十三の瞳 その5

 彼が顎で示した先には、黒く巨大な影が立っていた。その正体は、未だ判然としない。ただ、「あいつ」がこちらを見上げているのだけは分かった。さっきの揺れは地震ではなく、「あいつ」がペンションの壁を殴るか蹴り飛ばすかしたのに違いない。

 私は当たり前のことを、敢えて聞いた。

「見つかったのね」

「そうらしい。さて、向こうの出方は……」

 沼井は観察を続ける気らしい。武器は温存。

 「あいつ」は、壁を斧で叩いたり、直接殴ったりを繰り返した。まさかとは思うけど、ペンションそのものが崩れてしまいそうなほどの衝撃を受ける。

「念のため、ペンションの中への通路を確保しておこう。どこにある?」

 私は三角の飾り窓を指差した。沼井は腰を屈めたままそちらへ向かい、窓枠を掴んでバランスを取り、そのガラスを蹴り破った。

「足、大丈夫?」

「ああ。ひょっとしたら、どこか切ってるのかもしれないが、今の状況じゃ痛みを感じやしない」

 沼井の言葉に、私は無条件に納得していた。

 下を見ると、「あいつ」は、まだ壁を叩き続けている。そして、斧を嫌に大きく降りかぶったなと思ったら――。

 げしん。そんな音がして、斧がペンションの壁に食い込んだ。

「な、何をするつもり?」

 沼井は首を振るばかり。

 ただならぬ悪い予感を覚え、私と沼井は阿川を両側から支え、さらに梯子を除く武器を持って、ペンション内に通じる飾り窓へと移動を始める。

「あ、あっ」

 下を見ていた沼井が、愕然としたような声を上げる。

「どうしたの?」

「見ろよ! とんでもない奴だ……」

 私は、「あいつ」の姿に目を凝らした。「あいつ」は、壁に突き立てた斧を足の踏み場として、一気に壁を昇りきろうとしている!

「やばい……」

 心なしか、沼井の声が震えているように聞こえる。いや、声だけじゃなくて、阿川の背中辺りで触れている、沼井の腕にも、震えがきているらしかった。

「あいつが屋根に上がってきてからじゃあ、遅い。中に降りるんだ」

 私達は次々と飾り窓をくぐった。ガラスの破片を気にする余裕はない。

 短い通路を抜けると、すぐに壁にぶつかる。そこを開けると、見慣れた廊下に出た。

「この扉、鍵をかけられないのか」

「かかるけど、簡単な仕組みだから、すぐに壊されるわ」

「それでも、やらないよりましだろ」

 私はポッチを回し、屋根へと通じる扉の鍵をかけた。

「そうだ、電話だ」

 一声叫ぶなり、沼井は電話機を探した。勝手を知っている私の方が、先に見つけられた。飛びつくように、送受器を持ち上げる。

「あ……」

 耳に送受器を当てた途端、全身の力が抜けそうになった。

「どうした?」

「線が切られてる!」

 私の声は、ほとんど悲鳴に近かった。

「何てことだ!」

 それでも彼は、私の手から送受器を奪い取ると、フックを何度も押すという無駄な行為を試みていた。

「だめだ。こうなったら……外に逃げるしかないか」

 覚悟を決めたように、沼井は言った。それからおもむろに、近くの部屋に飛び込むと懐中電灯を持って来た。さらにもう一つ、懐中電灯を調達して来ると、私に手渡してくれた。

「明かりはない方が、相手に見つかりにくいのかもしれないけど」

「一緒よ。どうしたって、『あいつ』は追ってくるわ。明るい方がいい」

 それから私達は、玄関へと向かった。まだ「あいつ」があの扉を破っていないのだから、靴を履くのがいいだろうと思って。

 そこで、私達は見た。見てしまった。

「何だ、これは……」

 私は言葉がなかったが、気持ちは沼井と全く一緒だったろう。

 最初に目に飛び込んできたのは、真っ赤に染まった壁や床。その中央に位置する感じで人が一人、ぼろぼろにされて倒れていた。首から上は切断され、表情をなすはずの目は二つともえぐり取られていた。胴体の方を見れば、片手まで切断されていた。切断された手はどこかと思ったら、さっきの頭部の口に押し込んであった。あまりに変わり果てた、千田幸正の姿……。

「うっ」

 吐き気がこみ上げてきて、我慢できなくなった。一気に戻してしまう。口中に酸っぱい、嫌な感覚が残った。

 吐き気を催しているのは沼井も同じらしく、必死でこらえているのが傍目からも分かった。阿川だけは、目は開けていても、状況を認識できないのか、変わった様子は見られない。

「ひ、ひでえ……な」

 嗚咽のようなうめきをこぼしつつ、沼井はそれだけをようやく言った。

 まだ止まぬ吐き気を押さえながら、玄関へ目を向けると、さらなる視覚的衝撃が私達を襲った。

 玄関横の壁が大きく崩れ、中の鉄筋が露出している。ううん、鉄筋だけじゃない。半分ミイラみたいな骸骨が、顔を出している……。恨めしそうにこちらをにらんでいる、そんな気がしてくる。

「こいつは……何だ?」

 沼井の横で、私はぴんと来た。

「……三年前の行方不明事件よ! 改装の頃と画家志望の人がいなくなったのは、ほとんど重なっていたんだから……」

「……そうか……。理由は知らないが、君の叔父さんは画家志望の人を殺して、ちょうど改装中だった壁に塗り込めていたんだな……。それが、さっきの地震で崩れてしまって」

「こうして、三年ぶりに姿を見せざる得なくなったのね……」

 三年前、叔父が犯罪に関わっていたのは、ほぼ確かであろう。私は度重なるショックで、膝の力が抜けてしまった。一人、廊下にぺたんと腰を下ろす。

「達江……さん。こんなときに悪いんだけど、言わせてもらう。僕達を襲っているのは、あのおじさんじゃないのか?」

「ええっ?」

 私は沼井を見上げ、それからすぐに起き上がった。彼の肩を掴むと、激しく揺さぶってやった。

「どうしてそうなるのよ?」

「よせよ。阿川が」

 言われて、私は揺さぶるのをやめた。阿川をしばし、横にさせる。

「……地震で壁が割れたために、三年前の殺人が公になってしまったんだよ、おじさんは。こんな玄関のすぐ横だと、どうしたって僕達の目に触れる。ここだけ覆い隠すのも不自然で、疑ってくださいと言っているようなものだ。追い詰められた気持ちになった君の叔父は、決意を固めたんじゃないか? 僕達六人を皆殺しにしてやろうって。全員殺してしまえば、この骨のことは秘密を保てる」

「全員を殺すですって? そんなことしたら、私達の家族が変に思うわ。いつまでも帰って来ないんだから」

「三年前に一度、隠蔽に成功しているんだ。もう一度って考えたとしても、おかしくないだろう」

 沼井の考えは、強引だが現実味はあった。

「……信じられない……」

「気持ちは分かるけどな。考えてもみろよ。地震があった直後、どうして君の叔父は、僕達客のところに駆けつけなかったんだ? この壁が割れたと分かって、その善後策に苦慮していたからじゃないか」

 がしん! 弾けるような音がした。

 瞬間、私達には分かった。あの扉が破られかけている!

 沼井と力を合わせ、阿川を支えると、三人揃って外に転がり出た。他にロープやスコップなんかを持っていても、状況が状況だから、重たさがちっとも苦にならない。

「公衆電話、ないのか?」

 暗い空間を、きょろきょろ見回す沼井。

「ないわ。下まで降りて行かないと」

 沼井は舌打ちした。

「近くに家はなし……。ますますやばいな、これは。電話がある場所で、一番近いのは?」

「……温泉旅館じゃないかしら。でも、あそこまで歩いたら、時間がかかってしょうがないわ」

 実際に歩いてみたことはないけれど、相当、距離があったはず。

「僕一人だけが行く訳にもいかないよな」

 答える代わりに、私は彼の腕を強く握った。

 悠長に考えている暇はなくなった。何故なら、ペンション内で激しい物音がしたから。確実に扉が破られたに違いない。

「どこかに身を隠さないと」

 私達は玄関から向こうへと下って延びる道を駆け足で進んだ。

 その途中……。

「あ! あ、あれ……」

「見るなっ」

 沼井は短く低く叫ぶと、先を急いだ。私は口を手で押さえ、ほとんど目をつむって、遺体の横を通り抜けた。

 もういいだろうと目をはっきりと開けた途端、次の遺体が視界に飛び込んできた。――背中を滅茶苦茶に切り裂かれたそれは、坪内遥子に間違いなかった。やはり彼女も、首を切断されていた。

 しかし、もう、悲しんでも、気持ち悪がってもいられなくなった。巨大な影が、後ろから迫って来るのが見える。シルエットで、斧を手にしているのが分かった。さっき、扉を破るまでの間隔が長かったと感じたけれど、あれは外壁に突き刺した斧を取りに戻っていたからだったんだろう。

「今ならまだ、僕らは発見されていない」

 息を切らしながら、沼井。

「だからどうなの?」

「横に反れて、植え込みに隠れよう。やり過ごせるかどうか、分からないが」

 言うが早いか、彼は私と阿川を植え込みの向こうへと行かせた。

 腰を折り曲げ、息を殺す。少なくとも、未知からは見えないはず。

 すぐに、あの巨大な影がやってきた。叔父がこんなことをするなんて、未だに信じられない……。

 斧をかざしたままの叔父……とは呼べない。せめて突き放して、金野とでも呼ばなければ、心の均衡が完全に崩れてしまいそう。

 金野は斧をかざしたまま、大股で坂道を下ってくる。瞬く間に、私達の目の前に通りかかった。最大限の緊張感が、身体の中を貫く。

 金野は、私達には気付かず、どんどんと降りて行っている。やり過ごせたのよ! 沼井と顔を見合わせ、私が安堵しようとしたそのとき……。

「うう、うううあっ」

 冗談、と信じたかった。阿川のことを忘れてしまっていた。彼女は痛みに耐えきれず、うめき声を上げ続けている。

 金野の足が止まった。くるりと向きを換え、うめき声の源を探っている。

「――だめ!」

 私は胸が張り裂けそうになって、気が付いたら走り出していた。

 私の行動に触発されたかのように、沼井も猛ダッシュで走り出している。

 あとに残されたのは、一人だけ。

「くぅええ」

 背中で、彼女の声を聞いた。呼吸がこぼれるような声――喉を切られたんだ。でも、もうどうにもならない……。

 逃げるだけ逃げた。どこをどう走ったのか、上がったのか下がったのかも分からない。とにかく息が切れるまで走り続け、私と沼井は、草のしげる斜面に倒れていた。

 横に倒れている沼井を見ると、ぼろぼろと泣いていた。私も涙が出てきた。よく分からない。みんな死んでしまうのかもという思いが、一段と強くなってくる。その恐怖に加え、結局は阿川を見捨ててしまったこと、三人の無惨な死に様を見せつけられたこと、その他色々な要素が混じり合って、感情が爆発してる。

「へ、へへへ」

 やがて私達の間で発せられたのは、そんな、意味のない笑い声。

「えへへ……殺されてたまるかよ。何で、俺がこんな目に遭わなきゃなんねえんだ! ええっ?」

 天を仰ぎ、沼井は大声で叫ぶ。夜空は悲しいぐらい、きれいに見えている。星に手が届きそう。しかし、決して届きはしない。夜景として映る街の光も、今の私達には同じかもしれなかった。

 沼井は、一際大きく叫んだ。

「やってやる! やられる前にやってやる」

「……素手で立ち向かえないよ。私、スコップもロープも放り出して来ちゃったし……」

「こいつがある」

 枝伐り用のはさみを、手でぽんと叩く。

「これで、遠くからあいつの喉をちょんぎってやる。でなきゃ、もう一つの目玉をくり抜いてやるか。そしたら、追って来れなくなるぜ」

 ひひひひひと、沼井は声を殺して笑っているらしかった。私も笑っていた。金野はもう、叔父ではないのだから、どうなろうと知ったことじゃない。

「やってやるさ……」

 つぶやいてから、沼井はゆらりと立ち上がった。彼は枝伐り鋏を杖として使いながら、斜面を上に歩いて行く。私は、四つん這いのような格好で、後を追った。

 しばらく行くと、右手にペンションが見えた。寝泊まりするはずだった、あのペンション。

 さらに上がったところで、さっきの坂道にぶつかる。植え込みに身を隠しながら、様子を窺う。耳が痛くなるぐらいに静かなのは何故? 圧倒されるほどの静寂は、余計な想像をかき立て、自分の内に瞬く間におびえを巣くわせる。

 それを振り払おうと、私は頭を振って、深呼吸をしようとした。だが、それは中途半端に終わった。

 がさっという音がしたかと思うと、道を挟んでちょうど相対する向こうの植え込みから、何かが飛び出した!

「うわっ!」

 同じ精神状態だったのだろう、沼井は慌てふためいている。それでも、飛び出してきた物体に、鋏を強く深々と突き立てることに成功した。

「やった!」

 私達は揃って歓声を上げた。

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