十三の瞳 その4
足には自信を持っている千田だったが、口をふさがれていては呼吸がままならず、すぐにばててしまう。ばてると言うよりも、普段通りに走ることすら不可能だ。痛みと出血がいつまでも続き、意識が薄れかける。何より、突然、視界を失ってしまったのだから、どうしようもない。
ふらついた途端、足に衝撃を受けた。激痛に意識は元に戻ったが、足が動かない。アキレス腱の辺りを左右一度に切断されたらしかった。
(何で……おっさんが、こんなことを……)
動けなくなった千田は、その場にくずおれてから、その理由を考えた。が、納得できる理由は何も思い浮かばない。
(他の連中に……知らせよう。それなら、助かるかも……。それには)
彼は左手で、口に突っ込まれている右手首を掴んだ。こいつを引き抜いて、声を出すしかない。
血糊は固まりつつあった。が、まだ滑る。無理に引っ張ろうとすると、ぼろぼろと涙が出た。
その様を、千田を襲った影が面白そうに眺めていたことを、千田自身は分かるはずもない。
(くそ)
次の強襲が全く予想できないだけに、彼は焦った。意を決し、左手の人差し指を、口の端に突っ込む。そして、一気に己の口を引き裂く。心の準備ができていたせいか、さほど痛みは感じない。それまでにもっと強烈な痛みを味あわされていたせいもあろうが。
口を裂いて、大きくしたことで、右手首を吐き出せた。
「――誰か」
救いを求める声を上げようとしたそのとき、彼の一縷の望みはかき消された。
彼の真正面、猛スピードで迫っていた斧は、千田の喉仏を横に切り裂き、何度か左右に動かされたあと、その首を跳ねることに成功した。
首が床に転がったあとも、身体はびくんびくんと痙攣を繰り返し、その切断面からは、盛大に血の噴水が湧いていた。
鉄の匂いと汚物の臭い。異臭が立ちこめ始めた。
余震が一度あった。そのときは、また大きいのが来るのかと身を固くしたけれど、すぐに静かになったので、緊張が解けた。
「遅いな」
落ち着かぬ様で、沼井がつぶやいた。続けて私に聞いてくる。
「ペンション内を見回るのに、どれぐらいかかる?」
「え……十分もかからないわ。部屋の並びをよく知らなくても、十五分もあれば充分なはずよ」
「十五分はとうに経っているな。……さっきの余震で、下敷きになったとかじゃなければいいんだが」
彼は腰を浮かしかけた。私はその腕にすがりつく。
「どこへ行く気?」
「様子を見て来ようかと思って。あまりにも遅い」
「行かないでよ。あなたはここにいればいいのよっ」
「二人でいれば大丈夫だろ」
と、阿川と私を示す沼井。
「嫌よ。一緒にいて。いなさいよ」
「……分かった。もう少し待とう。そうだな、もう十分して千田が戻ってこなかったら、三人で回ってみよう。いいな?」
私は無言でうなずき返した。沼井と一緒なら、何だっていい。
「それに、吉村達も心配だ。外も見に行かないと」
沼井は額に手をやった。汗をかいている。
電気は来ているものの、空調設備がおかしくなったのかしら。エアコンがうまく作動していないらしかった。
「あー、悪いけど、窓、空けてくれないか」
沼井は、窓に近い阿川に頼んだ。
「分かった」
と答え、阿川は立ち上がり、窓に手をかけた。がらっと音がしたかと思うと、山の冷たい空気が流れ込んできた。
「網戸、きちっと閉まらない」
見れば、阿川は網戸をぴたりと閉めようと、苦戦していた。
「いいじゃない。蚊なんかいないんだから」
私が声をかけたとき、阿川の方から悲鳴が。
「きゃあっ!」
私と沼井は顔を見合わせた。
「どうした?」
すぐに沼井は立ち上がり、阿川のいるところへ近付こうとした。
それを、私が引き留める。何だか分からないけど、嫌な予感を全身で感じてしょうがない。
「う、腕が……私の手が……」
振り向いた阿川の顔は、白く見えた。
それと対称的に、彼女の足下には血溜まりが赤く広がっている。
私は見た。阿川の左手だけが、窓枠を握りしめたまま、宙に浮いているのを。そして阿川の左腕の先から、水でうすめた赤絵の具のような液体が流れているのを。
「いきなり……斧が……網戸を……突き破ってきて」
泣きそうな声。現状を把握できていない。
阿川の言葉の通り、斧は網戸の網を切り裂き、そのまま引っかかっていた。
私はもちろん、沼井も、この情景にはあぜんとして、動くことさえままならない。差し迫った未知の恐怖と、助けなければという思いが交錯する。
逡巡している内にも、斧がぎりぎりと音を立て始める。網戸から抜き取って、次の一振りを与えようとしているらしい。
「あ、阿川! こっちに来い! 逃げるんだ!」
沼井が振り絞ったような声を出した。からからに乾いている。
「で、でも、私の手が……離れないのよ」
阿川は窓枠を掴んだままの、自分の左手の指を、右手でもって開かせようとする。その手つきは震えが止まらない。
「いいから! 殺されるぞ!」
沼井は叫びながら、私を抱き抱えるようにして立ち上がらせてくれた。それと同時に、ばね仕掛けのおもちゃのような瞬発力で、阿川の元へと接近、彼女の右手を掴む。普段では考えられぬほどの力で、彼は私と阿川を抱えるように、部屋を飛び出した。
背後では、窓ガラスの割れる音が激しくなっている。沼井は足で部屋のドアを閉じると、私に聞いてきた。
「何か、重たい物はないか?」
「……ソファかテーブルぐらいしか」
私は遊興室前の広いスペースを指差しながら、答えた。
「そんなんじゃだめだろうな……」
と言いながらも、沼井はすばしこく動き回って、部屋の前にソファとテーブルを積み上げた。
「よし、この部屋から離れよう。――そうだ、何か武器になりそうな物は?」
「奥の方に物置があって、そこに何かあるかも」
私が言うと、彼はペンション奥へと向かって行った。私と阿川もそれに続く。しかし、阿川は傷がひどく、額には大量の玉の汗を浮かべていた。自分がどう行動しているのか分かっていないかもしれない。
「ここか」
戸を開け放すと、物置内に光が射した。スコップ、ロープ、折り畳み式の梯子、ペンキか何かの缶、芝刈り機、高枝伐り鋏、鋸、ホース、携帯用ガスコンロ、テント用の鉄杭……そういった物が見える。
何か思い付いたのか、沼井は私にこう言った。
「屋根に出る通路は、この中にあるのか?」
「あるけど、私も知らない。どこか隠し扉みたいになってるはず」
「よし、じゃあ、梯子を掛けておいてくれ。一旦、屋根に逃げよう」
おろおろしながらも、私は梯子を担いで、奥の裏口から出ると、壁にそれを立てかけた。
戻ってみると、沼井は武器になりそうな物を選別しているらしかった。
「芝刈り機はバッテリーが切れてやがる。ガスコンロもだめだな。この缶は……空っぽか」
「鋸は?」
私は、鋸を手に持ちながら聞いた。
「そんな薄刃のじゃ、斧に太刀打ちできるもんか。放っとけ! それより、阿川の傷口を何かで押さえてやらないと」
言われてから、私は思い出した。気持ち悪さを飲み込んで、阿川の腕を取る。左手首の辺りをハンカチできつく縛り、さらに羽織っていた服をその上から被せ、これもきつく巻き付けた。これでいいのか分からないけど、これしかしようがない。阿川の顔面は、相変わらず血の気に乏しい。
突然、がたがたがたっと騒がしい音がした。何だか知らないけど、斧を持った「あいつ」の仕業に違いない。委細かまわず、部屋のドアを突破しかけている。
「もう来やがった。くそっ、屋根に上がるぞ!」
沼井はスコップ、ロープ、枝伐り鋏を抱えて、裏口へと向かった。私は阿川を支えてやりながら、それに続く。
左手のない阿川を梯子に昇らせるのは、大ごとだった。まず、沼井がいち早く駆け上がり、ロープを垂らす。それを輪にして阿川の胴にかける。上から沼井が引っ張り、下から私が押して、ようやく阿川は屋根に到達できた。
私が昇りきったところで、沼井は梯子そのものも、屋根上に引き上げた。
「これでしばらくは時間が稼げる。うまくすれば、奴をやり過ごせるかもしれない。とにかく、静かにしていよう」
息を詰めて待つ。
時折、何かが壊れるような激しい音が聞こえてきて、身体をびくっとさせてしまう。「あいつ」が暴れているんだ。
「阿川は大丈夫か」
阿川は弱いうめき声を断続的にさせているだけ。応答のない彼女に代わって、私が答える。
「とにかく、止血しないと危ないかも……。ほら」
阿川の左腕の先がまだ出血しているのは、暗がりでもはっきりと分かる。
「しまった……電話すればよかったんだ。警察でも救急でもいいから、呼んでいれば……」
悔やんでも遅かった。屋根に上がってしまっては電話は使えない。もちろん、携帯電話なんて、ここには持って来ていない。
「何者なんだ、あいつは」
「分かるもんですか、あんなの。頭がおかしいのよ。斧を持って暴れて……。千田君も、吉村君や遥子も、それに叔父も、あいつにやられたのよ。そうに違いないわ!」
「大声、出すなよ。気付かれたって、簡単には上がって来れないだろうけど、気付かれない方がいいに決まっているんだからな」
注意されて、私は慌てて口をつぐんだ。耳を澄ますまでもなく、「あいつ」がペンションのあちこちを徘徊する気配が伝わってくる。
私は両膝を抱え、そのまま顔をうずめた。
「早く、どこかに行って……」
「何とかしたいな」
運んできた武器を点検するようにしていた沼井は、ふっと思い付いたように漏らした。
「屋根に出る通路があるって言ったな? 屋根から、逆に降りて行くことはできるか?」
「降りてどうするつもりよ?」
私は目を見開き、沼井を問い詰める。沼井は微笑んだようだった。
「大げさに言うなよ。下のあいつと戦おうってんじゃない。電話をかけたいだけだ。で、どうなんだ? 降りられるのか?」
「それは……ガラスを蹴破りでもすれば、できないことないと思うけど……。でも、もし、『あいつ』に見つかったらどうするのよ」
「逃げるさ」
「逃げるのは当たり前よ。その逃げる姿を見つかったら、屋根への通路が相手に知られちゃうじゃないの。そうなったら、どうしようもないわ!」
「そんときは、自分達が急いで屋根から降りたらいい。梯子を取り払ってしまえば、相手は屋根の上で立ち往生だ」
「そんな生やさしいかしら? これぐらいの高さ、楽に飛び降りるわ、きっと」
この意見には、沼井も詰まった。
「そうなったら、すぐに追い付かれて、殺されるかもしれないのよ。そうなったら、どう責任を取ってくれるのよ」
「責任なんて言われても困るが……。阿川を見殺しにもできまい」
「私より彼女の方が大事なの?」
「馬鹿言うな! こんなときに何を言ってるんだ?」
「馬鹿とは何よ! だいたい、こんなけが人を連れていたら、逃げ切れるものも逃げられなくなるじゃないの。ほんとに、考えなしなんだから!」
このときの私は、常軌を逸していたのだと思う。阿川の意識が朦朧としているらしいのを横目で見て、さらにまくし立てた。
「あのとき、彼女なんか放っておいて、すぐに外に飛び出せばよかったのよ! 一人がやられている内に、私達は逃げ切れたはずよ、絶対」
「本気で言ってるのか、おい?」
「私は本気よ。助かる見込ゼロの人を連れてきて、全く、呆れるわ。どうせ、いい格好をしたかったんでしょうけど、おあいにく様。沼井友彦の美談は新聞にもテレビにも報じられることなく、みんな死んでしまうのよ。ふん!」
「……」
「電話だって、本当に冷静だったら、すぐに思い当たっていたわよねえ。それができていないってことは、あなたは表面だけ冷静を繕っているだけなの。分かるでしょ?」
「いい加減にしろっ!」
その叫び声に重なって、ぴっしゃりという音が私のすぐ側で起きた。同時に、左の頬が熱を持ってくるのが分かる。
「……叩いたわね」
沼井はしばらく無言のままでいた。かと思ったら、いきなり手を伸ばしてきて、私のこめかみ辺りを左右とも、両手の平で包んだ。
「ああ、叩いたさ。これで目が覚めなけりゃ、君も相当の大馬鹿だ。いいか、起きてしまったことをぐずぐず言うな。変化する状況に対し、その時点での思い付く限り最善の判断をして、とにかく逃げ延びるんだ。それしかないだろうが?」
沼井にまっすぐに見つめられ、私は息を飲んだ。そして目に涙が溜まるのを感じながら、何度もうなずいた。
「ごめん……なさい。……どうかしてた」
「いいよ、もう。あとで阿川に謝っておけよ」
沼井が優しく言ったとき、急に屋根全体が揺れた。
「きゃ!」
私がしがみつくと、沼井はそのまま、雨樋越しに顔をわずかに出した。
「……まずい。少々、騒ぎすぎたか」
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