十三の瞳 その3

「今、何か」

 背中の彼女にそう聞こうとした刹那。

「が」

 短い悲鳴がしたかと思うと、左肩を掴んでいた坪内の左手から、力が抜けていくのが分かった。

「どうしたの? しっかりと持っててくれなきゃ」

「い、痛い……」

 声の弱さとは裏腹に、坪内は吉村の背の上で、暴れ始めた。右肩に伝わってくる力は、女性のものとは思えなかった。

「お、おい?」

 非力な吉村は、簡単に転んでしまった。前のめりだったので、胸や顔面をもろに強打した。

「いててて……」

 坪内の身体の下から抜け出ると、吉村は顔をさすった。ひりひりするが、どこからも血は出ていないらしかった。

 ふと、吉村は背中の左上辺りが冷たいことに気付いた。無理をして手を回すと、指先にぬるっとした感触があった。

「?」

 暗いので判然としないが、液体の色はかなり濃い。その臭いを嗅いでみる。

「……血か?」

 しかし、彼自身、背中には何の痛みもない。強いて言えば、坪内に強く掴まれた右肩に痛みが残っている程度だ。

「おーい、遥子さん。どうしたんだよ」

 彼女、上半身に怪我はしていなかったはずなのにな。そんなことを考えながら、彼はうずくまったままの坪内に声をかけた。

 彼女からの反応はない。

 吉村は近付いて様子を見ようとした。が、そこで奇妙な音が聞こえてきた。「ううぅ」とか「ええぇ」とか、意味不明の……声だった。坪内のうめき声に呼応するかのごとく、ざくざくという音もしている。

「誰かいるのか!」

 大声を出す吉村。彼はやっと、坪内遥子の背中を切りつける、何者かの存在に気が付いた。

「よしむ、ら……くん」

 辛うじてそれだけが聞き取れた。

 暗がりに溶け込んでいたその何者かは、ようやく吉村にも認識できる影をなした。

「な、何をしている……?」

 信じられない思いの吉村。地面には、今の今まで彼が背負ってきた女が、真っ赤に染まって倒れていた。

 影は、それには答えず、坪内の髪を片手で鷲掴みにした。ぐいっと、起こされる坪内の頭。

 吉村が呆然と見送っていると、影はもう片方の手に持つ斧を振りかざす。

「や、やめろお!」

 影が何をするのか、吉村に分かったときには、もう遅かった。

 斧はさめた音を立てて、坪内の首に食い込んだ。ほんのわずかの間、首半ばにとどまっていた刃は、すぐに反対側へと突き抜けていった。

 影の左手には、坪内の頭部が残された。まるで、ギリシャ神話のペルセウスとメデューサ……。

 影が迫ってきた。

「ひ」

 一声上げて、吉村は後ずさった。

「た、助けて」

 蚊の鳴くような声を出しながら、吉村は相手に背を向けた。そして一気にかけ出そうとする。だが、腰が抜けていたか、足取りがままならない。すぐに転倒してしまった。

 慌てて振り返ると、もうすぐそこに、影の巨体が迫っていた。そう、巨体だった。片手に斧を持ち、大股で近寄ってくる。

 吉村はすぐにも立ち上がろうとして、手に力を込めた。そのとき、固い物が手の甲に触れた。

(そ、そうだ)

 彼は閃きをすぐに実行に移す。手に触れた固い物――カメラを構えると、フラッシュを焚いた。目潰しにひるんだ隙に、逃げてやろう。そう考えていた。

(あ?)

 だがしかし、吉村の行動は遅れてしまった。

「そ、その顔!」

 白い閃光に浮かび上がった顔。その恐ろしい顔に吉村は我が目を疑い、逃げ出すのが遅れたのだ。

「その顔! 何で――」

 叫ぶ吉村を、鈍痛が襲った。

 スクラップ工場でするような音がして、顔の前に構えていたカメラが左右に割れた。隙間から飛び出してきた斧が、吉村の眉間を砕く。

「ぎゃ」

 後方へもんどりうった吉村は、それでもカメラを放さないでいる。

「ぎゃぎゃぎゃ」

 彼を襲う痛みは、さっき転んで鼻を打ったときとは比べようもなかった。

 その彼の前に、影が仁王立ちする。

 とっさに、吉村は第二の攻撃を避けようと、がらくた同然のカメラを握ったままの両手で、顔をガードした。

 しかし、次の攻撃も顔面を襲うという彼の予想は甘かった。影の持つ斧は、無防備な吉村の腹を狙って飛んで来た。

「ぐえ!」

 前屈みになる吉村。そこに第三の攻撃。

 影は斧を引き抜くと、その位置から一気に上向きに振り切った。

 斧の分厚くも鋭い刃は、吉村の両手をなでた。無論、なでるだけですむはずがない。両手のガードを押し開くと、斧は吉村の鼻を直撃し、それを彼の顔から持ち去ってしまった。

「いいいいてえ!」

 空気の流れがおかしくなったのか、妙な声になりながらも叫ぶ吉村。血と脂で分かりにくいが、かつて鼻のあった箇所は、ほぼ平らになっていた。あとに残るは、二つの鼻孔の成れの果て。

 喉に落ちてきた血にむせてしまう。吉村は息苦しくなって、口で激しく呼吸した。

 その大きく開いた口を、最後の攻撃が襲う。

 影は水平に斧を構えると、その方向のまま、腕を素早く動かした。

 ずしゃっ。

 奇妙な音と共に、斧は吉村の両手を切り飛ばした。切り飛ばされた指先とカメラの一部を乗せたまま、刃はさらに進み、吉村の上顎を引っかけた。当然、上顎ごと吹き飛ばす。

 ガードの甲斐はあった。吉村の頭部上顎から上は吹き飛ばされることなく、皮一枚を残してうなじにぺたりと張り付き、ぶら下がっていたのである。

 そして、今まで頭のあったところには、何本かの指とカメラの部品が生えていた。


 テレビで流れた速報によれば、この辺りの揺れが一番激しく、震度四だったらしい。詳しい被害状況は分からないが、津波の心配はないという。もっとも、この山にいれば、よほどのことがない限り、波は襲ってこないと思うんだけど。

「まずは安心できたな」

 沼井はテレビから視線を外し、私の方を見やってきた。

 私達――私と沼井友彦、千田幸正、阿川潤の四人は、コスモスの部屋に集まっていた。私の部屋に集まったのは、ここが一番、被害が少なかったから。他の部屋は、家具が倒れたり、窓ガラスが割れたりしていた。

「それにしても、帰って来ないね」

 阿川がぽつりと言った。

「吉村と遥子のこと?」

「そう。何かあったんじゃないかな。最悪の場合、地滑りとかがあって……」

「冗談、やめてよ」

 私は声を高くした。そして笑おうとしたけれども、顔がひきつってしまう。

「冗談とも言えないんじゃないか、この状況では」

 四人の中では一番落ち着いているらしく見える沼井。

「もう少し時間が経って、戻ってこなければ、探しに行く必要がある。懐中電灯はある?」

「え、ええ。各部屋に一つずつ、停電に備えてあるはずよ」

 私の言葉に、沼井は立ち上がり、入口近くの壁にかけてある懐中電灯を取り外した。壁から外すと、点灯するようになっている。

「よし、ここは大丈夫だ。他の部屋の分も調べておくのがいい。僕は自分の部屋のを見るから、他のみんなも」

 そう言いつつ、彼は廊下へと出て行った。千田と阿川が続いた。

 一瞬、一人でいることが恐くなる。一人取り残されたこの感覚は、長く耐えられそうにない。それに、この部屋の天井だけが落ちてきたりしたら……なんてことまで想像してしまう。死ぬのは嫌!

 様子を見に行こうと腰を浮かしかけたら、三人が戻って来た。

「どの部屋のも使える。もちろん、吉村と坪内の部屋は鍵がかかっていて、確かめられないんだが」

 沼井が言った。

「叔父から鍵を借りれば」

 私が言い終わらぬ内に、これまで黙っていた千田が口を開いた。

「そうだよ、そのおじさん、何してんのかね? あんだけの地震があって、俺達のことを見に来ないなんて、おかしいぜ」

「そう言われれば……」

 同意する阿川。

「ひょっとしたら、叔父が怪我を」

 その気もないのに、両手で口を押さえてしまった。あまり親しくないとは言っても、身内は身内。急に不安がこみ上げてくる。

「しょうがないな」

 腰を上げたのは千田だった。滅多に見せたことのないような、真剣な表情をしている。

「俺が見てくる。沼井、おまえはみんなを守っていろよ」

「言われるまでもない」

 苦笑を返す沼井。どうしたことか、ここに来て二人は意気投合した観がある。緊急事態なんだから、協力してくれるに越したことはない。

「頼んだぜ」

 千田は片手を上げて、一人、廊下へと出て行った。

「達江、心配するな」

 ドアが閉じる寸前、千田のおどけた声がした。隙間から見えた彼の顔は、もういつもの表情に戻っていた。


 千田が真っ先に駆けつけたのは、平沼達江の叔父が使っている部屋だった。が、そこには誰の姿もない。家具なんかは全く無事で、何かの下敷きになっているとは考えられなかった。

「おじさん、どこだい?」

 彼は部屋を出ると、そう言いながら、歩き回った。食堂や風呂場、遊興室、しまいにはトイレまで覗いてみたが、金野はいない。

「しょうがないなあ、あのおっさんも」

 つぶやいた千田の目に、玄関へ通じる廊下が留まった。廊下の板には白い粉がうっすらと積もっているように見える。その上に足跡があるようなのだ。が、いかんせん光量が乏しいこともあって、はっきりしない。

「まさか、外に出たのか?」

 またしょうがないなと思いながら、千田は玄関を目指した。急いでも結果は同じだという思いから、ゆっくりした足取りになる。

「ん?」

 玄関を目の前にして、千田は異常に気付いた。玄関横の壁が、一部くずれている。その正面、壁と向かい合うようにして大きな人影が立っていた。

「おじさんか?」

 人影の背丈から判断し、千田は声を弾ませた。そしてどんどん近付く。

「無事だったんだ。いやあ、心配しましたよ。よかったよかった」

 突然、千田は声を出せなくなった。同時に、口に激しい痛みを覚える。

 千田の口には、異物が押し込められていた。

「?」

 血の味を感じながら、千田は必死に異物を取り出そうと、手を口に突っ込んだ。上と下の唇のつなぎ目が切れているらしく、じんじんと痛みが走る。それをこらえ、彼は指先に力を入れる。

「ぷはっ」

 ようやく異物は取れた。

「な、何だよ、これ」

 歯の根が合わないまま、口を動かす千田。

 彼は口の中にあった異物を見つめた。それは赤く染まっていたものの、確かにコンクリート片であった。

「何で」

 相手を問い詰めようと振り向いたところ、彼はいきなり右手首を捻られた。ごみ収集車に巻き込まれたらこうであろう。そう思えるほどの勢いで、千田の右腕はねじられていく。勢い、相手に背中を向けざるを得ない。

 次に、彼の右手はより大きな手の中に握り込まれた。

「何をする!」

 手を振りほどこうとしたが、それはかなわない。右手は無理矢理に丸められ、拳の形になった。

 右手を掴んでいる相手の手は、急な力を加えてきた。捻られたまま、曲がることのない向きへ曲げ続けられる。骨の軋みが聞こえてきそうなくらいである。

「や、やめろっ」

 そう言った瞬間、またも口をふさがれてしまった。今度、彼の口中を埋めたのは拳だった。そう、彼自身の右手の拳である。彼は、自分の右手を食べるような格好をさせられている。

「あ、あがが」

 今回は声が出た。だが、そうしたくて出している訳ではない。吐き気が襲ってくる。

 すでに前歯は、ほぼ全部がぐらぐらになっていた。唇の切れ目が広がり、血の混じったよだれがあふれ出していた。

 不意に、大きな影は千田の右手を放した。反動で、背中から床に倒れる千田。拳は口に残ったままなので、倒れた衝撃で、さらに奥深く入ってしまった。

 影は跪くと、おもむろに斧をかざし、一気に横に滑らせた。

 斧が千田の顔の上を通過したとき、彼は今までにない新たな激痛に悶えることになる。

 ひっ。

 声にならない悲鳴を上げる千田。彼の顔にはシャワーのように、血が降りかかった。血のシャワーの噴き出し口となっているのは――彼の右手首。そこから先は、まだ千田の口の内部に残っていた。

 右拳と口とのわずかな隙間から、げえげえと息を漏らす。拳を吐き出そうとするが、どうしてもできない。

 血で視界が悪くなった。それでも何とか相手の姿を捉えようとした途端、彼の二つの目は、迫り来る指を見た。

 あっと思う間すら、全くなかった。二本の指は千田の瞼をこじ開けると、とって返すようにして両目を上の方からえぐり始めた。

 相当大きくて固いゴミが目に入っても、これほどまでに痛くはあるまい。そんな激痛に悶絶する千田。彼の視界は、それからすぐに、なくなってしまった。外から見れば、今や千田の顔のかつて目のあったところには、暗い穴ができていた。その二つの穴――岩窟には、どす黒い血が溜まっている。

 殺される……。今頃になって、千田は意識した。とにかくこの場から去らないと。その一心で、彼は身体を起こした。右腕を床に突くと、彼の気持ちをくじくかのように、尋常でない痺れの感覚を伴って、つるりと滑った。手首から先がなくなっている上、散々捻られた関節の「ネジ」が馬鹿になっている感触があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る