十三の夏 その7
「だめよ、倫さん! 留美はもう……。それに、あそこを見て」
震える指で、アキは茂みの一点を示した。倫はその先に巨体が身を潜めているのを認めた。
「……あいつだ……」
絶望的な声が勝手にこぼれるのを、倫は感じていた。どこから来たのか知らないが、相手はこの山を知り尽くしているとしか考えられない。近道の存在についても頭に入っているのだろう。
見ている間にも、次から次へと投げ出される物がある。確認したくなかったが、嫌でも目に入ってしまう。ルミの手、足、内臓……。
そうして、巨体は立ち上がり、右手に斧、左手に火をともしたライターを持って、登山道へ進み出てきた。
「逃げろ!」
「どこへ?」
聞き返され、倫は惑った。もう下には行けない。茂みに逃げてもすぐにつかまるだろう。小屋に引き返しても逃げ場はない上に、相手は近道を知っているらしい……。
倫は即断した。無言でアキの腕を引き、上に向かう。
影は慌てた様子もなく、ゆっくりと一本道を登り始めた。近道は使わず、じわじわと追いつめる腹積もりのようである……。
倫は泣けなかった。妹が目の前であんなことになったのに、涙が出ない。見せつけられた光景があまりに非現実的な出来事だったせいかもしれない。それに、彼は今、妹と同じ年齢のアキから頼られていた。ここで自分が取り乱してはと、気を張り詰めているのも理由になるだろう。
倫は後ろを振り返った。巨体の影は離れるでもなく近付くでもなく、一定の間隔をおいてついてくる。
「でかいのに何て素早いんだ」
切れそうな息で倫は言った。
このとき、アキが突如、ある行動に出た。持っていた石付きのロープを相手めがけて思い切り投げたのだ。
「アキちゃん!」
驚きで叫ぶ倫。振り返ると、アキが投げたそれは弧を描いて、影の手前辺りにに落ちかけていた。そして突風。
ロープが影の足をからめ取る。こちらの期待以上に絡んだらしく、影は巨体をもんどりうって倒れてしまった。必死に解こうともがいている。
「やった!」
びしょぬれのまま、倫とアキは同時に叫んでいた。この幸運に感謝した。そして一目散に坂を駆け上がる。少しでも差を広げたい。
「ついた」
小屋を前にして、倫が言った。夕方、同じようにここに立ったのが、嘘のような気がした。
「……ど、どうするんですか?」
アキは道の方を見ながら聞いてきた。ロープの効果があったか、まだまだ影は追い付かない――だろう。
「あいつを小屋におびき寄せて、小屋ごと丸焼きにする。いくら服が濡れていても、灯油をまいて火を着ければ」
「おおお……おびき寄せるって」
口を押さえるアキ。
「僕がやる。あいつを殺すしか手がないんだ。……嫌でも見えてしまうだろうから今の内に言うけど、前庭をご覧」
アキは黙ったまま小屋先の前庭を見、さらに沈黙を深めた。
泥にまみれて、人間の身体の一部があちこちに転がっている。五体満足な遺体もあったが、やはり泥で誰なのかは判別できない。
「夢……みたい」
言葉の持つ響きとは正反対に、アキは地獄を見たような表情である。
「そう、悪夢だ。悪夢であってほしかった」
何かを振り切るように言うと、倫は動き始めた。
「アキちゃん、君は隣の小屋に隠れていろ。決して明かりはつけるな。まさかあいつも、あっちに隠れるとは思わないはずだから」
「倫さんは? おびき寄せてそれから……」
「火を放ったらすぐに逃げ出す。それから君のところに行くよ」
倫はアキの肩に手をやり、じっと瞳を見つめる。絶えきれなくなったらしい、アキは涙をあふれさせた。
「……死なないで。もしも、もしも失敗しても絶対に逃げて!」
「僕を信じて」
倫は無理に笑みを作った。本心では、自分も逃げ出したい。だが、彼女と一緒に隠れていても、いつか気付かれるに決まっている。
「明かりだけはつけるな!」
それだけを言って、倫はアキを小屋に入らせた。
そしてくるりと背を向け、さっきまで寝泊まりしていた小屋へと向かう。
雨は今頃になって上がりそうな気配。代わりに、空気がぶつかりあっているらしく、空が遠くで鳴っている。
大沢倫は、開け放したままの壊れたドアを横目に、小屋の中に入ると、煌々と明かりをともした。
「こちらに注意を向けてくれよ」
そして灯油の入ったポリタンクを見つけ、玄関とその両側に隣接する一部屋とトイレを除き、小屋中にまき始めた。入口近くにまかないのは、相手を完全に小屋の中に入らせるためだ。
最後に彼は、新たにロープを見つけ出し、ちょっとした仕掛けを作り上げた。そこへ相手が到達したらロープに引っかかり、上から灯油がふりかかるという仕掛け。急いで設置したから、想像通りにうまく行くかは分からないが……灯油が相手にかかった瞬間、火を放てば効果が最大になると考えたのだ。
倫はマッチを手に、鼓動を高める己の心臓を意識していた。
どれくらい時間が経ったのか分からない。だが、ついに影が現れたのを、倫は窓から見た。体が固くなりそうだ。大きく深呼吸をし、ラジカセのスイッチを入れた。大音量で天気予報が流れ出す。
<……山沿いでは雨風が強くなり、ところによっては落雷に注意が必要でしょう。次に波の高さは……>
わずかに間をおいて、玄関のドアががたんと音を立てた。乱暴な音。
影は間違いなく、ラジオの音を頼りに動いている。倫は「時」を待った。
部屋の片隅に身を隠していると、倫のいる部屋のドアががたんと開けられた。そして上から灯油がこぼれた!
灯油は相手を直撃こそしなかったが、その飛沫が相当かかったはず。
「くらえ!」
必死でマッチを擦り、倫は相手めがけて放り投げた。カーブを描き、マッチは影の手前に落ちた。ぼっという音が火の出現を告げる。
ひるんだ様子の影。いや、もはや影ではなく、その姿ははっきりと見えていた。何かメタリックなサングラス状の物を掛け、唇は真一文字に結ばれている。髪はべったりと濡れて額に張り付いていた。身体の方は青っぽいような服で包まれていた。足にはスパイクがつまった革製らしい靴がある。
「くたばれ!」
さらに叫び、倫は火の着いたマッチを投げた。相手の服の一部に燃え移る。影――明かりの下でもやはり「影」だ――は、身を翻し、部屋の外に逃れた。
この隙に逃げ出そう。倫は思った。影が消えたドアとは逆方向へ進めば、窓から外へ出て行ける。
倫が窓の方を向いたそのとき、背中に衝撃を受けた。
倫はすぐに分かった。くそ、斧を忘れていた……。
「ああ」
倫は痛みをこらえながら、背中に手をやり、斧を抜いた。
相手の攻撃はこれで終わりだと、倫は油断していた。そのはずなのに、ドアからは第二の攻撃があった。
「ぐっ!」
彼は痛みの走った左脇腹を見た。鉄製の黒く細い棒が突き刺さっていた。
思い出す倫。誰かの遺体はこの棒で串刺しにされていたっけ……くそ!
この棒は抜けなかった。抜こうとすると、さらなる激痛が自らを襲う。思っている以上に深く突き刺さってしまったか、内臓にも痛みが発したようだ。
動けないでいる倫の頭上から、ガラスの雨が降る。いつの間に回り込んだのか、影は窓ガラスのすぐ外にいた。
「うわあああー」
こちらを取られたらやばい! 倫は必死に追い払おうと斧をふるう。
がしん、がしん、がしん!
無闇と振り回し、窓枠を破壊していく。だが、その甲斐あって、影のそれ以上の攻撃は防げている――今のところ。
「来るなあ!」
倫は背後の炎が気になった。このままでは自分が焼け死にかねない。
炎が燃え移った毛布に目を留めた倫。彼は痛む脇腹を押さえながら、なるべく機敏に燃える毛布を取り、窓にいる影に投げつけた。
「ぐ」
短く影の声が聞こえた。低い、男の声らしかった。影は毛布を持て余しているようだ。窓から一歩離れ、前に毛布をはたき落とした。水たまりに浸かったか、毛布の火はじゅっと煙を出して消えた。化繊の焦げた臭いが漂う。
そこへ倫は、持っていた斧を投げつけた。これが最大にして最後の手段だった。が……倫は信じられない思いで、目の前に展開された光景を認識せざるを得なかった。
影は斧を受け止めたのだ。回転して飛んできた斧の柄の部分を、正確に右手でとらえた。そしておもむろに、刃を舌でなめる。あたかも、この斧は俺の分身だとでも主張したいかのごとく。
「……だめ、か……」
精神の支えを失ったのと脇腹の痛みとで、倫は身体を折り曲げるようにその場にしゃがみ込む。その彼の視線の向こうで、影は窓を乗り越え始めた。
部屋は徐々に火の手が回り始めている。
「……」
うつろな目でそれを眺めていた倫は、消えゆく意識の最後の地点で、はっと我に返った。
「せめて……あの子だけは守る!」
倫は立ち上がった。激痛を忘れ、脇腹から棒を一気に引き抜いた。血が蛇口をひねったときの水のようにあふれる。それでも、倫はもう気にならない。
影は倫に近付き、斧を振りかぶった。
「いあーっ!」
瞬間、倫は棒を影の喉めがけ、突き出した。竹刀の突きの要領。
「ぐ、ほ」
またも影から声が漏れた。喉への攻撃は有効だったらしい。顎を上に向け、苦しんでいる。
倫はナイフを取り出した。それを逆手に持ち、影の喉を切り裂きにかかる!
影に飛びかかり、ナイフを横に滑らせた。しかし、影も止まっていてはくれない。ナイフは顎先をかすめ、空振りに終わってしまった。
「ちくしょうが!」
とって返し、ナイフを口めがけて突き刺してやろうとする倫。が、手元が大きく狂い、相手の服の胸元を切り裂いた。倫はそこに「JUZA――」と刺繍されているのをちらりと見た。
しかし、それを見ている余裕もなくなった。倫の口が巨大な手でふさがれる。影の左手が倫の歯茎を頬の上から掴んでいるのだ。
ぎぎぎぎぎぎ……。
奇妙な音。倫は耳をふさぎたく思いながらも、歯茎にかかる重みに全身がしびれてきた。
やがて、ばきっと音がした。倫の歯の一部が歯茎ごと破壊されてしまった。口中に血があふれる。このままでは喉がつまりかねない。せき込む倫。
影はさらに手に力を加えた。瞬く間に倫の頬の肉は破られてしまう。相手の指が入り込み、頬の左右には二つの穴が開いた。
意外にも、倫は楽になった。その穴から口の中の血が抜けて行くからだ。
しかし、それもすぐに苦痛へと変化する。いつの間にか、倫は影の左手一本に口を(正確にはぐらぐらの歯茎を)掴まれ、ぶら下げられていた。
影は右手から斧を放した。その自由になった手を、いきなり倫の腰辺りに持ってきた。
「ぎゃっ!」
影は右手で倫の身体を下に引っ張ったのだ。当然、影の左手の指は、倫の頬を大きく切り裂いた。その口は枯れる寸前の赤い薔薇のようである。
さしもの倫も、これで線が切れた――。熱を持ちつつある床にへたり込みながら、笑いがこみ上げてきた。べろべろになった口から、変な笑い声が出る。
「れへへへふぇ……」
影は、急に笑い出した倫を、不思議そうに首を傾げながら見た。
火の手が迫ってきていた。影は始末を着けようと決めた。
倫の身体をかつぎ上げると、火の手が最も盛んな場所に運んだ。そして影は倫の両足を持ち、火の上にぶら下げる。
しかしまだ、倫は笑い続けている。
「へへへふぇふぇ……」
肉の焦げる臭いが立ちこめる。それはどんどん強くなっていく。それでも笑い声はやまない。
影は根負けした気持ちになった。それが屈辱のように思えて、さらに怒りに燃える。影は倫の身体を左手一本で吊り、斧をもう片方の手に取った。
目を細め、右手の斧を一度、倫の首筋に当てた。そして――。
倫の燃える首は、炎の中にすとんと落ちた。
アキは聞いてしまった。倫が絶叫するのを。
彼女はひび割れのある窓ガラスから、隣の小屋を見ようとした。見えにくいが、赤くなっているのは分かる。激しく黒煙も出ている。
そして燃える小屋から現れたのは、倫ではなかった。あいつだった……。
もうだめ……。みんな死んでしまう。
壁に背中を持たせかけ、アキは膝を抱える。もう涙を流す気力もない……。
空はぐろぐろと鳴り続けている。かと思えば、不意の閃光と共に大音響が起きた。夜の闇にぎざぎざの稲光が走った。
アキは目を閉じ、耳を押さえた。もう、気持ちが爆発してしまいそうだ。
がたり。外で気配がうごめいた。まっすぐ、影がこちらへ向かってくる……。
ここを出ないと。アキは立ち上がった。けれども足が震えてしまう。がくがくと膝が揺れ、またへたり込んでしまいそうだ。
必死にアキは自分を勇気づけた。誰かがこのことを生きて知らせないと、あいつはずっと人殺しを続ける!
アキは走った。裏から逃げるしかない。そしてどこを通ってもいいから、下にたどり着かねばならないと思った。
裏のドアを開け、なるべく息を殺して走る。どこを行こうが、下っていけば町に出られるはず。そのことだけを頼りに、腰ほどまである草むらの中に、アキは飛び込んだ。
草をかき分け、泳ぐように進む。露出している肌に痛みがある。葉の縁でかなり切っているのだろう。だが、今はそんなことを気にしていられなかった。
急に眼前の闇が色を増した。うつ向き加減に走っていたアキは、目を上げる。
誰かいる! それは巨大な影のように見えた。
まさか? もう先回りされたなんて……?
五メートルほど向こうにいる影は、両手を上げた。右手には斧を持っているのがシルエットで分かる。
「嫌!」
アキは気がおかしくなりそうなのをこらえ、向きを換えた。その刹那、激しく雷鳴がとどろいた。
辺りが明るくなったが、アキは振り返りもせずに草の海を引き返す。
「へへ」
背中から息苦しそうな声がした。アキは初めて追手の声を聞く機会を得たのだが、もはや彼女の耳はその機能を果たしていなかった。恐怖で精神が正常に働いていない。
再び小屋のある場所まで戻ったアキ。そこでアキは何かに躓いてしまった。それは藤本利香の遺体だったのだが、そのことにもアキは意識が向かなかった。ただ、背後から迫る恐怖におびえる。
アキはしりもちをついた格好で、後方を確認する。もうあの斧の先が見えていた。血の象徴のよう……。
アキは必死に立ち上がった。が、血と雨とでぬかるんだ地面に足を取られ、さらにバランスを崩す。
もう……立てない……。
影が迫っていた。余裕を持っているのか、非常にゆっくりとした足取りだ。
影はアキの一メートルほど手前で立ち止まり、何やら確かめるような仕種を見せた。そして――。
「ア、キ!」
明瞭な発音ではなかったが、影がそう叫んだようにアキには聞こえた。叫びながら、影は両手を振り上げている。
ああ、私も殺されるんだ……。こんなことになるなんて……。
意識が真っ白になりながら、アキは最期の覚悟を決めた。そのときだった。
がびっ、しゃーん!
形容できない轟音が、アキのすぐ目の前で起こった。全く同時に、すさまじい光が発せられ、アキは強い力に吹き飛ばされた。
うつ伏せに倒れるアキ。泥だらけの顔を上げ、目元をこすった。彼女の目がとらえたのは、両手を上げたまま固まったように動かない、影であった。その全身は黒こげになっており、一部には火が着いている。それからスローモーションのように、影はぐらりと顔から地面に突っ込んだ。
アキは口をぽかんと開け、光景を見ていた。
「……か、雷……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます