十三の瞳 その1
男が二人、取っ組み合っていた。
床を転がった二人は、激しい音を立て、壁に激突。それを機に、お互い、距離を取る。
一人がナイフを手にした。もう一人の、比較的若い男は、慌てたように自分の周囲を見回す。何もない。仕方なくといった風情で、絵筆を一本、取り上げた。
「はは、そんな物でどうする気だね?」
ナイフを持った方が、勝ち誇った口調で言った。
「おまえさんの負けだ。大人しく、よこしな」
ナイフをかざしながら、じりじりと相手に近付く。
絵筆を持った若い男は、一瞬、あきらめたかのように手をだらりとさせた。
それが油断を生じさせたのであろう。ナイフを持った男の表情の緊張が緩む。
と、いきなり、目の前の男は蹴り上げてきた。爪先がナイフを持った手の手首をかすめる。ダメージはさほどなかったが、ナイフを取り落とすまいと、姿勢が崩れた。
そこを、絵筆を持って、若い男が襲ってきた。絵筆の末端を、突き上げるように振り回す。その先は――。
「ぎゃっ!」
ナイフを持っていた男が、悲鳴を上げた。絵筆が、その左目に突き刺さったのだ。それでも執念で、ナイフだけは手放さない。
「くそったれ!」
絵筆を失った若い方は、椅子を取り上げ、苦しむ相手の背中へと一気に振り下ろした。ばしんと音がして、椅子が砕ける。
だが、左目に傷を負った男は、まだ立っていた。
「よくもやりやがったな……」
息を荒くしながら、男はナイフをふるった。片目だけになったにも関わらず、それは見事に命中した。
「ぐ、あ」
短いうめき声がした。それがやむかやまないかの内に、若い男は腰を折り、そのまま崩れ落ちた。
左目を失った、生き残った男の激しい息づかいが、長く部屋の中を通った。
* *
私は腕を上げ、遠くに見えた白い建物を示した。
「あれよ。叔父のやってるペンションは」
ふーんとか、ほう、へえという声が上がる。悪くない気分。
「バス停から歩かないといけないって聞いていたから、どれだけ歩かされるのか不安だったけど、凄く近いじゃない」
「景色も素晴らしい」
カメラを持った
「まだ着いてないんだから、騒ぐなよ」
彼の言葉を無視して、
「
と、気易く私の名前を呼んでくれたのは、
「早くしようよ」
私達六人は同じ大学の同期で、卒業後もつながりが続いている。今回、みんなが揃って休みを取れたということで、旅行の計画が持ち上がった。私の叔父がペンションを持っていることを口にしたら、あっさり決定した。景色ぐらいが取り柄の静かな土地も、まずは好評。
ペンションの入口で、チャイムを鳴らす。
「叔父さん、
すると間もなく、ドアが開き、大柄で背も高い中年男性が現れた。叔父の
私は、六人を適当な順に紹介した。次に叔父をみんなに紹介。
「どうぞよろしく。気楽にやってくださいな」
叔父はにこにこと相好を崩した。ちょっと不気味だけど、まあしょうがない。
「とにかく、お入りなさい」
叔父に続いて、私達は入った。
ふと、左手に目が行く。確か八年前に訪れて以来だから曖昧な記憶だけど、きれいになっている。特に壁なんか、真っ白に近い。
「三年前でしたっけ、改装したのは?」
そう尋ねると、前を行く叔父はびくりと肩を震わせ、立ち止まった。そしてこちらにゆっくりと振り返り、かすれたような声で言った。
「三年前だよ。金もかかった」
「……はあ……」
何だか呆気にとられてしまう。みんなの前で、どうしてお金の話を持ち出すんだろう。叔父は私の家との関係もあって、充分に裕福なはず。ことさら、自慢したがるような性格でもないはずなのに。どちらかと言えば自慢したがりなのは、この私だけど。
「その甲斐あって、防音設備はほぼ完璧にしたつもりだよ。最近の人は、音を聞かれるのも嫌がるらしいからねえ」
なるほど、そういう理由ね。
叔父のペンションは、八人を定員としている。叔父が一人でやっていくには、これぐらいが限界らしく、その代わり、よくしてくれるのは保証付き。
廊下を行くと、やけに絵画が目につく。それも花の絵ばかり。改装したのをきっかけに、装飾品として購入したのだろうけど、きれいなだけであまりセンスのよい絵ではないという感想を持った。
「部屋番号で呼ぶのは味気ないので、花で呼ぶことにしたんだよ」
私の心を読んだかのように、叔父が言った。その言葉の通り、部屋の扉の横に一枚の絵が対応するようになっている。
「手前から順にアネモネ、コスモス、スイレン、ダリア、デージー、パンジーとなっています。どうぞ、お好きな部屋を。内装はどこも同じだから、窓からの景色でも比較してみては」
「奥の、残り二つの部屋は、使っちゃだめなのね?」
念のため、聞いておく。
「六人と聞いていたからね。手入れも行き届いていない」
簡単明瞭な答が返ってきた。
「スイレンにしていいかな、自分」
中も見ずに、沼井が言った。
「どうして?」
「この絵が一番分かりやすいからさ」
まことに単純な理由からであった。
まあ、そんな風にして部屋割りも決定。アネモネ:千田、コスモス:私、スイレン:沼井、ダリア:阿川、デージー:坪内、パンジー:吉村となった。叔父はそれらをメモした上で、各自に鍵をくれた。それから夕食の時間を確認し、下がった。
「やっぱ、びびったよな」
叔父の姿が消え、足音が遠ざかるのを待って、第一声を上げたのは千田。
「あのアイパッチ、まるで海賊だよ」
「今はいいけど、叔父の前で言ったらだめよ。追い出されかねないわ」
「オーケーオーケー、分かってるって。たださあ、正直なところを言っておかないと」
軽い調子の千田。正直なところを言って、どうだというのだ。
「君の叔父さんがどうしてあんなことになったのか、そのいきさつを知っている? 達江さん?」
複雑な表情の沼井。心配が七割、興味が三割ってとこかしら。
「詳しくは知らないのよ。ただ、三年前、ちょっとした事故で目を突いてしまって、失明したとだけ」
「自分でやったのか。気の毒に、どこにも怒りをぶつけられないんだ」
千田が言った。所詮、他人事。
「それでさっき、三年前という言葉に対して、表情を強ばらせたのか」
納得したように言うのは沼井。私は得意になって、知っている事実を披露した。
「そうなのよ。三年前って、いっぺんに色々なことが重なったらしいの。ペンションの改装はまあいいことだけど、片目を失明しちゃうし、その直後、この近くで画家志望の人が行方不明になったんですって。痛くもない腹を警察に探られて、叔父さん、参ってしまったらしいわ」
「どうして警察が、あのおじさんを?」
「調べた理由? だって、その画家志望の人、東京から来た人だったの。当然、どこかに泊まらないとおかしい。この付近で宿泊施設といったら、ここか、少し離れたところにある温泉旅館ぐらいしかないもの。どちらかに宿泊客として来ていたんじゃないかってことで……。温泉旅館の方は働いている人も多いから、さほど疑われなかったようなんだけど、叔父は一人でやってるでしょ。どうとでも言えるって思われたのよ」
「なるほど。それで、結局、その画家志望は?」
「よく知らないけど、まだ行方不明のままだとは聞いているわ」
「ふうん。静かな土地だと思っていたら、意外と物騒なんだな。少なくとも二つ、大きな事件が起こっているんだから……」
二つの大きな事件ですって? 意味深な言い様の沼井。気にかかるじゃないの。
「あら? もう一つ、何かあったかしら」
「知らないの?」
「知らないわ、私」
沼井は他の者の顔も見た。誰もが思い当たらない様子。
「あれ、おかしいな。有名な事件だと思うけどな。正確にはここじゃないんだけど、近くにある山、えっと、何て言ったっけ」
なかなか次が出て来ない沼井。
「そんなことより、飯まで、どうする?」
いらいらしたように、吉村が言った。彼自身は、すでにカメラを手にしている。どうせ、景色でも撮りに出歩くつもりに違いない。坪内遥子を連れて行くのも間違いないだろう。
「中途半端な時間だし、自由行動でいいんじゃないの」
阿川の言い方ときたら、私達が修学旅行の中坊みたいじゃない。相変わらず、子供っぽいんだから。
そうは言っても、確かに中途半端。みんなで揃ってやることも差し当たってないので、自由勝手にやることに決まり。沼井が言いかけていた、もう一つの大きな事件とやらも、どこかに行ってしまった。
思った通り、吉村は坪内を誘って、外に出て行った。近くに奥深い山林が広がっているけど、そこで迷うほど間抜けな二人じゃないのは分かっている。
阿川は部屋にこもって原稿を書くらしい。ここに来ておいて、それはないと思うんだけど、半分、無理矢理に連れて来たようなもんだから、しょうがないか。
そして私には――。
「さっき、案内図を見たけど、ビリヤードができるんだね。一緒にどう?」
「それより、何か飲みながら、だべる方がいい」
沼井と千田が声をかけてくる。引っ張ってくれるのも結構だけど、私の希望は聞く気ないのかしら。
「そんなに言うんだったら、いっぺんにやりましょ」
そう提案することで、二人に首輪をかけてやった。こんなことしなくても、二人はほとんど、私の言いなりだけどさ。
感心なことに、夕食の約束の時間には、全員が食堂に顔を揃えた。歩かされた分、みんな空腹なのかもしれない。
「お口に合いますかどうか」
そう言っている叔父の表情は、しかし自信ありげ。当然、私は叔父の作る料理を何度か口にしているんだけど、自信を持っていい腕をしているわ。今、漂う薫りからも、その腕は落ちていないようで、まずは安心。変な物を出されては、私の恥になるんだから。
「いただきまーす」
と、声だけ礼儀作法に則って、食事開始。手を合わせもせずに、箸を握ってすぐに料理にありつく。
「うまい」
みんなの口から、お世辞抜きの感想がこぼれた。特に、坪内遥子なんかは驚いているのが傍目からでもありありと分かる。
「本当におじさんが作ったんですか?」
彼女、叔父に向かってそんなことを聞いた。叔父はにっこり笑って、
「そうですよ。おかしいですか?」
と応じる。笑うのはいいんだけど、眼帯がアンバランスなのよね。
「そんなんじゃなくてえ……どうしてこんなに上手なのかなって思って」
「はは。そりゃあ、何年もやっていればうまくなりますよ。もっとも、料理がそこそこできるせいで、未だに独身なんですがね。いいことばかりじゃありません」
おどける叔父に対し、笑い声が起こった。
「楽しんでいただいてるようで、何よりです。最後にデザートがありますから、皆さんがだいたい食べ終わった頃、呼んでくださいな」
叔父はそう言い残すと、まだ仕事があるのだろう、奥へ引っ込んだ。
「さすが、一人でペンションを切り盛りするだけのことはあるよね」
まだ感心している様子なのは阿川。
「ところで、夕食の時間まで、みんな、何をしていたの?」
私は会話の主導権を取りたい気持ちもあって、こんな話題を口に上らせた。さっきも言ったように、みんなが何していたかなんて、だいたい想像がつくんだけど、ここにいる限りは、全員の行動をできるだけ把握しておきたいのよ。
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