十三の夏 その6

 巨体の影は全身を湿らせている。こうなっては、容易に焼き殺すことはできまい。地面のそこここにぬかるみもできている。重いボンベを持ったまま奴を追っても、転倒する愚を犯しかねない。宮田は仕方なく、ボンベをあきらめた。

 すぐに次の策に移る。さっき身構えていたとき、背中に隠していたもう一つの武器を取りに戻る。

 宮田がそれを取りに戻っている間、幸いにも相手は中に入ってこなかった。火炎攻撃を警戒して、充分に身体を濡らそうという魂胆だったのだろう。

 宮田はその武器――赤い筒を後ろ手に隠し、再び奴の前に姿を現した。

 影はもう火炎攻撃はないと踏んだのか、いきなり突進してくる。

 宮田は相手を引きつけたところで、背中の武器を行使した。

 ぶあああっ!

 爆発するような音と共に、赤い筒から延びる管から白煙が噴き出した。

「おぁああ!」

 短かったが、宮田は確かに聞いた。影の奴が悲鳴を上げるのを。

 宮田が使った武器、それは消火器であった。一分半ほど吹き出し続けた白煙は、奴の上半身を真っ白にした。

 顔を両手で覆い、相手が膝をついた。

 今だ! 宮田は飛び込むように相手の前に立つと、白くなった奴の顎先に右足で最高の蹴りを入れる。

 がっ!

 手応えはあった。それなのに、奴は倒れない。もう一発くれてやろうと、宮田はかまえ、右足を高く振り上げる。そして空気を切るように、蹴る!

「え?」

 宮田の右足が動かなくなった。奴の両手は相変わらず、その顔を覆ったままなのに……。相手を覗き込む宮田。

「うわ!」

 宮田は驚きでひっくり返りそうになった。無表情だった影の奴が笑っている。

 が、それは笑いではなかった。奴は宮田の蹴り足に噛みつき、歯を食いしばっていたのだ。

「う、うう」

 宮田は右足に痛みを感じてきた。信じられないことに、まるで獣の牙と化した相手の歯が、登山靴を食い破っているらしい。

「くそ、放せ。放しやがれ!」

 足を引き抜こうとしたが抜けない。靴だけを残そうにも、もはや肉にまで食いつかれているようである。

 宮田はくるりと奴に背を向け、左足を宙に舞わせた。最初に考えていた腹への回し蹴りを実行する。これも手応えがあった。

 にも関わらず、相手は噛みつくことをやめようとしない。それどころか、宮田の左足までも両手でとらえてしまった。

 宮田は雨を呪った。雨が奴の目をふさいでいた消火剤を洗い流してしまったんだ。

 宮田はそれでもあきらめていなかった。足を掴まれたのを逆用し、わずかな反動を利して相手の肩口に飛び乗ってやることに成功する。

 そして素早くポケットに手をやり、登山ナイフを逆手にかまえる。狙いは奴の目だ。

「くたばれ!」

 さっと振り下ろされたナイフ。が、何か固い物に跳ね返された。

「?」

 訝しく思った宮田は目を凝らす。そして目の前の現実に絶望しそうになった。

 影の奴が無表情だったのも当たり前、奴の顔上部には本当に仮面がつけてあった。何でできているのか知らないが、ナイフの攻撃を跳ね返すそれは、灰色に鈍く光っているように見える。

 気が付くと、宮田の両足はひとまとめにして奴の左手に握りしめられていた。肩から降りろとばかり、凄い勢いで泥の地面にたたきつけられる。

 はっとした宮田。奴の右手に斧が握られている。かわす間もなく、それは振り下ろされた。

「ぎゃあっ!」

 右手首から先が飛んでいた。ナイフを持っていた右手を失ってしまった。

「ああああああ」

 意味のない声を発しながら、宮田は飛び起き、泥にまみれた右手を左手で拾った。自分の指をこじ開け、ナイフを左手に持ち直す。

 宮田はとって返すと、影の左横からタックルを食らわせてやった。同時にナイフを相手の左太股に叩き込んでやる。

 それも無駄な行為であった。全く効いていないかのように仁王立ちする影。

 それならば心臓を狙おうと、宮田は必死にナイフを抜こうとした。が、抜けないのである。奴の筋肉が特別製なのか、しっかりとナイフを包んで放さないといった感じだ。

 宮田は次には吹っ飛ばされた。相手は軽く左足を振っただけである。

 全身真っ黒になった宮田は、仰向けのまま及び腰になりながら、後ずさった。

 影はそれをはるかに上回るスピードで宮田に接近する。雨に濡れながら、斧が上がった。

「げえぇ」

 斧は宮田の腹に落ちてきた。回し蹴りのお返しのつもりか、影は執拗に宮田の腹を破った斧をかき回した。

「うえええ」

 一気に気分が悪くなる。何よりもこの痛みに耐えられそうもない。内臓がぐちゃぐちゃにされる感覚。

「許してくれ……」

 こんな奴に挑むべきではなかった。宮本武蔵も必勝法とは己が勝てる相手とだけ闘うことだと言っていたではないか。

 宮田はこんなときに妙なことを思い出しながら、薄れる意識の中つぶやいた。

 その声を聞き入れたのか、影は斧でかき回すのを止めた。そして自分の太股に刺さるナイフを引き抜いた。

 何をする気だ。かすれる視野に相手の動きをとらえつつ、宮田は思った。

 突然、視界が半分になった。そんな気がした。左目に激痛が起こっている。影は宮田の左目にナイフを突き立てたのだ。その上、先の斧と同じように、ナイフをぐりぐりと動かす。

「いぃーっ!」

 薄れていた意識がはっきりする。それは大きな痛みを伴っていた。残っていた左手でナイフに手をやった。刃を掴みやめさせようとするも、まるで効果なし。宮田の左の眼球は完璧に破壊され、血が混じったどろどろのペースト状になっていた。

 影は不意にナイフを抜いた。宮田の左手から、指が何本か切り落とされる。

「……もう……殺してくれ……」

 宮田は囁くように言った。

 そしてその願いだけはすぐにかなえられた。斧を横にかまえた影は、片目の宮田の首を切断した。


 勢いを弱めた雨の中、影は迷っていた。

 逃げ出した者がいる。あいつらを追いかけるべきか、ここの奴等全員の首をはねるべきか。

 迷いはすぐになくなった。儀式――死体の首をはねることはいつでもできる。逃げ出した奴等が応援を連れて来る方が厄介だ。

 影は進むべき逃走経路を探り始めた。斧の刃が雨に濡れて光っていた。


 アキ、倫、ルミの三人は、懸命に逃げていた。何から? 分からない。宮田の様子から、とにかく恐ろしい突発事が起きたことが知れた。

 彼らはでたらめに逃げていたのではない。裏から出た後、三人は登山道へ回り、確実に高度を下げていた。

 が、突然の大雨に、足を取られることが多くなっていた。その上、転倒した拍子にアキの懐中電灯が壊れてしまった。彼らは仕方なく一時休憩をしようと考え、幸いにも雨をしのげそうな浅い洞窟を見つけた。

「寒い」

 ルミが、歯をがちがちさせながら両肩を手で覆った。

「ライターは持って来たけど」

 胸ポケットから緑の百円ライターを取り出す倫。ほぼ新品だ。

「燃やす物がない。ここに落ちてる小枝なんてたかが知れてる」

「映画なんかだと、服、脱いだらいいって言うけど」

「それは冬山の話じゃないのか? それにそういう場合、ちゃんと火が起こしてあったと思うぞ」

 無理に作ったような笑顔で、倫が言った。

「……お父さんやお母さん、どうなったのかしら」

 消え入りそうな声で、アキ。

「……宮田さんが言ってたろ、アキちゃん。みんなばらばらに逃げたんだよ」

「信じたくない」

「えっ?」

「お父さんお母さんが、私を置いて行くなんて、信じたくない!」

 アキの声は裏返っていた。前髪からぽたぽた落ちる雫は、涙と並行している。

「それは……きっと、アキちゃんのお父さん達は、宮田さんみたいに、僕らを逃がすために引きつけてくれているんだよ」

「嫌よ、そんなことしているぐらいなら、一緒に逃げてほしかった……。ねえ、何が起こったの?」

「……分からない」

 倫は、アキの瞳を避けるように、視線をそらした。その答も嘘だった。彼は逃げ出すとき、見てしまったのである。異様な影がみんなを襲っているのを。

 雰囲気を和らげたいかのように、ルミが口を挟む。

「ね、ねえ、兄貴。下りるの、どれぐらいの時間がかかる? 上るのはほとんど半日がかりだったじゃない」

「半日は大げさだ。下山にかかるのは、この雨だから」

 倫は洞窟からひょいと頭を出した。そして見た。あの影がこちらに向かっているのを。まだ距離はあるが、向こうの登山道に巨体が見えた。

「おい!」

 彼は振り返るなり怒鳴った。しかし言葉が続かない。あの狂ったような奴の存在を二人に打ち明けるべきかどうか。

 ルミとアキはきょとんとしている。

「どうしたの?」

「何か見たんですか?」

 矢継ぎ早に言われる内に、倫は決めた。奴はあそこまで近付いているのだ、あらかじめ知らせておいた方がパニックにならない分、ましかもしれない。

「じ、実は」

 さすがに直前まで躊躇した。が、早く言わねば、奴はここに気付くかもしれない。倫は早口でまくし立てた。

「……」

 呆然としている二人の中学生。

「とにかく、そういう恐ろしい奴に追われているんだということを自覚してくれ。逃げ切らないと殺されるに違いないんだ」

「じゃ、じゃあ! お父さんとお母さんは?」

 狂ったように叫び出したアキ。狭い洞窟の中、立ち上がって身を震わせている。

「落ち着いて、アキ!」

「騒いじゃだめだ。今は雨風が激しいからいいかもしれないけど、奴に感づかれたらやばい」

 必死に倫とルミがなだめた結果、アキはどうにか冷静になった。が、今度は泣き止まなくなる。

「しっかりしてくれ。僕は誰が死んだかまでは見ていない。そう、君のお父さん達は確実に逃げている。いいね?」

「……うん」

 しゃくりあげるように返事をしたアキ。

「よし。じゃあ、もう出るんだ。ここにいたって、見つかったら奥に追いつめられておしまいだ。雨が降ろうが止もうが、ぬかるんでいるのは変わりない。だったら雨を利用して少しでも遠くまで逃げる方がいいと思う」

「でも、懐中電灯が使えないんでしょ?」

 意外と冷静にルミが指摘した。

「そうだ。相手に気付かれ易くなる。懐中電灯だって天気には関係ない。転ぼうが泥だらけになろうが逃げることが先決だ」

「何か太刀打ちできる物はないかしら?」

「……ライターと登山ナイフ、ロープがあるだけ」

 さすがにため息をつきながら、倫はその全てを広げた。

「ロープは先に大きな石を結びつければ武器になる。一人一つずつ、何かを持っておこう。アキちゃん、どれがいい」

 倫はアキを気遣っていた。

「……」

 黙ったままのアキ。悩んでいるのか放心状態か、傍目からは分からない。

 ルミが提案する。

「ライターとか石付きロープなんて、誰が持っても効果は同じだと思う。それに比べてナイフは兄貴、男が持っていた方がいいよ。そう思う」

「……それでいいか、アキちゃん?」

 倫の問いかけにこくりとうなずくアキ。続いてルミから問いかけ。

「じゃあ、アキは残りどっちがいい?」

「……ロープにする」

「そう、じゃあ、私がライターね」

 ルミはライターを手に取ると、一度宙に放り、またキャッチした。

「さあ、出よう。かなり接近されているはずだ」

 倫はアキの手を取りながら、そう言った。

 三人はルミ、アキ、倫の順番で下っていく。敵に一番近い後方に、倫が立つ訳である。

「ね、ねえ」

「何だよ、留美?」

 息を切らしながら、兄妹は会話をする。真ん中のアキは静かなままだ。

「どうして、そんな殺人鬼みたいなのがここにいるのよ」

「知るかよ。どこかから殺人犯が脱走したんじゃないか?」

「そ、そう言えばさ、隣の小屋が滅茶苦茶だったって聞いたじゃない。あれって、そいつが荒らしてったのかな」

「かもな」

 倫が言ったところで、急にアキが口を開いた。

「……登山道を行くより、草むらの中を行った方がいいかも」

「どうして、アキちゃん?」

「……追っている方だって道なりに下りている。このままじゃ、体力のある方が勝つに決まってるわ!」

 ヒステリックに叫ぶアキ。倫は落ち着かせようとアキの肩に手をかけたが、びくっとした表情で振り向かれ、拒絶されてしまった。

「分かるもんか。自分たちの方が若いんだ」

 適当なことを言って繕う倫。

 突然、アキが立ち止まった。その背中にぶつかりそうになる倫。

「どうしたの?」

「ルミが……」

 わずかに先を進んでいたルミの姿がなかった。倫は動揺した。

「留美っ! どこだ?」

 その声に答えるように、少し先の茂みから黒い塊が放り出された。どさっと泥の地面に落ちる。倫とアキは息を飲んだ。目を見張り、すぐに閉じた。

 ――その黒い塊はルミの頭部だった。

「留美!」

 倫は思わず飛び出そうとしたが、アキに腕にしがみつかれ、動けない。

「は、放してくれ。留美が」

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