めがけて、輪を放る。それが首に掛かろうと掛かるまいと、君は枝伐り鋏で奴の身体を刺せ。深く刺さなくていい。奴が下に落ちればいいんだ。分かったな!」
うなずく。鋏を構え、時を待った。
じりじりと近付いてくる金野。果たして、狂気に走っているその耳に、今の会話は聞こえたか――?
最後の一歩を踏み出した金野。その瞬間、沼井も間合いをすーっと詰め、輪を投げる! 天が味方したのか、輪は緩い放物線を描き、すっぽりと金野の首に掛かった。
戸惑ったように、左右に首を動かす金野。
その間隙を突き、沼井は一気にロープを締め上げ、私は鋏を思いっ切り、前へと突き出した。
どすっ。そんな感じの、鈍い手応え。急激に、手にした柄に重さが加わる。目を閉じ、ありったけの力を振り絞る。
「身体ごと押せえっ!」
苦しそうな声で、命令してくる沼井。そうしているつもりなのに、押し切れないのよ!
「ちぃ」
舌打ちのような声を出したかと思うと、沼井はロープを持ったまま、私の背中に身体ごとぶつかってきた。
途端に柄が軽くなる。目を開けると、さっきまで私達の前に立ちふさがっていた巨大な影は、そこにはなかった。
「おい、こっち! 手伝え!」
振り返ると、仰向けに倒れた沼井が、両手でロープを握りしめている。彼の身体はずるずると、屋根の低い方へと引きずられている。
急いで駆け寄ると、
「どこでもいいから、屋根に鋏をしっかりと突き立てろ!」
と、怒鳴り散らされる。私は手にしていた枝伐り鋏を屋根に突き立てた。ちょうど何かの穴があったらしく、すっぽりと収まった。
「この……先を、そこへくくりつけろ」
はあはあ、息を切らす沼井。彼の指示に従い、ロープの先端を鋏の柄に巻き付けた。何度も何度も、ほどけないように。
「よし」
沼井はこちらを確認すると、手をそろそろとロープから放した。まだ震えているロープだが、完全に固定されている。
「……奴は……」
疲れ切った声の沼井。
「奴は、斧を手に持っているか、それだけ見ろ。気を付けるんだぞ」
彼は、ロープの伸びる先を指で示した。
私は恐る恐る、ロープが途切れている下を覗いた。
そこには、首吊り状態でもがいている、大男の頭の上が見えた。手足をばたつかせている上に、暗くて分かりにくかったが、そのどちらの手にも、斧は見当たらない。
「……持ってないわ」
振り返って伝えると、沼井は表情を緩めた。
「そ、そうか……。これで何とか……。下に降りよう、達江」
手を伸ばしてきた沼井。その手の平は、使い古した雑巾のようにひどく擦り切れていた。
その手を取ってあげる。
「……ええ」
「首を絞めているんだ、あいつもくたばるだろう。終わりだ。だが、とにかく、警察に電話だ」
「分かった……」
私達は、再び飾り窓の通路を通った。助かったという喜びも、涙も、何もなかった。とにかく、ぼろぼろだった。
沼井の右足を応急手当して、私達は二人、玄関を出た。
下へと続く坂には、あまりにも多くの血と遺体があった。
「通れない……」
そうつぶやくと、沼井もうなずき、
「そうだな。植え込みの外を行こう」
と言った。私は彼に肩を貸しながら、その通りにした。さっき、金野が飛び出してきた側の植え込みだと気が付いた。少し悪寒が走る。
歩き始めて間もなく、新たな遺体が見つかった。ペンションからほとんど離れていない位置だけど、植え込みに隠れる形で、見えなかったらしい。確認したくなかったが、せずにいられない気持ちが勝る。
私と沼井はゆっくりと、倒れている遺体に顔を近付けた。そのときの私達には、遺体の数を数え直している余裕はなかった。
「……」
私は言葉がなかった。
「……何だよ、これ?」
自分を失ったかのような声を上げた沼井。
死んでいたのは男。当然のごとく、首を切断されている。
私達の仲間、死んだのは四人――千田、吉村、坪内、阿川。
坪内と阿川は女だから除外。
千田と吉村の遺体は、その状態は酷かったけれど、確認している。
数が合わない。
そして何よりも、足下の遺体の左目には眼帯がしてあった……。
「どうなってんだよ?」
「……どうして、叔父が……ここで死んでいるの……」
顔を見合わせた。底知れぬ不安感が、私達を包むよう。
言葉はなく、どちらからともなしにうなずくと、私達はペンションへと引き返すことにした。
惨劇の展開されたペンションの中から、私達は一個の懐中電灯を見つけてきた。裏口に回るまでの短い間、沼井がこんなことを言い出した。
「今、思い出したよ……。この付近で起こった、もう一つの大事件を」
そう言えば、そんなことを口にしていたっけ。私は唾を飲み込んだ。
「緋野山だろ、あそこにそびえてるのは?」
立ち止まり、一つの山を指差す沼井。星空を背景に、沈黙したまま立っている山。
「ええ、そんな名前だったわ。ハイキングコースとしてそこそこ有名な山と聞いてるけれど……」
「そうか……あの事件だよ。山登りに来た十何人かのグループが、一人を除いて斬殺された事件。生き残った人も精神病院に入れられているという噂……」
――緋野山の殺人鬼。私は今になって、ようやく「あの事件」を思い出した。あの緋野山で、何年か前に起こった大量殺人。犯人は不明のまま、今に至っている。衣服の切れ端が見つかって、「十三(JUZA)」という名前の人物が犯人ではないかと、無責任に書き立てられていた。そんな記憶が朧気にある。
「じゃ、じゃあ、私達を襲ったのも、緋野山の殺人鬼『十三』だと言うの?」
「可能性はある。行こう」
裏口まで来ると、あの巨大な影が、ロープにつながれたまま宙に浮き、ぐったりとしていた。懐中電灯でぶら下がっている奴の顔を照らしてみる。
「……だめだ。髪の毛が邪魔で、見えやしない」
沼井は懐中電灯を私から受け取ると、一人で進み出た。巨体の影の真下に立つ格好になる。そこから照らし出せば、確認できる。
「こいつは……見たことのない顔だ」
見上げながら、沼井はつぶやくように言った。
「何かメタリックなサングラスみたいな物をしている。君の叔父さんより、さらにがっしりとした身体つきだよ……」
私を安心させるためか、彼はほっとした様子の表情を向けてきた。
そのとき、ぶら下がっていた巨体の足が動いた!
「きゃあっ!」
絶叫していたのは自分だった。私はいつの間にか、両手で顔を覆っていた。その指の隙間から、覗き見ると……。
巨大な影――「十三」は生きていた。
沼井は十三の両足に首を挟まれ、身動きできなくなっていた。呼吸できないのか、顔を真っ赤にして、必死に脱出しようとしている。
「友彦! 友彦!」
声を限りに、その名を呼ぶだけで、私にはどうすることもできない。手足の力が、完全に抜けてしまっている。脱力感だけでなく、目の前の光景にも、私が何もできないでいる理由はある。
十三を吊り上げているロープ、その一部が屋根の縁に擦れて、切れそうになっている。殺人鬼一人の体重は持ちこたえたロープも、沼井を加えた重量には耐えられないのかもしれない……。
私の視界に、ふと、斧が入ってきた。屋根から転落したとき、十三が手放した物だ。
かなり迷った挙げ句、斧を取りに身を投げた。返す刀、立ち上がる勢いで、十三の足に斧を叩き込む!
斧の分厚い刃は、間違いなく十三の太股に食い込んだ。……それなのに、この殺人鬼はそのまま沼井を絞め続けている。
頭上で、がらがらと何かが崩れたような音。
屋根に突き刺した枝伐り鋏が抜けてしまったんだ! 直感した私は斧を持ったまま、その場を逃げ出した。
一度だけ振り返ると、うつろな、恨めしそうな沼井の瞳と目があった。
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